本因坊就位までとは? わかりやすく解説

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本因坊就位まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/07/29 08:26 UTC 版)

本因坊秀栄」の記事における「本因坊就位まで」の解説

江戸本所相生町本因坊邸に生まれる。1862年文久2年)、11歳十二世林柏栄門入養子となり、林秀栄改名12歳初段1864年元治元年死去し、その死を伏せたままで翌1865年家督願い出し1867年慶応3年)に16歳三段家督許されて、林家十三世となる。1868年明治元年17歳時に本因坊安井家同意四段昇段求めたが、井上松本因碩がこれに反対し、争碁の相手として門人小林鉄次郎指名した。秀栄は林家当主として因碩との対戦求めた応じなかったため、三家にて秀栄の四段認め、またかねてから同種の問題起こしていた因碩には昇段同意求めないこととなった1869年明治2年)に本因坊跡目秀悦、中川亀三郎らと研究会六人会」を発足1870年伊藤松和七段と十番碁を打ち(秀栄先)、7勝2敗1ジゴ20歳で五段。翌1872年から24歳まで、本因坊家とは疎遠になっていた村瀬秀甫とともに美濃尾張伊勢京阪遊歴1876年中川亀三郎と十番碁、小林鉄次郎二十番碁、藤田方策と十番碁を打ち小林には定先打ち込むこの頃、秀栄は養母折り合い悪く別居強いられていた。1877年養母亡くなると、親戚の者が家名を継ぐこととなり、秀栄は碁家としての林家存続を担う。 1879年当時棋界第一人者だった村瀬秀甫七段と中川亀三郎六段中心となり、方円社囲碁研究会として発会される。これを記念した方円社発会記念対局に、秀栄も安井算英五段などの家元側の棋士とともに参加した。しかしほどなくして家元権威認めない方円社やり方に、秀栄らは強く反発し方円社脱会方円社村瀬秀甫対抗するようになった9月下旬、秀栄は、十六世本因坊秀元、井上因碩らと謀り方円社社員となっていた門下段位剥奪し対立決定的になった。 1884年林家廃絶し本因坊秀元隠居させて本因坊家に復帰し十七世本因坊秀栄を名乗る井上馨金玉均らの勧め後藤象二郎方円社仲介依頼12月21日村瀬秀甫と秀栄先での十番碁を開始1886年7月30日方円社和解して村瀬秀甫八段正式に認め同時に本因坊を秀甫に譲って、自らは土屋秀栄を名乗る。秀甫は、十八世本因坊となり、即日に五段だった秀栄に七段を贈る。8月6日、秀甫との十番碁は5勝5敗の打ち分けで終わる。しかし直後10月14日に秀甫が没し、秀栄は中川亀三郎本因坊継承のための争碁を申し込むが断られ、再び本因坊家を継いで十九世本因坊となる。これ以後本因坊門と方円社分離するこの頃元久留米藩家臣安井門下三段生田昌集(旧名金吾、-1891年)による支援を受け、後にその娘満基子を妻としている。

※この「本因坊就位まで」の解説は、「本因坊秀栄」の解説の一部です。
「本因坊就位まで」を含む「本因坊秀栄」の記事については、「本因坊秀栄」の概要を参照ください。

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