オスマン帝国からフランス領へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 08:52 UTC 版)
「ラタキア」の記事における「オスマン帝国からフランス領へ」の解説
オスマン帝国時代、ラタキア周辺はイスラム教アラウィー派の多い地域となったが、ラタキアの街は多くのスンニ派住民やキリスト教徒住民が住んでいた。農村部では地主がスンニ派で農民がアラウィー派という状態であった。特殊な状態にあったドゥルーズ派同様、アラウィー派もスンニ派のオスマン帝国とは緊張関係にあった。またミッレト制(オスマン帝国の行政区分で、自治や独自の慣習を認められた各宗教ごとの共同体)による宗教共同体はアラウィー派などには適用されなかったが、アラウィー派は自治を比較的認められていた。 1920年、大シリア地域(シリア、レバノン、パレスチナ)の王だったハーシム家のファイサルがフランスにより追放されフランス委任統治領シリアが発足すると、1922年、シリアは4つの自治国(ダマスカス国、アレッポ国、エッドゥルーズ(ドゥルーズ派国(英語版))、アラウィー派国(英語版))の緩やかな連邦に再編された。アラウィー派国(État des Alaouites)はラタキアを中心とするシリアの海岸部全体に設定され、アラウィー派住民による自治が認められた。 1930年9月22日から1936年までラタキアは、国際連盟の委任統治制度の下でフランスが統治する名目上の独立国・ラタキア国(Sanjak of Latakia、アラウィー派国から改名)の首都となっていた。この国は地中海岸から内陸の山脈までの範囲を管轄していた。ラタキア国の切手は、フランスが作ったシリア国(ダマスカスとアレッポが1924年末合併)の切手の上から「LATTAQUIE」(ラタキア)の文字とアラビア文字の国名を刷ったものだった。フランス統治下の地域では、分割統治に反対し独立を求める民族主義運動が起こった。これに対して、フランスは自国に有利な条件でシリアを独立させようとし、シリア側と条約締結交渉を行った。 1936年のフランス・シリア独立条約(英語版)でアラウィー派国家とドゥルーズ派国家はシリアに合流した。しかしナチス・ドイツが中東で勢力を伸ばすおそれからシリアを手放すことに対する反対意見がフランスで起こり、結局フランス議会でこの条約は批准されなかった。また条約に反しアンドレッタ県(アンタキヤ周辺、現在のトルコ・ハタイ県)をトルコに帰属させることとなり、シリアでは暴動が起きた。1939年にはフランスの総督は条約を延期しアラウィー派国家とドゥルーズ派国家を再度設定した。シリアにイギリス軍が侵入してヴィシー政権を追放した後の1943年、シリア独立に向けて総選挙が行われ、アラウィー派国家とドゥルーズ派国家はシリアに再統合された。シリアは1946年4月17日に独立し、ラタキアはラタキア県の県都となった。
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