アルゼンチンの独立と諸島返還交渉の開始とは? わかりやすく解説

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アルゼンチンの独立と諸島返還交渉の開始

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 04:51 UTC 版)

フォークランド紛争」の記事における「アルゼンチンの独立と諸島返還交渉の開始」の解説

1810年五月革命発端とする独立戦争経て1816年アルゼンチン独立すると、スペイン領土を継承するものとして、同諸島返還求めようになった1820年代には領有課税宣言アメリカ船の拿捕なども行われた。しかしまもなく1825年から1828年シスプラティーナ戦争忙殺されたほか、その後大英帝国非公式帝国として経済的な繁栄享受していたことから、返還要求続けられていたとはいえ実質的に棚上げ態となっていた。 その後1929年世界恐慌経て「忌まわしき十年間」にはナショナリズム台頭し第二次世界大戦後1946年には左翼民族主義者のフアン・ペロン大統領就任したが、その後変わらず棚上げ態となっていた。このペロン下野した後、ペロン派の都市ゲリラ軍部政党との間で衝突続き1960年代には内政の混乱もたらしていた。またペロン政権時代から極度インフレ見舞われていたこともあって、政治闘争明け暮れる政権対し国民の不満が鬱積していた。 この国民の不満をそらすため急遽フォークランド諸島というナショナリスティック問題取り上げられるようになり、1960年代には「マルビナス記念日」の制定はじめとする様々なプロパガンダ工作推進された。また1965年12月16日には、国際連合総会決議第2065号により「いかなる形態植民地主義終結させるため」アルゼンチン・イギリス双方平和的な問題解決のため交渉開始するよう勧告したことから、両政府交渉開始されることになった。 しかしイギリスにとってフォークランド問題ごく一部政治家官僚のみが知るのみの問題であった1960年代入り英国病苦し状況下では、同諸島維持そのもの負担となっており、アルゼンチン側への売却という案も検討されていた。保守党マクミラン政権下でヒース王事尚書1961年フォークランド諸島南米各国との空路海路を開く通信交通協定の締結成功したが、アルゼンチン側が主権問題取り上げたためそれ以上進展はなかった。 1967年3月イギリス外務省作成したメモランダムでは、「島民望めば」という条件で、フォークランド諸島における主権委譲認めることとなっており、アルゼンチン側は大きな前進受け止めた。しかし実際には、アルゼンチンへの帰属を望む島民皆無であり、またイギリス側でも、議会マスコミ諸島返還には反対方針貫いていた。

※この「アルゼンチンの独立と諸島返還交渉の開始」の解説は、「フォークランド紛争」の解説の一部です。
「アルゼンチンの独立と諸島返還交渉の開始」を含む「フォークランド紛争」の記事については、「フォークランド紛争」の概要を参照ください。

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