ロシアへの進出(1991-1994)
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「オウム真理教の歴史」の記事における「ロシアへの進出(1991-1994)」の解説
オウムとロシアとのコネクションは、創価学会名誉会長の池田大作のモスクワ大学講演を実現した斡旋業者が500万円の費用で提案してきたことで始まった。ソ連8月クーデター発生直後の1991年9月頃、この斡旋業者はオウムのミュージカル「死と転生」のボリショイ劇場上演と、麻原のモスクワ大学講演を提案し持ちかけ、教団は承諾した。しかし、業者の斡旋は所属するコンサルタント会社に無断の行動であることが分かり、業者は支払った経費も使い込んでいた。麻原はロシアでの企画を実現するようコンサルタント会社を説得した。 早川幹部は1991年秋、ボリゾフ・ニコラエヴィッチ一等書記官に接触し、ボリス・エリツィン政権の財政難を救うために衣料品やコンピュータなど5000万ドル(約50億円)の援助を申し出た。1991年末のソ連崩壊後、1992年2月に来日したオレグ・ロボフロシア連邦安全保障会議書記は日本の政財界に資金援助を求めたが全て断られていたが、オウムは500万ドルの援助を申し出、最終的に1000万ドル(約10億円)を援助した。ロボフは「苦しい時にオウムに助けてもらったことは忘れない」と語っている。 1992年3月、ロボフが学長を勤める露日大学第一回国際企画として、教団は300人の信者を引き連れモスクワ訪問、ハズブラートフ最高会議議長やルツコイ副大統領と面会した。教団はモスクワ国立大学には印刷システムを、モスクワ国立工科大学とモスクワ工学物理学協会にコンピューター教室を、エイズ防止のための注射針などを贈呈した。麻原はロシアの各大学でヨーガ教室を開き、科学アカデミー・ノーベル賞受賞の物理学者でレーザー光線の研究者バーソフと接触、3月13日にはモスクワ物理工科大学で日本人初の講演会を開いて1000人の学生が集まり、同大学主任研究員やクルチャトフ研究所研究員にも信者を獲得した。A.ピオントコフスキー、V.エゴーロフなどの学者は、生態系の危機という問題意識から、オウムのハルマゲドンを回避するための教義に共感すると述べた。麻原はモスクワ府主教にも面会し、ロシア正教教会に聖書用の紙8万ドル分を寄付した。6000人収容できるクレムリン大劇場でのオウムミュージカル「死と転生」は超満員となり、大成功を収めた。 1992年4月、ラジオ局マヤークと年間80万ドルで一日2回、各25分の放送枠を獲得、テレビ局2×2でも毎週日曜日午前中の30分の放送枠を獲得した。4月1日にはラジオ番組「エウアンゲリオン・テス・バシレイアス(オウム真理教放送)」(直訳すると「王国の福音」)を開始、当初は富士山総本部のスタジオで制作したテープをモスクワに空輸し、ウラジオストク中継基地から日本に向けて放送していたが、94年12月から衛星回線で生放送を開始し、ロシアの放送局は内容確認も十分にできず、教団は局やスポンサーに左右されないラジオ番組を入手できた。英語とロシア語で放送も行い、世界に向けた布教放送を行った。また、教団は年間11000ドルというそれまでの25倍の契約料で専属オーケストラ「キーレーン」を結成した。麻原は92年4月の取材に対してロシア人は「共産主義を経験でき、本当の意味での自由を経験でき」たことは幸せだったとし、「共産主義のイデオロギーを持ってる人たちが仏教の本質を理解できたら、それはそれでまた素晴らしい国ができるんじゃないでしょうか」と答えている。92年7月には宗教法人として認可され、9月にモスクワ支部を開設した。 1992年秋、レーザーやプラズマ兵器の情報を集めていた村井、広瀬健一、渡部和実らがロシアを見学し、1993年2月にモスクワ軍事大学でAK-74や迫撃砲を調査後、AK-74を一丁入手した。1994年2月、麻原はAK-74を1000丁の製造を廣瀬と豊田に指示し、95年1月には試作品一丁を完成させた(自動小銃密造事件)。 オウムはロシア軍基地で自動小銃、機関銃、バズーカ砲の実射などの軍事訓練を信者らに行った。また軍用ヘリコプターミル17を購入し(1994年5月に横浜港に搬入)、ほか、ミグ戦闘機29、戦車T-72300台、魚雷艇、潜水艦などの購入計画もあった。 1993年12月には毒ガス検知器、防毒マスク、防護服を入手し、1994年4月には自動式毒ガス検知器、細菌検知器を入手したほか、LSDの原料となる酒石酸エルゴタミン5kgを2500万円で購入した、これにより遠藤がLSDを製造し、1994年6月から7月にかけてキリストのイニシエーションで信者らに投与された。 1993年12月にはモスクワ郊外に66万平方メートルの土地を入手し、道場、病院、学校、アパート、パスタ工場などの「ロータスビレッジ」を計画し、衣料品店の経営にも乗り出した。サンクトペテルブルク、ニジニ・ノヴゴロド、ウラジオストク、ハバロフスク、ウクライナ、ベラルーシ、モルドバ、北オセチアなどでも支部設立準備を進め、北オセチア共和国の首都ウラジカフカス支部を1994年1月開設し、ウクライナには兵器や情報通信機器の貿易を行うマハーポーシャ・ウクライナを設立した。1994年2月、麻原によるグルヨーガマイトレーヤイニシエーションではオリンピックホールに12000人が参加した。 オウムはロシア各地に7つの支部を作り、ロシアの信者数は最大5万人に上った。崩壊直後のロシアではソ連と共産主義が否定される中、50近い新興宗教団体が活動しており、迷信やUFOなども流行していた。また、ロシアではトヨタやパナソニックなど日本製品への品質への信頼があり、オウムも日本の宗教ということで信用され受け入れられていった。
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