ロシアへ亡命
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/05 07:04 UTC 版)
「ヴァフタング6世 (カルトリ国王)」の記事における「ロシアへ亡命」の解説
ヴァフタング6世の一族と家臣団の子孫たちは、ロマン・バグラチオン(英語版)とピョートル・バグラチオン兄弟のようにロシアに多数の卓越したグルジア人をもたらした。 オスマン帝国・ペルシャ・ダゲスタン・ホタキ朝によるこれらの侵略で、グルジアの人口の4分の3が殺戮された。ヴァフタング6世は再びピョートル1世に保護を求める為に、忠実な家臣たちとコーカサス山脈を長時間さ迷った。一族の者や親しい戦友や従者など1,200人を伴って、彼はコーカサス山脈を越えて1724年7月にロシアに到着した。ピョートル1世は間もなく1725年に亡くなり、ピョートル1世の皇后でその後継者となったエカチェリーナ1世から領土奪還の具体的な援助はもらえなかったが、ロシア国内に定住する許しを与え、年金といくらかの不動産も付与した。 詳細は「コンスタンティノープル条約 (1724年)」を参照 ヴァフタング6世は1734年までロシアに居住したが、同年ペルシャのナーディル・シャーの協力によって領土回復を試みることを決意した。ロシア女帝アンナはヴァフタング6世の計画に同意したが、ペルシャでどのように行動すれば良いかとグルジアとコーカサスの高地の住民をロシアの臣民となるように勧誘する方法とロシアに全ての報告を上げるように指示した。ヴァフタング6世はロシアの将軍と一緒に外交折衝の旅を開始したが、旅路の途中で病気になり、1737年3月26日にアストラハンで61歳で亡くなり、遺体は市の聖母被昇天教会に埋葬された。家臣の多くはロシアに留まり、後にロシア帝国陸軍に入った。彼らの中でおそらく最も有名なのは、その子孫であるピョートル・バグラチオンであろう。
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