アリー・ヴァースブ・オスマンオウルとは? わかりやすく解説

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アリー・ヴァースブ・オスマンオウル

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/29 19:04 UTC 版)

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アリー・ヴァースブ
オスマン家

出生 (1903-10-14) 1903年10月14日
オスマン帝国イスタンブール、オルタキョイ、チュラーン宮殿
死去 (1983-12-09) 1983年12月9日(80歳没)
エジプトアレクサンドリア
埋葬 2007年(改葬)
トルコイスタンブール、エユップ、スルタン・レシャト廟(改葬)
配偶者 エミネ・ミュクビレ
子女 オスマン・セラハディン
父親 アフメト・ニハト
母親 サフィル・ハヌム
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アリー・ヴァースブ・オスマンオウル(Ali Vâsıb Osmanoğlu、1903年10月14日 - 1983年12月9日)は、オスマン帝国の帝家であったオスマン家の第41代家長で、帝位(パーディシャーおよびカリフ)請求者(請求期間:1977年 - 1983年)。

生涯

オスマン帝国第33代皇帝のムラト5世の孫息子で第38代家長のアフメト・ニハト皇子とその第1夫人サフィル・ハヌム(Safiru Hanım)の間の一粒種として、イスタンブールのチュラーン宮殿で生まれた。1977年にメフメト・アブデュルアズィズから家長の座を継ぎ、名目上の皇帝「アリー1世I. Ali)」を名乗った。1983年にアレクサンドリアで没した。遺骸は2007年にイスタンブールのエユップ地区にあるスルタン・レシャト廟に改葬された。

1931年にメフメト5世の三男エメル・ヒルミー(Ömer Hilmi Efendi)皇子の娘エミネ・ミュクビレ(Emine Mükbile)と結婚し、間に一人息子のオスマン・セラハディン(1940年 - )をもうけた。

先代:
メフメト・アブデュルアズィズ
オスマン家第41代家長
1977年 - 1983年
次代:
メフメト・オルハン




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