棋歴とは? わかりやすく解説

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き‐れき【棋歴】

読み方:きれき

囲碁将棋についての経験経歴


棋歴

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/13 00:09 UTC 版)

巌崎健造」の記事における「棋歴」の解説

明治16年1983年)、水谷縫次に先で対戦するが、縫次の有名な130手目妙手にあって敗れる。同年高橋杵三郎と十番碁。 明治29年1896年)、55歳の時、秀栄門下となっていた22歳田村保寿四段(先)と対局三日三晩をかけての打ち切り行い166手まで白番中押し勝ちとし、保寿は盤側伏してしまったという。 明治32年1899年)、読売新聞企画で、大阪方円分社長の泉秀節電信手合行いジゴ)、人気博した

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増田敏二」の記事における「棋歴」の解説

東京生まれではあるが、後に大阪移り関西岡崎弟子となる。 終戦後順位戦始まり第4期1949年度順位戦では東西C級乙組三段以下が合計4名参加した当時二段だった増田もその一人である(ほかには、東の清野静男三段浅沼一二段、西の神田鎮雄三段)。増田四段飛び昇段して、翌期第5期)順位表に載った順位戦での前記を含む8年間は、勝ち越し五分五分成績挙げていたが、9年目成績不振となった予備クラスで指すことを良しとせず、引退した。まだ42歳であった1980年脳軟化症のため死去享年65弟子に、タイトル獲得4期桐山清澄がいる。

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郷田真隆」の記事における「棋歴」の解説

3歳の頃に、将棋好きな父から将棋を教わる。 小学校6年生だった1982年12月奨励会6級入会するも、当初成績不振で、一時は7級に降級した。しかしその後順調に昇級重ね入会から2年半で初段昇段1985年12月二段昇段するが、翌年高校入学すると「あまり将棋勉強をしなかった」(本人談)ということ一時成績低迷する本人によればこの時期初恋経験するなど、プライベートでいろいろ出来事があったという。三段リーグ入ったのは1988年以来次点3位)、5位、5位と好成績3期続け、ついに4期目に14勝4敗で2位成績収めて19歳プロデビュー四段昇段)を果たす(1990年4月1日)。同学年羽生善治が、すでに初の竜王位に就いていた頃のことであった

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大石直嗣」の記事における「棋歴」の解説

小学1年から父に将棋習い始める。小学5年生時代最後(新6年生として)、2001年3月下旬行われた小学生将棋名人戦西日本大会大阪府代表として出場同年9月6級奨励会入会2009年4月1日19歳四段昇段プロ入り)。当初アマチュア2連敗、第51期2010年度王位戦で、予選井上慶太桐山清澄山崎隆之予選決勝2009年12月11日)らに勝ち、プロ1年目王位リーグ参加する活躍リーグ松尾歩勝利した1勝のみで陥落となってしまった。)を見せるも、第69期2010年度順位戦では初戦から6連敗後4連勝辛うじて降級点回避するなど、成績ムラがあった。 第61期(2011年度王将戦一次予選を4連勝突破し四段棋士唯一二次予選進出初戦谷川浩司に勝つも、王将リーグ入りはならず第25期2012年度竜王戦6組優勝し決勝トーナメント初出場初戦永瀬拓矢5組優勝)戦に勝利したが、稲葉陽4組優勝)に敗れた。 第54期2013年度王位戦予選勝ち抜き3年ぶり2回目リーグ入り王位獲得経験者広瀬章人勝利したものの、他の対局全敗し再び陥落となってしまった。なお、前述広瀬戦(2013年4月22日)の勝利四段昇段公式戦100勝目となり同日付けで五段に昇段。 さらに5月15日、第26期(2013年度竜王戦5組準決勝千葉幸生勝利し昇級確定ランキング戦連続2回昇級により、同日付け六段昇段した。わずか3週間で2回の昇段果たした2013年度は他にも、第63回NHK杯テレビ将棋トーナメントでは3回戦羽生善治勝利しベスト4第72期順位戦では初戦から無傷の9連勝遂げ最終局を待たずしてC級1組への昇級決めるなど目覚しい活躍見せ第41回将棋大賞新人賞受賞した。 第75期2016年度順位戦C級1組では9勝1敗で2位成績をあげ、B級2組昇級2017年11月1日竜王戦3組昇決・3位決定戦北浜健介に勝ち2組昇級同日付けで七段に昇段した

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堀口一史座」の記事における「棋歴」の解説

第18回1995年度後期奨励会三段リーグで1位(14勝4敗)の成績収めプロ入りした。 プロ3年目1998年度NHK杯戦で決勝進出決勝相手羽生善治四冠当時であった堀口先手横歩取り模様出だし14手まですらすら進んだが、15手目通常▲3四飛と横歩を取る一手のところで堀口の手止まり序盤早々に時間を使う。そして結局、横歩を取らず飛車を2八に引き、相掛かり腰掛銀の戦形になった結果羽生の勝ちで、堀口準優勝に終わる。 第30回1999年度新人王戦準優勝優勝者藤井猛)。 公式戦として1期目第8期2000年度銀河戦で、本戦ブロック)で米長邦雄島朗らを破り15連勝決勝トーナメントでは佐藤康光森内俊之らを下して準優勝優勝羽生善治)。 全日本プロ将棋トーナメント発展させ、準タイトル戦としてスタートした2001年度朝日オープン将棋選手権において、決勝五番勝負杉本昌隆3-1破って初代チャンピオンとなり、選手権者として1期在位した祝勝会でのスピーチでは、「朝日オープンお金がいいので」というあからさまな発言をした。翌年深浦康市迎えた初防衛戦では、頭を五厘刈りにし決意の程を見せるも、1-3敗北する。 第61期(2002年度C級1組順位戦と第62B級2組順位戦2年連続昇級決めB級1組昇級2005年9月2日順位戦B級1組青野照市との対局で、56手目一手に、昼食休憩を挟む5時間24分の記録的な大長考をしたことで話題となった順位戦持ち時間6時間であるため、持ち時間の9割を費やした計算になる。局面は、角換わり先後同形からの激し攻め合い途中であった。結果は、76手までで堀口の勝ち。後日囲碁・将棋ジャーナル」に出演した際、「長考できたのは気力充実していたということだ」と語った2013年7月第72期順位戦B級2組2回戦以降2013年度残り公式戦病気療養のため(病名公表されず)すべて休場した途中休場のために残る8局は不戦敗となり、成績下位による2つ目の降級点付きC級1組降級した。翌2014年6月から公式戦復帰果たし第73期順位戦C級1組1回戦澤田真吾対局した。 第77期(2018年度順位戦4局目で勝利以降連敗続き、第78期(2019年度)は全敗2期連続降級点C級2組降級となった。翌第79期(2020年度)の2回戦梶浦宏孝勝利するまで17連敗喫した。次戦福崎文吾勝利した後、7連敗降級点となり、翌第80期(2021年度)も10全敗17連敗再度記録し降級点2となった

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佐藤紳哉」の記事における「棋歴」の解説

1997年10月20歳プロ入り2004年新人王戦準優勝2005年度は、全棋士中で1位の勝率(0.787)を記録し将棋大賞勝率1位賞と新人賞同時受賞する2006年度第47期王位戦リーグ入り谷川浩司勝利するが、リーグ残留失敗2014年3月22日第3回電王戦プロ側の2番手としてコンピューター将棋ソフトのやねうら王対戦。中終盤激し攻防制したやねうら王95手で敗退した2016年度第57期王位戦10期ぶりにリーグ入り白星至らず、再びリーグ陥落

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真田圭一」の記事における「棋歴」の解説

第10期竜王戦第1局54手 △5四同銀まで(この次の一手が▲4一金)△谷川浩司竜王 持駒:銀歩4 ▲真田圭一六段 持駒:金 奨励会三段リーグで、初参加から12勝6敗の好成績を2回続けた昇段届かず3回目13勝5敗で1位の成績挙げて1992年4月19歳プロ入りをする。 初参加の竜王戦第6期 = 1993年度)で6組優勝し5組昇級。このとき、すでにタイトル経験者であった郷田真隆破っている。さらに、本戦挑戦者決定トーナメント)でも井上慶太大内延介を破る活躍見せ準々決勝佐藤康光六段当時)に敗れる(佐藤は、この期羽生善治から竜王位を奪う)。 第52期1993年度順位戦C級2組において9勝1敗で1位の成績挙げC級1組昇級段位は五段となる。 第7期1994年度竜王戦5組敗者復活から3位となり、2期連続昇級4組昇級竜王戦昇段規定旧規定のため、連続昇級でも六段昇段とはならなかった)。 第10期1997年度竜王戦で、郷田鈴木大介らを破り4組優勝本戦でも破竹の勢いで、阿部隆塚田泰明先崎学破って勝ち上がり屋敷伸之棋聖当時)と挑戦者決定三番勝負を戦う。これを2勝1敗で制して谷川浩司竜王当時)への挑戦を得る。これにより、段位六段となった竜王戦昇段規定旧規定のため、七段への飛び昇段とはならなかった)。「茶髪挑戦者」として話題となった七番勝負0-4敗退したものの、一気1組飛び昇級した。なお、第1局55手目右図局面)に、谷川の角を移動させるために敵陣の1段目に打った▲4一金は、常識破りの手として論議呼んだ。 第44期(2003年度王位戦リーグ入り森内俊之らに勝利するが、リーグ残留はならず

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村山慈明」の記事における「棋歴」の解説

1995年日野市立日第三小学校5年時に小学生将棋名人戦優勝し奨励会に入る。 2001年後期から参加した三段リーグ2年4期抜け2003年秋にプロデビュー。それから間もなく頭角を現す2004年度第23回朝日オープン将棋選手権予選勝ち抜き本戦出場。さらに、同年度に行われた53期2005年度王座戦予選では、松尾歩橋本崇載阿久津主税島朗らを相手に6連勝して本戦出場あと一歩と迫るが、予選決勝二次予選決勝)で先崎学敗れる。 第19期2006年度竜王戦6組準優勝し、5組昇級2007年度、第38新人王戦棋戦初優勝さらには第66期順位戦C級2組在位4期目)で、1敗の後の9連勝で1位となり、C級1組昇級この年度は全棋士中で1位の勝率3610敗、0.783)も挙げ将棋大賞勝率1位賞と新人賞同時受賞第23期2010年度竜王戦4組優勝し初め決勝トーナメント進出初戦敗退)。 2011年度第52期王位戦リーグ入り佐藤康光三浦弘行に勝つなど第4回戦まで無敗単独トップ立ったが、最終第5回戦で羽生善治(1敗)に負けて並ばれる。プレーオフでも羽生敗れ挑戦者決定戦進出逃したものの、陥落しやすいリーグとして知られる王位リーグでの残留果たした。翌第53期は2勝3敗で陥落。翌第54期予選からの再出発となったものの、そこを再び勝ち抜き3年連続リーグ入り果たしたリーグでは最終局で佐々木慎に1勝を挙げたのみで陥落)。 第71期順位戦C級1組在位5期目)で、8回戦(金井恒太戦)以外をすべて勝利し稲葉陽に次ぐ2位B級2組昇級。続く第72期順位戦B級2組でも佐藤天彦次いで2位となり、B級1組昇級規定により七段に昇段した2015年には将棋電王戦FINAL第4局ponanza対局。自ら立候補して参加であったが、相横歩取りの末に分の悪い変化持ち込まれ敗れた2015年度NHK杯テレビ将棋トーナメントでは、1回戦初出場八代弥2回戦菅井竜也下し3回戦前年度優勝森内俊之相手勝利準々決勝豊島将之準決勝広瀬章人と、ともに自身より若くタイトル挑戦経験がある二人倒し決勝初出場千田翔太下し初優勝達成した一方第74期順位戦B級1組は3勝9敗で12位に終わりB級2組降級となった2017年2月11日2016年度第10回朝日杯本戦トーナメント決勝進出八代弥との対局は、終盤にもつれ形勢不明の展開になったが、敗れて準優勝。 第30期(2017年度竜王戦3組優勝し7年ぶりに決勝トーナメント進出佐藤康光2組2位)を破ったが、羽生善治1組2位)に敗れた2018年度第59期王位戦5年ぶりとなるリーグ入り果たし、3勝2敗と健闘するも陥落

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本田奎」の記事における「棋歴」の解説

小学校入学前父親教わり将棋始める。宮田利男が開く将棋道場三軒茶屋将棋倶楽部」に通い2009年小学6年のときに6級奨励会入会順調に昇段重ね17歳三段リーグ入りしたが、そこから四段昇段まで3年半を要し途中同門弟弟子幼い頃から研鑽積んできた1歳下の斎藤明日斗抜かれる屈辱味わった2018年第63回三段リーグ15勝3敗の成績四段昇段同時昇段山本博志)。四段昇段時のインタビューで、斎藤抜かれたことに関してそれまで王を持っていた相手に、研究会で玉を持つのがつらかった」と語っている。 棋王挑戦 初参となった第45期棋王戦にて、予選永瀬拓矢叡王らを破り本戦出場決定本戦では、佐藤天彦九段丸山忠久九段広瀬章人竜王らを破り無敗挑戦者決定二番勝負進出を果たす。1勝で挑戦獲得出来挑戦者決定二番勝負では、敗者復活から勝ち上がってきた佐々木大地五段相手第2局目で勝利し(1勝1敗)、渡辺明棋王への挑戦獲得するとともにタイトル挑戦獲得時の昇段規定によって、五段に昇段した四段昇段後の棋戦初参加でタイトル挑戦史上初。四段昇段1年4か月でのタイトル挑戦獲得は、屋敷伸之1年2か月に次ぐ歴代2位の記録である。また、四段棋士タイトル挑戦獲得は、屋敷郷田真隆次いで史上3人目順位戦C級2組在籍者タイトル挑戦は、屋敷中田宏樹郷田高見泰地次いで史上5人目でもある。渡辺棋王との五番勝負は1勝3敗に終わった同様に初参となった第61期王位戦では、予選深浦康市九段増田康宏六段宮田敦史七段らに勝利し初参加の王位戦挑戦者決定リーグ入り決めたリーグ戦紅組では1勝4敗に終わりリーグ残留果たせなかった。

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福崎文吾」の記事における「棋歴」の解説

順位戦福崎初参加時は「昇降リーグ」)は第38期の初参加から連続1期抜け昇級重ね3期B級1組当時は「昇降リーグ1組」)まで昇級した加藤一二三中原誠二上達也次いで史上4人目スピード昇級)。 第25期十段戦では米長邦雄十段への挑戦決め、これがタイトル初挑戦となった当初米長圧倒的に有利とみられていたが、4-2十段奪取した福崎は3局を穴熊勝利し米長はうち2局を相穴熊戦ったが、及ばなかった。後にタイトル戦での思い出に残る対局として、この十段戦タイトル奪取決めた対局挙げている。対局終了後タイトル奪われ米長意外な行動について、福崎は以下のように述べている。「このとき、ありえないようなことが…。対局後、僕のところに米長先生つかつか歩み寄ってきて、花束くれたんですよ。おめでとう』といってびっくりしましたタイトルを失うと収入ガタ落ちするんですよ。それなのに、奪い取った相手花束をくれる。その感激一生忘れませんね」。 1987年3月終えた第45期順位戦では十段タイトル保持したまま、順位戦B級1組から降級した。このとき高橋道雄王位棋王中村修王将タイトル当時)もB級2組におり、翌期タイトル保持者3人がB級2組在籍する極めて珍しい事態となったが、福崎早くも翌期第46期順位戦B級1組復帰決めた第51期順位戦ではB級1組羽生善治破り羽生にとっては同期B級1組順位戦唯一の黒星となった以後第60期順位戦までB級1組在籍した第26期十段戦では高橋道雄挑戦者迎えたが、0-4失冠高橋矢倉対抗して全局相矢倉戦った。まずは矢倉で1勝してから、穴熊を使う予定だったという。以降高橋には非常に相性悪く十段失冠以降全く勝てていない2019年現在高橋21連敗中である。 第39期王座戦谷川浩司から3-2王座奪取最初に福崎が2勝するも、谷川が2勝を返して迎えた最終局で、福崎千日手指し直しの末に勝利した。このタイトル翌期第40期王座戦羽生善治0-3奪われその後羽生王座タイトル19期に渡り保持し続け事となる。いつしか福崎前王座を19連覇中」「福崎文吾名誉前王座」とのジョークまで生まれ本人ネタとして使っていた。第59期での羽生失冠に伴い福崎が「前王座」と以前ほど呼ばれる事も無くなったが、一部では現在も「名誉前々王座」などと呼ばれるタイトル在位歴があり、段位九段なのにA級経験がないという、やや珍しいケースである。2021年現在タイトル在位歴はあるが、A級経験がないまま引退した棋士はおらず2021年フリークラス転出した福崎このまま引退すると、史上初の例となる。

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行方尚史」の記事における「棋歴」の解説

小学6年生時の1985年春、第10回小学生将棋名人戦3位入賞。この大会で優勝したのが野月浩貴木村一基ベスト8将棋修行のため、小学校卒業と同時12歳単身上京中学生時代には、学校の教師下宿先奨励会員という立場理解してもらえず、バカされたり罵倒されるなど苦い経験を持つ。そのせいか、当時は「中学中退かっこいい」などとうそぶいていたという。中学卒業後は都立高校進学するものの3ヶ月中退1993年19歳四段昇段プロ入り)。このとき、マスコミインタビューで「羽生さんに勝っていい女抱きたい。」と発言し話題となったプロ入りから間もない初参加の第7期竜王ランキング戦6組1993-1994年)で優勝6組とはいえども、準々決勝破った相手は、前年タイトル獲得した郷田真隆であった。さらに、佐藤康光竜王への挑戦を争う本戦トーナメントでも、深浦康市森内俊之南芳一米長邦雄といった強豪なで斬りにする快進撃。ついに羽生善治との挑戦者決定三番勝負まで進む。三番勝負は、0-2敗退ちなみに羽生この期佐藤から竜王奪取し、六冠王となっている。 第8期1994-1995年)の竜王ランキング戦5組でも、決勝郷田破って優勝し昇段規定竜王ランキング戦2回連続優勝」により五段に昇段した。これは同規定の初の適用であり、その後もこの規定昇段したのは、行方のほかに木村一基かいない決勝トーナメントでは1勝にとどまる。 1995年テレビ棋戦早指し新鋭戦優勝1995年度将棋大賞新人賞受賞。 第13期(1999-2000年竜王戦2組において3位決定戦制し、初の1組入り決める。 2004年度B級1組順位戦対中川大七段戦で、持将棋千日手による2度指し直し合計23時間(午前10時開始翌日午前9時15分終局不眠将棋指し続け結果勝利を収めている。同年第55期王将戦リーグ入り2006年度B級1組順位戦2位成績により、2007年4月にA級八段となる。 2008年2月9日同年新設され朝日杯将棋オープン戦優勝し、全棋士参加棋戦での初優勝を果たす。これは、A級順位戦1期在籍のみでの降級決定して間もない頃のことであった2013年1月10日第71期順位戦B級1組11回戦で勝利し10勝0敗で2局残して、A級復帰決める。丸山忠久九段以来12連勝期待されたが、最終局で久保利明九段敗れて11勝1敗に終わった2013年5月29日第54期王位戦挑戦者決定戦佐藤康光九段破り挑戦獲得遂に念願タイトル初挑戦であったが、羽生善治相手に1勝4敗で敗退した。 A級2位として臨んだ73A級順位戦において、A級3位渡辺明、同7位の久保利明、同9位の広瀬章人と同じ6勝3敗で終了2015年3月16日行われた挑戦者決定プレーオフ第3戦で、広瀬渡辺破った久保対戦し150手で久保下して初め羽生善治名人への挑戦獲得した。しかし、1勝4敗で敗退した第64回2014年度NHK杯戦で勝ち進み準決勝橋本崇載対戦局面劣勢橋本秒読み追われる中で二歩反則をした際、そのこと気付き頭を抱えて橋本逆に驚かせた。 2015年9月5日行われた第36回将棋日本シリーズ2回戦渡辺明対戦し、同棋戦史上最長297手を記録したうえ、同棋戦史上初の持将棋となった直後指し直しが行われて行方敗れた)。 2018年1月29日第89期棋聖戦二次予選村山慈明七段に勝ち、史上52人目となる公式戦通算600勝(将棋栄誉賞)を達成した2018年3月3日第76期順位戦A級11回戦で稲葉陽八段敗れ、3勝7敗で連続5期在籍したA級からの降級決定した

