ポーランドの治世
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「ステファン・バートリ (ポーランド王)」の記事における「ポーランドの治世」の解説
ステファン・バートリの立場は当初きわめて困難なもので、国家は空位期の混乱のせいでかなり弱体化していた。マクシミリアン2世は先に国王に選出されたとして自身の王位を要求しており、国内の反バートリ派を煽動し、王位獲得のためにポーランドに攻め込むことを画策してモスクワ大公国と同盟したりした。しかしマクシミリアン2世が間もなく死んだおかげで、王位をめぐる危機は去った。 ステファンに反対する全ての軍事的抵抗は、長期化した1577年のグダニスク包囲が和解に達した段階で終了した。ハンザ同盟の一員であるグダニスクは、高度な経済力と難攻不落に近い強固な要塞を備え、密かにデンマークとマクシミリアン2世の援助を受けていて、マクシミリアン2世の選出を支持してステファンの王位を否認した。6か月の包囲の後、5000人の傭兵で構成されたグダニスク軍は、1577年12月16日の野戦において国王軍に完敗した。しかしステファンの軍隊は力ずくで都市を陥落させることは出来ず、グダニスクと妥協するに至った。この和解において、ステファンはグダニスクの特別な地位、および歴代のポーランド王たちが承認してきたグダニスク法による同市の諸特権を確認した。これに対し、グダニスクはステファンをポーランドの主権者として認め、謝罪の証として20万金グルデンもの大金を支払った。グダニスクはその後、スウェーデンやモスクワ・ロシアとの交戦中も一貫して国王に忠誠を誓い続け、政府に求めに応じて政府への援助を行った。 この勝利はステファンに国王としての権威を高める機会を与え、王権強化の試みは当時の実力者だったヤン・ザモイスキに支持された。2者は協力して、王冠領に対する課税を強化し、豊かになった王室財産を貴族に貸し出すなどして、幾つかの貴族(シュラフタ)の党派を味方につけた。またステファンはポーランド軍の改革を断行し、兵士・技術者としての訓練を受けた農民からなる、ピェホタ・ビブラニェツカと呼ばれる半常備軍の歩兵部隊を設置したほか、登録コサック制度や有翼驃騎兵(フサリア)なども本格的に導入された。さらに裁判所の組織など司法分野も改革の対象になった。ステファンは10年以上前に犯した殺人罪と反逆罪の未決囚であったサムエル・ズボロフスキ(ポーランド語版)の処刑を命じてもいる。 対外関係では、ステファンは同盟関係の構築による和平政策を模索した。ステファンはハプスブルク家を信用していなかったが、教皇代理の仲介を受けてマクシミリアン2世の後継者ルドルフ2世と軍事同盟を結んだ。オスマン帝国との紛争は、1577年11月5日の和平調停によって一時的に中止された。ワルシャワで召集されたセイムは、国王からモスクワ大公国との不可避の戦争のための助成金拠出を要請された。吝嗇なセイムに何度も助成金支出を拒絶されたものの、敵であるモスクワ軍の進軍を止めるための2度の遠征と、続いて起きた長期にわたる包囲戦に国王は勝利した。また同時に、オスマン帝国と皇帝の彼の野心に対する疑念を、優れた外交手腕をもって取り除いた。 モスクワ・リトアニア戦争(ロシア語版)の最終局面となったリヴォニア戦争において、ステファンは大法官ザモイスキと一緒に共和国軍の勝利を決定づけた遠征を直接に指揮した。イヴァン4世はリヴォニアに攻め入って共和国の属国となっていたクールラント公国の主要都市ドルパトを占領したが、共和国軍はヴェリーキエ・ルーキでロシア軍を蹴散らした。ステファンはロシアの中心地域にまで進軍し、1581年8月22日、少数の疲弊した共和国軍がプスコフの巨大な要塞を包囲した(プスコフ包囲)。ツァーリとポーランド王の紛争を調停すべく教皇庁が送り込んだ教皇代理アントニオ・ポッセヴィーノの包囲中止の要求や、指揮官たちの不満の声が挙がっていたが、北極の厳しい冬の間ずっとプスコフの包囲を続けた。結局、イヴァン4世は自国の第3の都市を守るために交渉を開始し、1582年にヤム・ザポルスキの和約が結ばれて、ロシアはポラツクを割譲した上、リヴォニアの占領地域を全て共和国に返還した。 その後、東部国境の防衛のために、ステファンはオスマン帝国を仮想敵国とするモスクワ大公国との軍事同盟を締結しようと計画したが、ロシアが急激に弱体化したために軍事同盟が実現することはなかった。また、ツァーリのフョードル1世をステファンの後継者に迎えてポーランド・リトアニア・モスクワ合同を成立させる構想も、1586年12月12日にステファンがフロドナ古城で急死すると立ち消えになった。ステファンの遺体は東ヨーロッパにおいて初めての検視解剖を受けた遺体となった。遺体は当初フロドナに埋葬されたが、後にヴァヴェル大聖堂に移された。
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