アルゼンチンの独立と諸島返還交渉の開始
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「フォークランド紛争」の記事における「アルゼンチンの独立と諸島返還交渉の開始」の解説
1810年の五月革命を発端とする独立戦争を経て、1816年にアルゼンチンが独立すると、スペイン領土を継承するものとして、同諸島の返還を求めるようになった。1820年代には領有・課税宣言やアメリカ船の拿捕なども行われた。しかしまもなく1825年から1828年のシスプラティーナ戦争で忙殺されたほか、その後も大英帝国の非公式帝国として経済的な繁栄を享受していたことから、返還要求は続けられていたとはいえ、実質的には棚上げ状態となっていた。 その後、1929年の世界恐慌を経て、「忌まわしき十年間」にはナショナリズムが台頭し、第二次世界大戦後の1946年には左翼民族主義者のフアン・ペロンが大統領に就任したが、その後も変わらず棚上げ状態となっていた。このペロンが下野した後、ペロン派の都市ゲリラと軍部、政党との間で衝突が続き、1960年代には内政の混乱をもたらしていた。またペロン政権時代から極度のインフレに見舞われていたこともあって、政治闘争に明け暮れる政権に対し国民の不満が鬱積していた。 この国民の不満をそらすため、急遽フォークランド諸島というナショナリスティックな問題が取り上げられるようになり、1960年代には「マルビナス記念日」の制定をはじめとする様々なプロパガンダ工作が推進された。また1965年12月16日には、国際連合総会決議第2065号により「いかなる形態の植民地主義も終結させるため」アルゼンチン・イギリス双方が平和的な問題解決のため交渉を開始するよう勧告したことから、両政府の交渉が開始されることになった。 しかしイギリスにとって、フォークランド問題はごく一部の政治家や官僚のみが知るのみの問題であった。1960年代に入り英国病に苦しむ状況下では、同諸島の維持そのものが負担となっており、アルゼンチン側への売却という案も検討されていた。保守党のマクミラン政権下でヒース王事尚書は1961年にフォークランド諸島と南米各国との空路と海路を開く通信交通協定の締結に成功したが、アルゼンチン側が主権問題を取り上げたためそれ以上の進展はなかった。 1967年3月にイギリス外務省が作成したメモランダムでは、「島民が望めば」という条件で、フォークランド諸島における主権の委譲を認めることとなっており、アルゼンチン側は大きな前進と受け止めた。しかし実際には、アルゼンチンへの帰属を望む島民は皆無であり、またイギリス側でも、議会やマスコミは諸島返還には反対の方針を貫いていた。
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