継承争い
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父・アバカ没後のクリルタイで、後継を巡って叔父であるテグデル(フレグの7男)、モンケ・テムル(フレグの11男。フレグとアバカの正妃オルジェイ・ハトゥンの息子)らを推すグループと対立した。モンケ・テムルがアバカの死から25日後の1282年4月26日にモースルで急死すると、テグデルの母クトイ・ハトゥンとモンケ・テムルの母オルジェイ・ハトゥンの両名は、アバカ一統が推すアルグンを後援した。しかし、他のフレグ家の王族たちや部将たちの多くがテグデルを推し、また、「ヤサ」の規定に従い君主位の継承は宗族の年長者によるべきであるという意見もはなはだ根強かった。このため、モンケ・テムルの死の10日後にあたる1282年5月6日にクリルタイの全会一致をもってテグデルが即位することとなった。 しかし、テグデル推戴後もアルグンは弟のゲイハトゥや従兄弟のバイドゥらとともにたびたび叛乱を起こし、一度ならずテグデル側に捕縛されたが、ついには逆にテグデルを捕らえた。この争乱の最中にアルグンを擁護していた叔父のコンクルタイ(フレグの9男)をテグデルが処刑し、これを恨んだ生母アジャジュ・エゲチらコンクルタイ家の人々が復讐としてテグデルを処刑するよう迫り、結局テグデルは1284年8月10日に処刑された。 アルグンは一時離反した叔父のフラチュ(フレグの12男)と和解すると、ゲイハトゥらの推戴を受けて、マラーガ近傍のハシュトルード川とクルバーン・シラとの間にあったカムシウンという夏営地においてクリルタイを開催し、1284年8月11日に即位した。 1286年2月24日(諸説あり)、モンゴル皇帝(カアン)クビライから勅書を奉じた使者が来訪し、アルグンにハンの称号を与え、アルグンの君主位継承が追認された。
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継承争い
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「エルンスト・ツア・リッペ=ビースターフェルト」の記事における「継承争い」の解説
リッペ=ビースターフェルト伯ユリウスとその妻のアーデルハイト・クロティルデ・ツー・カステル=カステルの間の長男として生まれ、1884年にリッペ=ビースターフェルト伯家の当主となった。オランダ女王ユリアナの夫君ベルンハルト王子の祖父にあたる。 1895年にリッペ侯ヴォルデマールが子供のないまま死ぬと、リッペ侯国を治めるリッペ=デトモルト家の断絶は確定的となった。後を継いだ弟のアレクサンダーは精神を病み、既に1871年に禁治産と統治不能の宣告を受けていた。 リッペ侯位の継承権は、ドイツ帝国内の独立領邦の地位を保っていたシャウムブルク=リッペ侯家(Schaumburg-Lippe)、陪臣となっていたリッペ=ビースターフェルト伯家およびリッペ=ヴァイセンフェルト伯家の3つの分家の間で争われた。リッペ家(Haus Lippe)の家内法に則れば、首位の継承者はリッペ=ビースターフェルト家のエルンストだった。ところがヴォルデマールはエルンストを個人的に嫌っており、また領国を現在も統治者の地位を保っている家系に譲るべきだという考えもあって、シャウムブルク=リッペ家と密約を結んだ。そして、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の妹ヴィクトリアを妻とするシャウムブルク=リッペ侯子アドルフを侯位継承者に指名したのである。 このとき、ヴォルデマールは家内法に明記されている対等結婚の規定を持ち出し、これに照らし合わせると、リッペ=ビースターフェルト家は継承権者から除外されると主張した。エルンストの祖父ヴィルヘルム・エルンストの妻のモデステ・フォン・ウンルー(Modeste von Unruh)が下級貴族の出であり、ヴォルデマールはこの結婚を対等結婚とは認められないと判断した。しかしヴォルデマールの意思に基づいた摂政法はリッペ侯国議会に否決されたため、リッペ侯国の摂政も継承者も決まらないままになった。そこでヴォルデマールは遺言状でアドルフを後継者に指名した。皇帝ヴィルヘルム2世が義弟を支持して侯国の継承問題に介入すると、この問題は国際的な注目を浴びるようになった。 1895年、ヴォルデマールの死後に摂政に就任していたアドルフと侯国議会の間で、取り決めがなされた。アドルフはこの継承問題に関する外部の仲裁者の決定に従うこと、そして決定が下るまでアドルフが摂政を務めることが決まった。1897年6月22日、ザクセン王アルベルトを委員長とするリッペ侯国継承問題の仲裁委員会は、リッペ侯国の継承者にエルンストを指名した。 この継承問題は、皇帝ヴィルヘルム2世と時のドイツ帝国宰相であったホーエンローエ=シリングスフュルスト侯クロートヴィヒとの関係を一時的にせよ悪化させた。ヴィルヘルム2世が義弟のアドルフを推したのに対し、ホーエンローエはエルンストを推したが、ホーエンローエがエルンストを支持したのは彼が本来の相続人だったためばかりでなく、エルンストの母親と従姉弟同士という血縁関係だったこともその理由だった。
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継承争い
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「ヴォルデマール (リッペ侯)」の記事における「継承争い」の解説
ヴォルデマールの死後、弟のアレクサンダーがリッペ侯国を継承したが、アレクサンダーは精神に異常をきたしており、1870年に禁治産者と認定された。また1893年には摂政が必要となった。ヴォルデマールはこの状況を予想して、遺言状でヴィルヘルム2世の義弟アドルフ・ツー・シャウムブルク=リッペを摂政に指名した。 しかし、ヴォルデマールの決断はリッペ家の2つの分家で10年間続いた紛争を引き起こした。すなわち、摂政に指名されたシャウムブルク=リッペ家と摂政の権利を主張したリッペ=ビースターフェルト家(英語版)(家長はエルンスト・ツア・リッペ=ビースターフェルト)の2家であった。紛争は数々の妥協を経て1905年に決着した。
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継承争い
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「アレクサンダー (リッペ侯)」の記事における「継承争い」の解説
ヴォルデマールが1890年に秘密裏に発し、死後に公開された勅令に基づき、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の義弟アドルフ・ツー・シャウムブルク=リッペはアレクサンダーの即位とともに摂政職を請求した。エルンスト・ツア・リッペ=ビースターフェルトも同時に摂政職の請求を申し立てたが、4月24日にはリッペ国会が紛争終結までアドルフを摂政として認めると決定した。 1897年、ザクセン王アルベルトを団長とする調査団がエルンストの主張を認めたため、アドルフは摂政を辞任、以降はエルンストが1904年に死去するまで摂政を務めた。その後、エルンストの息子レオポルトが摂政に就任した。
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