内政と軍政
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紹興5年(1135年)、尚書右僕射・中書門下平章事・知枢密院事・都督諸路軍馬などの重職を兼任する。洞庭の賊を征服し、諸将の会議をおこして侵略された国土の恢復を期し、高宗に『中興備覧』41篇を献じた。紹興6年(1136年)には韓世忠・劉光世・張俊・楊存中・岳飛らの将軍を監督して、劉豫と金軍を討ち、濠州で劉邈の軍を破る。紹興7年(1137年)、金紫光禄大夫を加えられたが、酈瓊の反乱の責任をとって辞職した。紹興9年(1139年)、資政殿学士に復帰して福州知州となり、紹興12年(1142年)に和国公に封じられたが、上疏して金への和平に傾く国策について痛論し、秦檜から怒りを買った。これにより左遷され、提挙江州太平興国宮となる。紹興25年(1155年)、秦檜が亡くなると観文殿学士・洪州通判に復帰したが、秦檜の執権期に武備が衰えたことを論じて辞職させられた。 紹興31年(1161年)、金帝完顔亮が侵入すると、建康府通判・行宮留守となり、張子顔を派遣して、金軍を海州に破った。隆興元年(1163年)、枢密使・都督建康府を兼ね、李顕忠に霊璧県を、邵宏淵に虹県を攻めさせ軍を督促したが宿州で破れ、「特進」に位が下って江淮宣撫使となる。湯思退の和平論を斥け、尚書右僕射・中書門下平章事・枢密使となり国政を動かした。江淮に赴き要害の地に城郭を築城し、武器も集めながら忠義の士を募って対金決戦に備えていたが、湯思退らにより「無用の戦争を起こして、国庫を浪費した」という誹謗を加えたために、官を辞した。その後も上疏して金への和議が誤っていることを説き、孝宗には学問に努め賢人に親しむよう訴えた。孝宗は張浚が亡くなるといたく哀悼し、太保の位を贈り、さらに太師をも加えた。諡は忠献。
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