オスマン主義者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/12/30 15:08 UTC 版)
帝国政府にとって帝国の保全は当然の目的であり、政策もその線に沿って行われた。オスマン主義は特定の主唱者がいたわけではないとされる。一方、知識人の中にもオスマン主義を擁護する人々が存在した。 「新オスマン人」と呼ばれる人々は、著名なオスマン主義者を含んでいる。その1人、ナムク・ケマルは地方時代が長く帝国の複雑な宗教・民族構成を熟知しており、滞欧経験も長く近代西欧の思想と文学、文化にも通じていた。彼は宗教・民族を別にしようとも、平等の権利と自由が保証さえすれば、共にオスマン人として一つの祖国=オスマン帝国の担い手たり続けうると主張した。また彼は宗教・民族を別にする臣民一般の権利を保障するために立憲制の必要を説いた。ナムク・ケマルはオスマン帝国において地方の実情を熟知しており、アラブを除けば多民族・多宗教の混住地ばかりであるオスマン帝国では、オスマン主義こそが必要であると考えていた。 一方、アラブ人の多くはベイルートのキリスト教徒アラブ人サークルが主導して形を得たアラブ民族主義を旨とし、オスマン主義とは対立していた。ただ、例外としてレバノンのドゥルーズ派の名士であったシャキーブ・アルスラーンは、帝国の解体までオスマン主義を主張している。
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