オスマン家の追放
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第一次世界大戦でオスマン帝国が敗北し帝国領が連合国によって分割占領されると、アナトリアでムスタファ・ケマルらを指導者とする抵抗運動が起こった。これに対して連合国はイスタンブールを占領し、イスタンブールのメフメト6世の政府も連合国の圧力に屈して帝国の分割反対を叫ぶ帝国議会を解散したため、アンカラの抵抗運動組織と帝国議会の勢力がアンカラに結集して大国民議会を設立してオスマン帝国政府に対抗する革命政権を打ち立てた。これにより生じた二重政府状態を解消するため、連合国との戦いを休戦させた大国民議会は1922年、イスタンブールのオスマン帝国政府を消滅させることを決定した。ムスタファ・ケマルはムスリムのカリフとして高い権威を持つオスマン家を廃位すれば、国内外の反対が避けられないと判断し、大国民議会にスルタン=カリフ制を廃止してスルタンとカリフの地位を分割し、さらにスルタン制を廃止してメフメト6世を廃位することを決議させた(トルコ革命)。 翌1923年には共和制が宣言されてトルコは共和国になり、さらに1924年、カリフとして即位したアブデュルメジト2世が廃位された。カリフ制の廃止とともにオスマン家の全成員はトルコからの国外退去を命ぜられ、オスマン家の支配は完全に終焉した。 トルコ追放以来、オスマン家はトルコ国外において年長者が帝位継承者として家長の座を継承しており、ニューヨーク在住のエルトゥールル・オスマンが1992年にトルコ政府の招きで一時帰国。その後1994年に第43代オスマン家当主に就任後の2004年にトルコ共和国のパスポートを取得して帰国。2009年に死去するまでイスタンブールに居住した。このようにオスマン家の国外追放は解かれたため、イスタンブールに帰った者も多い。エルトゥールル・オスマンの死去を受けて第44代オスマン王家当主にはアブデュルメジト1世の曾孫にあたるバヤジット・オスマン(2009年 - 2017年)が就任した。その後、バヤジット・オスマンも亡くなると、シリア在住のデュンダル・アリ・オスマンが就任。シリア内戦の激化に伴いトルコ、イスタンブールへ帰国。デュンダリ・アリ・オスマンが死去すると弟のハルーン・オスマンが当主に就任した。
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