「(思慮ある)忍耐強さ」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/04 00:17 UTC 版)
「ラケス (対話篇)」の記事における「「(思慮ある)忍耐強さ」」の解説
それを受けてラケスは、「勇気」とは、魂の一種の「忍耐強さ」であると述べる。ソクラテスは、「全ての忍耐心」が「勇気」であるとはラケスも考えていないだろうと指摘する。「勇気」を美しいものだとラケスは考えているだろうし、「思慮ある忍耐心」は美しいが、「無思慮な忍耐心」は美しくないので、ラケスは「思慮ある忍耐心」こそが「勇気」であると主張しているのだろうと指摘する。ラケスも同意する。 20. ソクラテスは、それでは「何について」思慮がある忍耐心が、「勇気」であるかを考察する。利益を得ようと辛抱強く思慮深く出資している者、飲み食いする物を求める肺炎の患者に対して拒否し続ける医者などは、「勇気」があるとは言わない。それでは、戦場において、有利な情勢を知りつつ辛抱強く戦おうとしている者と、反対陣営で不利な情勢にも関わらず辛抱している者の場合はどうか、ソクラテスが問う。ラケスは、後者の方が「勇気」を持っているように思うと述べる。ソクラテスは、しかし、後者の方はより「無思慮」であると指摘する。ラケスも同意する。その他、いくつかの例を出しながら、ソクラテスは、自分達が「無思慮な危険を冒す我慢強さ」を「勇気」と呼んでしまっていることを指摘、ここまでの議論が失敗したことを述べる。ラケスも同意する。
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