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阿部隆」の記事における「棋歴」の解説

1981年12月奨励会入会降段点を一度喫することなく順調に昇級昇段し4年後の1985年6月10日に、当時奨励会規定成績修め17歳9ヶ月若さプロ入り決めたプロ入り初年度には初出場第36回NHK杯テレビ将棋トーナメント予選勝ち抜き本戦出場したり、1989年度第15期棋王戦では本戦ベスト8まで勝ち進み当時棋王戦制度に基づき次期シード権獲得したり、1996年度に全棋士トップの勝数(47勝)で将棋大賞最多勝利賞を受賞したりするなど、勝数が多い強豪であるにもかかわらず順位戦成績との巡り合わせ悪くC級2組からC級1組昇級するまでに5年、そこからB級2組昇級に更に6年B級1組昇級には更に4年を、それぞれ費やした1993年1994年行われた第12回全日本プロ将棋トーナメント決勝勝ち進み中田宏樹5番勝負戦った。1勝2敗からの2連勝優勝し、これが阿部にとって棋士人生初の一般棋戦優勝2000年行われた第20回オールスター勝ち抜き戦でも、当時のA級棋士はじめとする強豪相手に5連勝遂げ優勝2組在位迎えた2002年度第15期竜王戦では、予選ランキング戦)を勝ち抜き本戦でも佐藤康光藤井猛らを撃破し、再び中田宏樹との挑戦者決定戦3番勝負臨み、2勝1敗で勝ち、初のタイトル戦番勝負出場羽生善治竜王)を決める。結果千日手2回・2連敗・3連勝2連敗竜王位奪取には至らなかった。 B級1組在位5年目迎えた2005年度第64期順位戦)では、最終日待たずに8勝4敗・暫定3位の状態で全対局完了最終日抜け番)し、最終日に8勝3敗・暫定2位中川大輔深浦康市敗れたことで、2位繰り上がる形でA級昇級。しかし初めてのA級出場となった翌期力及ばず久保利明丸山忠久勝ったのみの2勝7敗でB級1組からの出直し余儀なくされた。

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下平幸男」の記事における「棋歴」の解説

1948年初参加の順位戦第3期)において予選リーグで3勝無敗成績収めて昇級決め四段から六段飛び昇段1956年度第1回東京新聞社杯高松宮賞争奪将棋選手権戦高松宮賞を獲得1957年度第1回日本一杯争奪戦優勝。 第12期1957年度B級2組順位戦において9勝2敗で2位となり、B級1組昇級するとともに七段に昇段その後いったん降級するも、第16期1961年度B級2組順位戦で9勝3敗の2位となりB級1組復帰。さらに翌年度第17期1962年度B級1組順位戦では五十嵐豊一A級昇級2番争いをし、ともに最終局で勝ち9勝4敗の同星となったが、リーグ順位上の五十嵐A級昇級した。以降下平順位戦昇級することはなく、結果的に五十嵐の1勝によって下平八段昇段21年先になる。 1972年7月26日持ち時間10分の早指し将棋選手権予選・対桜井昇戦で、列車事故のため5分遅刻し遅刻時間の3倍加算で開始前からすで時間切れ不戦敗のはずだった。しかし、理事会事故と5分という遅刻考慮し下平に指すように指示した下平は「規則則り遅刻した私は負けのはずだ」と主張したが、そのまま対局開始された。お互いに角道開けた後、3二銀と指し、角が取られ、わずか5手で投了した。 第29期(1974年度)C級1組順位戦C級2組降級翌期、7勝2敗で最終局を迎え勝てばC級1組復帰するところであった敗れた1984年4月昇段規定に「勝数規定」が新設され下平は七段昇段時からの勝ち星積み上げ八段となる。翌年現役引退1993年腎不全のため死去享年68

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田村康介」の記事における「棋歴」の解説

1987年小学6年生のとき第12回小学生将棋名人戦出場し東京都代表)、決勝北浜健介破って優勝した三段リーグには1992年度下期第12回より参加6期目に12勝6敗で2位成績収めて19歳プロデビュー四段昇段)を果たす(1995年10月1日)。

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北尾まどか」の記事における「棋歴」の解説

幼少時に父から将棋を教わる。本格的に将棋始めたのは高校の時で、そこから1年余りアマチュア二段程度になった1997年10月17歳時に女流育成会入会3年余り経て2000年10月女流2級としてデビューした2003年4月1日女流初段昇段2007年5月LPSA日本女子プロ将棋協会)に移籍2008年6月6日1dayトーナメント第13回)で優勝。その一方で教室事業1dayトーナメント企画・運営担当し2008年5月LPSA理事就任して運営携わった翌年2009年6月1日LPSA退会北尾は「フリー女流棋士としての現役続行希望しており、日本将棋連盟その旨伝えた。これを受けた連盟は「女流棋士対局権利について」と題した公式発表6月10日付で行い、「フリー女流棋士」の対局権利確保についての方針示した2009年9月から翌3月までNHK教育テレビNHK将棋講座先崎学のすぐわかる現代将棋』の聞き手務めた2010年度の第37女流名人位戦A級リーグ在籍2011年4月1日連盟客員棋士であった北尾は、日本将棋連盟女流棋士会に再入会し連盟所属現役女流棋士復帰2013年8月17日 第7期マイナビ女子オープンアマチュア勝利し女流二段昇段

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塚田泰明」の記事における「棋歴」の解説

中学2年時1978年第32回アマ名人戦出場し準優勝同年11月4級奨励会入会。そこからわずか2年4ヶ月後の1981年3月5日四段昇段するという記録的なスピードでのプロ入り果たした順位戦では参加2年目の第41期(1982年度)から好成績連発し当期C級2組順位戦10全勝しC級1組昇級。翌第42期(1983年度C級1組順位戦では8勝2敗で4位。第43期(1984年度C級1組順位戦では10全勝B級2組昇級。第44期(1985年度B級2組順位戦では、トップと同星の8勝2敗で4位。第45期(1986年度B級2組順位戦では、8勝2敗で2位となりB級1組昇級。そして、第46期(1987年度B級1組順位戦では10勝2敗で1位となり、2年連続昇級でA級八段となる。 この間順位戦以外においても目まぐるしい活躍遂げ若手登竜門棋戦でも3回優勝した第2回1983年度早指し新鋭戦棋戦初優勝決勝相手高橋道雄)。同棋戦では4年後の第6回でも優勝決勝相手森下卓)。新人王戦でも第17回1986年度)で脇謙二との三番勝負を2連勝制し優勝王将戦では第35期1985年度一次予選から勝ち抜き棋界屈指の難関とされる王将リーグ入り、4勝2敗で4位残留。翌第36期1986年度)は5回戦谷川浩司負けただけの5勝1敗で中原誠とのプレーオフ進出敗北しタイトル挑戦ならず)。翌第37期(1987年度)は前半で4連敗するなど振るわず2勝4敗で高橋道雄との残留決定戦敗れリーグ陥落1986年度に、公式戦22連勝という前人未到記録樹立塚田連勝止めたのは谷川浩司)。この連勝には、第17回新人王戦前述)の準々決勝から決勝三番勝負までの白星の他、中原誠からの2勝、米長邦雄羽生善治森雞二からの1勝も含まれていた。尚、この連勝記録は、神谷広志1987年2月から8月まで28連勝達成したことによって半年程度塗り替えられ2022年3月現在は藤井聡太29連勝)・神谷広志28連勝)・丸山忠久24連勝)に次ぐ歴代4位の記録となっている。 1987年第35期王座戦タイトル初挑戦中原誠王座とのフルセット戦いの末に3-2奪取1987年10月21日)。「55年組」の中で、高橋道雄中村修に次ぐ3人目タイトルホルダーとなった塚田中原二冠一角崩したことにより、この時点で、7つタイトルを7人の棋士1つずつ持ち合うという、極めて珍しい状態が発生したこの年度は、A級昇級前述)を決めた年度でもある。 1987年10月21日時点タイトルホルダー 名人 十段 棋聖 王位 王座 棋王 王将 中原誠 福崎文吾 桐山清澄 谷川浩司中原誠)↓塚田泰明 高橋道雄 中村修 翌第36期王座防衛戦では中原返り討ち遭い3連敗防衛失敗1期王座タイトル失った前期リーグ成績不振により二次予選から出直しとなった38期(1988年度王将戦では即リーグ復帰も2勝4敗で陥落となった棋聖戦では第53期1988年度後期)から第56期1990年度前期)まで4期連続ベスト4進出。第56期では大山康晴島朗高橋道雄破り屋敷伸之との挑戦者決定戦進出敗北しタイトル挑戦ならず)。 王座戦では失冠から2期後の第38期(1990年)でもベスト4進出準決勝谷川浩司敗北)。 第41回1991年度NHK杯戦で森下卓郷田真隆高橋道雄らを破り準優勝優勝者羽生善治)。 第8回1992年度天王戦羽生善治南芳一らを破り準優勝優勝者高橋道雄)。 第61期(1992年度後期棋聖戦でも2次予選勝ち抜き本戦出場本戦でも阿部隆高橋道雄南芳一破り2度目挑戦者決定戦進出郷田真隆敗北しタイトル挑戦ならず)。 第44期(1994年度王将戦二次予選勝ち抜き6期振り王将リーグ入りリーグ6回戦有吉道夫勝っただけの1勝5敗で陥落)。 1997年第10期竜王戦1組優勝本戦では初戦3回戦当期挑戦者となった真田圭一敗退)。 2000年12月15日第19回全日本プロ将棋トーナメント5回戦岡崎洋に勝ち、八段昇段後に250勝を累積したことにより九段昇段2022年3月現在、勝数規定により九段昇段した棋士延べ32人いるが、塚田その中で最も若い年齢で昇段した2008年12月16日第67期順位戦8回戦で窪田義行に勝ち、史上38人目となる通算600勝(将棋栄誉賞)を達成2009年第17回達人戦」(非公式棋戦)で準優勝優勝者南芳一)。 2013年4月13日第2回将棋電王戦にて将棋ソフト"Puella α(プエラ・アルファ)"と持ち時間4時間にて対局。相入玉となり持将棋により引き分けとなった出場理由は、前回電王戦入念に準備していた米長敗れたのを見て悔しかったからだと話していた。 30歳迎えた53期1994年度順位戦でA級から降級して以降順位戦における成績ジリ貧となり、2年後の第55期1996年度)でB級1組からも降級、それから4期後の第59期2000年度)では最終局まで昇級争いトップ位置していた。2番手が久保利明3番手が阿部隆で、塚田自身が勝つか久保阿部少なくとも一方敗れればB級1組復帰となるところだったが、塚田田丸昇(既に降級点確定していた)に敗れ久保土佐浩司に、阿部西川慶二に、それぞれ勝ったため「頭ハネ」でB級2組据え置かれた。その後B級2組苦戦し、第61期(2002年度)・第62期(2003年度)と連続で3勝7敗に終わり降級点喫しB級2組からも降級C級1組でも後半戦まで昇級争いに絡む成績修めたこともあった(第63期で7勝3敗・第67期で7勝3敗・第68期で8勝2敗・第70期で7勝3敗)が、いずれも最終前に昇級見込みなくなった50代迎えて以降順位戦での成績低迷顕著になり、第73期(2014年度)を2勝8敗と惨敗し降級点喫した以降負け越し続き、第78期(2019年度)で2つ目の降級点喫しC級1組からも降級、実に38振りとなるC級2組でも第79期(2020年度)・第80期(2021年度)と連続で2勝8敗で降級点喫し2022年4月1日フリークラス転出宣言した以後、満65歳迎え年度末2030年3月31日)まで順位戦以外の棋戦出場し現役続行することとなった

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西川和宏」の記事における「棋歴」の解説

奨励会三段リーグには第40回2006年度後期)から参加第43回2008年前期)の三段リーグ14勝4敗の成績2位)を収めてプロ入り決め通算6例目の親子プロ棋士戦後初の現役親子プロ棋士となった初参加した第68期順位戦最終日中村亮介敗れ、4勝6敗の成績降級点付いてしまった。 第63回NHK杯テレビ将棋トーナメントでは谷川浩司豊島将之強豪勝ち抜き自身初のベスト4入り果たした

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中田功」の記事における「棋歴」の解説

中学1年プロ目指し福岡から上京近代将棋社の永井英明のもとに住み込み修行励んだ1980年第5回中学生名人戦優勝している。 1986年18歳プロ入り。 第51期1992年度順位戦C級2組最初の2局で連敗したが、そこから8連勝する粘り見せC級1組昇級。 第41期(2000年度王位戦リーグ入り王位挑戦者となった谷川浩司黒星をつけるが、リーグ残留失敗。第45期(2004年度王位戦でもリーグ入り中原誠深浦康市らに勝利して2位タイの3勝2敗とするが、前期から残留中川大輔との順位の差に泣きリーグ残留失敗。 第70期(2011年度順位戦降級点抱えた状態で3勝しかできず降級ピンチに立たされる最終局の相手現役最古参加藤一二三で、加藤棒銀対し振り飛車挑んだ完敗降級点累積により19年所属したC級1組からC級2組降級となった第7期2021年度)の叡王戦八段予選決勝広瀬章人に勝ち、本戦トーナメント進出一方で2022年2月10日自身対局日ではなかったものの、第80期順位戦C級2組において最終局を残した状態で降級点3が確定しフリークラス陥落決定した

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宮田利男」の記事における「棋歴」の解説

奨励会入会16歳という遅いスタートであったが、1972年20歳四段となりプロ入りする。 宮田戦績には棋戦優勝タイトル戦登場がない。しかしながら準優勝などの活躍後述)は何度もあり、通算勝率5割以上を長らくキープしていた(通算対局1000到達前後から5割を割っている)。タイトル戦昇格1年目第31期王座戦では、兄弟子中原誠挑戦者決定戦戦って敗れた順位戦への参加1999年度限りとし、フリークラス宣言をした。 2017年3月31日フリークラス規定により同年度の最終対局をもって引退確定3月時点第30期竜王戦6組昇級者決定戦のみに出場残していたが、5月16日対局青野照市敗れ引退決定した引退後は、世田谷区三軒茶屋将棋教室連盟道場などで普及活動務めている。

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児玉孝一」の記事における「棋歴」の解説

玉の囲い放棄し左右の銀を中央繰り出して攻勢をとる「カニカニ銀」の創案者。この戦法独創性・優秀性が高く評価され2003年将棋大賞升田幸三賞受賞。「カニカニ銀」と命名したのは森信雄である。森内俊之実戦1992年11月20日)で採用して勝ったことがある。 父から教わって将棋覚えたのは12歳のときであり、将棋を(本格的に始めたのは高校1年生のときである。福岡県立八幡中央高等学校卒業北九州アマ王位戦でA級2位となった後、1968年第4回高校選手権団体優勝1968年アマ名人戦福岡県代表で出場しベスト4福岡大学中退し1971年10月岡崎門下奨励会3級入会関西)。このときすでに二十歳であった入会後、1級昇級後に2級降級があったり、三段時代4年弱あるなど苦労したが、1980年1月28歳四段昇段を果たす(プロ入り)。なお、1978年奨励会棋戦第1回若駒戦」で優勝している(準決勝相手福崎文吾決勝三番勝負相手泉正樹)。 プロ入りした後、年度が明け前に早速第14回1980年度早指し将棋選手権予選突破本戦では2回戦田中寅彦を破るが、3回戦米長邦雄(この回に優勝)に敗れる。また、第4回1981年若獅子戦準優勝第14回1983年度新人王戦ではベスト4順位戦初参加となる第39期(1980年度C級2組順位戦は、3勝7敗の成績で、いきなり降級点喫する次の40期(1981年度)では1敗の後の7連勝昇級争いに加わるも、8勝2敗で6位に終わる。しかし、第41期(1982年度)では9回戦終了時点で8勝1敗とし、全勝塚田泰明(後に王座・A級)と、同じく全勝脇謙二とともに最終局を待たずしてC級1組昇級決めた最終局で塚田負け、8勝2敗)。 第43期(1984年度C級1組順位戦では8勝2敗・2位成績収め34歳B級2組昇級。なお、2敗は塚田泰明高橋道雄元・王位、後にA級)から喫したものであった。 第47期(1988年度B級2組順位戦は、9回戦終了時点児玉含み4人が7勝2敗の1位タイで並ぶ。そして、最終局でその4人が全員勝利して8勝2敗で終えたため、前期成績リーグ順位悪かった児玉昇級できなかった。また、49期1990年度B級2組順位戦も8勝2敗で終えたものの、同じく2敗でリーグ上位森安秀光(元棋聖・元A級)と島朗元竜王、後にA級)が昇級したちなみに、このときのもう一人の2敗者羽生善治棋王である。 順位戦B級2組には14期連続14期在籍勝ち越し6期負け越し5期指し分け3期であったその中で降級点2度消す健闘見せたが、第56期1997年度)・第57期1998年度)に2期連続降級点取りC級1組降級した。 1987年創設され竜王戦第1期1988年度)は、順位戦B級2組8位であったため2組からのスタート初戦から2連敗3組落ちそうになるが、残留決定戦2人に勝つ粘り2組残留。そして、第4期1991年度竜王戦2組では、準決勝大山康晴十五名人決勝石田和雄八段勝利して2組優勝し40歳1組昇級本戦では初戦勝浦修1組3位)に敗れる。次期第5期1992年度竜王戦1組では福崎文吾王座二冠失ったばかりの南芳一相手2連敗し、2組降級この年以降竜王戦での昇級復帰)はない。 第40期(1991 - 1992年王座戦森安(秀)、阿部隆勝って二次予選抜けるも、本戦トーナメント1回戦羽生敗れる。この期から長い王座連覇同一タイトル連覇新記録)を始め羽生1人目の餌食となった第34回2000年度早指し将棋選手権本戦出場1回戦有吉道夫(元棋聖)に勝ち、2回戦羽生負ける。 第68期(2009年度C級2組順位戦の9回戦は、自身フリークラスへの陥落相手金井恒太昇級両方かかった勝負となるが、千日手指し直しの末に勝利し自分目の前で昇級を許さなかった。この一戦将棋大賞で初の「名局特別賞」に選ばれた(第37回将棋大賞)。しかし降級点逃れることはできず、フリークラス陥落した。 満60歳となる2010年度内に順位戦復帰できなかったため、同年限り引退決まった。しかし前年引退した有吉道夫引退間際NHK杯本戦出場決定きっかけ規定改められた関係で、2010年度内に参戦していた棋戦については消化し切るまで指せることとなった。そして第24期竜王戦6組2つ勝ち上がり3回戦船江恒平負けて5組への昇級者決定戦に回る。他の棋戦ではすでに敗退していたため、この竜王戦児玉にとって棋士人生最後棋戦となった4組上がらない現役残留できない)。そして、2011年8月10日大石直嗣敗れて引退となった

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石田和雄」の記事における「棋歴」の解説

岡崎市石材店で、五人兄弟末子として生まれる。父の岡崎淳一郎は、二宮尊徳像多数作り最盛期には1日8体を作っていたという。 中学1年生から将棋熱中板谷四郎師事して1962年関東奨励会入会し6級指し始め、僅か5か月3級2年初段。そこから20勝1敗で三段昇段三段リーグから、東西人数調整のため、関西移り関西三段リーグ4期抜けてプロデビュー同期関東三段リーグ優勝勝浦修であり、本来なら東西決戦勝者四段となる仕組みだったが、勝浦が二回目リーグ優勝であったため、東西決戦免除され勝浦石田ともに四段昇進となった)。 関西本部所属棋士となる。「岡崎天才児」と呼ばれた1967年プロ入り後も勢い止まらず1年目から順位戦2年連続昇級しB級2組スピード出世。しかし、このクラス7年停滞するスランプ状態を経験その間同年齢で石田ライバル視していた中原誠名人獲得する1972年度、第3回新人王戦で、桐山清澄との決勝三番勝負2-1制し棋戦初優勝。同棋戦では、4年後にも優勝決勝森安秀光2-0で破る)。 1973年度(第23期)と1977年度(第28期)の王将戦リーグ入り。しかし、残留はできなかった。当時王将リーグは今より定員1人多い8人によるリーグ戦だったが、定員半数にあたる成績下位の4人が陥落となる難関であった1974年心機一転目指し岡崎実家出て東京転居し所属東京に移る。 1976年順位戦B級1組昇級1979年順位戦A級昇級し3期在籍する石田昇級した頃のA級には師匠次男板谷進がいたが、2年間で石田の2勝0敗であった1986年東京離れ妻の実家があった千葉県柏市転居する第3期1990年度竜王戦竜王ランキング戦3組優勝第2代竜王羽生善治への挑戦を争う本戦トーナメントでは、中原誠らを破り挑戦者決定三番勝負進出するが、谷川浩司0-2敗れる。第1局谷川の得意戦法である角換わり堂々と受けて立って敗戦であった第2局矢倉)。この頃は、順位戦でも好調で、1991年4月にA級に復帰する。しかし、1期降級した。 翌年竜王戦第4期1991年度)では、2組準優勝し、本戦トーナメント2期連続出場初戦敗退)。 46歳の時、加瀬純一七段の父親経営していた「将棋センター」をうけついだ。ここから多く若手有望棋士生まれることになる。 2006年4月フリークラス宣言2012年5月9日竜王戦6組・対小林宏戦敗戦を最後に引退

