スルターン即位前から退位まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/11 08:29 UTC 版)
「タイムール・ビン・ファイサル」の記事における「スルターン即位前から退位まで」の解説
1886年にスルターン・ファイサル・ビン・トゥルキーの長子として誕生する。早期から父の後継者と目され、幼年期にインドのイートン校と呼ばれるマヨ・カレッジ(英語版)に留学した。1903年には父の代理としてインドを公式訪問し、その後ビドビド県知事などを歴任する。 ファイサルの治世からマスカットはオマーン内陸部の部族集団の攻撃に晒され、イギリス領インド政府の支援を受けてかろうじて独立を保っていた。ファイサルの治世の末期にはオマーン内陸部でイマームの指導下に置かれた政権(オマーン・イマーム国)が力を持ち始めていた。イマームの率いる反乱軍がニズワ、イズキ、サマイルなどを占領してマスカットに進軍する中、1913年10月にファイサルは病没し、3日の喪が明けた後にタイムールはスルターンの地位を継承した。 タイムールの元にイギリスからの援軍が送られ、アブダビの仲介によって反乱軍との会談の場が設けられたが、交渉は不成立に終わる。1915年1月にマスカットは3,000人の反乱軍の夜襲を受けるが、700人のイギリス兵によって反乱軍は撃退される。イギリスの仲介によって1920年9月にスィーブでタイムールと18の部族集団の間に和平条約が締結された(スィーブ条約(英語版))。交渉の結果、内陸部の部族に一定の自治を認め、スルターンがオマーン全体に行使する主権、対外交渉権の維持が確認される。 内戦によってオマーンの財政は悪化しており、イギリスからの借款に頼らざるを得ない状況に置かれていた。イギリスの影響を脱するためにタイムールはフランスから武器を購入し、オスマン帝国に経済援助を求めるが失敗に終わり、政治への意欲を失っていった。内政の混乱とイギリス領インド政府からの干渉に疲弊したタイムールは、息子のサイードにスルターンの地位を移譲しようと考えるようになった。 1918年にタイムールは療養と称してインドに行き、1920年に退位を宣言する。イギリスの説得を受けて退位宣言を取り消したものの、オマーンに帰国した後は南部のドファールに滞在する時間が多く、しばしばオマーンとインドを行き来した。イギリスの湾岸駐在代表に宛てた1931年11月17日付の手紙で再び退位を表明し、サイードから撤回を嘆願されても翻意することはなかった。1932年1月にイギリスの承認を受けて退位し、翌2月にサイードがスルターンに即位した。
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