本因坊継承争い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/11 06:20 UTC 版)
この頃、秀栄の後継候補は雁金と5歳年長の田村保寿で、実力は田村が上であったが、秀栄は田村の性格を嫌っており、跡目を決めることはなかった。また田村が七段昇段記念の碁(1905年)で、相手の雁金五段に持碁にするように申し入れた件を棋譜から見破られたことも、田村が信用を失う一因とされる。 1907年2月に秀栄が、雁金を本因坊にと遺言を残して没すると、本因坊の名跡を巡り六段雁金と七段田村をそれぞれ推す派が対立し、暫定で秀栄の弟で秀和の三男である秀元が20世本因坊となる。雁金は秀栄未亡人派による敲玉会の首班となる(会員に伊藤小太郎、関源吉、伊沢巌吉、都谷森逸郎、会友として内垣末吉、中根鳳次郎)が、翌年に秀元から田村に本因坊位が譲られ、田村は21世本因坊秀哉となり、敲玉会は雁金の脱退により解散する。この年に八段昇段もした秀哉の襲名披露会には雁金も出席し、広瀬平治郎五段との席上碁を務めるが、その後は対局から遠ざかり、アマチュア指導に専念した。
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