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原田泰夫」の記事における「棋歴」の解説

10歳のころ、13名人関根金次郎)の立派な指導対局姿に心を打たれ棋士志す原田の父は棋士になることに反対していたが、結局は高等小学校卒業した原田とともに上京して棋士になる手助けをしている。はじめに縁のあった溝呂木光治当時七段)を訪ねたが、溝呂木は当時三段足踏みしていた弟子間宮純一の名前を出して自分弟子運が悪い」「私のところじゃ四段なれない」と入門断り加藤治郎当時五段)を紹介したこのため加藤弟子入りすることになった1944年1月四段昇段するが、同年4月陸軍新発田連隊入隊中国にわたり、現地敗戦をむかえて抑留され1946年6月帰国して同年第一期順位戦参戦する昭和中期代表する強豪棋士だったことは意外と知られていない名人以外の全プロ参加する最強者戦」で見事最強となったこともあり、大山康晴升田幸三に次ぐ実力有していた。なお、升田幸三現役最後新聞棋戦棋聖戦敗北したが、相手原田泰夫であった。この将棋原田名局とされている。 1965年順位戦B級2組陥落したが、居飛車党から振り飛車党棋風変更し1968年B級1組復帰する1971年昭和46年)には、14期ぶりに48歳でA級に復帰して石川達三同名小説準え四十八歳の抵抗」といわれ話題になった自分から「四十八歳の抵抗」と述べたという説もあり)。B級2組まで陥落してからA級に復帰したのは原田一人のみ。

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淡路仁茂」の記事における「棋歴」の解説

関西三段リーグ1970年1972年優勝するが、東西決戦敗れて四段昇段逸する。そして、1973年度に3度目優勝をし、「3度目東西決戦不要」の規定により四段昇段しプロデビューする。 1977年度、入るのが難しいとされる十段リーグ第16期)と王将リーグ第27期)のメンバーとなったこの年度は、将棋大賞新人賞最多勝利賞(43勝)、最多対局賞(65局)を受賞した1979年度第35期棋聖戦で、中原誠への挑戦者となる。五番勝負敗退したが、将棋大賞敢闘賞受賞。 第40期(1981年度)、第41期(1982年度)の昇降リーグ順位戦)で、それぞれ8勝2敗(リーグ2組・B級2組相当)、9勝3敗(リーグ1組・B級1組相当)の成績収め2年連続昇級名人戦挑戦者決定リーグ(A級)八段となる。 第43期(2002年度王位戦リーグ入り森内俊之南芳一勝利するが、リーグ残留失敗翌年の第44期(2003年度王位戦で、またもリーグ入り佐藤康光らに勝利するが、リーグ残留失敗2011年度以降順位戦出場せずフリークラス転出65歳迎えた2014年度公式戦最終対局2015年5月21日第28期竜王戦5組残留決定戦・対森雞二)に勝ち、6組への“降級”を回避した上で引退勝敗関わらず引退となる対局に勝ち、“有終の美”を飾ったケース大内延介2010年4月20日第23期竜王戦5組残留決定戦・対石田和雄以来5年ぶりであった

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田辺一郎」の記事における「棋歴」の解説

1962年度後期奨励会A組入り5期目となる1964年後期奨励会A組で、11勝1敗の抜群成績関東優勝関西優勝者桜井昇優勝2度目1度目東西決戦A組陥落していた橋本三治敗北であったため、東西決戦行われず1965年4月1日付け田辺桜井同時に四段昇段プロ入り)をした。 初参加から4期目第23期1968年度)C級2組順位戦において、8勝4敗の成績次点。これが田辺にとって、順位戦における最高成績である。このときのC級2組総勢16名で、その中には後にA級八段となる桐山清澄勝浦修森安秀光森雞二がいた。田辺森安に勝ち、桐山負けた昇級者は桐山勝浦であった1973年度、第1回名将戦予選突破1974年度に行われた本戦では、1回戦加藤一二三九段を破るが、2回戦中原誠名人三冠)に敗れる。なお、同棋戦では第3回、第4回第7回第13回も本出場している。 1976年度、第9回日本将棋連盟杯争奪戦4回戦進出米長邦雄八段敗れる。 第32回1982年度NHK杯戦で本戦出場1回戦有吉道夫九段を破る。 第48期1989年度C級2組順位戦で、初参加から24期目にして1勝9敗で初の降級点喫し49期全敗50期は1勝9敗と3期連続降級点となり順位戦から陥落フリークラス在籍中1998年度に満60歳となり、現役引退。 なお、日本将棋連盟普及部に長く在籍した

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小阪昇」の記事における「棋歴」の解説

奨励会A組(旧三段リーグ)で10期5年足踏みするが、1973年前期第10期)に11勝1敗というずば抜けた成績で1位となり、関東1位の桐谷広人との東西決戦制して1973年10月1日付けプロ入りする。 第16期1975年度)王位戦リーグ入り1978年第9回新人王戦決勝三番勝負進出相手は、弟弟子親友でもある森安秀光であった森安前回優勝者であり2年連続通算4回目優勝狙っていたが、小阪が1敗の後の2連勝優勝した。なお、中原誠名人との記念対局名人vs新人王戦優勝者)では敗れた第31回1981年度NHK杯戦で本戦出場1回戦宮坂幸雄に勝ち、2回戦では兄弟子内藤國雄勝利する3回戦大山康晴敗れる)。 第44期(1985年度)のC級2組順位戦は、7勝2敗で最終局を迎え自力ではないものの昇級可能性があった。これに勝って8勝2敗としたものの、ライバルのうち1名が勝ったため次点(4位)に終わった翌年度、第45期(1986年度C級2組順位戦では、順位戦デビュー羽生善治勝利するなどして、第7戦まで無傷全勝。しかも、前期次点成績により順位表で絶好ポジションにいた。しかし、そこから3連敗して7勝3敗の8位となり、またも昇級逃した1988年度第1期竜王戦4組においては勝てば早速3組昇級という一番(準決勝)で羽生と当たり、負けている。 2010年引退2009年度引退規定改定され引退日は年度末3月末)から最終対局日に変更された。小阪2010年度入ってから竜王戦6組昇級者決定戦で3連勝し7月14日千葉幸生敗れるまで引退日が延びた

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長谷部浩平」の記事における「棋歴」の解説

四段昇段の折に、将棋始めたきっかけは、5歳のときに父に教わった答えた升田幸三将棋憧れ升田孫弟子に当たる大平門下となったが、師匠大平長谷部四段昇段報道されるまで、理由知らなかったという。 第62回2017年度後期三段リーグにて、最終局を前に12勝4敗で暫定1位となる。そして最終局でも2連勝決めた結果14勝4敗で1位をキープし、見事プロ入り昇段争いライバル達も、2位~4位(順番池永天志服部慎一郎黒田尭之)まで全員2連勝していたため、もし1勝1敗だと3位(次点)、2連敗だと6位に終わっていた程の激戦だった。 三段2年目(2017年度)では第7期加古川青流戦参加1回戦から本田奎(当時三段)、増田康宏三枚堂達也稲葉聡などの強敵に4連勝しベスト4まで進出する活躍見せた

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門倉啓太」の記事における「棋歴」の解説

小学校3年生の時、知り合いアマチュア強豪教わり将棋始める。 三段リーグには11期在籍2010年度後期奨励会三段リーグ最終日昇級争い上位12勝4敗で迎えることとなったが、2011年3月11日発生した東北地方太平洋沖地震東日本大震災)のため、対局日が同年3月12日から同年3月23日延期された。そして当日は1敗後の最終局で勝利し13勝5敗・1位で四段昇段プロ入り)を決めたプロ入り後、第62回NHK杯戦で予選突破し対局者として本戦出場を果たす。1回戦では深浦康市対し、得意の三間飛車挑んだ敗れた2017年3月2日第75期順位戦C級2組で9勝1敗の2位となり、C級1組昇級決まった第4回2019年度YAMADAチャレンジ杯ベスト4進出2019年8月18日公開対局にて、準決勝藤森哲也決勝井出隼平破り棋戦初優勝果たした

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中七海」の記事における「棋歴」の解説

2011年9月24日奨励会入会2020年9月20日関西奨励会にて12勝4敗の成績上げ三段昇段女性三段への昇段は、2015年12月西山朋佳以来3人目となる。

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青嶋未来」の記事における「棋歴」の解説

6歳時父親購入した本で将棋覚えた2003年小学校3年生時に第2回全国小学生倉敷王将戦低学年の部で東京代表で出場し、9位となる。 2005年小学校5年生時に第4回全国小学生倉敷王将戦高学年の部で東京代表で出場し、9位となる。同年9月に、奨励会6級入会する2007年には3級昇級11連敗喫したが、2010年奨励会初段昇段を果たす。初段半年余り通過し二段1年2か月突破2012年第52回三段リーグ参加する52回、53リーグは8勝10敗と負け越したが、54回は11勝7敗の結果で9位に躍進した。55回も11勝5敗の6番手につけ、上位対局結果次第では最終日連勝すれば昇段可能性があったが、1局目に敗れ昇段逃し5位となる。なお、その期に昇段した増田康宏黒沢怜生それぞれ最終日同星の5番手、7番手から連勝昇段している。 56リーグでは初日から10連勝し、その後2連敗するも再度連勝重ね最終日残した2月14日昇段決める。最終日きっちりと勝ち、三段リーグ史上最多タイとなる16勝(2敗)を挙げた。 新四段として出場した74期2015年度順位戦ではC級2組で9勝1敗(47人中2位)の好成績収めC級2組1期抜け成功これに伴いプロ入りから1年満たぬ間に五段へ昇段した。 第29期(2016年度竜王戦6組ランキング戦準決勝近藤正和六段に勝ち、5組昇級。 さらに決勝でも中田功七段に勝ち、6組優勝者として本戦トーナメント出場本戦でも1回戦5組優勝者黒沢怜生五段、2回戦4組優勝者中座真七段、3回戦1組5位の豊島将之七段を破る活躍見せた準々決勝では1組4位の深浦康市九段敗れた。 第65期(2017年度王座戦では一次予選から9連勝快進撃で、自身初となる挑戦者決定戦進出した中村太地六段敗れタイトル初挑戦はならずプロ3年目となる2017年度は、前年度成績優秀につき第67回2017年度NHK杯将棋トーナメントシード予選免除)となり、本戦トーナメント初出場前期第66回NHK杯予選2回戦で、梶浦宏孝四段負け)。 本戦1回戦で、第10回朝日杯優勝者八代弥六段勝利した2020年6月16日行われた第79期順位戦C級1組初戦森下卓九段勝利し、五段昇段公式戦120勝となり、六段昇段した

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伊藤博文 (棋士)」の記事における「棋歴」の解説

中学1、2年の頃将棋クラブアルバイトをして将棋夢中になる1974年14歳奨励会入会初段昇段をしてからの2年間、二段上がれず、退会まで考えた。しかし、1980年8月王位戦中原誠対米長邦雄)の第4局記録務めた後に調子上げ、その翌年から二段三段昇段していき、1984年8月四段昇段プロデビュー)を果たす。 1985年第19回早指し将棋選手権予選で、師匠伊達との師弟対決勝利1987年第37回NHK杯戦で予選勝ち抜き本戦初出場第48回1998年)、第56回2006年)でも本出場順位戦C級2組では初参加(1985年度・第44期)から5年間は2426敗のほぼ五分五分成績挙げるも、第49期1990年度)、第50期2年連続降級点喫する。第51期1992年度)は6勝4敗で勝ち越し降級点1つに戻す。第52期には8勝2敗・6位の成績収め、これが伊藤にとって順位戦における最高成績となった。第55期1996年度)、第57期1998年度)に降級点喫して累計3点となり、フリークラス降級2001年5月29日順位戦復帰条件一つである勝率規定満たしC級2組復帰決定フリークラスからC級2組への昇格伊奈祐介次ぎ2例目であるが、フリークラス降級後のC級2組復帰史上初。 しかしながら復帰後すぐの第61期(2002年度)、第62期(2003年度)に2年連続降級点取ったところで、2004年4月フリークラス宣言によるフリークラス転出をした。 竜王戦は、第1期5組からのスタート以降昇級降級もない状態がしばらく続いたが、第20期2007年度)に残留決定戦敗れて6組降級第66回2016年度NHK杯将棋トーナメント予選東西決勝中村太地六段破り本戦トーナメント出場10年ぶり4回目)。当年度出場者の最年長だったが、本戦1回戦最年少増田康宏四段敗れた2020年3月末にてフリークラス在籍期限満了2020年5月26日第33期竜王戦6組昇級者決定戦今泉健司戦が公式戦最後対局となり、同日付で現役引退

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畠山鎮」の記事における「棋歴」の解説

兄の畠山成幸とともに将棋界唯一の双子棋士である。奨励会への入会は兄に1年遅れ、三段リーグ参加1期遅れ(半年遅れ)であったが、3期目第5回三段リーグ1989年)で12勝6敗の成績収めて四段昇段プロ入り)を決めた三段リーグから1つ期に四段昇段するのは2名であるが、もう一人昇段者は同じく12勝6敗の成幸、つまり、双子同時プロ入りであり、「こんなことがあるのか」と将棋関係者驚かせた。同成績であるが順位は鎮の方が良かったため、棋士番号は鎮、成幸の順についた初参加の第3期1990年度竜王戦6組決勝進出決勝で兄の成幸に敗れるが、6組からの1期抜けを果たす。次の第4期1991年度)では、先崎学、兄の成幸、中川大輔らを下して5組優勝し本戦出場初戦丸山忠久敗れる。 新人王戦では、第24回1993年度)にベスト4進出第28回1997年度)では決勝藤井猛敗れ準優勝第30回1999年度)でもベスト4。 第12期1999年度竜王戦3組2位となり、本戦出場初戦久保利明勝利し、次戦で森内俊之敗れる。 第14期2001年度竜王戦2組2位となり、初の1組昇級決めとともに本戦出場本戦では郷田真隆に勝ち、木村一基敗れてベスト42003年NHK杯戦で中井広恵敗れ、同棋戦における史上初の女流棋士勝利を献上してしまった。 第19期2006年度竜王戦1組で、羽生善治中原誠などに勝利して4位となり、4度目本戦出場杉本昌隆に勝ち、丸山忠久敗れベスト4。 成幸が順位戦B級2組昇級したとき(1996年)、鎮はまだC級2組であった。七段・八段昇段したのも、兄のほうが早い。しかし、鎮は竜王戦1組まで上り詰め順位戦でも、兄がB級2組長らく停滞している間に昇級重ね2006年にはB級1組上がり、成幸を追い抜いた2016年度第75期順位戦B級1組最終戦松尾歩敗れ、3勝9敗の成績B級2組降級することとなった当期順位戦では弟子斎藤慎太郎B級2組で1位の成績修めB級1組への昇級決めていたため、皮肉にも弟子との入れ違い」という形になってしまった。 2017年度第76期順位戦B級2組では、10回戦5回戦抜け番休み)までで8勝1敗となり、1期B級1組への復帰決めた2018年度第77期順位戦B級1組で、斎藤慎太郎との師弟対決9月25日実現した順位戦では、師弟対決総当たりとなるB級1組上で組まれる日付が変わる激戦の末に畠山斎藤下した順位戦最終結果は5勝7敗のクラス11位で残留果たした2019年度第78期順位戦B級1組で、9月12日行われた斎藤慎太郎との師弟対決勝利し、勝数規定によって八段昇段した。しかし、順位戦では斎藤以外の棋士苦戦して3勝9敗のクラス13位(最下位)に終わりB級2組降級。9勝3敗のクラス2位でA級へ昇級決めた弟子斎藤対照的な結果となった2022年3月5日第1回ABEMA師弟トーナメント決勝斎藤慎太郎とのチームチーム鈴木鈴木大介梶浦宏孝師弟)に勝利しチーム戦の非公式棋戦ながら棋士人生初の優勝果たした

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小林裕士」の記事における「棋歴」の解説

1997年4月プロデビュー初参加の第11期1998年度竜王戦6組準優勝優勝北島忠雄)し、5組昇級。 第12期5組3位決定戦で勝ち、4組連続昇級2000年度、第59期C級2組順位戦で8勝2敗の成績収め44人中3位C級1組昇級(五段昇段)。 第74期2003年度棋聖戦で、島朗三浦弘行破りベスト8進出2006年度、第14期銀河戦準優勝トーナメント出場者を決めブロック戦では中村修(8回戦)・堀口一史座(9回戦)・鈴木大介10回戦)らを破り11回戦で羽生善治敗れるまで6連勝して本戦トーナメント進出。ここでも森下卓1回戦)、川上猛2回戦)、丸山忠久準決勝)を破って決勝進出、再び羽生善治との決戦となった敗れた第47期王位戦リーグ進出深浦康市勝利するが、2勝3敗でリーグ残留はならず竜王戦では前述連続昇級以降長らく4組に留まっていたが、第23期2010年度)に4組準優勝優勝村山慈明)し初の3組昇級決めた第24期3組3位決定戦で勝ち、2組連続昇級竜王戦昇段規定により、段位は七段となった2組在位2年目迎えた26期では木村一基1回戦)、畠山鎮2回戦)、松尾歩準決勝)、豊島将之決勝)を破り竜王戦出場16年目で初めランキング戦優勝本戦出場1組昇級達成した本戦では初戦1組3位の対羽生善治戦)で敗退した第2期2016年度叡王戦予選七段戦勝ち抜き本戦進出本戦1回戦久保利明敗れたタイトル戦昇格した第3期2017年度叡王戦でも予選七段戦勝ち抜き2年連続本戦進出本戦2回戦丸山忠久敗れた

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千葉幸生」の記事における「棋歴」の解説

2000年度前期第27回三段リーグ優勝2位上野裕和)を果たし10月1日付け四段昇段プロ入り)。 結婚直後の第62期(2003年度C級2組順位戦で9勝1敗・2位成績収めC級1組へ初昇級同時に五段へ昇段翌年度の第63期、C級1組降級点喫するが、第64期に勝ち越して、すぐ降級点を消す。 第36回2005年新人王戦準優勝決勝渡辺明竜王当時)に2-0敗れた。 第48期2007年度王位戦リーグ入り丸山忠久鈴木大介勝利するが、リーグ残留ならず。 2010年9月16日第23期2010年度竜王戦6組昇級者決定戦準決勝瀬川晶司に勝ち、勝数規定満たして六段昇段決勝戦では澤田真吾敗れてこの時点での昇級はならなかったが、上のクラス欠員補充のため追加組まれ5位決定戦に回ることになり、同年10月29日行われた対局櫛田陽一に勝ち、5組へ初昇級。 第26期(2013年度竜王戦5組昇級者決定戦佐々木勇気に勝ち、4組昇級。 第30期(2017年度竜王戦4組ランキング戦決勝まで勝ち進み3組への昇級決めたが、決勝佐々木勇気敗れた2018年2月6日第76期順位戦C級1組10回戦片上大輔に勝ち、勝数規定満たして七段へ昇段した。 第31期(2018年度竜王戦3組ランキング戦準決勝飯塚祐紀破り2組への昇級決め決勝斎藤慎太郎破って3組優勝決勝トーナメント進出決めた

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松本佳介」の記事における「棋歴」の解説

中学1年時に天童市行われた全国中学生選抜大会準優勝(優勝瀬川晶司)。その年の12月奨励会入会1986年には3級から4級降級するという苦い経験をするも、三段リーグ勝ち抜いて1995年10月プロ四段となる。同時にプロ入りしたのは、田村康介である。 プロ入り直後第27回新人王戦斎田晴子破ったのを皮切りにデビューから10連勝達成。これは藤井聡太次ぎ近藤正和並んで史上2位タイ記録であり、その中には、後にタイトルホルダーとなる深浦康市からの白星及び第46回1996年度NHK杯テレビ将棋トーナメント予選通過となった3連勝含まれている。 竜王戦でも実力発揮し初参加の第9期ランキング戦準決勝まで勝ち進み桐谷広人敗北)、昇級者決定戦でも矢倉規広勝利して5組昇級。翌第10期ではランキング戦勝ち進み決勝でも中田功勝利し2期連続昇級ちなみに当時竜王ランキング戦連続2回昇級昇段規定がまだなかったため、この時には五段昇段に至らなかった。第12期でも4組決勝まで勝ち進み決勝久保利明敗北)、3組昇級。これが竜王戦における、松本最高位である。(2011年現在) 第71期(1999年度棋聖戦では、3次予選進出。四者リーグ1回戦当時名人位保持していた佐藤康光を破る活躍遂げた。(丸山忠久及び羽生善治敗れ本戦進出はならず。) 第53回2003年度NHK杯テレビ将棋トーナメントベスト16二回戦では当時朝日オープン選手権者だった堀口一史座を破る活躍見せた。 その一方で順位戦不得手とする傾向があり、昇級恵まれなかった。第66期2006年度)及び第71期(2012年度)で3勝7敗と不振喘ぎ降級点喫してしまった。C級2組降級点累積2点となった71期を最後にフリークラス転出した

