ペトロー・コナシェーヴィチ・サハイダーチヌイとは? わかりやすく解説

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ペトロー・コナシェーヴィチ・サハイダーチヌイ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/04/04 06:21 UTC 版)

ペトロー・コナシェーヴィチ・サハイダーチヌイウクライナ語: Петро Конашевич Сагайдачний, 1570年 - 1622年3月20日)は、ウクライナ国民英雄紅ルーシ出身の貴族で、17世紀初めにウクライナ・コサック大長官を務めた。コサックの総司令官としてコサック軍の改革を行い、コサックのチャイカ艦隊を編成し、クリミア・ハン国オスマン帝国ロシア・ツァーリ国の軍勢と度々戦った。また、ウクライナの文化の振興に力を入れ、ウクライナ正教会を保護した。多数のウクライナ民謡物語に登場する。


  1. ^ 現在のウクライナリヴィウ州・サーンビル地区・クーリチツィ村。
  2. ^ 現在のブルガリアヴァルナ州・ヴァルナ市。
  3. ^ 14世紀から18世紀にかけてウクライナは、イスラム教勢力、特にオスマン帝国とその属国によって「奴隷狩り地域」と見なされ、度々略奪されていた。それがために、ウクライナ国内においてイスラム教徒は強く憎まれ、イスラム教との戦いはウクライナの人民を守るための正当な戦いであると信じられていた。
  4. ^ 現在のウクライナ・フェオドシヤ市。
  5. ^ イタリアの旅行家ピエトロ・デラ・ヴァッレは1618年5月に次のように述べている。「トルコの黒海の町には、コサックによって陥とされなかった、あるいは略奪されなかった町はない。今日のコサックは、努力すれば、その黒海を完全に支配できるほどの勢力となっている」
  6. ^ 17世紀初頭まではコサック軍においては様々なキリスト教の宗派(正教カトリックプロテスタントなど)の代表がいたが、サハイダーチヌイの政策によってコサックは正教会とのみ関係をもつこととなった。
  7. ^ 1633年にポーランド・リトアニア共和国の王はウクライナ正教会の存在を公認し、キエフ主教を共和国の元老院に加えた。
  8. ^ また、9月6日、ホティンの戦いの真っ只中、コサックの別働隊は黒海に出、20隻のオスマン帝国の艦隊を破り、イスタンブールを攻撃した。
  9. ^ 当時のポーランド国会検使ヤクブ・ソビエスキや、アルメニアの歴史学者アヴクセンチウスなどの記録には、ホティンの戦いではコサック軍がなければ、ポーランド・リトアニア勢が負けていたはずであり、また、ホティンの戦いでの勝利に一番貢献したのはコサックだったとある。


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