デウリノの和約とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 固有名詞の種類 > 方式・規則 > 法令・規則 > 条約 > 講和条約 > デウリノの和約の意味・解説 

デウリノの和約

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/20 03:53 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動
デウリノの和約
ポーランド・リトアニア連合の地図。デウリノの和約で得た領土はピンク色。これらの土地はリトアニア大公国に属することになった
デウリノの和約以後のポーランド・リトアニア共和国と、現在の国境線
通称・略称 デウリノの休戦
署名 1618年12月11日
効力発生 1619年1月4日
締約国 ポーランド・リトアニア共和国ロシア・ツァーリ国
主な内容 ロシア・ポーランド戦争 (1605年-1618年)を終わらせた。
テンプレートを表示

デウリノの和約: Peace of Deulino)、あるいはデウリノの休戦: Truce of Deulino)、デウリノ条約: Treaty of Dywilino)は、1618年12月11日に調印され、1619年1月4日に発効した講和条約で、ポーランド・リトアニア共和国ロシア・ツァーリ国の間の戦争(ロシア・ポーランド戦争)を終わらせた。

概要

この条約によりポーランド・リトアニア共和国は東へ領土を伸ばし、1629年スウェーデン・ポーランド戦争リヴォニアを割譲するまでの間、連合の歴史上で最大の領土を実現することとなった。

連合はスモレンスク周辺にスモレンスク県を、チェルニーヒウ周辺にチェルニフフ県を置き、14年半の休戦を宣言した。ジグムント3世王の息子ヴワディスワフは戦争中にロシアの大貴族たちによりモスクワのツァーリとして選出されていたが、彼はツァーリ位を放棄しようとしなかった。

1632年、デウリノの和約での休戦期間が終わると両国の間で再び敵意が高まり、ロシアは奪われたスモレンスクを回復すべく戦争を開始した(スモレンスク戦争)。

1635年にポリャノフカ条約が結ばれてスモレンスク戦争は終わり、ヴワディスワフはツァーリ位を放棄する代わりに1618年の国境線が再度確認される結果になった。





固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「デウリノの和約」の関連用語

デウリノの和約のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



デウリノの和約のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのデウリノの和約 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS