広瀬平治郎とは? わかりやすく解説

広瀬平治郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/10/17 09:24 UTC 版)

広瀬平治郎

広瀬 平治郎(ひろせ へいじろう、1865年10月31日慶応元年9月12日[1] - 1940年昭和15年〉5月16日)は、日本囲碁棋士方円社5代目社長、八段。

生涯

美作国苫田郡東苫田村(現・岡山県津山市)の農家に生まれる。幼時から学問に秀でており、12、3歳頃に父、兄の影響で碁を覚えてたちまち周りの者を上回る。兄弟が多く家が貧しかったため、17歳で大阪に出て地方新聞編集の職に就き、20歳で東京農商務省に勤務し、女流棋士伊藤繁に付いて碁を学ぶ。1891年(明治24年)、26歳で囲碁専業に身を投じて方円社に入り、翌92年に初段を許された。1893年二段、1895年三段、1898年四段。方円社では『囲碁新報』『初学独習新報』など雑誌執筆、発行に務めて文才も謳われ、巌崎健造社長の元では副社長格として腕をふるった。1901年に石井千治と十番碁(先)で8勝2敗。1902年、1909年に田村保寿と2次の十番碁。1907年に頭山満主催で伊沢厳吉と十番碁。この頃本因坊秀栄の四象会にも参加。1902年五段、1912年六段。

1912年に二代目中川亀三郎が方円社長就任すると経営を離れる。1918年(大正7年)の野沢竹朝との萬朝報対局は、二日徹夜、三日がかりの対局となり、広瀬が勝ったが憔悴のため勝継ぎの権利を放棄した。1918年には中華民国国務院総理段祺瑞の招きで訪中。1919年にも本因坊秀哉瀬越憲作高部道平らと訪中。

1920年に中川が方円社長を辞任すると5代目社長に就任。翌1921年七段。1922年の日本囲碁協会趣意書の発起など碁界合同の気運の高まる中、方円社の丸ビル移転を計画し、後援者からの募金を募るがはかばかしくなく、同年末に病に倒れる。ついでこの機に、移転反対派だった鈴木為次郎、瀬越憲作が離脱して裨聖会を設立、翌1923年には岩佐銈加藤信らによる坊門との合同による中央棋院が設立される。広瀬は病のまま1923年末に社長を辞任、棋界からも離れて名古屋に隠棲する。

1933年に日本棋院より名誉棋士の称号を受ける。1940年1月に本因坊秀哉が没すると、上京して棋院運営に協力するが、5月に脳溢血に倒れ、名古屋自宅にて死去。1942年追贈八段。

クリスチャンで、仲子夫人も女流棋士初段。門下に加藤信、岩本薫。長女・登美子は万代順四郎の妻[1]

著作

  • 『原理応用囲碁定石講義 : 実戦鬼手録』、斯文館 (大正13年)

脚注

  1. ^ a b 『現代囲碁大系 第5巻』講談社、1981年、p.273。

参考文献

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