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井上義雄」の記事における「棋歴」の解説

生家扇子屋を営んでいたという。8歳原田仁平二段手ほどきを受け、翌年大会では堀半七五段と4枚落ち指し分けたという。16歳大阪小林東伯斎八段二段入門小林天野宗歩弟子である。 18歳三段23歳で五段となる。25歳になってからは四国中国九州将棋修行をした。3年後大阪戻り六段となる。2年後に七段となったここまで段位認定したのは「大阪名人」と称された師の小林であると推測されている[誰によって?]。 1906年42歳のときに上京し八段準名人)を許されたという。関根金次郎(後の十三世名人)は、井上より2年先に八段昇段果たしていたが、年長者である井上を常に立てていたという。また、関根当時名人小野五平不仲であり、まず井上名人を譲らせてから名人を襲位しようと画策したこともあるという。 1907年10月当時三人八段である、関根井上小菅剣之助平手対局神戸新聞により企画され井上関根四番戦うが一勝三敗となる。 1909年関根とともに将棋同盟会」を結成したが、翌1910年離脱し将棋同志会」を結成1915年小野名人後継者決定するための大会柳沢保恵伯爵らのはからい開催される柳沢主催将棋大会)。同年4月開幕小野自身後継者目していた坂田三吉八段関根対戦する手はずであったが、関根都合代わりに井上坂田対戦実現し井上敗れた坂田との対戦先後2局の予定であったが、井上延期申し入れ坂田代わりに土居市太郎六段関根弟子)と対戦している。同年12月井上今度関根対戦、一勝一引き分け持将棋)となる。坂田に対して劣勢となった関根苦し立場となったが、坂田土居七段に連敗したために窮地脱している。 1920年小野名人先立ち井上急死56歳死因心臓病であった

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宮田敦史」の記事における「棋歴」の解説

将棋始めたのは小学2年生の頃詰将棋を解く能力優れるなど、終盤読み正確さで、「スーパーあつし君」のニックネーム呼ばれるデビュー以来、7割前後の年度勝率連発し特定の棋戦派手な実績はなかったものの、同じ所司門の渡辺明松尾歩とともに実力者であるとされている。 初参加の第15期2002年度竜王戦6組優勝し5組昇級挑戦者決定トーナメントでは、初戦同門松尾歩敗れる。 2度目参加となる第62期(2003年度順位戦C級2組で9勝1敗・1位の成績収めC級1組昇級(五段昇段)。 第17期2004年度竜王戦5組準決勝敗れるも、昇級者決定戦制し4組昇級2004 - 2005年度、朝日オープン将棋選手権にて、2年連続ベスト8体調不良により2006年夏頃から不戦敗続き2006年12月20日から2008年3月31日までの間は、休場届により休場した休場届の前、第37期(2006年新人王戦では、準決勝不戦敗とした。2007年5月退院し体力回復後は研究会7つ掛け持ちして参加したり、連日将棋会館控え室で他の棋士一緒に深夜まで対局検討参加するなど精力的に将棋研究続けていた。公式戦への復帰予定通り2008年4月この年度は全棋士中1位の勝率0.757(28勝9敗)を挙げ順位戦降級点も消すなどする見事な復帰果たし将棋大賞で初の受賞勝率1位賞)をした。 2012年54期王位戦予選勝ち抜き王位リーグ出場大石直嗣勝利したのみで1勝4敗に終わりリーグ陥落余儀なくされた。

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佐藤秀司」の記事における「棋歴」の解説

アマ時代の最高成績は、第1回中学選抜選手権ベスト413歳上京し、同じ宮城県出身中原名人当時)の内弟子となる。中学卒業後は下宿生活し、「将棋以外のことも勉強したい」と定時制高校に通う。 第7回1990年度前期奨励会三段リーグ13勝5敗の1位となり、1990年10月四段昇段棋士デビュー)。その年度中に早くも第58期棋聖戦一次予選二次予選突破し本戦出場する活躍。このとき破った相手は、中川大輔村山聖田中寅彦(元棋聖)、福崎文吾元王座)らである。 1992年度富士通杯」で準決勝進出第23回1992年度新人王戦決勝3番勝負対戦相手は、奨励会員石飛英二三段第15回三段リーグ途中で奨励会退会)。奨励会員初の棋戦決勝進出例年以上に注目集まったが、佐藤堂々とした戦いぶり石飛圧倒2-0初優勝決めプロ面目保った佐藤後日将棋世界優勝自戦記で「とにかく四面楚歌だった」と振り返っている。なお、新人王記念対局は、名人在位していた中原との「師弟戦」となり、佐藤勝利した第20期1994年度棋王戦中村修元王将、中川大輔らを破り予選突破。さらに、本戦トーナメント高橋道雄タイトル歴5回)を破るが、3回戦米長邦雄前名人敗れる。この年度は、30超え達成第25期1999年度棋王戦塚田泰明元王座)、木村一基同門小倉久史らに勝ち予選突破。さらに、本戦トーナメント米長邦雄森下卓を破るが、4回戦藤井猛竜王敗れる。 第51回2001年度NHK杯戦で本戦出場深浦康市丸山忠久名人を破るが、3回戦谷川浩司(7タイトル全ての在位経験者)に敗れる。つづく第52回でも予選突破し本戦1回戦高橋道雄を破る(2回戦森下卓敗れる)。 第28期(2002年度棋王戦本戦森下卓を破るが、3回戦島朗敗れる。 第54回2004年度NHK杯戦で予選突破するが、本戦1回戦女流棋士中井広恵女流二冠女流王将倉敷藤花当時)に敗れる。 第18期2005年度竜王戦5組昇級者決定戦敗者復活戦)で5連勝し4組昇級この間一時的に勝率ランキングで全棋士トップ走った第24期2011年度竜王戦4組ランキング戦決勝広瀬章人王位破り優勝3組昇級とともに初の本戦決勝トーナメント進出決めた第3期2017年度叡王戦予選七段戦勝ち抜き本戦進出本戦1回戦渡辺明棋王敗れた第5期2019年度叡王戦予選七段戦勝ち抜き2年ぶりに本戦進出本戦1回戦青嶋未来敗れた。 第61期(2020年度王位戦予選勝ち抜き、同棋戦25年ぶりの挑戦者決定リーグ入り決めたリーグ戦紅組では0勝5敗に終わった

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伊奈祐介」の記事における「棋歴」の解説

1998年4月四段昇段プロ入り)。奨励会三段リーグ次点3位)2回となった者はフリークラス四段になれるという規定新設された後、その権利行使した初のケースである。 第12期1999年度竜王戦6組昇級者決定戦決勝に進むも、敗れて5組昇級逃す同年1999年)、第18回2000年度全日本プロ将棋トーナメントで、米長邦雄深浦康市佐藤康光らに勝ち、ベスト8進出。 第14期2001年度竜王戦6組ランキング戦では、4回戦渡辺明に勝ち、2001年5月7日準決勝戦では伊藤能に勝ち、この勝利に伴い直近30戦以上で勝率6割5分以上」(2010敗)の基準満たしフリークラスから順位戦C級2組への昇級決定フリークラスから順位戦C級2組への昇格史上その後行われた決勝戦でも松尾歩破り6組優勝し決勝トーナメント出場及び5組昇級決めた決勝トーナメントでも2勝(5組優勝北島忠雄戦及び3組優勝富岡英作戦)を挙げる同年度では、第51回NHK杯戦で本戦初出場南芳一相手に1勝を挙げるなど、他の棋戦でも活躍した第15期2002年度竜王戦5組昇級者決定戦決勝に進むも、渡辺明敗れる。第17期2004年度竜王戦5組でも昇級者決定戦決勝に進むが、またしても昇級逃す。 第29期(2003年度棋王戦本戦初出場2回戦米長邦雄を破るが、3回戦谷川浩司敗れる。 第64C級2組順位戦2005年度)にて、8勝2敗で次点(4位)でC級1組昇級逃す。このときC級1組昇級したのは、安用寺孝功(9勝1敗)、および、阿久津主税橋本崇載伊奈同じく8勝2敗)であった最終第10回戦で、もしも3名のうち1名でも負けていれば、伊奈昇級していたところであった第20期2007年度竜王戦5組優勝し、ついに4組昇級決勝トーナメントでも1勝を挙げる翌年度第21期2008年度竜王戦4組準優勝し、3組昇級するとともに連続2回昇級により六段昇段。 第72期C級2組順位戦2013年度)では最終節残して7敗目を喫し3期連続降級点フリークラスへの降級決まってしまった。フリークラス四段編入し棋士順位戦経験後再びフリークラスになるのはこれが初めてである。2014年度第56期王位戦では、予選決勝豊島将之勝利しフリークラスでは3人目となる挑戦者決定リーグ進出決めた。しかし、リーグでは3連敗陥落決まった

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増田裕司」の記事における「棋歴」の解説

奨励会入り14歳三段リーグ入り21歳遅かった三段リーグには11期5年在籍したが、成績芳しくない状態が続いた年齢制限となる満26歳誕生日迎えて四段昇段達成できなかったものの、1996年度後期リーグ勝ち越し退会回避。翌1997年度前期リーグでは最後に3連敗したものの12勝6敗の成績収め26歳四段昇段プロ入り)をする。 増田成績にはあまりムラがないがために、活躍目立っていない。順位戦での成績三段リーグ時代低調さから一変し初参加からの10年間で6139敗と安定した成績残し次点も2回あった。しかし、C級1組昇級にはあと一歩届かなかった。 第57回NHK杯テレビ将棋トーナメント2007年度)で、森下卓九段中原誠十六名人らに勝ち、ベスト8進出準々決勝渡辺明竜王当時)に敗退竜王戦では、2005年(第18期)に5組優勝2008年第21期)には4組優勝して3組まで上がった。なお、組の優勝者として、それぞれ本戦トーナメント進出したが、いずれも初戦敗退している。その相手奇しくも、2名とも弟弟子であった(第18期片上大輔第21期では糸谷哲郎敗退)。 2009年9月11日、五段昇段120勝を挙げ六段昇段第51期王位戦、対・畠山鎮戦)。 2008年度第67期順位戦で、11年目にして初の降級点喫してしまうと、その後順位戦苦戦する2010年第69期順位戦C級2組で3勝7敗に終わり2度目となる降級点喫する。翌2011年は、7勝3敗で降級点を1に減らす。2012年は3勝7敗に終わるも、順位差でかろうじて降級点逃れる2013年、3勝7敗に終わり降級点2となる。続く2014年第73期順位戦C級2組で3勝7敗に終わり降級点3となりフリークラス編入となった

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北浜健介」の記事における「棋歴」の解説

6歳の頃に父親棋書買ってきたのが、将棋覚えたきっかけである。1987年小学6年予選時は小学5年)のとき、第12回小学生将棋名人戦準優勝決勝田村康介敗れる)。翌年の秋から奨励会指し始める。 1994年18歳プロデビュー当時現役棋士の中で最年少であったプロ1年目のとき、第13回全日本プロ将棋トーナメントで、佐藤康光森下卓らを破ってベスト4進出初参加の順位戦(第53期1994年度C級2組順位戦)は4勝6敗に終わったが、次期10全勝しC級1組へと昇級を果たす。C級1組でも、初年度は2勝8敗と低迷し降級点喫するが、翌年の第56期では8勝2敗の好成績収めB級2組昇級。これらのことから、当時は「2年目北浜」と呼ばれた早い出世のため、C級1組上で最年少となり、当時B級上で北浜に次ぐ低年齢は、5、6年上の「羽生世代であった早指し新鋭戦で、2度準優勝がある。第18回1999年)の決勝深浦康市敗れ第21回2002年)の決勝では山崎隆之敗れたまた、第31回2000年度新人王戦でも準優勝決勝三番勝負山崎隆之に1勝2敗で敗れる)。 2002年度の第61B級2組順位戦で8勝2敗の成績挙げB級1組昇級そのとき竜王戦ではまだ5組低迷していた)。 第46期(2005年度王位戦リーグ入りし、谷川浩司先崎学勝利したが、リーグ残留はできなかった。 前述通り竜王戦では長らく苦戦していたが、第20期2007年度)で4組3位第21期3組3位となり、2年連続昇級2組入りした。 順位戦B級1組には6期連続在籍していたが、2008年度成績不振で、最終局1局を残した状態でB級2組への降級決まってしまった。しかし、最終局の対・森下卓戦では、終盤解説者ネット中継)を驚嘆させる見事な寄せ披露して4勝目挙げ意地見せたその結果森下が共に降級となった)。 元々関西が好きで、以前から住んでみたいと考えていたが、2014年対戦相手研究会メンバー大きく変えたいとの理由関西への移籍実現した

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岡崎洋 (棋士)」の記事における「棋歴」の解説

1981年奨励会入会1級から2級降級したり、初段3年停滞したりするなど苦労し23歳でようやく三段昇段する。 三段リーグでも苦戦続いたが、期間中26歳年齢制限迎え第13回三段リーグ1993年度上半期)では一転して前半から首位に立ち、後半負け込んだ2位死守し、四段昇段果たした第17回19981999年全日本プロトーナメントで、藤井猛らを破りベスト4進出次の第18回19992000年)では、準優勝をする(決勝五番勝負で、谷川浩司0-3敗れる)。 第45期(2004年度王位戦リーグ入り深浦康市勝利するが、リーグ残留失敗。 第64期(2005年度順位戦C級1組で、出だしから8連勝する。9回戦で昇級を争う渡辺明竜王当時)との直接対決敗れ自力昇級なくなったが、最終10回戦渡辺明窪田義行敗れたため、再び岡崎昇級チャンス巡ってきていた。しかし岡崎中田功敗れたため、惜しくもB級2組への昇級逃した昇級者は山崎隆之渡辺明)。その後65期・第67期に降級点喫しC級2組降級。 第73期(2014年度順位戦C級2組で、9回戦を終えて8勝1敗の好成績で4位につけ、最終戦自身勝利し中村亮介敗れれば昇級となる状況だった。最終戦中村敗れたものの、自身永瀬拓矢敗れ惜しくもC級1組への昇級逃した昇級横山泰明千田翔太村田顕弘)。 翌年2015年度は、4月から11月まで公式戦12連敗不振続き順位戦C級2組でも3勝7敗に終わり前期活躍順位3位にもかかわらず累積2つ目の降級点となる不運な1年となった。 七段昇段決めた直後行われた、第76期(2017年度順位戦C級2組最終局で井出隼平敗れ3勝7敗の成績に終わる。今期順位の差で累積3つ目の降級点喫し2018年度以降フリークラス編入され順位戦出場できないこととなった在籍期限岡崎が満60歳となる2028年3月まで)。

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平藤眞吾」の記事における「棋歴」の解説

1980年10月16歳11ヶ月奨励会5級入会。遅いスタートであった20歳二段となるがそこで4年足踏みをし、三段となったのは24歳1ヶ月という当時三段昇段年齢制限25歳)が近い時期であった三段リーグでは3年6期在籍し6期目に15勝3敗の成績2位となり、27歳にして四段昇段プロ入り)を果たす。同時昇段者(1位)は、7歳下の藤井猛であった第24期1998年度棋王戦本戦入りする活躍第9期2001年度銀河戦では本戦で7連勝しベスト8入り。第44期(2003年度王位戦リーグ入り渡辺明らに勝利するが、リーグ残留失敗順位戦C級2組では、8勝2敗が3回昇級時を含む)、7勝3敗が4回、降級点なし、という安定した成績挙げていたが、なかなか昇級できずにいた。14期目となる第63期(2004年度)で自身3度目の8勝2敗で3位食い込み41歳にして初昇級果たした。なお、C級2組順位戦局数年間10局であるが、当期における平対局では、上野裕和戦での二度にわたる千日手指し直し1日合計3局戦った)を含めて5回の千日手があったので、実際15指している。以降順位戦ではC級1組在籍し、第70期(2011年度)では他力ながらも最終局までB級2組昇級可能性残していた。

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畠山成幸」の記事における「棋歴」の解説

弟の畠山鎮とともに将棋界唯一の双子棋士である。しかも、1989年10月1日二人同時にプロ入り四段昇段)し、話題驚き呼んだ奨励会三段リーグから1つ期に四段昇段するのは原則2名だけであり、その2名が畠山兄弟であった)。 小学4年から5年上がる頃の1980年春、第5回小学生将棋名人戦準優勝奨励会の頃に参加した第12回1990年)「若駒戦」(非公式棋戦)で優勝プロ入り後、1991年度大型棋戦全日本プロトーナメント第10回)でベスト4進出する活躍で、早くも頭角を現す準決勝羽生善治棋王当時)に敗退1993年度王将戦(第43期)の予選を7連勝勝ち上がり、入るのが困難とされる王将リーグ名を連ねる活躍リーグでは初戦羽生善治竜王当時)から1勝を挙げたが、残り5局を落とした。5連敗相手は、森内俊之六段(後の名人)、米長邦雄名人当時)、村山聖七段、中原誠前名人当時)、郷田真隆五段(前年度王位タイトル獲得)である。 1994年度新人王戦ベスト4入り同年度、第13回早指し新鋭戦棋戦初優勝順位戦では、鎮がまだC級2組に留まっていた頃の第54期1995年度C級1組順位戦屋敷伸之久保利明中川大輔らを破って8勝2敗の2位成績収めB級2組昇級ちなみに、2敗を喫した相手は、三浦弘行郷田真隆である。 1997年度第45期王座戦ベスト4入り同年度、第38期王位戦では、リーグ入り1998年度第29回新人王戦三浦弘行決勝三番勝負を戦うが、0-2敗れて準優勝同年度、第46期王座戦2年連続ベスト8。 第13期(2000年度竜王戦3組優勝し2組昇級決める(鎮に1年遅れ)。本戦トーナメントでも、初戦5組優勝山本真也勝ったが、その次(準々決勝)で羽生善治敗れた。第42期(2001年度王位戦リーグ入り2017年3月8日、勝数規定により八段昇段した

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木下浩一」の記事における「棋歴」の解説

1982年第3回全国中学生選抜将棋選手権大会優勝同年12月奨励会6級入会し師匠松田のもとで内弟子生活を送る。 奨励会三段昇段したとき、ちょうど現行制度第1回三段リーグ始まった第2回リーグ昇段争い接戦となり、木下10勝5敗の成績ながら1位の成績取ってプロ入りを果たす。 第4期1991年度竜王戦6組初戦アマチュア天野高志敗れるが、敗者復活昇級者決定戦勝ち進み最後に郷田真隆勝利して5組昇級した26歳のとき、東京から郷里長野に居を移し対局のたびに東京出向く生活を始める。 第12期1999年度竜王戦5組優勝4組昇級)。藤井猛竜王への挑戦を争う本戦トーナメントでは、初戦佐藤紳哉勝利し2回戦井上慶太敗れた順位戦では2008年度まで21年C級2組指した後、フリークラス宣言おこなった

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藤原直哉 (棋士)」の記事における「棋歴」の解説

小学校3年の頃、父親から将棋を教わる。若松門で奨励会入ったのは中学2年生の秋であり、遅めスタートであった谷川浩司井上慶太兄弟子である。 奨励会棋戦第11回若駒戦」で優勝決勝日(1989年6月5日)の前に、すでに四段昇段していた。 1988年度後期奨励会三段リーグで、史上1位タイ16勝2敗の成績収め1989年4月プロ入り高田尚平とともに平成入ってからの初の四段昇段者である。 第21回1990年度新人王戦ベスト4第4期1991年度竜王戦6組1990 - 1991年)で、郷田真隆四段らに勝ち決勝進出第5期1992年度竜王戦では、丸山らに勝ち5組優勝。 第47期(2006年度王位戦で、リーグ入り残留には至らなかったものの、当時名人森内俊之勝利するなど、健闘した。 その一方で順位戦不得手とする傾向見られプロ入りから28年連続C級2組在籍し、第63期(2004年度)と第67期(2008年度)でいずれも2勝8敗に終わり降級点喫した成績次第ではフリークラスへの降級危惧される状況臨んだ68期(2009年度)では、同様の境遇にあった有吉道夫勝利するなど、4勝6敗(44人中35位)で降級回避した。第72期2013年度)に6勝4敗の成績挙げ5年ぶりに降級点消去した。 しかし翌期以降順位戦では再び成績振るわず、第74期2015年度)でまたもや2勝8敗で降級点喫しフリークラス降級危機陥った。その状況迎えた75期2016年度)でも苦戦続き2017年1月19日の8回戦において、降級点争い競合相手である森雞二勝った事により、藤原当年度におけるの降級点取得累積3個目)が確定。このことに伴い、第48期1989年度)から28年連続順位戦C級2組在籍した記録途絶えたフリークラス初年度一転して好調続き降級から10ヶ月経過した2018年1月末現在で17勝9敗、同年3月末までに4敗す前に1勝を挙げることで、第77期(2018年度以降C級2組順位戦復帰が可能となる見込みであったが、4連敗してしまい初年度復帰はならなかった 。この連敗中には第31期竜王戦において、かつての自らの弟子である久保田貴洋アマ敗れた局が含まれる

