ヴァシーリー4世の治世
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/25 02:32 UTC 版)
偽ドミトリーの治世は短かった。1年も経たないうちに、リューリク朝の血を引く公(クニャージ)のひとりであった野心家のヴァシーリー・シュイスキーが陰謀を企てた。シュイスキーの手勢は、クレムリンでの結婚式の直後に偽ドミトリー1世を殺害し、その支持者も多数虐殺した。 シュイスキーとその手勢は、このときおよそ2000人のポーランド人を殺害したと考えられている。この虐殺に対する、ポーランドの反発は強かったが、政府は事件の責任者への報復を先延ばしにすることを決めた。 実権を掌握したシュイスキーはリューリクの男系子孫であることを理由に、自分の支持者を集めた議会で皇帝に選出され、ヴァシーリー4世となった。だが、この政変には、ロシアの大貴族、共和国のマグナート、コサック、ドイツ人傭兵のいずれもが不満をもった。 程なくして新たな僭称者である偽ドミトリー2世が現れ、イヴァン雷帝の息子にして正当な継承者は自分であると主張した。先行した偽ドミトリーと同じように、この僭称者もポーランド・リトアニア共和国のマグナートたちから保護と支持を得ていた。これに対抗してシュイスキーがスウェーデンと同盟を結び、ヤコブ・デ・ ラ・ガルディ(英語版)が率いるスウェーデン軍がロシア国内に介入した(デ・ラ・ガーディエ戦役)。ポーランド・リトアニア共和国国王ジグムント3世は、ロシアとスウェーデンの同盟関係を危機と見て、ロシアへの介入を決意し、ロシア・ポーランド戦争を始めた。 老齢のヴァシーリーを支えたのは若き甥のミハイル・スコピン=シュイスキーである。ミハイルは有能な将軍であり、偽ピョートルやイヴァン・ボロトニコフ(ロシア語版、英語版)による反乱が起こった際にその鎮圧などで多大な軍功を挙げた。このため、老齢で無力なヴァシーリー4世に代わって後継者として国民に望まれたが、1610年5月に24歳で急死した。
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