「忌まわしき十年間」(década infame)(1930年-1943年)
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「アルゼンチンの歴史」の記事における「「忌まわしき十年間」(década infame)(1930年-1943年)」の解説
急進党のイリゴージェン政権に反発する軍部の保守派は寡頭支配層と結びつき、政権転覆の機会を窺っていたが、大恐慌にイリゴージェンが対処できないことが判明すると、1930年9月6日にクーデターが行われ、イリゴージェンは失脚した。 新たに政権についたホセ・フェリクス・ウリブル将軍はアルゼンチンにファシズム体制を築こうとしたが、1931年の選挙で敗北したことによりこの試みは頓挫し、代わって1932年に不正選挙で勝利したアグスティン・ペドロ・フスト将軍が大統領に就任した。 フストの政策は伝統的な大地主の利害を反映して対英追従を旨とし、1933年にイギリスとの間で締結されたロカ=ランシマン協定により、どうにかアルゼンチン牛肉の販路をイギリス市場(スターリング・ブロック)に確保したが、見返りにアルゼンチン資本の冷凍肉の対英輸出量が15%に定められるなどの多大な譲歩を強いられ、さらにはイギリスの権益を擁護するためのアルゼンチン中央銀行の設立(1935年)、イギリス系鉄道を競争から保護するためのブエノスアイレス交通市局法(1936年)、全国交通調整委員会法(1937年)の制定、さらには石油の独自精製を認められない形での石油産業への外資導入など、数々の譲歩が行われた。 このように選挙不正とイギリスへの譲歩により特徴付けられた1930年代は「忌まわしき十年間」(década infame) と呼ばれた。しかし、一方で従属するアルゼンチンを克服するための国民主義が主要な思想潮流となり、リサンドロ・デ・ラ・トーレやイラススタ兄弟、レオポルド・ルゴネス、オメロ・マンシらにより、国民の民族的覚醒と経済的独立への期待、反帝国主義思想が生まれた。しかし、これらの思想潮流は不正選挙により国政には反映されず、最終的にペロン主義に行き着くことになる。 また、1930年代を通して内陸部から国内移民がブエノスアイレスに移住し、ブエノスアイレスと困窮する地方の格差が拡大した。 1938年にはロベルト・オルティスが大統領に就任する。1939年に第二次世界大戦が始まると、アルゼンチンではロベルト・オルティスを初めとする親連合国派の積極参戦派と、ラモン・カスティージョを初めとする親枢軸国派の絶対中立派が対立していたが、1940年にカスティージョが政権を掌握すると、枢軸国に中立的な政策が行われた。しかし、アメリカ合衆国によるブラジル、チリへの兵器供与は、軍備の近代化の遅れを焦る青年将校に大きな影響を与え、1943年には親枢軸派の青年将校により統一将校団 (GOU) が結成された。
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