本因坊戦以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/08/20 08:03 UTC 版)
1939年(昭和14年)に開始された本因坊戦ではコミ出し制が採用されたが、師の広瀬とともにコミ碁反対論者だった加藤は、1938年に主催の毎日新聞紙面に「コミ碁の不合理」と題した論説を掲載し、この掲載を条件として本因坊戦に参加した。第1期本因坊戦では、4名の七段陣の一人として、予選トーナメント勝ち抜き者を加えた最終トーナメントから出場。関山利一に次ぐ第2位の得点を挙げて、関山と決定戦六番勝負を戦うが、結果は3勝3敗の打ち分けとなり、順位1位の関山が第1期本因坊位となった。 また1939年の大手合で、鈴木為次郎病気による不戦勝となって八段昇段点を得るが、これを潔しとせずに鈴木の回復を待って再戦。これも鈴木の病気で打ち掛け、不戦勝となるはずがまたも再々戦を望み、それに敗れて昇段を逃した。 1943年(昭和18年)の第2期本因坊戦にも最終リーグ戦に出場。同年、多年の功績をもって鈴木、瀬越とともに八段に推挙された。1944年に準名人戦出場。戦後は対局から遠ざかり、日本棋院顧問及び審査役となり、主に後進指導に当たった。1952年(昭和27年)、全本因坊八段戦に出場。同年、大宮赤十字病院で死去。7月21日に高輪正覚寺にて日本棋院による「棋院葬」が行われた。 門下に若狭勝治、五十川正雄、金井新一。田中三七一七段は弟。
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