「忍術映画」の始まり
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明治から大正初期の映画の現場は照明がなく、フィルムチェンジの際は「チェンジ、待った!」と声をかけ、フィルム交換が済むまで役者はみんなそのまま動作を止めて待っていた。この「待った」の間に小便に立った役者がおり、これに気付かず撮影を再開したところ、完成フィルムで突然役者が消えうせることとなり、これが牧野省三監督得意の忍術トリック映画の始まりとなったというのが牧野省三の語った話である。 当時の「忍術映画」の上映風景といえば、「松之助の児雷也が印を結んで大蝦蟇に化け、捕り方を呑みこみ、元の姿に戻って大蛇丸と立ち回り」というような場面では、ズームレンズなど無い時代であり、キャメラが寄って来るまで松之助は姿勢を止めてじっと待っていて、観客も同じくじっと待っている、というような非常に長閑なものだった。しかしこの忍術映画は、大正期の少年たちの魂をとらえて離さなかったのである。 当時、この松之助の忍術映画が社会問題となったことがあった。「目玉の松っちゃん」の映画に影響されて、上野の駅で走ってくる汽車の前に子供が立って印を結ぶという事件が起こったのである。汽車が止まると、子供は自分の忍術で止まったのだと思い込んだという。「忍術映画は世を惑わすものである」などと言われたマキノ省三監督は、仕方なく訓戒的な教育映画を連作するようになった。 南部僑一郎は松之助について次のように語っている。 「目玉の松っちゃん、連続活劇の『ジゴマ』、子供はみんなこれの真似をしました。忍術ものが流行る、十字きって二階からパッと飛んだら、足の骨を折った、そんな話はザラにあった、大正元年です」。
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