内政の混乱
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孫権は張昭が没した236年頃からおかしくなり始め、まもなく側近の呂壱を重用し始め、在地豪族層の反感を買った。呂壱を処刑し分裂しかけていた家臣団をまとめなおした孫権は241年には全琮・朱然達に命じて大規模な北伐を行うが、失敗した(芍陂の役)。 245年、校尉の陳勲に命じて、屯田兵・工兵30000人を使って、運河を掘って小棋から雲陽西城までを結び、そこに交易所や食料倉庫を建てさせた。 241年の皇太子の孫登の死後、三男の孫和を新しく皇太子に立てたが、243年頃から四男の孫覇との間での継承争いが置き、家臣団が真っ二つになって争いあう事態となった。この時に孫権は孫和側に立っていた丞相の陸遜の権限を奪い去るということをした。このことで陸遜は245年に憤死し、その他の孫和派の重臣たちも流罪とされ、孫覇派が勝利した。しかしその後に孫覇派の重臣が死去したこともあって孫和派が持ち返し、内紛は泥沼化した(二宮事件)。 250年、孫権はようやく決断を下し、孫和を庶子に落とし、孫覇に対して自殺を命じ、皇太子には七男の孫亮を即ける事にした。しかしこのことで呉内部の亀裂は修復不可能なものとなっており、後にそれが噴出することになる。 252年に孫権は崩御し、10歳で孫亮が皇帝となった。10歳児に政治が理解できるはずもなく、太傅・大将軍の諸葛恪が政権を握る。諸葛恪は孫権の死後を狙って侵攻してきた魏の胡遵・諸葛誕に大勝して声望を得る(東興の戦い)が、翌年の魏への侵攻は失敗に終わり、疫病で非常に多くの兵士が亡くなった。これで落ちた声望を回復するために国内の豪族勢力を押さえ込んで中央集権を志すが、これに不満を持った皇族の孫峻によるクーデターが起き、諸葛恪は殺された。 諸葛恪の死後、代わって孫峻が丞相となり政権を握る。孫峻は民衆の苦しみに関心を払わず、自分の権勢と奢侈のためだけに権力を振り回したため、不満を持った者たちが孫峻の暗殺を謀るも失敗に終わった。結局孫峻は256年に唐突に(諸葛恪に殴られる夢を見て、恐ろしさのあまり)死去し、その権力は従弟の孫綝に引き継がれる。 孫綝は反対勢力を潰して政権を握るが、この頃になると孫亮にも自覚が芽生え始め、自らの政治を行おうと考え始める。258年、魏で諸葛誕の反乱が起きる。これに孫綝は介入するが失敗に終わった。孫綝の影響力が低下したことを見た孫亮は孫綝の排除を図るが、逆に孫綝により廃位され、孫権の六男の孫休が代わりに擁立された。 孫休は即位すると、巧みに孫綝への反感を覆い隠して孫亮のように廃位されることを避け、孫綝が油断したところでクーデターを起こして孫綝を誅殺した。親政を始めた孫休は五経博士の設置、農政・治水事業、汚職の追及など立て続けに改革を打ち出し、衰退に向かっていた呉を一時的に食い止めた。しかしその後の孫休は学問とキジ狩りに没頭するようになり、政治は重臣の濮陽興と張布に任せきりとなった。
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内政の混乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/10 05:44 UTC 版)
反マルコスデモの頻発に象徴される、フィリピン全土に波及し始めた政情不安は、アメリカ合衆国や日本などの友好国の注目をひき、世界からの観光客減少や外資による投資を敬遠させた。翌年には経済のマイナス成長が始まり、フィリピン共和国政府の振興策も効果がなかった。失業率は1972年の6.30%から1985年には12.55%まで増大した。 さらにマルコス大統領自身も、腎臓疾患のために政務に支障が生じ、閣議に欠席する日が続く。この頃にはイメルダ夫人が政務を取り仕切るようになり、取り巻きたちは、バターン原子力発電所(英語版)建設に象徴される、意図的に杜撰なプロジェクトなどで汚職を繰り返し、これに対する国民の不満は爆発し、フィリピン国内で反マルコスデモと警官隊の衝突が相次ぐようになった。 フィリピン全土が内乱状態に陥るような事態は、フィリピンにアメリカ軍基地を持ち、冷戦下における軍事上の拠点としても重要視していたアメリカ合衆国連邦政府としては、絶対に避けたいものだった。ロナルド・レーガン大統領もマルコス大統領に対し、「ベニグノ・アキノ・ジュニア暗殺事件に対する責任がある」といって非難を強めるようになった。このような状況下で、アキノの暗殺後にその遺志をつぐことになった妻のコラソン・アキノ(コリー)が、反マルコス派のシンボル的な存在としてにわかに注目の人となる。
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