2回目のモスクワ占領とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 2回目のモスクワ占領の意味・解説 

2回目のモスクワ占領

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/25 02:32 UTC 版)

動乱時代」の記事における「2回目のモスクワ占領」の解説

ポーランド・リトアニア軍は、ロシア国境を越えスモレンスク包囲し20ヶ月に及ぶ攻城戦展開したSiege of Smolensk (1609–1611))。ロシア=スウェーデン連合軍クルシノの戦い敗れると、同年7月ヴァシーリー4世退位余儀なくされた。 その後偽ドミトリー2世皇帝の位に就く前にポーランド軍司令官で、ヴォイヴォダ領主)、マグナートでもあったスタニスワフ・ジュウキェフスキは、国王ジグムント3世長男ヴワディスワフロシア皇帝擁立動いたモスクワ一部人々は、ロシア正教会地位維持と、一定の特権付与条件に、この構想支持したそうした了解の上で、ポーランド軍モスクワ入城しクレムリン占拠したポーランド王はこの妥協策に反対し、自ら皇帝となりロシアローマ・カトリック改宗させよう決意する。これには反対多く、王の計画ロシアにおける反カトリック主義反ポーランド感情引き起こしたバルト海沿岸イングリア地方で、やがてスウェーデン・ポーランド戦争展開する実質的戦争状態にあったスウェーデンも、ロシア宣戦布告しイングリア戦争)、新たな偽ドミトリーイングリアイヴァンゴロド擁立したスウェーデン王子であるカール・フィリップ1611年即位したスウェーデン王グスタフ・アドルフの弟)もノヴゴロド市民によってツァーリ擁立されたが、偽ドミトリーたちやポーランド王太子ヴワディスワフほどの対抗馬にはなれなかった。 ロシア国家機能喪失していた。皇帝空位となり、大貴族互いに対立していた。ロシア正教会総主教ゲルモゲーンは投獄されカトリックであるポーランド軍クレムリンスモレンスク占領しプロテスタントであるスウェーデン軍ノヴゴロド占領していた。タタール侵略続いてロシア南部境界地域無人化し、荒廃しており、無数の無法者の群れが全土跋扈していた。一連の戦争反乱によって、何万人もの人が死んだ1611年3月17日から19日にかけて、ポーランド軍ドイツ人傭兵モスクワ反乱名目鎮圧し住民7000人を虐殺して町に火を放った9月22日にはポーランド・リトアニア軍がヴォログダ住民聖職者皆殺しにした。この他にも数多く都市破壊されロシアは更に弱体化をした。

※この「2回目のモスクワ占領」の解説は、「動乱時代」の解説の一部です。
「2回目のモスクワ占領」を含む「動乱時代」の記事については、「動乱時代」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「2回目のモスクワ占領」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「2回目のモスクワ占領」の関連用語

2回目のモスクワ占領のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



2回目のモスクワ占領のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの動乱時代 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS