「忌まわしき十年間」とは? わかりやすく解説

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「忌まわしき十年間」(década infame)(1930年-1943年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/13 19:22 UTC 版)

アルゼンチンの歴史」の記事における「「忌まわしき十年間」(década infame)(1930年-1943年)」の解説

急進党のイリゴージェン政権反発する軍部保守派寡頭支配層と結びつき政権転覆機会窺っていたが、大恐慌にイリゴージェンが対処できないこと判明すると、1930年9月6日クーデターが行われ、イリゴージェンは失脚した新たに政権についたホセ・フェリクス・ウリブル将軍アルゼンチンファシズム体制築こうとしたが、1931年選挙敗北したことによりこの試み頓挫し、代わって1932年不正選挙勝利したアグスティン・ペドロ・フスト将軍大統領就任したフスト政策伝統的な大地主利害反映して対英追従を旨とし、1933年イギリスとの間で締結されロカ=ランシマン協定により、どうにかアルゼンチン牛肉販路イギリス市場スターリング・ブロック)に確保したが、見返りアルゼンチン資本冷凍肉の対英輸出量が15%に定められるなどの多大な譲歩強いられさらにはイギリス権益擁護するためのアルゼンチン中央銀行設立1935年)、イギリス系鉄道競争から保護するためのブエノスアイレス交通市局法(1936年)、全国交通調整委員会法(1937年)の制定さらには石油の独自精製認められない形での石油産業への外資導入など、数々譲歩が行われた。 このように選挙不正とイギリスへ譲歩により特徴付けられ1930年代は「忌まわしき十年間」(década infame) と呼ばれた。しかし、一方で従属するアルゼンチン克服するための国民主義主要な思想潮流となり、リサンドロ・デ・ラ・トーレやイラススタ兄弟レオポルド・ルゴネスオメロ・マンシらにより、国民民族的覚醒経済的独立へ期待反帝国主義思想生まれた。しかし、これらの思想潮流不正選挙により国政には反映されず、最終的にペロン主義行き着くことになる。 また、1930年代通して内陸部から国内移民ブエノスアイレス移住しブエノスアイレス困窮する地方格差拡大した1938年にはロベルト・オルティスが大統領就任する1939年第二次世界大戦が始まると、アルゼンチンではロベルト・オルティスを初めとする親連合国派の積極参戦派と、ラモン・カスティージョを初めとする親枢軸国派の絶対中立派対立していたが、1940年カスティージョ政権掌握すると、枢軸国中立的な政策が行われた。しかし、アメリカ合衆国によるブラジルチリへの兵器供与は、軍備近代化の遅れを焦る青年将校大きな影響与え1943年には親枢軸派の青年将校により統一将校団 (GOU) が結成された。

※この「「忌まわしき十年間」(década infame)(1930年-1943年)」の解説は、「アルゼンチンの歴史」の解説の一部です。
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