メフメト・アブデュルアズィズ・オスマンオウルとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > メフメト・アブデュルアズィズ・オスマンオウルの意味・解説 

メフメト・アブデュルアズィズ・オスマンオウル

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/29 19:05 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動
メフメト・アブデュルアズィズ
オスマン家

出生 (1901-09-26) 1901年9月26日
オスマン帝国イスタンブール、オルタキョイ、オルタキョイ宮殿
死去 (1977-01-19) 1977年1月19日(75歳没)
フランスニース
配偶者 ベルケマル・イェゲン・ハヌム
子女 ヒュッレム・アブデュルアズィズ
父親 メフメト・セイフェディン・エフェンディ
母親 ネジェム・フェレク・ハヌム
テンプレートを表示

メフメト・アブデュルアズィズ・オスマンオウル(Mehmed Abdülaziz Osmanoğlu、1901年9月26日 - 1977年1月19日)は、オスマン帝国の帝家であったオスマン家の第40代家長で、帝位(パーディシャーおよびカリフ)請求者(請求期間:1973年 - 1977年)。

生涯

父はオスマン帝国第32代皇帝アブデュルアズィズとその第5夫人ゲヴヘリ・デルデュンジュ・カドゥン・エフェンディ(Gevheri Dördüncü Kadın Efendi)の間の息子で、オスマン帝国海軍の少将だったメフメト・セイフェディン・エフェンディ(Mehmed Seyfeddin Efendi)皇子。母はその第1夫人でグルジア系のネジェム・フェレク・ハヌム(Necem Felek Hanım)である。1973年に死去したオスマン・フアトからオスマン家家長を引き継ぎ、名目上の皇帝「アブデュルアズィズ2世II. Abdülaziz)」を称したが、1977年に南仏のニースで死去した。

1929年2月21日カイロにおいて、エジプトのムハンマド・アリー王家の血を引くベルケマル・イェゲン・ハヌム(Berkemal Yegen Hanım)と結婚し、間に一人娘のヒュッレム・アブデュルアズィズ(1939年 - 1999年)をもうけた。

先代:
オスマン・フアト
オスマン家第40代家長
1973年 - 1977年
次代:
アリー・ヴァースブ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「メフメト・アブデュルアズィズ・オスマンオウル」の関連用語

メフメト・アブデュルアズィズ・オスマンオウルのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



メフメト・アブデュルアズィズ・オスマンオウルのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのメフメト・アブデュルアズィズ・オスマンオウル (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS