エルトゥールル・オスマンとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 固有名詞の種類 > 人名 > 政治家 > 統治者・君主 > オスマン帝位請求者 > エルトゥールル・オスマンの意味・解説 

エルトゥールル・オスマン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/14 15:15 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動
エルトゥールル・オスマン
ارطغرل عثمان
オスマン家

出生 (1912-08-12) 1912年8月12日
オスマン帝国イスタンブール、ユルドゥズ宮殿
死去 (2009-09-23) 2009年9月23日(97歳没)
トルコイスタンブール
配偶者 ガルダ・トゥワースコイ
  ゼイネップ・タルズィー
父親 メフメト・ブルハネッティン
母親 アリエ・メレク・ナズリャル・ハヌム・エフェンディ
テンプレートを表示

エルトゥールル・オスマンオスマントルコ語: ارطغرل عثمان‎、Ertuğrul Osman (Osmanoğlu)、1912年8月12日 - 2009年9月23日)は、オスマン帝国の帝家であったオスマン家の第43代家長。オスマン帝国皇族として生まれた最後の家長である。

生涯

帝国末期の1912年、イスタンブールのユルドゥズ宮殿で、アブデュルハミト2世の第8子メフメト・ブルハネッティン皇子の末子として生まれた。オーストリアウィーンに留学して教育を受けたが、1924年トルコ共和国政府によってアブデュルメジト2世カリフの地位を廃され、オスマン家の全構成員に国外退去命令が発せられたため、帰国することができなくなった。

フランスパリ政治学院に学んだ後、1939年に家族とともにアメリカ合衆国に移住し、1952年南米諸国で鉱山を経営するカナダ企業に入社した。トルコではオスマン家の国外退去処分が解除されたが、エルトゥールルはトルコ共和国の国籍を得ることを望まず、アメリカに留まり続けた。後半生はニューヨークに居住していた。彼が追放後初めてトルコに帰国したのは、1992年、トルコ政府の招きにより、特別にトルコ訪問を許された時である。その後、9.11後アメリカの出入国審査が厳しくなったために、2004年にトルコ共和国のパスポートを取得した。

1985年に南アフリカ出身の最初の妻と死別した後、1991年に約30歳年下で、トルコに亡命したアフガニスタンバーラクザイ朝の王族とトルコ人女性の間に生まれたゼイネップ・タルズィーと再婚した。

1994年、従兄でオスマン家第42代家長のメフメト・オルハンが没したため、オスマン家の存命最年長の男子となり、オスマン家の家長の座に就いた。名目上の皇帝としてはエルトゥールル2世となった。

2009年9月23日腎不全の為イスタンブール市内の病院で死去[1] 、97歳没。エルトゥールルの死去に伴い、新たにオスマン家最年長となったアブデュルメジト1世の孫シェフザーデ・イブラヒム・テブフィク・エフェンディ皇子の三男バヤズィット・オスマンが第44代家長の座についた。

系図

アブデュルハミト2世-メフメト・ブルハネッティン-エルトゥールル

脚注

  1. ^ TODAY'S ZAMAN (2009年9月24日). “Osmanoğlu, the eldest Ottoman dynasty member, passes away”. 2009年9月25日閲覧。
先代:
メフメト・オルハン
オスマン家第43代家長
1994年 - 2009年
次代:
バヤズィット




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「エルトゥールル・オスマン」の関連用語

エルトゥールル・オスマンのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



エルトゥールル・オスマンのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのエルトゥールル・オスマン (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS