スルタン国の台頭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/09 06:19 UTC 版)
「ホビョ・スルタン国」の記事における「スルタン国の台頭」の解説
当初、アリ・ユスフ・ケナディドの目指すところは、当時従兄弟であったボコル・オスマン・マハムドが支配していたホビョの隣国、マジェルテーン・スルタン国を掌握することだった。しかしこの挑戦は失敗に終わり、最終的にアリ・ユスフ・ケナディドはイエメンへの亡命を余儀なくされた。10年後となる1870年代、ケナディドはハドラミーの銃士の一団と献身的な副官たちを率いてアラビア半島から帰ってきた。銃士団の副官らの支援でケナディドは地元の氏族を打倒し、1878年にホビョを建国した。 19世紀の後半、当時ソマリアに存在した君主はどれもエチオピア、イギリス、イタリアのどれかの植民地帝国都条約を結んだ。 1888年末にスルタン・ケナディドはイタリアと条約を結び、ホビョをイタリアの保護領とした。ケナディドの宿敵であったボコル・オスマンも翌年、自らが統治するマジェルテーン・スルタン国をイタリア保護領とした。両スルタン国は自らの拡張主義的な目的を推し進めるために条約に署名した。ケナディドはボコル・オスマンのマジェルテーン・スルタン国との争いに加え、オマーン系のザンジバル・スルタン国とのワルシェイクに隣接する地域をめぐる争いにおいてイタリアの後援を利用しようとした。両スルタン国は協定を結ぶことでヨーロッパ諸帝国の対立する目的を利用し、自らの領地の独立を効果的に保障しようとした。 それぞれの条約の条項にはイタリアが両スルタン国の行政に干渉しないことが明記されていた。イタリアの武器支援と毎年の補助金の見返りとして、スルタンは最低限の監視と経済的な譲歩を認めた。イタリアはまた、スルタン国と自国の利益を促進するために数人の大使を派遣することを合意した。 しかし、スルタン・ケナディドがエミールのディーリイェ・グーレとサイイド・ムハンマド・アブドゥラー・ハッサンのダラーウィーシュ国に対抗するためイタリア軍をホビョに上陸させるというイタリアからの申し出を拒否した結果、イタリアとホビョの関係は険悪なものとなってしまった。イタリアから過度に脅威と見做されたケナディドは最終的にイエメンのアデンへ、さらにエリトリアへと追放され、ホビョ・スルタン国の王位継承者である息子のアリ・ユスフも同様に追放された。しかし、ソマリア南部とは異なり、北部のスルタン国はイタリアと以前に結んだ条約に基づいて直接的な支配の対象とはならなかった。
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