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上村亘」の記事における「棋歴」の解説

幼稚園の頃、アマチュア四段の父に教わったことが将棋始めたきっかけであった1998年9月6級奨励会入会直後に7級に降級し、5級昇級までに2年弱を費やした以降18歳誕生日直前にようやく初段となり、そこから二段まで2年半、二段から三段まで3年3ヶ月費やすなど、後にプロ棋士となる奨励会員としては、著し苦労をした。 24歳迎えた第48回平成22年後期)より三段リーグ参加好不調の波はあったものの、4期目となる第51回平成24年前期)で14勝4敗の成績優勝)を修め25歳26歳年齢制限まであと1期しか猶予がない状態)でプロ入り第24回2012年新人王戦には、奨励会三段として出場した1回戦敗れた2013年度は2勝利をあげたが、第72期C級2組順位戦白星が集まらずに3勝7敗に終わり順位戦1年目でいきなり降級点となる不運なであった第2回2016年度叡王戦への不参加表明理由について連盟から公式発表はないが、一門イベント中村修ファン謝罪している。本人も「将棋ファン心配させて申し訳ない」「理由はいくつかあるが、今は伏せておく」「今後は、他の棋戦頑張る」という内容ネット述べている。 2018年10月30日、第31竜王6組昇級者決定戦 決勝(対牧野光則五段)に勝ち、5組昇級決めた2020年度は、第46期棋王戦予選決勝都成竜馬破り本戦出場本戦トーナメントでも竜王名人豊島将之勝利する活躍見せた

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中川大輔 (棋士)」の記事における「棋歴」の解説

1982年第7回中学生名人戦優勝。その翌年奨励会指し始める。第1回三段リーグ13勝3敗の成績挙げプロ入り四段昇段)する。そのときもう一人昇段者は、同門先崎学であった以来順位戦では毎年安定して好成績を残す。B級1組に初昇級するまでの15年間において、9勝1敗が1回、8勝2敗と7勝3敗が各々6回であり、次点泣いた期が3度あった。 第11回1988年度若獅子戦で、棋戦初優勝第20回1989年度新人王戦準優勝第45回1995年度NHK杯戦では、七冠王となったばかりの羽生善治決勝で戦う。得意の右玉戦法羽生立ち向かった敗れて準優勝終わったが、それから間もない頃、NHKテレビ出演した際、「羽生相手にして力いっぱい指した今年度一番の対局。」と感想語った1997年竜王戦1組に初昇級6組初参加より決勝トーナメント出場経験一度もないまま1組昇級した棋士は、中川史上初である。 第57期1998年度B級2組順位戦第9回戦で藤井猛竜王当時)に2つ目の黒星をつけ、先崎B級1組昇級アシストした。自らのB級1組昇級は、その4後であった。 第41期(2000年度王位戦リーグ入りタイトル経験者3名(丸山忠久郷田真隆南芳一)に勝利して3勝2敗とするが、同星の郷田前期から残留)との順位差に泣きリーグ残留ならず。 第11期2003年度銀河戦決勝トーナメント羽生善治竜王名人当時)、森内俊之らを破り決勝進出決勝佐藤康光棋聖当時)に敗れて準優勝。 第64期(2005年度B級1組順位戦最終局は、勝てばA級昇級という一番であったが、深浦康市敗れて昇級逃した。 第55期2007年度王座戦で、渡辺明竜王当時)を下してベスト8進出。 第57期2009年度王座戦で、高橋道雄阿久津主税谷川浩司森下卓藤井猛破り挑戦者決定戦まで進むが、山崎隆之敗れ、初のタイトル挑戦逃す2010年度日本将棋連盟理事仕事をこなす中、第69期B級2組順位戦昇級争いトップ(8勝1敗)の状態で最終局の対畠山成幸戦を迎える(畠山にとっては、勝てば降級点消せるという一局)。結果中川敗れ昇級争いライバル勝ったため、逆転昇級許してしまった。 2011年12月9日公式戦通算600勝(将棋栄誉賞)を達成2011年12月21日一身上の都合により、日本将棋連盟理事辞任。のち、連盟会長であった師匠米長邦雄死去後の『将棋世界追悼号(2013年3月号)に追悼文寄せ米長晩年師弟関係絶縁状態だったことを記した2013年6月7日将棋連盟理事改選により再び理事就任する

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高田尚平」の記事における「棋歴」の解説

1988年度後期三段リーグにて15勝3敗で2位成績挙げ1989年4月1日付で四段昇段プロ入り2年間で計55勝を挙げた順位戦C級2組には20在籍。第53期1994年度)にて2勝8敗で降級点喫すその後、第66期2007年度)は2勝8敗、第67期(2008年度)は1勝9敗となり、2期連続降級点で、2009年度よりフリークラス降級した。 竜王戦3組5期在籍第5期1992年度5組ランキング戦第20期2007年度4組ランキング戦決勝敗退し決勝トーナメント出場することはなかった。 フリークラス在籍年限経過後の2019年4月1日公式戦最終対局完了後の引退発表された。2019年8月9日第32期竜王戦6組昇級者決定戦杉本和陽敗れ現役引退となった

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野田敬三」の記事における「棋歴」の解説

5、6歳の頃、近所の子供指しているのを見たのが将棋との出会いであるが、夢中になったのは中学2年の頃。以来3年間、毎週土日川西市にあった森安秀光当時五段)の教室通い最終電車帰宅する。 その森安師匠として1975年17歳のときに奨励会指し始める。比較順調に昇級昇段重ね1979年12月三段となる。 ところが、そこからが鬼門であった1982年4月二段降段8月には三段復帰するものの、なかなか四段昇段プロ入り)できずにいるうち、1987年三段リーグ制度復活四段昇段半年に2名という狭き門となった第1回三段リーグでは17人中16位で惨敗。しかし、第2回では一転、2局を残した時点早くもプロ入り決めた30歳2か月でのプロ入り1988年4月1日)は、戦後生まれ将棋棋士では伊藤能30歳8か月に次ぐ2番目の高齢記録当時であった。また2014年時点まで唯一二段降段後にプロとなった棋士である。 1998年度1999年度対局30前後勝率5割前後の成績挙げ棋士人生での一つピーク迎える。 順位戦竜王戦共に昇級歴はなく、順位戦15年連続C級2組在籍しその間降級点累積3点となったため、2003年度からフリークラスとなる。竜王戦第2期から出場したものの最高記録6組ランキング戦準決勝進出(第13期及び第14期であったプロ入り以来長らく公式戦本戦決勝トーナメント)に出場できずにいたものの、プロ入り23年目の第19期銀河戦では、ブロック戦最多勝抜き者(田丸昇藤原直哉佐藤和俊に勝ち3連勝)に該当し棋士人生初め決勝トーナメント出場したトーナメント1回戦渡辺明敗北)。 上述経緯フリークラス降級してから10年間で、順位戦C級2組への復帰条件相当する成績収めることができず、2012年度最終対局をもって引退することが内定していた。野田2012年度末(2013年3月31日)の時点で、第26期竜王戦6組昇級者決定戦への出場資格残し1回戦2013年5月29日)では島本亮勝ったものの、2回戦2013年6月27日)で室岡克彦敗れ同日付け引退した三段リーグ勝ち抜いた棋士引退野田初めてである。

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石川陽生」の記事における「棋歴」の解説

奨励会二段の頃、第5回1982年度)「若駒戦」の決勝東西決戦)で有森浩三勝って優勝。同棋戦では翌年決勝進出している(神崎健二敗れ準優勝)。 第44期(2003年度王位戦予選中原誠深浦康市勝ってリーグ入りする活躍リーグでは1勝に留まり残留失敗第56回2006年度NHK杯戦では、阿久津主税森下卓に勝ち、ベスト16入り第73期順位戦C級2組で3勝7敗に終わり降級点3となりフリークラス編入となった

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安西勝一」の記事における「棋歴」の解説

羽生善治同日四段昇段した1985年12月18日奨励会例会にて)。 2004年4月より女流育成会幹事務めた。(2009年3月末、女流育成会廃止により退任プロ入り以来順位戦との相性悪くC級2組19在位して最終局まで昇級争い残ったのは第50期1991年度)のみ、第63期(2004年度)で降級点累積3点となり、規定によりフリークラス降級し、順位戦への参加資格失ったその後10年以内復帰は叶わず、2016年4月1日第65期王将戦一次予選石井健太郎敗れたのを最後に現役引退した順位戦を除く棋戦では、コンスタント実績残している。第32期1990年度王位戦では予選勝ち上がり挑戦者決定リーグ白組出場3回戦終了時点リーグ陥落確定していたものの、最終戦それまで4戦全勝だった郷田真隆に勝ち、郷田リーグ全勝阻止し中田宏樹とのプレーオフにもつれ込ませる同時に自身リーグ全敗回避した

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渡辺正和 (棋士)」の記事における「棋歴」の解説

京華中学校在学中より、大学生参加する関東オール学生最強者戦などで上位入賞を果たす。2004年北國王将杯の準決勝敗れたことをきっかけに、富山県転居2005年5月15日朝日アマ名人戦で、天野高志名人との三番勝負勝利し歴代最年少記録19歳3か月獲得。これにより参加資格得た第24回朝日オープン将棋選手権では、プロに3連勝阪口悟四段浦野真彦七段、有吉道夫九段)し予選決勝まで進み矢倉規広五段(当時)に敗れる。アマチュア時代活躍は他に、平成最強戦優勝2005年)・準優勝2001年)、赤旗名人戦準優勝2003年)。 朝日アマ名人獲得実績により受験資格(満22歳以下でアマチュア公式戦全国大会優勝または準優勝者)を満たし奨励会初段受験試験は、関西将棋会館奨励会員5番勝負をし3勝するもので、3勝1敗で合格初段受験制度利用した初のケースとなった合格後は、初段を3か月二段1年3か月通過して三段リーグ入り初参加の第42回三段リーグでは、15回戦を終了した時点13勝2敗とトップであったが、そこから3連敗喫し次点3位)。翌第43回三段リーグ11回戦を終了した時点では9勝2敗とトップであったが、リーグ終盤失速し再び次点13勝5敗)。しかし2回の次点によって得られるフリークラス編入権利行使してプロ入りした。 第60回NHK杯で、予選決勝橋本崇載勝利し初の本戦出場を果たす。本戦1回戦では頭を丸刈りにして対局臨んだが、屋敷伸之敗れた第52期王位戦で、予選決勝中村修勝利し初のリーグ入りを果たす。勢い乗ってその後勝ち星重ね2011年1月19日竜王戦6組ランキング戦2回戦の対伊藤博文戦で勝利した時点で、フリークラスから順位戦C級2組への昇級条件1つ良いとこ取り30局以上で勝率6割5分以上)を満たし昇級果たした。その昇級決定後に始まった王位リーグでは、残留はならなかったがA級棋士三浦弘行から勝ち星挙げた第24期2011年度竜王戦6組準優勝し、竜王戦昇級5組昇級)。翌第25期では2回戦敗退したものの、昇級者決定戦勝ち抜き2012年10月22日決勝及川拓馬戦)に勝利し2年連続昇級これに伴い竜王ランキング戦連続昇級規定に基づき同日付で五段昇段。 第76期(2017年度順位戦C級2組では成績振るわず0勝10敗に終わり、第74期(2015年度、3勝7敗)以来、2個目の降級点喫した。 第77期(2018年度順位戦C級2組では3勝7敗の成績挙げるも、前年度クラス最下位による順位差が響いて3個目の降級点付きフリークラス陥落することになった

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宮坂幸雄」の記事における「棋歴」の解説

1955年25歳プロデビュー1956年東西対抗勝継戦で5人抜き優勝)。1962年の同棋戦では6人抜き優勝)。 第17期1962年度順位戦C級2組で9勝4敗の1位の成績収め33歳にして初昇級第19期1964年度)ではC級1組10勝2敗の1位の成績B級2組昇級。そして、第21期1966年度)では10勝2敗の2位で、自己最高のB級1組昇級2期目降級するが、第30期(1975年度)B級2組で9勝1敗で1位となり、B級1組復帰1969年度、第9期十段戦三次予選3回戦進出第24回1976年度)王座戦で、内藤國雄らを破りベスト4進出準決勝二上達也敗れる。それと並行して第29期棋聖戦本戦進出1回戦二上達也を破るが、2回戦森雞二敗れる。 第19期1978年度)王位戦予選芹沢博文二上達也らを破りリーグ入り米長邦雄らに勝って3勝2敗でトップに並ぶが、プレーオフ敗退する。 第18回1984年度早指し将棋選手権田中寅彦内藤國雄勝って4回戦進出するが、中原誠敗れる。 第10期1997年度竜王戦5組昇級者決定戦決勝で、2ヶ月前まで棋聖だった三浦弘行に勝ち、4組復帰。 第57期1998年度C級2組順位戦で、累積3つ目の降級点喫し69歳現役引退

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飯野健二」の記事における「棋歴」の解説

10歳の頃、父から教わり将棋始める。 1968年6級奨励会入会以降三段昇段までは、各昇級昇段1年以上をかけることなく順調に昇る1973年後期から三段リーグ旧制)で3期1年半)を戦うが四段上がれず、そこで三段リーグ制度廃止。それから約1年後1975年3月4日武市三郎に勝ち、12勝4敗の規定により四段昇段プロ入り)。その武市との一局採用した戦法は、奨励会入会以来2度目採用振り飛車阪田流向かい飛車であった。「知らない将棋指せ震えないだろう」と考えたからだという。 プロ3年目1977年度に、全棋士中5位の勝率(0.667)を挙げる第17期十段戦予選1977 - 1978年)で5連勝し狭き門十段リーグ入りあと一歩と迫るが、予選決勝大山康晴敗れる(当時本戦入りできるのは毎期2人のみであった) 第41期(1982年度後期)と第47期(1985年度後期)の棋聖戦一次予選二次予選通過し本戦進出。 第42期(1983年度)と第43期(1984年度)のC級2組順位戦で、2期連続次点(4位)となり昇級逸するいずれも8勝2敗)。第49期1990年度)にも8勝2敗の成績収めたが、9位。 第1期竜王戦1987 - 1988年)で5組優勝本戦進出するとともに4組昇級。 第59期2000年度C級2組順位戦累積3点目の降級点喫しフリークラス陥落以降2011年まで順位戦復帰果たせず、規定により引退

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松本武久」の記事における「棋歴」の解説

1997年 初段二段 1998年 三段 1999年 四段 2001年 五段 2003年 六段 2006年 新人王戦優勝 2008年 七段 2010年日精プロ囲碁選手権準優勝優勝周俊勲2013年38碁聖戦挑戦者決定戦進出も、河野臨敗れ挑戦ならず。

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高野智史」の記事における「棋歴」の解説

5歳の頃に父親将棋教わったことをきっかけに、将棋覚える。次第熱中しNHK杯テレビ将棋トーナメント毎週録画するようになり、いつしかクラスメート将棋指して物足りなさ感じるほどに棋力上達し近所将棋教室に通うようになって、さらに上達した2007年4月に、6級奨励会入会15歳初段16歳二段昇段するまではすこぶる順調だったものの、そこで足踏みをし、3度初段降段危機瀕し結局三段昇段3年8ヶ月費やした奨励会最後関門である三段リーグには、2013年度後期第54回)より参加当初2期コンスタント白星重ねて勝ち越したものの、四段昇段につながる成績2位以上)を修められなかった。参加3期目第56回2014年度後期でも、他力ながら昇段可能性残していた状態で迎えた最終日連勝できず、4位に留まってしまった。しかし順位2位迎えた第57回では4勝3敗の前半戦から連勝重ね成績首位迎えた最終局でも1勝1敗となり、逃げ切りの形で優勝決め四段昇段した奨励会三段として出場した第5期2015年度加古川青流戦では、当時既にプロ四段となっていた石井健太郎勝利した2017年6月20日、第30期(2017年度竜王戦6組昇級者決定戦にて、加藤一二三勝利した加藤前年順位戦にて累積3度降級点取り規定により引退決まっていた。そのため、本棋戦最後参加棋戦であり、敗退すると最後対局となることから、加藤引導を渡すとなった。 第50期2019年度新人王戦決勝まで勝ち抜く増田康宏との決勝三番勝負を2勝1敗で制し棋戦初優勝となった新人王記念対局非公式戦)は、同年46歳初タイトル獲得した木村一基王位との「師弟戦」となり、高野勝利した

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谷川浩司」の記事における「棋歴」の解説

末尾年表参照1983年史上最年少名人になった頃、「中原時代」を築いた中原誠十六名人後継者目され1991年度には四冠王となった。しかし続いてやってきたのは「谷川時代ではなく羽生世代棋士達との対決時代であった。特に、羽生善治との150局を超える戦い現役棋士同士では最多)は、ゴールデンカードと呼ばれることとなる。

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井出隼平」の記事における「棋歴」の解説

父から将棋教わったのをきっかけとして、小学校3年当時から「将棋サロン吉祥寺」(後に荻窪移転)に通い棋力上達させた。 2003年将棋サロン吉祥寺の席主から、指導対局訪れた田丸昇紹介され師弟関係締結同年9月6級奨励会入会奨励会入会以降も、将棋サロン吉祥寺毎日のように通い、主にアマチュア強豪選手練習対局続けた棋士奨励会員有志結成する研究会には時間的な束縛を苦として所属しなかった。田丸及び席主の理解もあり、順調に昇級昇段続け2009年7月三段昇段三段リーグには2009年度後期第46回)より参加その間2011年9月将棋サロン吉祥寺閉店し練習の場所を失った井出リーグにおける成績低迷した2011年11月将棋サロン荻窪移転して以降調子を取り戻しコンスタント勝ったものの、四段昇段に繋がる好成績修められず、11勝5敗で最終日迎えた参加7期目(第52回2012年度後期)の三段リーグでは、井出連勝し宮本広志が1敗以上すれば四段昇段可能性があり、将棋サロンの席主が将棋会館に赴き吉報待ったにもかかわらず17回戦で敗れたため昇段には至らなかった。 以降、再び成績不振陥ったものの、田丸との話し合いの席で「何かを変えてみるといい」とアドバイス受けてから、当初消極的だった公式戦記録係積極的に勤めたり棋風の幅を広げたりして乗り越えた。 そして迎えた参加13期目(第58回2015年度後期)の三段リーグでは、初戦から3連敗するなど前半戦は4勝5敗と負け越したものの、後半戦連勝重ね10勝6敗で最終日迎えた当期三段リーグ都成竜馬最終日待たず優勝四段昇段)を決定させて、2位争い熾烈な状態であった11勝5敗が佐々木大地を含む4名(うち1名は井出より前期成績に基づく順位上位であった)・10勝6敗のうち井出より順位上位であった参加者が2名いたため、井出2位になるためには、井出自身連勝した上で11勝5敗で井出より順位上位であった1名が連敗し、他の5名が1敗以上喫することが条件とされ、その確率は0.78%とされていた。しかし最終日対局結果において上記条件全て満たされたため、井出逆転2位繰り上がり四段昇段決定させた。

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阿部光瑠」の記事における「棋歴」の解説

5歳のとき父から教わり将棋始める。 11歳小学6年生時の2006年9月6級奨励会入り以来快進撃続け中学2年生時の2009年1月三段到達三段リーグ2期以内抜ければ現行三段リーグ制度のもとでは渡辺明に次ぐ2人目の中学校在学時でのプロ入り決定となるところであったが、3期目までは10勝8敗が最高で昇段争いに加わることはなかった。 4期目2010年度後期三段リーグ快調に白星重ね最終日前に13勝3敗の単独トップに立つ。ところが2011年3月23日東日本大震災の影響延期され最終日に、連敗し13勝5敗となった阿部集中力を保つことが難しかったことを認めている。しかし昇級争いライバル軒並み苦戦し阿部連敗した場合逆転する可能性があった5人のうち、逆転したのは門倉啓太13勝5敗で順位23位の阿部より上位の6位)だけだった為、2位四段昇段プロ入り)を果たした16歳5か月でのプロ入りは、現行の三段リーグ制度始まって以降では、藤井聡太14歳2ヶ月)、渡辺明15歳11か月)、佐々木勇気16歳1か月阿部半年前にプロ入り)に次ぐ4番目の年少記録である。

