内政と改革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/24 22:41 UTC 版)
「ファーティマ朝のエジプト征服」の記事における「内政と改革」の解説
国内政策ではジャウハルは地元の支配層から恨みを買うことを避け、秩序ある行政の継続を確保するために注意を払わなければならなかった。その結果、ジャウハルはイフシード朝政権の経験豊富な実務者の大部分をそのまま残した。ジャアファル・ブン・アル=フラートは行政府の長官としてだけではなく、ワズィールとして司法長官やハティーブ(説教師)の長官と同様に留任した。ジャウハルはこれらの者を統制するためにクターマ族の監督官を任命しただけであった。また、ジャウハルは毎週開催される各種の苦情を審理する法廷(マザーリム(英語版))を設置し、一部の税金が撤廃され、財務官庁によって不法に没収された資産が所有者に返還された。 宗教問題ではジャウハルは慎重な態度をとり、イスマーイール派の儀式は徐々に導入されただけであった。アムル・ブン・アル=アース・モスクでは差し当りスンニ派の儀式が維持されており、ファーティマ朝の軍営地におけるモスクとして機能していたイブン・トゥールーン・モスクでのみ、970年3月にファーティマ朝の礼拝の呼びかけ(アザーン)が導入された。それにもかかわらず、969年10月にはファーティマ朝の軍隊のカーディーがスンニ派のカーディーよりも1日早くラマダーンを終わらせたために両者の間で緊張が走った。また、ファーティマ朝政権は自身の宗教的な厳格さと不道徳と見なされていたイフシード朝の人々を変えさせる意図の両方を反映させるためにより厳格な道徳的規範を課した。これらの政策は政権へのスンニ派の宗教者層による高い評判を獲得することに貢献したが、いくらかの抵抗も引き起こした。 さらに、ジャウハルは自身の軍営地で主君のために新しい首都(後のカイロ)の建設を始めた。イフリーキヤの首都と同様に初めはアル=マンスーリヤと名付けられ、特定の門や地区の名前までも真似て造られた。そして最も重要な建築物であるアズハル・モスク(英語版)は、970年4月4日にジャウハルによって起工され、972年の夏に完成した。
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