内政と軍政とは? わかりやすく解説

内政と軍政

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/02 10:19 UTC 版)

張浚」の記事における「内政と軍政」の解説

紹興5年1135年)、尚書右僕射中書門下平章事・知枢密院事・都督諸路軍馬などの重職兼任する。洞庭の賊を征服し諸将会議おこして侵略され国土恢復期し高宗に『中興備覧』41篇を献じた紹興6年1136年)には韓世忠劉光世張俊・楊存中・岳飛らの将軍監督して劉豫と金軍を討ち濠州で劉邈の軍を破る。紹興7年1137年)、金紫光禄大夫加えられたが、酈瓊の反乱責任をとって辞職した紹興9年1139年)、資政殿学士復帰して福州知州となり、紹興12年1142年)に和国公に封じられたが、上疏して金への和平に傾く国策について痛論し、秦檜から怒り買った。これにより左遷され、提挙江州太平興国宮となる。紹興25年1155年)、秦檜亡くなると観文殿学士洪州通判復帰したが、秦檜執権期に武備衰えたことを論じて辞職させられた。 紹興31年1161年)、金帝完顔亮が侵入すると、建康府通判行宮留守となり、張子顔を派遣して金軍海州破った隆興元年1163年)、枢密使都督建康府兼ね顕忠に霊璧県を、邵宏淵に虹県を攻めさせ軍を督促した宿州破れ、「特進」に位が下って江淮宣撫使となる。湯思退の和平論を斥け尚書右僕射中書門下平章事枢密使となり国政動かした。江淮に赴き要害の地に城郭築城し、武器集めながら忠義の士を募って対金決戦備えていたが、湯思退らにより「無用の戦争起こして国庫浪費した」という誹謗加えたために、官を辞したその後上疏して金への和議誤っていることを説き孝宗には学問努め賢人親しむよう訴えた孝宗張浚亡くなるといたく哀悼し、太保の位を贈り、さらに太師をも加えた。諡は忠献。

※この「内政と軍政」の解説は、「張浚」の解説の一部です。
「内政と軍政」を含む「張浚」の記事については、「張浚」の概要を参照ください。

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