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石井健太郎 (棋士)」の記事における「棋歴」の解説

祖父将棋盤貰ったことをきっかけに、将棋興味持ち始め所司には奨励会入会前(幼稚園時代)から将棋教室教わったという。2003年第28回小学生将棋名人戦千葉県代表として出場2004年9月29日6級奨励会入会初段まで順調に昇級及び昇段続け初段から二段1年2ヶ月二段から三段1年8ヶ月とややもたついたものの、2009年3月高校2年生当時)に三段リーグへの参加獲得した初参加から3期目2011年度前期第49回)は昇段争いの8番手最終日迎え自身連勝し2番手から7番手の参加者全員1敗以上すれば2位となる状態で連勝遂げ、更に2番手から6番手参加者全員1敗ずつしたものの、7番手の藤森哲也連勝したため“頭ハネ”を喰らい3位次点獲得)に留まってしまった。第50回第52回でも、次点獲得可能性残して最終日迎えたが、いずれも連勝できずフリークラス編入逸した。しかし、第53回2013年度前期)では前半から好調維持しトップ独走の状態から逃げ切り最終日待たずして2位以上を確定させ、最終的に15勝3敗・1位の成績修め四段昇段プロ入り)。 第1回2011年度加古川青流戦奨励会三段として参加し2回戦瀬川晶司3回戦渡辺大夢準々決勝永瀬拓矢それぞれ勝利しベスト4進出した。(準決勝当年度優勝者船江恒平敗れる。) 2015年度には、第9回朝日杯二次予選 決勝佐藤康光九段勝利し本戦出場本戦1回戦当年度優勝者羽生善治四冠負け)。 プロ4年目順位戦3期目)となる2016年度は、前年度成績優秀につき第66回2016年度NHK杯将棋トーナメントシード予選免除)となり、本戦トーナメント初出場前期第65回NHK杯予選1回戦で、中村亮介五段に負け)。本戦1回戦では、師匠である解説所司和晴七段が見守るなか、大石直嗣六段勝利した2017年10月30日第59期王位戦予選(対横山泰明六段)に勝ち、五段に昇段した。 第76期(2017年度順位戦C級2組では8勝2敗の成績挙げるも、順位差で昇級逃した。 第77期(2018年度順位戦C級2組では前年同様8勝2敗の成績挙げるも、今度前年度好成績による順位差により3番目の昇級滑り込み昇級果たした。 第78期(2019年度順位戦C級1組では9勝1敗の好成績だったが、近年競争激しさ(C級1組では74期から5期連続で9勝1敗頭ハネ発生)と昇級直後順位悪さにより昇級はならなかった。

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所司和晴」の記事における「棋歴」の解説

1985年度関東奨励会で9連勝し四段昇級。第45C級2組順位戦で9勝1敗となり、3位C級1組昇級C級1組には15期在籍した2010年4月、第68C級2組順位戦降級点2となり、フリークラス宣言した。2010年現役勤続25年表彰

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貞升南」の記事における「棋歴」の解説

小学5年の夏に祖父教わって将棋始めた。後にプロとなった者としては遅めスタートである。 2000年4月女流育成会Bクラス編入入会2001年第10回アマ女王戦優勝同年アマ女流名人戦準優勝。さらに全国中学生選抜将棋選手権大会女子の部でも優勝果たしたまた、フェアリープリンセス」というチーム団体戦にも出場していた。 2003年10月女流2級としてプロデビュー2006年度第29期女流王将戦予選の3局を勝ち抜き本戦入り。それにより昇級規定2007年4月1日付け女流1級昇級した2007年第1期マイナビ女子オープン本戦入り1回戦甲斐智美敗れる)。 2009年、第36期女流名人位戦予選を3連勝勝ち抜きB級リーグ入りリーグ戦では5勝4敗と勝ち越しA級昇級はならなかったもののリーグ残留を果たす。同年第21期女流王位戦でも予選通過。しかし挑戦者決定リーグでは1勝4敗に終わる。 2013年4月前年度指し分け(9勝6敗)により女流初段昇段した2014年第22期倉敷藤花戦では挑戦者決定戦進出。しかし山田久美敗れ、初のタイトル挑戦逃した。また同年の第26女流王位戦でも予選通過したが、挑戦者決定リーグでは5年前同じく1勝4敗に終わった2016年第2回女子将棋YAMADAチャレンジ杯では準優勝果たした2021年1月19日第43期女流王将戦予選1回戦山口仁子梨に勝ち、女流初段昇段60勝となり女流二段昇段した

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依田有司」の記事における「棋歴」の解説

奨励会時代プロになってから関東所属であるが、師匠関西本間爽悦八段である。これは、親戚一人本間との交流あったからである。 本格的に将棋始めたのは中学2年の頃であり、後にプロになった者としてはかなり遅い。中学卒業後、15歳奨励会入会三段昇段から四段昇段プロ入り)までは僅か4か月ほどであったが、二段から三段昇段までには3年以上かかったその間対戦相手昇段かかった一番で何度も勝ち、「奨励会殺し屋」というキャッチフレーズがつく。依田と同じ1980年度プロ入りしたのは合計8人と多く55年組総称される1985年度2218敗、勝率0.550の成績挙げ棋士として一つピーク迎える。 1990年度年間では負け越すも、大山康晴十五名人屋敷伸之棋聖、および、後の名人丸山忠久から勝利を挙げる1994年フリークラス宣言フリークラス転出し順位戦から退く。 2009年度は、フリークラス宣言者の引退規定により現役最後の年度となる。2010年3月25日竜王戦6組昇級者決定戦1回戦・対武者野勝巳戦で敗れ、全棋戦対局消化同日付で引退55年組の中では最初の引退となった

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植山悦行」の記事における「棋歴」の解説

入門当初関西奨励会所属し地元高校進んだ初段時に関東奨励会移籍し以降22歳三段上がるまでの間、師匠の家で内弟子生活を送る。関西所属時は、奨励会対局以外で将棋をほとんど指さなかったにかかわらず順調に昇級重ねた1981年4月四段昇段プロ入り)。 第2回1986年度天王戦四段戦森下卓富岡英作らを破って優勝し本戦進出。さらに本戦1回戦南芳一を破るが、2回戦森雞二敗れる。 第16期1990年度棋王戦本戦出場1991年度第59期棋聖戦で、一次予選二次予選抜けて本戦入り一次予選決勝では佐藤康光を、二次予選決勝では大山康晴破っている。 第7期1994年度竜王戦5組準優勝し、4組昇級また、第20期1994年度棋王戦2度目本戦出場2001年度第20回朝日オープン将棋選手権本戦出場順位戦降級点規定により、2003年度よりフリークラスとなった。それから10年間、順位戦C級2組への復帰条件相当する成績収めることができず、2012年度最終対局をもって引退することが内定していた。植山は2012年度末(2013年3月31日)の時点で、第26期竜王戦6組昇級者決定戦への出場資格残し1回戦2013年6月5日)では兄弟子田丸昇勝ったものの、2回戦2013年6月28日)で石川陽生敗れ同日付け引退した

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泉正樹」の記事における「棋歴」の解説

1980年四段になった55年組一人である。 奨励会二段の頃、第1回1978年度)「若駒戦」で準優勝。 第46期(1987年度C級2組順位戦羽生善治並んで10全勝し同時昇級1999年6月3日早指し将棋選手権川上猛戦で、禁手である連続王手の千日手指して負けた2013年7月4日第26期竜王戦ランキング戦5組残留決定戦(対岡崎洋六段)に勝ち、八段昇段した2017年10月4日第59期王位戦予選木下浩一七段に勝ち、公式戦通算600勝(将棋栄誉賞)を達成した。 第77期(2018年度順位戦C級1組は3勝7敗で2つ目の降級点が付く結果となり、C級2組降級となったが、C級2組で指すことを選ばずフリークラス転出した以降順位戦以外の公式戦参加は、最長で満65歳迎え2025年度までとなる。

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西川慶二」の記事における「棋歴」の解説

1981年11月四段昇段しプロ入り1983年度2期目順位戦となる第42期順位戦C級2組で8勝2敗の成績挙げてC級1組昇級1986年度に入ると、第12期棋王戦本戦入り本戦でも初戦でA級に昇級したばかりの南芳一に勝つ活躍見せたまた、第28期王位戦でも予選勝ち抜き挑戦者決定リーグでも森雞二米長邦雄に勝つなど活躍した1988年度4組からのスタートとなった第1期竜王戦3組昇級決める。そして、第47期順位戦でも、C級1組5期目にしてB級2組昇級決めた1990年度第3期竜王戦3組準優勝果たし2組昇級本戦出場決めた2組には第7期までの4期在籍した王座戦は第47期(1998年度)に、棋王戦では第28期(2002年度)、32期2006年度)にそれぞれ本戦入り果たした順位戦B級2組では第53期1994年度)、第58期1999年度)で降級点を取ることがあったが(第53期分は第55期勝ち越し消去)、それ以外大きく勝ち越したり負け越したりしない状態が続いた竜王戦も、第8期(1994/95年)より3組から昇降級しない状態が続いた2006年度第65期順位戦B級2組2つ目の降級点取り18期在籍したB級2組から降級した。2008年度第21期竜王戦でも16在籍した3組から降格以降4組5組でも連続降級し、第24期以降6組在籍となった以降順位戦は、C級1組で第68期(2009年度)、第69期2010年度)に連続降級点喫しC級2組降格C級2組でも第71期(2012年度)、第72期2013年度)で降級点2014年度第73期順位戦C級2組で1勝9敗に終わり降級点3となりフリークラス編入となった2019年1月17日病気療養理由2018年12月10日さかのぼって2019年3月31日まで休場することが発表された。その後休場期間の延長繰り返され公式戦への復帰がないまま、フリークラス在籍最終年度2021年6月30日付で現役引退した

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石田直裕」の記事における「棋歴」の解説

級友学校対局したのが将棋始めたきっかけであった2001年9月6級奨励会入会直後成績振るわず1年後には“直近10局で2勝8敗”を2回喫し奨励会規定により7級に降級5級昇級2年費やしたそれ以降順調に昇級昇段続け18歳となった直後二段昇段1年半三段昇段し第44回平成20年後期)より三段リーグ参加4期目の第47期では4勝14敗と不振喘ぎ降段点を喫する苦労味わったものの、8期目となる第51回平成24年前期)で13勝5敗の成績上村亘次いで2位)を修め大学卒業した翌年23歳プロ入り奨励会三段出場した第1期2011年加古川青流戦では、1回戦当時既にプロとなっていた佐藤慎一四段破った。(2回戦奨励会員敗退第4期2014年加古川青流戦では、決勝三番勝負進出藤森哲也連勝して自身初の一般棋戦優勝を果たす。 2016年、第47新人王戦決勝進出したが、増田康宏連敗敗れ準優勝2017年8月15日第59期王位戦予選(対北島忠雄七段)に勝ち、五段に昇段

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出口若武」の記事における「棋歴」の解説

明石市立藤江小学校1年時に上級生から教わったことをきっかけ将棋始める。当時サッカーの方が好きだったが、頼まれ出場した将棋大会県大会まで勝ち進んだのを機に将棋本腰を入れた加古川将棋センター通い、小6で奨励会入会2006年、2007年文部科学大臣杯 小・中学校将棋団体戦準優勝果たしている。なお、2006年大会ではのちにプロ棋士となる冨田誠也と同チームであった17歳三段リーグ入り三段時代の第49期新人王戦では澤田真吾六段梶浦宏孝四段らを破り決勝三番勝負進出奨励会三段決勝進出史上5人目だったが、藤井聡太七段に連敗し準優勝終わった(なお、出口新人王戦での成績は、プロ入り後も含めてこの準優勝が最高であった)。第64回奨励会三段リーグでは開幕から10連勝波に乗り終盤失速したものの14勝4敗の1位で四段昇段決めた同時昇段黒田尭之)。井上慶太門下では稲葉陽菅井竜也船江恒平次いで4人目プロ棋士となった

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長沼洋」の記事における「棋歴」の解説

奨励会二段のとき、第7回若駒戦優勝1985年2月2日)。それから約1年半後の1986年7月プロ入りプロ入り当初好不調の波が著しく初参加から2年目となる第47期(1988年度順位戦ではC級2組において降級点喫するも、15年目の第60期2001年度)で8勝2敗・42人中3位成績修めC級1組昇級第2期1989年度竜王戦では6組ランキング戦優勝5組昇級する。第13期(2000年度)では5組ランキング戦準優勝し、4組昇級(第14期5組降級第15期4組復帰第15期5組へ再び降級)。 第58期1991年度前期棋聖戦一次予選から6連勝し、初の本戦入り1回戦中原誠敗れる)。 1993年度全成績3215敗と大きく勝ち越した(年度全体での長沼成績としては、2021年現在まで最大勝利数となっている)。 第42期(2001年度王位戦リーグ入り残留には至らなかったものの、谷川浩司山崎隆之勝利するなど健闘した。 第50期2002年度王座戦一次予選からの6連勝で、初の本戦入り1回戦郷田真隆敗れる)。 2007年以降早指し棋戦での活躍顕著になる第57回2007年度NHK杯戦は、予選杉本昌隆小林健二らを破りプロ入り21年目にして本戦初出場本戦でも井上慶太松尾歩らを破って勝ち進みさらには準々決勝羽生善治無理攻め受け止めて勝利しベスト4進出準決勝前回優勝者であり同門弟弟子でもある佐藤康光この期優勝する)に敗れたものの、次期シード権獲得した第21期2008年度竜王戦では5組昇級者決定戦制して4組復帰。 第18期2009年度 - 2010年度銀河戦では、決勝トーナメント出場者を決めブロック戦勝又清和(7回戦)・神谷広志(8回戦)・屋敷伸之(9回戦)・高橋道雄10回戦)・久保利明11回戦)らを破り決勝トーナメント進出1回戦行方尚史敗れる)。翌第19期でも、高崎一生橋本崇載らを破り2年連続決勝トーナメント進出。更に決勝トーナメント1回戦でも木村一基破りベスト8となった準々決勝糸谷哲郎敗れる)。そして翌第20期も本ブロックを5連勝突破し3年連続決勝トーナメント進出1回戦広瀬章人敗れる)。 2016年度ではデビュー以来最大絶不調陥る第75期順位戦では1勝9敗で降級点、年度の全成績でも3勝19敗と大幅な負け越しとなった2017年度不調続き第76期順位戦では2勝8敗で2回目降級点となり、C級2組陥落した第30期竜王戦でも3連敗して5組降級また、年度の全成績は5勝20敗であり、再び大幅に負け越した第27期2018年度 - 2019年度銀河線本戦Gブロック4回戦で、1回戦から勝ち上がってきた立命館大学1年生木村孝太郎アマ対戦し118手目二歩打って反則負けとなった二歩による反則負けは、第22期2013年度 - 2014年度銀河戦本戦Bブロックの沖幹生アマ伊藤博文以来5年ぶりで、銀河戦史上3度目となった。 第32期2019年度竜王戦では5組で3連敗喫し6組降級となった。 第79期(2020年度C級2組順位戦では3勝7敗で終わり1回目降級点となった

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桐山清澄」の記事における「棋歴」の解説

5歳ぐらいの頃、縁台将棋見て将棋覚える。 1957年4月9歳升田幸三門下となり上京して内弟子となる。升田妻の実家隣町にあり、そこに升田避暑来ていたことで偶然出会ったのがきっかけだという。内弟子同時に奨励会初等科入会するが、慣れない環境もありホームシックのために同年7月帰郷する本人によれば「たった数ヵ月では帰りにくかったとのことで、すぐには故郷戻らず大阪叔母ところに1年ほど住んでいた。 1958年、7級で増田敏二門下として再度入門当時田中魁秀とよく練習将棋指していたという。中学卒業後は関西将棋会館の「塾生」となる。 旧制度奨励会三段リーグ1964年前期から在籍3期目11勝1敗というずば抜けた成績関西優勝をするが、中原誠との東西決戦昇段逃す。しかし、次期1965年後期で再び11勝1敗で1位となり、規定により東西決戦なしで四段昇段プロ入り)を果たす。 順位戦では、第23期1968年度)のC級2組11勝1敗(1位)、第24期1969年度)のC級1組10勝2敗(2位)、第27期1972年度)のB級2組で8勝2敗(1位)でそれぞれ昇級。そして、第29期(1974年度)のB級1組12勝1敗で1位の成績収め1975年4月にA級八段となった四段から八段までの昇段が、すべて順位戦規定での昇段である。以降12期連続でA級在籍1975年度、王座戦決勝三番勝負中原誠2-0破り棋戦初優勝1976年前期棋聖戦タイトル初挑戦大山康晴1-3敗れ奪取はならなかった。 1976年前期早指し選手権戦で優勝。同棋戦では、1983年度2度目優勝をしている。 1980年度順位戦A級リーグにおいて7勝2敗で優勝し1981年名人戦挑戦者となるが、中原との七番勝負1-4敗退1983年度十段戦でも中原挑戦したが、七番勝負2-4敗退1982年度第1回全日本プロトーナメントにおいて、決勝三番勝負青野照市2-1勝利し初代優勝者となる。 1984年度棋王戦五番勝負米長邦雄四冠王3-1破り、初のタイトル獲得米長永世棋王獲得(5連覇)を阻止した翌年度谷川浩司0-3奪われる1986年度から1987年度前半にかけては、大活躍する。第48期1986年度前期棋聖戦五番勝負で、またも米長邦雄からタイトル奪取し3-1)、2度目タイトル獲得王座戦中原誠挑戦0-3敗退)。第49期1986年度後期棋聖戦南芳一挑戦3-1退けタイトル初防衛。さらに、第50期1987年度前期棋聖戦西村一義挑戦3-0ストレート下し棋聖3連覇半年後に、南芳一0-3奪われる)。 1988年度第1期竜王戦1組優勝2007年8月9日公式戦通算900勝を達成した史上9人目で、59歳での達成最年長記録還暦超えてからも各棋戦において健闘し3組在位迎えた50代最後竜王戦2007年度第20期)では決勝戦まで勝ち進み2組昇級決めた2017年度NHK杯テレビ将棋トーナメント予選1回戦井上慶太に、2回戦小林健二に、決勝増田裕司それぞれ勝利し69歳にして本戦出場。これは同年度同棋戦本戦出場50人の中で最高齢1回戦飯島栄治敗れ本戦勝利はならなかった。 加藤一二三及び森雞二規定により引退した2017年度以降は、桐山最高齢かつ最古参、そして唯一の棋士番号2現役棋士となった2018年3月時点公式戦通算勝利992勝で、通算1000勝まであと8勝に迫るも、2018年度前年度から26連敗するほど大不振の年となり、第77期順位戦C級2組2つ目の降級点喫した第32期竜王戦5組昇級者決定戦伊奈祐介勝利して連敗止めたものの、この年度の公式戦勝利はこの1勝のみであった2019年度公式戦連敗続き2020年1月16日行われた第78期順位戦C級2組8回戦で高見泰地敗れ0勝8敗となり、この時点3つ目の降級点確定しフリークラス陥落年齢制限により竜王戦を除く2020年度以降公式戦参加資格失ったこの年度も順位戦9回戦で近藤正和勝利した1勝のみに終わった第33期竜王戦5組在籍維持した場合のみ、竜王戦限り34期出場が可能であったが、2020年7月7日行われた竜王戦5組残留決定戦井出隼平千日手指し直しの末に破り現役続行決めとともに通算995勝目挙げた第34期竜王戦では前期続いて5組残留決定戦回ったが、2021年5月14日の上亘戦に勝利して5組残留そして現役続行決めとともに通算996勝目挙げた。なお、フリークラス編入経て在籍期限経過後、竜王戦5組在籍による特例規定2年間に限られるため、第35期竜王戦4組昇級することができなければ引退決定する。しかし2022年2月22日5組昇級決定戦伊奈祐介七段に敗れたことで4組昇級なくなり引退決定2022年4月27日5組残留決定戦畠山鎮戦が最終局となり現役引退した1000勝を目前しながらあと4勝及ばず引退となった

