対偽ドミトリー2世戦役
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/17 14:54 UTC 版)
「デ・ラ・ガーディエ戦役」の記事における「対偽ドミトリー2世戦役」の解説
ロシア・スウェーデン連合軍約1万人は1609年4月にノヴゴロドからモスクワに行軍、途中で反乱軍を撃破してトローイツェ・セルギエヴァ・ラーヴラの包囲(英語版)を解いた。偽ドミトリー2世はモスクワ近郊のトゥシノ(英語版)で宮廷を構え、ヴァシーリー4世を脅していたが、連合軍は偽ドミトリー2世の支持者を蹴散らし、1610年3月にはモスクワの包囲も解いて入城した。その後、偽ドミトリー2世を支持したボヤールの一部がポーランド王子ヴワディスワフにロシア王位を請求するよう求めた一方、スコピン=シュイスキーは毒殺され、代わってヴァシーリー4世の弟ドミトリー・シュイスキー(英語版)が軍を率いた。
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