内政の整備
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中央官庁の整理について、667年には立法を司る理法府を増設し、左右理法府とした。678年には左右理法府にそれぞれ1名の卿(次官)を増員配置し、また同年に兵部の管轄下にあった船舶管理を船府として独立させ、令(長官)を配置した。 百済・高句麗の故地を直接統治していくことについて、百済の旧都泗沘に所夫里州(州治は現在の忠清南道扶余郡)を置いたように、百済の南西部には発羅州(州治は現在の全羅南道羅州市)を置いた。また、678年には高句麗の平原城跡に北原小京(江原道原州市)を、680年には加耶郡に金官小京(慶尚南道金海市)を置いて地方統治の拠点とし、あわせて王都金城の文化の普及に努めた。6世紀に既に設置されていた州・小京とともに、新羅の地方統治の九州五小京の完成まであとわずかとなった。
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内政の整備
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余はダーラヤワウ(ダレイオス)、偉大なる王、諸王の王、この果て遥かなる地界の王。ウィシュタースパ(ヒュスタスペス)の子、ハカーマニシュ(アケメネス)の裔。また王ダーラヤワウは告げる、この基壇の上にこの宮邸は建てられた。以前には、ここには宮邸は建てられていなかった。アウラマズダーの恩寵によって余はこの宮邸を建てた。そしてアウラマズダーは、すべての神々とともに、この宮邸が建てられるように決定し給うたのであって、余はそれを建て、かつそれを完璧に、美しく、そして余がそれを決定したごとくに、建てたのである。 - ダレイオス1世のペルセポリス碑文f(エラム語版)§1-18、伊藤義教訳 ダレイオス1世はアケメネス朝の体制を整備し完成させたと言われる。彼は奪取した王位を安定させるため、キュロス2世の娘アトッサとアルテュストネと結婚し、殺害されたスメルディス(バルディヤ)の娘パルミュスも妻とした。更にカンビュセス2世の妻となっていたオタネス(ウターナ)の娘パイデュメも妻とし、王家の血統の独占を図った。彼の王国は20から29の邦(ダフユ)に分けられ、それぞれにサトラップが任命されていたが、その動きを監視するため、「王の目」、「王の耳」と呼ばれる王直属の官僚たちにその動きを監視させた。 中央集権的な体制の構築と、軍隊の迅速な移動のため、「王の道」と呼ばれる道路網が整備され、リュディアのサルディス市からエラムのスサ市まで2400キロメートルに及んだ。王の道には111の駅逓が整備され、通常90日かかる行程を早馬では7日で移動することができたとされる。王の道の全容は明らかになっていないが、石畳で舗装された道路の一部が駅逓の跡と共に発掘されており、馬車を走らせることもできたと見られている。また、中央集権の要として度量衡の統一が行われ、不完全ながら貨幣制度の整備も行われた。銀貨や銅貨は各地のサトラップによっても発行され、ダレイオス1世自身もダリックと呼ばれる金貨を発行した。 また、その理由は現在では不明であるが、新たな首都としてペルセポリスの造営を開始した。この都市の造営はその後クセルクセス1世(クシャヤールシャン1世)、アルタクセルクセス1世(アルタクシャサ1世)の時代も続き、アケメネス朝の時代を通じて整備され続けた。ペルセポリスにはダレイオス1世が残した建築碑文が複数残されている他、ペルセポリスのあちらこちらにダレイオス1世の一際大きく描かれた像が残されており、その強大な権力を今日に伝えている。
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