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青野照市」の記事における「棋歴」の解説

将棋熱中し出したのは中学の頃で、後に一流棋士になった者としては晩学である。1968年昭和43年)に15歳新進棋士奨励会4級入会将棋会館寝泊まりし雑用をこなす「塾生となった東西対抗三段リーグ制度奨励会A組)の最後リーグ卒業者である。青野関東優勝決めた後、過去2度関西優勝歴があった淡路仁茂関西優勝したため東西決戦なしで二人同時に四段昇段することとなった。その朗報青野のもとに届いた当日青野がちょうタイトル戦記録係をしていたことは話題となったプロ1年目1974年度、21歳)で新人王戦優勝出場時は四段昇段であったが、2回戦3回戦の間に四段昇段している。 プロ2年目1975年度)には、順位戦C級1組昇級決めさらには第27期棋聖戦第2回名将戦も本戦で活躍するなど全棋士トップ勝率(0.745)を挙げ第3回将棋大賞勝率一位賞と新人賞同時受賞1978年度、公式戦15連勝記録将棋大賞連勝賞)。同年度、第5期名棋戦優勝。 第37期(1978年度)C級1組順位戦、第38期(1979年度B級2組順位戦で、ともに9勝1敗で1位となり、2年連続昇級B級1組上がる。そして、B級1組3年目で9勝3敗・1位の成績収め1983年、A級八段となる。その後3期目陥落するが、1期復帰している。 1979年度新人王戦2度目優勝記念対局では、前回優勝時には敗れた中原誠名人に勝つ。 第32回1982年度NHK杯戦で決勝進出中原誠敗れて準優勝第1回全日本プロトーナメント準優勝第24期1983年度王位戦リーグ入り谷川浩司大山康晴田中寅彦森安秀光相手に4連勝する快進撃であったが、5回戦新鋭高橋道雄との全勝対決敗れ挑戦逃す高橋この期王位獲得し史上最低段タイトル記録作ることとなる)。 第46期(1987年度A級順位戦で5勝4敗とし、A級で初め勝ち越す。 第37期(1989年度王座戦タイトル初挑戦五番勝負途中まで2勝1敗として中原誠王座角番追い詰めるが、そこから2連敗して惜敗全局先手勝利タイトル戦であった第3期1990年度竜王戦高橋・谷川中原らを破り1組優勝2000年10期ぶりにA級に復帰以降4期連続在籍)。同年史上23人目通算600勝(将棋栄誉賞)を達成次の59期A級順位戦では5勝4敗とし、A級の順位自己最高の5位とした。 第8回2000年)および第11回2003年)の達人戦非公式戦)で優勝第16回2008年)には準優勝。 第68期(2009年度B級2組順位戦で、降級点1つ抱えた状態で前半戦4連敗しC級1組への陥落危ぶまれたが、そこから5勝5敗の指し分けとし、逆に降級点消した2年連続指し分け規定)。同じクラスから元タイトルホルダー内藤國雄森雞二降級していく中で、ベテラン意地見せた2010年第58期王座戦ベスト4進出2011年2月17日史上23人目通算700勝(655敗)を達成還暦迎えて以降も、特に順位戦において健闘続けてきた。第70期(2011年度順位戦桐山清澄当時64歳)がC級1組降級して以降昭和20年代生まれ棋士唯一B級2組留まり続ける。なお当期順位戦では、1勝9敗と振るわず再び降級点喫してしまったものの、翌第71期は2勝5敗から後半戦3連勝で5勝5敗の指し分け、翌第72期は4勝6敗と負け越したものの前期好成績影響し降級点回避した。 翌第73期は3勝5敗からの2連勝で5勝5敗の指し分け、翌第74期初戦から2連勝好調に滑り出し後半戦でやや失速し最終局(10回戦・対井上慶太戦)を4勝5敗で迎えた。この対局に勝ち、2期連続指し分け成績により、再び降級点抹消。 第42期(2016年度棋王戦予選千葉幸生六段に勝ち、10年ぶりとなる本戦進出本戦トーナメントでは糸谷哲郎八段敗れた第76期順位戦C級1組、第79期でC級2組降級した。2022年度桐山清澄引退により現役最年長フリークラス宣言場合定年となる65歳超える現役でも唯一の棋士となる。

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高田明浩」の記事における「棋歴」の解説

小学生3年時に、家に将棋教室先生来てくれたのがきっかけ将棋始める。3年の冬には東海研修会入会2014年第39回小学生将棋名人戦準優勝同年夏に新進棋士奨励会入会するこの頃ある研究会藤井聡太と指すことになり、右玉戦法藤井圧倒したため、以後しばらくは右玉戦法主力としていた。 三段昇段し2期めの2020年後期第68回三段リーグ13勝5敗の成績修め1986年長沼洋以来35年ぶりの岐阜県出身プロ棋士となった(なお女流棋士には山口仁子梨山口稀良莉姉妹がいる)。 第35期竜王戦6組ランキング戦準決勝にて門倉啓太破り決勝進出5組昇級決める。

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西尾明」の記事における「棋歴」の解説

将棋との出会い3歳のとき。祖父伯父指しているのをみてなんとなくルール覚えた小学校1年生のときから2歳上の兄と将棋センターに通う。1988年小学3年生予選出場2年生から)のとき、第13回小学生将棋名人戦準優勝翌々年1990年9月から奨励会指し始め1999年度前期から三段リーグ参加する。そして、混戦となった2002年度後期三段リーグ11勝7敗という成績2位となり、四段昇段果たした11勝7敗での四段昇段前例野月浩貴のみであり、このときは村山慈明遠山雄亮佐藤天彦広瀬章人などが同成績激戦であったが、順位恵まれた西尾昇段となった。 第12期2004年度銀河戦で、決勝トーナメント進出。 第78期(2007年度棋聖戦で、中原誠森内俊之当時名人)らを破りベスト8入り第24期2011年度竜王戦3組準決勝2011年4月21日)で小林裕士勝って2組昇級決め六段昇段第23期2015年度銀河戦では本戦トーナメントで9連勝達成しブロック最多連勝者として決勝トーナメント進出決勝トーナメントでも三浦弘行破りベスト8成績残したまた、非公式戦ではあるものの、2014年開催され将棋電王戦タッグマッチにおいてponanzaチーム組み優勝果たした2017年3月2日第75期順位戦C級2組で9勝1敗の一位となり、C級1組昇級決まった2019年2月13日規定成績挙げたとして、七段に昇段。この日行われた第45期棋王戦予選藤森哲也勝ったことによる勝数規定満たしてのものであるが、この時点で第26銀河戦結果2018年12月25日収録2019年2月14日放映田中悠一戦の勝利と、2019年1月17日収録2019年3月14日放映宮本広志戦の敗退)が放映されていなかったため、詳細な事由公表はされなかった。発表14日夕方だったため、1日遅らせていれば勝数規定明確に発表できたのであるが、それを待つことなく発表された。

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鈴木輝彦」の記事における「棋歴」の解説

1970年16歳のときに廣津弟子となり、奨励会指し始める。二段昇段1973年5月)から三段昇段1977年4月)までが長かった。ただし、三段昇段事由となった12勝3敗の途中には、結核患ったことによる半年休場がある。 デビュー直後の第38期(1979年度順位戦C級2組当時の名称は「昇降リーグ戦4組」)で8勝1敗で最終戦迎え昇級争いに加わるが、敗れて8勝2敗となり次点(4位)で昇級逃す。ところが翌年(第39期)では最後に2連敗して7勝3敗の成績ありながら前期成績によるリーグ上位活き2位となり、C級1組昇級。その翌年の第40期(1981年度C級1組では8勝2敗で2位となり、連続昇級B級2組上がる。 第48期1989年度順位戦B級2組で7勝3敗ながら2位となり、A級に一歩手前B級1組昇級段位は七段となった翌年、第49期1990年度B級1組では、元棋聖田中寅彦当時王座獲得途上にあった福崎文吾などから勝利を挙げるも、3勝8敗で陥落。なお、第50期1991年度順位戦では9回戦(1992年2月21日)で羽生善治竜王と当たり、負けている。 第6期1980年度棋王戦初代棋王大内延介らに勝ち、本戦3回戦進出1981年度第31回NHK杯戦の3回戦中原誠棋聖に勝ち、4回戦進出ベスト8)。 第37期(1989年度王座戦では、予選1988年度)で大内延介王将2期中村修らに勝ち本戦進出本戦では谷川浩司名人に勝ち2回戦進出。 第43期(1995年度王座戦中原誠永世十段予選決勝破り、さらに本戦ではタイトル5期南芳一勝って2回戦進出。しかし、その一方で54期1995年度)- 第55期1996年度)の順位戦B級2組2期連続降級点喫しC級1組への陥落決定鈴木C級1組で指さずに将棋普及活動文筆活動力を入れたいとし、フリークラス宣言をして順位戦から転出する道を選択2004年フリークラス在籍期限よりも前に引退届を提出し引退2017年5月29日日本将棋連盟理事非常勤)に就任

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伊藤真吾」の記事における「棋歴」の解説

5才の時、父(アマ5段)に教わったのが、将棋はじめたきっかけである。父親と同じ「八王子将棋クラブ」に通っていた。 小学4年生のときにプロをめざしはじめ桜井昇八段入門する11歳(小6)で奨励会入会奨励会三段リーグにおいて、第36回2004年度後期14勝4敗で次点第40回2006年度後期)でも13勝5敗で次点となり、通算2度次点規定によりフリークラスプロ棋士となる権利を得る。当時25歳年齢制限迫っていたこともあり、権利行使してプロデビューした。 また、上記の他に第39回でも14勝4敗の成績残しており、ここでは次点にも届いていない(昇段者は佐藤天彦戸辺誠次点豊島将之)。通常奨励会三段リーグ14勝4敗の成績はほぼ昇段が確実とされる成績であり、この成績昇段に至らなかった例は現在までに7例しかない(豊川田村豊島伊藤2、服部西山)。また、14勝を2度13勝を1度という極めて高い成績残しながら一度2位以内に届かなかった棋士伊藤のみである。 第60回NHK杯で、予選突破して初の本戦出場を果たす。本戦では一回戦阿部隆勝利し二回戦羽生善治敗れた2011年7月25日から11月25日まで公式戦16連勝記録。そして12連勝目に当たる10月26日第24期竜王戦6組3位決定戦敗者復活戦)の大野八一雄戦の勝利で、竜王戦5組昇級決めると同時にフリークラスから順位戦C級2組への昇級条件1つ良い所取り30局以上で勝率6割5分以上)を2111敗で満たしフリークラス四段棋士となってから4年7ヶ月順位戦参加資格勝ち取った2013年度開催され第7回朝日杯将棋オープン戦では当時順位戦A級棋士である谷川浩司本戦トーナメント破りベスト8、翌2014年度開催され第8回大会では当時順位戦A級棋士である阿久津主税三浦弘行本戦トーナメント破りベスト4に入る活躍をみせた。

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伊藤能」の記事における「棋歴」の解説

1984年22歳奨励会三段となったが、その後、なかなか四段昇段プロ入り)ができなかった。 1987年三段リーグ制度復活し四段昇段狭き門となるが、その第1回四段昇段の2名は、いずれも米長門の弟弟子中川大輔先崎学であったその5年後、伊藤は、当時規定である年齢制限31歳までに四段昇段)の1期前の第11回三段リーグ2位入り四段昇段プロデビュー)を果たした。その最終日は、リーグ順位22位、成績4番手で迎えたが、2戦2勝し、さらにライバル敗れて大逆転で、伊藤自身は「神風「奇跡」表現したプロ入り後は主に早指し棋戦でその才能発揮し第44回1994年度NHK杯予選勝ち抜き本戦進出1回戦森雞二に、2回戦では東和男それぞれ勝利したいずれも後手番から相手の得意戦法からの激し攻め動じることなく受けて立つ伊藤ならではの勝局であったその他にも、要所要所見せ場作っている。第19回全日本プロ将棋トーナメント1回戦2000年6月16日)では、後に初代永世竜王となる渡辺明棋士人生初の黒星を喫させ、第61期順位戦C級2組3回戦2002年8月20日)では、第30回将棋大賞連勝賞を受賞した山崎隆之連勝16止めた。 その一方で持ち時間長い順位戦不得手としており、C級2組13年指したあいだ、指し分け(5勝5敗)を超える成績収められず、第54期1995年度)及び第64期(2005年度)で降級点喫し2006年フリークラス宣言をした。 順位戦同様に持ち時間長い竜王戦不得手としており、第6期1992-1993年度)から第29期(2015-2016年度)まで、最下クラス6組から昇級できずにいた。 2016年12月25日現役のまま死去54歳没。日本将棋連盟は七段を追贈した(2016年12月25日付)。

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石川優太」の記事における「棋歴」の解説

6歳の頃、祖父と父が指しているのをみて将棋始める。2006年開催され第31回小学生将棋名人戦優勝同年9月奨励会入会2013年4月奨励会三段となる。三段として2016年度第6回加古川青流戦出場して決勝進出井出隼平との三番勝負は1勝2敗に終わり準優勝となる。 奨励会三段リーグ第58回2015年度下期)と第64回2018年度下期)にて最終局で敗れて昇段逃す第64回では、次点獲得している)。そして第65回2019年度上期)にて、13勝5敗でリーグ2位の成績挙げ遂に四段昇段によるプロ入り決めた。なお、三重県出身棋士プロになるのは、澤田真吾以来10年ぶりの事だった。

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小倉久史」の記事における「棋歴」の解説

初挑戦となった1988年前期三段リーグ16勝2敗で1位通過20歳プロデビュー中原弟子の中で、最も早くプロになった小倉に土をつけた屋敷伸之2位小倉と同様三段リーグ1期抜け果たしたが、第1回を除くと三段リーグ初挑戦者によるワンツーフィニッシュ2013年9月に至るまでこの時が唯一であり、三段リーグ1期抜け両者のほかには第12回1992年度後期)で川上猛第24回1998年度後期)で松尾歩第53回2013年度前期)で三枚堂達也第59回2016年度前期)で藤井聡太達成しただけである。

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大野八一雄」の記事における「棋歴」の解説

奨励会への入会16歳8ヶ月高校2年)と非常に遅かった。しかし入会後は、初段までハイペース昇段するなど、大きく成績を崩すことなかった。1982年6月7日23歳四段昇段しプロ入り遂げた1990年新人王戦準優勝決勝三番勝負で、森下卓敗戦)。1998年第11期竜王戦で、ランキング戦5組優勝して本戦出場を果たす(6組優勝した北島忠雄1回戦敗れる)。 順位戦では初参加の第42期(1983年度)よりC級2組在籍。第46期(1987年度)及び第51期1992年度)では7勝3敗の好成績だったが、昇級には至らなかった。第62期(2003年度)に3つ目の降級点取りフリークラス降級した。その後10年以内C級2組昇級条件を満たすことが出来ず規定により2014年5月1日引退となった

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熊坂学」の記事における「棋歴」の解説

第30回2001年度後期三段リーグで、13勝5敗で大平武洋に次ぐ2位入り24歳四段昇段三段リーグでは、当時中学3年生で後に永世竜王となる渡辺明2度対戦しいずれも勝利した。 しかしプロ入り後は実力発揮できず、順位戦では初参加の第61期(2002年度)から3期連続降級点喫し順位戦制度最短記録最年少記録27歳)でフリークラス陥落してしまった。成績は第61期で2勝8敗(45人中43位)・第62期で3勝7敗(44人中37位)・第63期で2勝8敗(47人中44位)。B級2組以下の順位戦1期あたり10戦に定着した第27期1972年度)以降の、初参加期順位戦における最少勝数の記録でもある。 2005年度第31期棋王戦予選決勝で、中座真五段に勝ち、本戦出場現役13年において、タイトル戦本戦出場はこれが唯一であった2010年10月8日竜王戦6組昇級者決定戦3位決定戦)で櫛田陽一勝って5組昇級決め竜王戦順位戦通じて棋士人生初の昇級2014年5月22日竜王戦5組残留決定戦川上猛破れ6組降級2014年8月3日放送日)、NHK杯将棋トーナメント初出場1回戦香川愛生対戦香川師匠中村修九段解説者であるにもかかわらず熊坂、金を取れ、よし、取った!」と声を出すほどの熱戦繰り広げ96手で全棋士参加棋戦本戦での初勝利を挙げた11月23日放送日対局後述内戦の前)の2回戦も、インタビュー時に最近、少し調子がいい」と謙遜して答えていたが、惜しくも畠山鎮七段に敗れた2014年10月22日第56期王位戦予選2回戦森内俊之竜王勝利フリークラス所属棋士タイトルホルダー勝利したのは2008年銀河戦本戦トーナメント中原誠永世十段羽生善治名人勝利して以来6年ぶり。順位戦の最高所クラスC級2組フリークラス棋士タイトルホルダー勝利したのは2005年銀河戦決勝トーナメント櫛田陽一六段佐藤康光棋聖勝利して以来9年ぶり。中原櫛田はいずれも自らの意志転出宣言)したフリークラスだったため、「順位戦C級2組降級点が3累積しフリークラス編入された」棋士として史上であった2015年2月5日竜王戦6組ランキング戦2回戦渡辺大夢勝利し、この時点における熊坂成績は、 前年度NHK杯予選1回戦からの17局:17102014年度成績1410であった熊坂2014年度末までのフリークラス在籍期限迫っており、年度末での引退決定回避するためには2014年度中に順位戦C級2組復帰しなければならなった。C級2組昇級条件は、 直後の3局を3連勝連続30局で2010敗、勝率.667で「良い所取りで、30局以上の勝率が6割5分以上」を満たす年度末まで3勝1敗以上(年度成績1711敗、勝率.647で「年間対局成績で、「参加棋戦数+8」勝以上の成績挙げなおかつ勝率6割以上。」を満たす) のどちらか成績達成することであった。 そして、2015年2月19日NHK杯予選1回戦大平武洋勝利するも、2回戦高橋道雄敗れ連続30局で2010敗」は達成出来なかった。3月19日竜王戦ランキング戦3回戦では増田康宏敗れ、「年度成績1711敗」も達成出来なかった。 2015年4月1日フリークラス編入者の在籍年限となる10年経過したことにより、連盟より引退発表される5月7日第28期竜王戦6組昇級者決定戦2回戦石井健太郎敗れ、この対局をもって現役引退となった1994年4月順位戦制度及びフリークラス規定現行のものになって以降四段昇段から最短13年1ヶ月での現役引退となった棋士番号200番台棋士として、そして21世紀四段昇段した棋士として初めての引退であった

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三枚堂達也」の記事における「棋歴」の解説

三枚堂の祖父懇意にしていた内藤國雄すすめられ将棋覚える。内藤紹介石田和雄師範務める「将棋センター」に、1歳年下佐々木勇気と共に幼稚園時代から通い詰め石田見守られつつ棋力を向上させた。 2004年9月内藤國雄門下奨励会入会6級から5級昇級するのに1年8ヶ月費やしその間2回に亘り7級降級危機瀕し2級から1級にも1年3ヶ月1級から初段にも1年7ヶ月初段から2段にも1年9ヶ月費やすなど、段級位低かった頃は著しく苦労した。しかし、2011年12月二段となって以降一転して好調維持し1年経った2012年12月三段となり、2013年度前期第53回から三段リーグ参加する権利得た三段リーグ参加後好調続き初参加の第53回2番手(13勝3敗)の状態で最終日迎え1勝1敗としたものの、3~4番手(12勝4敗)の参加者いずれも連勝しなかったことにより、最終的に14勝4敗・2位成績修め第24回1999年度後期)の松尾歩以来29回(14年6ヶ月)ぶり、現行制度以降5人目の“三段リーグ1期抜け”の快挙遂げる形で四段昇段プロ入り)した。 このようなスピード昇段”を遂げた為、奨励会三段として出場できる公式戦竜王戦新人王戦加古川青流戦)に出場した経験が無い。 プロ四段としての対局2013年12月20日第40期棋王戦予選対局相手偶然に佐々木勇気であった。(結果負けプロ5年目順位戦4年目)となる2017年度は、前年度成績優秀につき第67回2017年度NHK杯将棋トーナメントシード予選免除)となり、本戦トーナメント初出場本戦1回戦で、菅井竜也七段に敗れた2017年5月8日、第30竜王ランキング戦5組準決勝戦(対伊藤真吾五段)に敗れ、この時点での竜王ランキング戦連続2回昇級による五段昇段逃すが、この敗戦六段・七段への昇段早めるきっかけとなった詳細後述)。 2017年7月27日第11回朝日杯将棋オープン戦一次予選(対増田康宏四段)に勝ち、勝数規定四段昇段100勝)を満たし五段昇段2017年8月27日第2回上州YAMADAチャレンジ杯で、大橋貴洸準決勝)と髙見泰地決勝)を破り棋戦初優勝2017年11月24日、第30竜王ランキング戦5組昇級者決定戦(対富岡英作八段)に勝ち、4組昇級とともに六段昇段竜王ランキング戦連続2回昇級による)。もし上述同年5月8日準決勝戦勝っていたら、その時点で竜王ランキング戦連続2回昇級で五段に昇段したはずだが、同年7月27日の勝数規定による昇段なくなり、他に昇段規定該当する事由がなかったため、同年六段への昇段はなかった。結果的に5月8日敗戦が、短期間四段から六段へと昇段する結果もたらした。この件に関し片上大輔七段が「三枚四段竜王戦裏街道回ってから昇級したことで、六段ジャンプアップというケース生じました。」と述べている 2018年5月4日、第31竜王ランキング戦4組2位となり、3組昇級2019年9月4日、第32期竜王ランキング戦3組昇級者決定戦(対行方尚史八段)に勝利して2組昇級六段昇段後の竜王ランキング戦2回連続昇級により、七段に昇段した上述敗戦による六段へのスピード昇段が、七段へのスピード昇段にも繋がった第78期順位戦は9勝1敗の好成績クラス2位となり、C級1組への昇級決めた

