オスマン・ワッハーブ戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/15 16:42 UTC 版)
「マフムト2世」の記事における「オスマン・ワッハーブ戦争」の解説
マフムトは即位の3年前から始まったワッハーブ王国との戦争を終わらせるために直ちに聖地奪還のための軍隊を派遣し、エジプト総督のムハンマド・アリーにも援軍を要請した。当時聖地を手に入れていたワッハーブ派は聖地巡礼団を襲撃して金品を奪い、ワッハーブ派に改宗するか死を選ぶかを選択させていた。聖地巡礼のルートを確保するのはカリフの役割であったためマフムトはスルタンとしての、そしてカリフとしての威信をかけて鎮圧に乗り出した。1812年にメディナを奪還し1813年にメッカを奪還して、1817年までにワッハーブ王国の主要都市を占領、翌年ワッハーブ王国を滅ぼした。国王アブドゥラ・ビン・サウドはイスタンブールへ送還され、そこで処刑された。
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