坊津の興り
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 22:55 UTC 版)
飛鳥時代の敏達天皇12年(583年)に百済の日羅がのちに一乗院となる鳥越山竜巌寺を坊津に設立したと伝えられている。長承3年(886年)11月3日に紀州の根来寺の別院として一乗院の称号を与えられた。その後一乗院は江戸時代になると薩摩藩藩主の島津氏の尊崇を受け、薩摩藩でも屈指の寺院となったが、明治2年(1870年)の廃仏毀釈により廃絶した。 舒明天皇2年(630年)頃に始まった遣唐使の派遣は、難波から朝鮮半島を経由する北路ルートと、博多から一気に東シナ海を横断する南路、坊津から琉球を経由する南島路を使用していた。しかし朝鮮を経由する北路ルートは新羅の興隆に伴って唐と新羅の関係が悪化したことにより、危険なルートとなったことで、坊津を経由する南島路が主流のルートとなったとされ、坊津は遣唐船の最盛期に日本の玄関口となり、「入唐道」とも呼ばれたという。但し、杉山宏の検討によると、存在が証明できないことが判明しており、気象条件等の問題により南路から外れた場合にやむを得ずとった航路と考えられ、南路を取って漂流した結果に過ぎず採用の事実はないとする説もある。 天平5年(733年)に奈良の興福寺の僧侶普照と栄叡は、伝戒師を招聘するため坊津から唐に渡った。20年後の天平勝宝5年(753年)に彼らが招聘した鑑真が坊津の秋妻屋浦(現在の坊津町秋目)に上陸した。以降唐やその後の宋に向かう場合、坊津を出帆した者が多かったという。 古代末期の坊津は関白近衛家の荘園となり、坊津に出入りする船に対して「唐物税」を徴収するようになった。
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