オスマン帝国との戦争と死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/23 15:11 UTC 版)
「ヤン・カロル・ホトキェヴィチ」の記事における「オスマン帝国との戦争と死」の解説
ポーランド・ロシア戦争は1618年のデウリノの和約で終結した。しかしオスマン帝国の動きが活発化していたことから、ホトキェヴィチは和約成立以前から数千の軍勢を南方の国境に回していた。1620年ポーランド・オスマン戦争が勃発したが、共和国軍はツェツォラの戦いで王冠領大ヘトマンであったスタニスワフ・ジュウキェフスキを失う惨敗を喫した。オスマン2世自ら率いる16万人のオスマン軍と6万人のタタール人がポーランド国境を超えた。対するポーランド・リトアニア共和国はおよそ7万人にすぎず、うち約半数はヘーチマンのペトロー・コナシェーヴィチ・サハイダーチヌイ率いるコサックだった。ホトキェヴィチは1621年9月にドニエプル川を越え、ホトィン要塞(英語版)に入城してオスマン軍の前に立ちふさがった。 このホトィンの戦いで、ホトキェヴィチは1か月にわたって20万のオスマン軍の攻撃を耐え続けたが、開戦時から病にかかっていたホトキェヴィチは24日に要塞の中で死去した。その数日後、オスマン帝国はホトィン要塞攻略をあきらめ、和平交渉の開始を決断した。 ホトキェヴィチの遺体はカームヤネツィ=ポジーリシクィイに送られ、10月14日に埋葬された。 1622年6月、彼の未亡人によってオストロフに改葬された。 1627年、オストロフに建設された新たな教会へ改葬された。 1648年にフメリニツキーの乱が起こると遺体は再び退避されたが、1654年に元に戻された。 1722年にオストロフに新たな墓がつくられ、そこに改葬された。
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