ポーランドのロシアへの宣戦とは? わかりやすく解説

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ポーランドのロシアへの宣戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/23 15:01 UTC 版)

ロシア・ポーランド戦争 (1605年-1618年)」の記事における「ポーランドのロシアへの宣戦」の解説

1609年ポーランド国内ゼブジドフスキの乱終結した頃、ロシアではツァーリヴァシーリー・シュイスキー偽ドミトリー2世との対抗などのため2月28日スウェーデン王カール9世軍事同盟を結び、スウェーデン派遣した傭兵部隊ロシア軍連合偽ドミトリー2世ポーランド貴族らの軍隊襲い掛かったデ・ラ・ガーディエ戦役)。スウェーデンはもとはポーランド同君連合であり、スウェーデン守っていたカール9世が王となる前はジグムント3世スウェーデン王兼ねており、ジグムント3世にとってスウェーデン奪還悲願だった。ジグムント3世セイム国会)からロシア対す宣戦布告承認され本格的なロシア侵攻取り掛かる。 彼はこれを、ポーランド・リトアニア領土勢力圏東へ拡張し正教会牙城であるロシアカトリック化させ(このためローマ教皇ポーランド強く支援していた)、最終的にロシアスウェーデン奪還拠点とする良い機会だと考えた。この戦争はさらに、ゼブジドフスキの反乱参加していた反国王派貴族たちに外敵目的与え口実にもなった。ジグムント3世は彼らに、東方への戦争参加した者には富と名誉が待っている約束し、彼らを対ロシア戦争へ誘いだした。この年出版されたパヴェウ・パルチフスキ (Paweł Palczwski) の著書、『Kolęda moskiewska』は、ロシア新世界インディオたちの帝国並べてロシア黄金満ちた都市広がりしかも征服が容易であると書いた。 さらにロシアボヤーレらは、ジグムント3世対し、その息子ヴワディスワフ(後のポーランドヴワディスワフ4世)にツァーリの位を提示して戦いへの参加約束した。かつて、ポーランド人貴族兵士ロシア侵攻に関わったり、ロシア内情への介入時間を割くことを嫌ったジグムント3世は、1609年段階ではロシアへ積極介入することに方針変えていた。 この時、ポーランド人貴族兵士多く偽ドミトリー2世のために戦っていたが、ジグムント3世とその軍はドミトリーツァーリにするために参戦したのではなかった。ジグムント3世は自らロシアの王になろうと欲していた。ジグムント3世参戦により偽ドミトリー2世に従っていたポーランド人兵士多くがトゥシノの陣営離れ以後偽ドミトリー軍は敗退繰り返した相次ぐ大敗とヤコブ・デ・ラ・ガーディエ率い強力なロシア・スウェーデン連合軍到来に、偽ドミトリー2世は妻となったマリナ・ムニーシェヴァとともにトゥシノから脱走し農夫変装してコストロマ落ちのびた。偽ドミトリーコストロマからもう一度モスクワへ攻勢をかけて失敗したが、ドン・コサック支援受けてロシア南東部征服地の多く取り戻した

※この「ポーランドのロシアへの宣戦」の解説は、「ロシア・ポーランド戦争 (1605年-1618年)」の解説の一部です。
「ポーランドのロシアへの宣戦」を含む「ロシア・ポーランド戦争 (1605年-1618年)」の記事については、「ロシア・ポーランド戦争 (1605年-1618年)」の概要を参照ください。

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