ロシアへ出兵
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/12/14 22:20 UTC 版)
「ペトロー・コナシェーヴィチ・サハイダーチュヌィイ」の記事における「ロシアへ出兵」の解説
1618年にサハイダーチュヌィイが指揮する2万人のウクライナ・コサック軍は、窮地に陥ったポーランド・リトアニア共和国の王子ヴワディスワフ4世を救うため、ロシア・ポーランド戦争に介入した。ロシア軍は、コサックが西方のスモレンスクを通ってモスクワへ向かうと予測し、スモレンスク周辺に軍勢を集中させたが、サハイダーチュヌィイはロシア軍の裏をかいて南方のプティーウリから攻め入り、モスクワへ出兵した。 コサック軍は、モスクワに向かう途中、プティーウリ、ルィーリスク、クルスク、リーヴヌィ、エレツ、レベジン、スコピン、リャーシュスクなどのロシアの町や城を陥落させ、セルプホフの辺りでドミートリー・ポジャールスキー公が率いるロシアの郷土防衛隊とヴァシーリー・ブトゥルリーンが率いるロシア正規軍を蹴散らし、9月20日にモスクワの近くでヴワディスワフ4世と合流した。同時にコサック別働隊は、ヤロスラヴリ、ペレスラヴリ・ザレスキー、トゥターエフ、カシーラ、カシモフを落として略奪した。 9月末にモスクワは包囲され、サハイダーチュヌィイの軍勢はアルバート門辺りに陣を敷いた。コサックは総攻撃を準備していたが、ヴワディスワフ4世の傭兵軍が給料の支払いを要求して攻撃に反対したので、総攻撃は中止され、ロシアの都は難を逃れた。戦争はデウリノ和約によって終わり、サハイダーチュヌィイはコサック軍を連れてウクライナへ帰陣した。 1619年に、ポーランド・ロシア戦争が終わると、ポーランド・リトアニア共和国の政府は、政府側の登録コサック以外のウクライナ・コサック組織を違法武装集団とみなし、徹底的にコサック軍の縮小政策を実施し始めた。この政策は非登録コサックの不満を煽ったものの、サハイダーチュヌィイはコサック軍の存続を重視して政府との対立を避け、政府の政策に加担した。非登録コサックはサハイダーチュヌィイをコサックの大長官の座から降ろしたが、共和国の政府は彼を登録コサック軍の軍長にした。非登録コサックと登録のコサックの対立は2年間におよんだが、1620年に大規模なポーランド・オスマン戦争(英語版)が始まったことによってポーランド・リトアニア共和国の政府は非登録コサックを公認し、戦地に派遣した。その折、サハイダーチュヌィイは全コサックの大長官の座に復帰した。
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ロシアへ出兵
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 15:32 UTC 版)
「ペトロー・コナシェーヴィチ・サハイダーチヌイ」の記事における「ロシアへ出兵」の解説
1618年にサハイダーチヌイが指揮する2万人のウクライナ・コサック軍は、窮地に陥ったポーランド・リトアニア共和国の王子ヴワディスワフ4世を救うため、ロシア・ポーランド戦争に介入した。ロシア軍は、コサックが西方のスモレンスクを通ってモスクワへ向かうと予測し、スモレンスク周辺に軍勢を集中させたが、サハイダーチヌイはロシア軍の裏をかいて南方のプティーウリから攻め入り、モスクワへ出兵した。 コサック軍は、モスクワに向かう途中、プティーウリ、ルィーリスク、クルスク、リーヴヌィ、エレツ、レベジン、スコピン、リャーシュスクなどのロシアの町や城を陥落させ、セルプホフの辺りでドミートリー・ポジャールスキー公が率いるロシアの郷土防衛隊とヴァシーリー・ブトゥルリーンが率いるロシア正規軍を蹴散らし、9月20日にモスクワの近くでヴワディスワフ4世と合流した。同時にコサック別働隊は、ヤロスラヴリ、ペレスラヴリ・ザレスキー、トゥターエフ、カシーラ、カシモフを落として略奪した。 9月末にモスクワは包囲され、サハイダーチヌイの軍勢はアルバート門辺りに陣を敷いた。コサックは総攻撃を準備していたが、ヴワディスワフ4世の傭兵軍が給料の支払いを要求して攻撃に反対したので、総攻撃は中止され、ロシアの都は難を逃れた。戦争はデウリノ和約によって終わり、サハイダーチヌイはコサック軍を連れてウクライナへ帰陣した。 1619年に、ポーランド・ロシア戦争が終わると、ポーランド・リトアニア共和国の政府は、政府側の登録コサック以外のウクライナ・コサック組織を違法武装集団とみなし、徹底的にコサック軍の縮小政策を実施し始めた。この政策は非登録コサックの不満を煽ったものの、サハイダーチヌイはコサック軍の存続を重視して政府との対立を避け、政府の政策に加担した。非登録コサックはサハイダーチヌイをコサックの大長官の座から降ろしたが、共和国の政府は彼を登録コサック軍の軍長にした。非登録コサックと登録のコサックの対立は2年間におよんだが、1620年に大規模なポーランド・オスマン戦争(英語版)が始まったことによってポーランド・リトアニア共和国の政府は非登録コサックを公認し、戦地に派遣した。その折、サハイダーチヌイは全コサックの大長官の座に復帰した。
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