坊社対立と発展
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/07/28 13:43 UTC 版)
方円社の勢力 方円社の所属棋士には、方円社四天王と称された小林鉄次郎、水谷縫次、酒井安次郎、高橋杵三郎らがいた。ことに水谷は1880年(明治13年)に秀甫の招きで上京して四段(6級)に認められた後、ただ一人秀甫に先相先の手合に進むが、1884年(明治17年)に夭逝する。方円社はまた塾生制度により年少棋士を育成し、後に石井千治(1883入塾、後の二代目中川亀三郎)、田村保寿(本因坊秀哉、1885)、林文子(喜多文子)、杉岡栄次郎、田村嘉平(1891)、広瀬平治郎(1891)、雁金準一(1891)、岩佐銈(1895)、高部道平(1899)などを輩出する。塾生時代の石井、田村、杉岡は方円社三小僧と呼ばれた。1889年(明治22年)には「青年研究会」を発会、「青年囲碁研究会新誌」も創刊される。1907年(明治40年)には鈴木為次郎が飛び付き三段、1909年(明治42年)には瀬越憲作が飛び付き三段で参加する。 また1893年には、級位制から元の段位制に復帰した。中川亀三郎は1899年に引退し、小林鉄次郎に代わって副社長となっていた元安井家門人の巌崎健造が3代目方円社社長、石井千治が副社長となる。 本因坊派の動き それに対し本因坊秀栄は、1892年(明治25年)「囲碁奨励会」、1895年(明治28年)「四象会」を発足するなど研鑽に励み、実力抜きん出るに至って1898年(明治31年)八段に進む。安井算英、隠居の本因坊秀元らに加え、方円社を退社した田村保寿が入門、また石井千治、広瀬平治郎らも参加、雁金準一も1905年(明治39年)に方円社を退社して門下となるなど方円社を凌ぐ勢いとなり、野沢竹朝などの有力な若手棋士も育ち、1906年(明治39年)に名人に進む。1895年(明治28年)、1896年には、石井と、田村保寿、秀栄の十番碁、1900年(明治33年)雁金と秀栄の十番碁も行われた。1907年に本因坊秀栄が死去すると、田村保寿と雁金準一の本因坊継承争いが起こり、田村が本因坊秀哉となり、雁金は後に方円社理事として復帰する。 碁界の趨勢 方円社でも、1900年(明治33年)頃には初段以上の名簿は全国で500人に達するなど、普及による興隆を果たした。1907年(明治40年)中川家を継いで中川千治となっていた石井千治が方円社を退社、1909年には七段昇段して2代目中川亀三郎を襲名、岩佐銈、野沢竹朝らとともに囲碁同志会を結成するという分裂もあったが、中川は1912年(大正元年)に復帰して、巌崎健造を継いで方円社4代目社長に就任、囲碁同志会は解散する。 1898年(明治31年)に神戸新聞で最初の新聞碁が開始。1899年(明治32年)には読売新聞がスポンサーとなり、初の囲碁電信手合が東京の巌埼健造と大阪の泉秀節により対局される。また時事新報は1901年(明治34年)に「囲碁新手合」を開始、続いて明治末までに朝日、毎日、読売新聞が囲碁の棋譜を掲載するようになる。萬朝報の黒岩涙香は新聞碁を通じて坊社を結びつけようと考え、1905年から「碁戦」という囲碁欄を設けて坊門と方円社の手合を交互に掲載、1910年からは坊門と方円社の対抗戦「連合選手戦」が開始される。1916年(大正5年)大阪朝日新聞にて坊社対抗戦(選手各8名、方円社の喜多文子は坊門側で出場)。1917年(大正6年)時事新報で坊社合同対局、広瀬平治郎と野沢竹朝の対局が行われる。 1912年に巌埼健造が引退し、2代目中川亀三郎が4代目方円社社長となる。
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