県設置と争奪戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/04 08:56 UTC 版)
「スモレンスク県 (ポーランド・リトアニア共和国)」の記事における「県設置と争奪戦」の解説
スモレンスク県の設置は1508年であった。しかし1512年から始まったロシア・リトアニア戦争(ru)の過程において、1514年にスモレンスクは陥落し(ru)、1522年にロシア領とする条約が結ばれた。 1609年、ロシア・ポーランド戦争が勃発すると、1611年にポーランド・リトアニア共和国軍はスモレンスクを陥落させた(ru)。1613年、共和国国会(セイム)により、リトアニア大公国の管轄下に、スモレンスク県の再設置が決定された。1618年にはロシア・ポーランド戦争が終結し、デウリノの和約によって、ロシアはスモレンスクの放棄に合意した。この時期のスモレンスク県は広大であり、スモレンスク、Biełyj、Dorogobuż、ロスワフ、シェルピェユスクの諸都市に加え、ネヴェル、Siebieżのモスクワ地方の郡、旧トルブチェフスク公国領やセヴェルシチナ地方をも県域に含んでいた。1625年には下位区分としてスモレンスク郡とStarodub郡が置かれた。また、県再設置から1626年までの間に、9市においてマクデブルク法が採用された。 停戦協定の切れた後、1632 - 1634年のスモレンスク戦争よって、Sierpiejskはロシアに割譲された。また、戦争終結後にスモレンスク県南部はポーランド王国管轄のチェルニフフ県として分離した。さらに1644年にはトルブチェフスクがロシアに割譲された。 1654年のロシア・ポーランド戦争において、スモレンスク県はロシアに占領され、1667年のアンドルソヴォ条約並びに翌年のグジムフトフスキ条約によって、スモレンスク県域のロシアへの帰属が決定された。ただしポーランド・リトアニア共和国内ではスモレンスク県は名目上存続しており、1793年まで県知事(ヴォイェヴォダ)が任命されていた。なお、1708年には帝政ロシアで県(グベールニヤ)制が施行され、ロシア治下のスモレンスク県が設置されている。
※この「県設置と争奪戦」の解説は、「スモレンスク県 (ポーランド・リトアニア共和国)」の解説の一部です。
「県設置と争奪戦」を含む「スモレンスク県 (ポーランド・リトアニア共和国)」の記事については、「スモレンスク県 (ポーランド・リトアニア共和国)」の概要を参照ください。
- 県設置と争奪戦のページへのリンク