スルタン=カリフ制
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/14 08:38 UTC 版)
19世紀に入ると国勢の衰退したオスマン帝国に、キリスト教徒の列強君主に対抗してオスマン皇帝のスンナ派イスラム教徒に対する宗教的権威の優越が期待されるようになり、オスマン家の君主にはスルタンの世俗的権力とカリフの宗教的権威が兼ね備えられているという主張が生まれた(スルタン=カリフ制)。9代セリム1世がマムルーク朝を滅ぼしたとき、マムルーク朝の庇護下にあったアッバース朝の末裔からカリフ権を譲り受けたという伝説は、この目的のために創作されたものと考えられている。しかし、19世紀以前にも、スレイマン1世の時代に大宰相リュトフィー・パシャなどによりスルタン=カリフ制が主張されることもあった。 特にイスラム教徒の人口を多く抱えるインドでは、宗主国イギリスに対するイスラム教徒の民族運動の精神的支柱としてカリフが重要視された。これを怖れたイギリスは、カリフとなる者は預言者ムハンマドと同じクライシュ族に属するアラブ人でなくてはならないというスンナ派の規定を持ち出し、トルコ人のオスマン家がカリフを称するのは僭称であるとするキャンペーンを張ったが、オスマン帝国がスンナ派イスラム諸国で最大の強国であるという現実に支えられて、オスマン家のカリフ位に対する疑問はアラブ世界ですらもほとんど持たれることはなかった。 1876年に制定されたオスマン帝国憲法はこれを条文として盛り込み、オスマン帝国の君主はオスマン家の当主によって世襲され、世俗政治の最高権者であるスルタンと、ムスリムの宗教的な指導者であるカリフの権能を兼ねることが明文化される。
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