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服部慎一郎」の記事における「棋歴」の解説

小学校3年生の夏、担任の先生JTこども大会案内をもらい、新潟開催され大会で負けてくやしかったので強くなろうと思って本格的に将棋始める。小学校4年生まで魚津市立道下小学校通い道下公民館主催する将棋サークル通っていた縁で、同公民館InstagramTwitter服部応援している。 2019年奨励会三段時代出場した第9期加古川青流戦では決勝まで駒を進め池永天志四段敗れたものの準優勝結果残した三段リーグでは初参加となる2017年第62回奨励会三段リーグ14勝4敗の好成績をあげるも、順位差から次点留まり1期抜けとはならなかった(14勝をあげながら昇段とならなかったのは2006年第39回豊島将之伊藤真吾2度目以来5人目、6例目)。しかしその後11勝、10勝、12勝とコンスタント成績残し続け2019年第66回奨励会三段リーグで再び14勝4敗を記録今度順位差によって同じく14勝4敗だった西山朋佳かわして2020年4月1日付での四段昇段プロ入り決めた同期昇段谷合廣紀同日付でのプロ入り編入試験合格者である折田翔吾がいる。 2020年度初参加の第79期順位戦C級2組では8勝2敗と健闘勝敗数では3位タイであったものの、順位の差から昇級次々点のリーグ5位に留まり三段リーグ続き初参加ゆえの順位低さが響く形となった2021年度第10期中止挟んで2年ぶりの開催となった第11期加古川青流戦では、第9期決勝敗退後に残した「また来年四段になってこの舞台戻ってきたい」の言葉通り四段となって再び決勝まで進出井田明宏四段との三番勝負を2勝1敗で制し一般棋戦初優勝した。 第80期順位戦C級2組では開幕7連勝好調なスタートを切りながら終盤3局で2敗を喫したことで8勝2敗のリーグ4位に終わり昇級逃す結果となった第7期叡王戦では四段予選勝ち抜き本戦トーナメント出場八代弥七段、豊島将之九段船江恒平六段破り、同棋戦四段予選勝ち抜き者としては初め挑戦者決定戦へと進出したが、出口若武五段に敗れタイトル挑戦とはならなかった。

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黒沢怜生」の記事における「棋歴」の解説

小学1年次に、児童館教えられたことが将棋覚えたきっかけ翌年には埼玉県小学生準名人獲得するほど上達する2001年熊谷市東小学校4年第26回小学生将棋名人戦では、東日本代表として決勝トーナメント進出し準優勝する。この模様NHK教育テレビ放送された。2002年熊谷市東小学校5年第27回小学生将棋名人戦では、東日本代表として決勝トーナメント進出し4強敗れる。この模様前述同様NHK教育テレビ放送された。2003年熊谷市東小学校6年第2回全国小学生倉敷王将戦高学年の部では4位。 2003年9月高橋道雄門下奨励会入会入品までは順調に昇級重ねるも、初段ではB(奨励会降段点)を2度取るなど3年余り昇段掛かったが、二段では3連勝後1敗の後8連勝で3か月余り三段昇段果たし三段リーグ入りを果たす。三段リーグでは、初参加の48回では当回で四段昇段決めた阿部光瑠最終局に勝利し1位昇段阻止するなど見せ場作ったものの、54回までは参加7期6363敗と中位成績に留まっていた。2012年よりNHK杯テレビ将棋トーナメント記録係務める。第55回三段リーグでは、10戦目までで5敗の後、6連勝し11勝5敗(7番手)で最終日迎えたが、最終日に2連勝した終了時点でも、上位者3名中2名が勝つと昇段できない状態であったそのうち増田康宏のみが勝利したため同星2位四段昇段遂げた師匠高橋は、四段昇段もう少し早く予想していたことを述べつつ、今後活躍期待する旨を公式ブログ明らかにしている。 第66回2016年度NHK杯将棋トーナメント予選決勝長岡裕也五段に勝ち、奨励会時代長らく記録係務めていたテレビ棋戦初出場第65回予選2回戦佐藤紳哉六段敗れている)。対局者としては初めてとなる1回戦では、師匠である解説者高橋道雄九段見守るなか健闘するも、第1期叡王戦優勝者山崎隆之八段敗れた第29期竜王戦でも連勝続け5組ランキング戦準決勝村田顕弘六段に勝ち、4組昇級とともに2年連続昇級により五段へ昇段つづいて決勝でも、先崎学九段に勝ち本戦トーナメント出場本戦では、1回戦6組優勝者青嶋未来五段に敗れた。 第43期(2017年度棋王戦挑戦者決定戦トーナメントでは、行方尚史八段橋本崇載八段鈴木大介九段らに勝ちベスト4進出準決勝三浦弘行九段敗れるも、敗者復活戦佐藤天彦名人敗者復活戦回った三浦勝利して挑戦者決定二番勝負進出。2連勝が必要となる永瀬拓矢七段との対戦は1勝1敗に終わり挑戦はならなかった。

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大島綾華」の記事における「棋歴」の解説

父から教わり将棋始める。 その後アマチュア女流棋戦などに参加をする傍らで、2016年11月関西研修会D2入会4年半ほど在籍して2021年3月既定成績クリアしてB2昇級2021年5月1日付で女流2級として関西所属女流棋士になる。

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山口英夫 (棋士)」の記事における「棋歴」の解説

1957年5級原田泰夫九段門下となり奨励会入り1964年四段1985年七段。2002年3月末引退2006年八段1970年度の第1回新人王戦優勝兄弟弟子には佐藤庄平桜井昇近藤正和らがいる。 2018年5月20日死去76歳没。

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木下晃」の記事における「棋歴」の解説

奨励会6級時代長く、「奨励会の主」という不名誉なニックネームがつく。 1963年度後期奨励会A組旧制度三段リーグ)で関西優勝東西決戦山口英夫破り四段昇段プロ入り)。それから間もなく第8回1964年度)古豪新鋭戦準優勝決勝米長邦雄四段敗れる)。 第36期C級2組順位戦累積2つ目の降級点喫し順位戦からの陥落危機迎えるが、翌年度、第37期(1978年度)C級2組順位戦で9勝1敗(2位)の成績収めC級1組昇級順位戦史上降級点2点からの昇級は、木下初めてのケースである。 第31回1981年度NHK杯戦で大内延介八段森雞二八段大山康晴王将らを破りベスト4進出活躍準決勝加藤一二三十段敗れる)。 1982年度、全棋士参加大型棋戦としてスタートした全日本プロ将棋トーナメント」の第1回で、弟子南芳一五段(5年後二冠王となる)らに勝ち5回戦進出5回戦桐山清澄八段敗れる)。 1999年度フリークラス在籍で満60歳誕生日迎え2000年春に現役引退通算400勝まであと2勝であった。その直後に七段に昇段第13期竜王戦6組昇級者決定戦2回戦(対増田裕司)のみ七段棋士として対局した。 2010年10月7日大腸がんのため大阪市内病院死去71歳没。

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佐藤大五郎」の記事における「棋歴」の解説

8歳小学3年の頃、父と兄から習い将棋始める。 1953年16歳アマチュア名人戦北海道代表になり、1954年1級渡辺東一名誉九段入門1957年四段プロ入り)。 第14期1959年度C級2組順位戦第15期1960年度C級1組各々1位の成績収め2期連続昇級B級2組昇級第11期1961年度王将戦リーグ入り。4勝3敗で勝ち越すが、同星の加藤博二二上達也との残留決定戦敗れリーグ陥落1964年第4回最強者決定戦」で二上達也丸田祐三らを破り決勝進出内藤國雄決勝三番勝負戦い、1勝2敗で準優勝同じく1964年度、第19期B級2組順位戦で9勝3敗・2位成績収めB級1組昇級第6期1965年度)王位戦初めタイトル挑戦者となる。相手は、五冠独占連続3年目途中にあった大山康晴七番勝負0-4ストレート負けとなった。なお、王位リーグには通算8回入っている。 第6期1967年度)十段戦で、狭き門十段リーグ初めて入る。升田幸三二上達也には各々1勝1敗とするが、他の3名からは1勝も挙げられず、2勝8敗で陥落。 第26期(1971年度)B級1組順位戦で7勝1敗・1位の成績収めA級へ昇級第27期1972年度)A級順位戦は5勝5敗で残留。第28期(1973年度)A級順位戦は2勝8敗で降級第20期棋聖戦1972年前期)と第21期棋聖戦1972年後期)で、挑戦者決定戦進出する敗れる。 第12期1973年度)十段戦2度目十段リーグ入りをし、5勝5敗で残留次期は3勝7敗で陥落1977年第4期名棋戦」で、棋士人生唯一の優勝。 第37期(1978年度)B級2組順位戦で、前半の2勝3敗から粘って5連勝し、7勝3敗・1位でB級1組復帰。これが最後順位戦昇級となった第1期竜王戦1987 - 1988年)で、佐藤3組からのスタート初戦から2連敗し、1期目にして降級ピンチ迎える。残留決定戦(4名中3名が降級)の1回戦相手芹沢博文死去したため不戦勝2回戦丸田祐三に勝ち、降級免れた順位戦C級1組在籍時の1996年3月59歳で自ら現役引退する2010年9月1日慢性腎不全死去享年73

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賀集正三」の記事における「棋歴」の解説

1956年四段昇段プロ入り)。 第9回1965年古豪新鋭戦優勝1966年東西対抗勝継戦で5人抜き優勝)。 プロ入りから14年後の1970年四段のまま引退する日本将棋連盟関西本部普及部を長く担当また、自宅教室出張先のクラブ、団体等での指導、町の文化委員務めるなど、将棋普及活動広く尽力2017年9月6日85歳死去

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北村昌男」の記事における「棋歴」の解説

1953年プロデビュー初参加の順位戦第8期C級2組順位戦)において7勝3敗で2位となり、1期C級1組昇級2年後第10期1955年度C級1組順位戦11勝2敗の1位で、B級2組昇級。このとき、2位同時に昇級した神武以来の天才’こと加藤一二三から白星挙げた。 さらに2年後の第13期(1958年度B級2組順位戦では9勝4敗の1位でB級1組昇級以降17年B級1組在籍し続けたが、A級昇級には手が届かなかった。 第10回1965年度)高松宮争奪戦大山康晴名人(五冠独占中)、塚田正夫永世九段らに勝ち、決勝三番勝負進出山田道美に1勝2敗で敗れるが、高松宮賞を獲得1967年第10期棋聖戦中原誠らに勝ち、予選突破本戦では升田幸三九段らに勝ち、準決勝丸田祐三八段敗れる。 1969年度、第15期棋聖戦本戦で、大山康晴芹沢博文二上達也破り挑戦者決定戦進出内藤國雄敗れる。 第13回1979年度早指し将棋選手権4回戦進出第7回1980年度名棋戦青野照市福崎文吾らに勝ち優勝。同棋戦最後優勝者となった1987年度から2年間、日本将棋連盟理事務める。 1994年9月現役引退2019年10月現在、棋士番号を持つ存命将棋棋士の中で最も棋士番号が若い(プロ四段となってから経過した年数が最も長い)。

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竹内雄悟」の記事における「棋歴」の解説

幼少期母方祖父教わり将棋覚えた本格的に将棋始めたのは小学3年生のときで、その後地元広島将棋センター通って腕を磨いた広島観音高校在学中に、故・村山聖九段偲んで広島開催されている「怪童戦」を2連覇して注目を集める2004年9月高校2年生時に3級奨励会入会同期入会者の中では2番目に年長であった奨励会入会したのは、将棋を全く知らない祖母から「そんなに将棋好きだったプロ目指してみないの?」と言われ学校勉強も好きではなかったことから「好きな将棋をして生きていけたら最高」と思ったのがきっかけ好不調の波があり、昇級昇段苦労したものの、2008年5月三段昇段第44回2008年度後期)より三段リーグ参加。ここでも好不調の波があり、第44回及び第49回2010年度前期)ではあと1勝足りなければ降段点を喫するところだった。その一方で第47回2009年度前期)及び第50回2010年度後期)では、最終局まで昇段争いに加わる活躍見せる。 第47回では最終日2連勝すれば昇段であったが1戦目に敗れ船江恒平と同星の13勝5敗も順位差で次点となった。(他同星に斎藤慎太郎宮本広志第50回では、最終日1戦目で順位上位者敗れ自身勝利したため、2戦目で宮本広志敗れ自身勝利すれば2度目次点得られるであったが、宮本敗れたものの自身敗れ12勝6敗の同星複数名で次点逃す第52回2012年度後期)は、最終2局を待たず弟弟子千田翔太昇段内定し、残る1枠竹内を含む4人が5敗で並び争う混戦竹内前期成績に基づく順位の関係から、自身連勝し、かつ1名が2連敗宮本広志と他1名が1敗以上しなければ昇段できない厳しい状況の中、2位四段昇段決めた2013年初参加となる第72期順位戦では2勝8敗に終わり初参加期順位戦における最少勝数の記録タイ(他に熊坂学長岡裕也)に終わり降級点喫した。これとは対照的に第27期竜王戦6組ランキング戦では好成績上げる。アマチュア選手中田功佐藤慎一三枚堂達也降し準々決勝進出。しかしそこで優勝する藤森哲也敗れ、続く昇級者決定戦でも八代弥敗れ1期抜けでの5組昇級には至らなかった。 2014年第86期棋聖戦では一次予選から勝ち上がり二次予選では谷川浩司北浜健介下して決勝トーナメント出場決めた。(なお同トーナメント一回戦で、豊島将之敗れる。) 2016年第29期竜王戦6組ランキング戦では田中寅・星野良生石川泰を下し準決勝まで勝ち上がり中田功破れるも、昇級者決定戦決勝において勝ち上がってきた門倉啓太破り5組昇級果たした2018年第68回NHK杯戦の予選決勝桐山清澄に勝ち、本戦トーナメント出場同年9月13日第67期王座戦一次予選船江恒平破り通算100達成。これにより五段に昇段した

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佐藤庄平」の記事における「棋歴」の解説

若くして病気悩まされ棋士である。 師匠原田とは10歳違いであり、1949年佐藤6級原田門に入門したとき、原田はまだ26歳であったプロ入り1954年7月棋士番号63であり、その直後(約1か月後)にプロ入りしたのが史上初の「中学生棋士」・加藤一二三である。 第12期1957年度C級2組順位戦と第13期(1958年度C級1組順位戦連続昇級勝ち取りB級2組昇級。しかし、第15期1960年度)は病気B級2組休場第20期1965年度)B級2組順位戦で9勝3敗(2位)の成績収め自己最高のB級1組昇級さらには、つづく第21期1966年度)で、終盤まで加藤一二三内藤國雄A級昇級を争う。しかし、最後の2局を病気不戦敗し、脱落する以降は、第22期第23期2年連続休場し第24期では7つ不戦敗を含む0勝12敗でB級2組降級第25期1970年度)でB級2組休場したところで引退した

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高崎一生」の記事における「棋歴」の解説

1998年宮崎市立大宮小学校6年生出場時は5年生)のとき、第23回小学生将棋名人戦優勝する。この回の出場者には後にプロ棋士になった者が多く船江恒平5年)が準優勝戸辺誠6年)が3位金井恒太6年)と中村太地4年)が東日本ベスト4糸谷哲郎4年)が西日本ベスト4牧野光則4年)が西日本ベスト16である。また、広瀬章人6年)は東日本大会で戸辺に敗れ佐藤天彦5年)は西日本大会で糸谷負けている。 その1998年秋に米長弟子となり、6級奨励会入り。わずか1年半後の2000年4月初段昇段するというハイペースで、将棋界では数例しかない「中学生棋士」の記録達成可能性があった。しかし、初段昇段以降失速し2005年10月1日四段プロ)になるまで5年半を要したとはいえ前述メンバーの中では広瀬次いで2番目に早いプロ入りであったちなみに宮崎県出身者として初の将棋プロ棋士でもある。

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神谷広志」の記事における「棋歴」の解説

中学1年生ときには、まだアマチュア4級という遅咲きながら、それから1年足らずアマチュア四段実力となる。そして、中学2年秋に奨励会入り20歳誕生日迎え前にプロ棋士となった1983年若獅子戦準優勝1984年早指し新鋭戦でも準優勝1987年2月から8月にかけて、当時未開拓だった「飛車先不突き矢倉」を武器公式戦28連勝記録樹立下記参照)。同じ「55年組」の塚田泰明半年ほど前に作ったばかりの記録22連勝)を、あっさりと、そして大幅に塗り替えた以後30年破られなかった記録であったが、2017年6月26日第30期竜王戦決勝トーナメント藤井聡太29連勝達成し歴代2位となった1997年度B級2組順位戦で9勝1敗の成績収めB級1組昇級。 第48期2007年度王位戦で、同棋戦初のリーグ入り森内俊之名人当時)に勝利するが、リーグ残留失敗。 第74期2015年度C級1組順位戦では初戦から6連敗し後半巻き返したが3勝7敗に終わり降級点2でC級2組降級決まった。 第78期(2019年度C級2組順位戦で1勝9敗の成績2回目降級点取り2020年4月1日付でフリークラス宣言行った以後、満65歳迎え2026年度まで現役となる。 公式戦28連勝とその前後対局一覧連勝対局日(1987年棋戦相手手番結果1月29日 第37期王将戦 一次予選 1回戦 小野敦生 後手1 2月10日 第45期順位戦 C級1組 9回戦 野虎次 後手2 223日 第37回NHK杯予選 伊藤果 先手 ○ 3 予選 決勝 安恵照剛 先手4 303第45期順位戦 C級1組 10回戦 富沢幹雄 先手5 319日 第13期棋王戦 予選 2回戦 山口英夫 先手6 326日 第10回勝ち抜き戦 予選 2回戦 池田修一 先手 ○ 7 予選 決勝 佐伯昌優 先手8 401第51期棋聖戦 一次予選 2回戦 瀬戸博晴 先手9 408第13期棋王戦 予選 3回戦 池田修一 先手10 430日 第13期棋王戦 予選 決勝 関根茂 後手11 504第37回NHK杯本戦 1回戦 石田和雄 先手12 512日 第13期棋王戦 本戦 1回戦 石田和雄 先手13 515日 第51期棋聖戦 一次予選 3回戦 山口千嶺 後手14 525日 第21回早指し予選 武者野勝巳 先手15 永作芳也 後手16 鈴木輝彦 後手17 605第13期棋王戦 本戦 2回戦 青野照市 先手18 609第46期順位戦 C級1組 1回戦 剱持松二 先手19 612日 第51期棋聖戦 一次予選 4回戦 達正光 先手20 623日 第51期棋聖戦 一次予選 決勝 堀口弘治 先手21 627日 第21回早指し本戦 1回戦 有野芳人 後手22 707第46期順位戦 C級1組 2回戦 武者野勝巳 後手23 7月10第6回全日本プロ 1回戦 滝誠一郎 先手24 713日 第51期棋聖戦 二次予選 2回戦 石田和雄 後手25 717日 第13期棋王戦 本戦 3回戦 二上達也 後手26 722日 第36期王座戦 一次予選 2回戦 武市三郎 先手27 724日 第51期棋聖戦 二次予選 決勝 青野照市 後手28 817日 第51期棋聖戦 本戦 1回戦 米長邦雄 後手 ○ - 8月21日 第36期王座戦 一次予選 3回戦 室岡克彦 後手

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森雞二」の記事における「棋歴」の解説

大阪住んだ後、父親の死去で、中学2年母親上京する晩学知られる将棋覚えたのが16歳の頃と遅かったが、近所将棋クラブひたすら将棋指し続け、僅か半年アマ三段実力にまで上達するは「この期間は夜の11時まで夕食もとらず将棋指し続けた」と語っている。戦前いざ知らず以降世代で、これほどの「晩学」で名人位挑戦タイトル保持まで進んだ棋士は他にいない奨励会入り志したのも、短期間将棋道場の中では最強となってしまって「もっと強い人と指したい」という思い抱いたからであり、道場師範である大友昇奨励会受験に際して絶対にプロなれない」と止めかかったのに対しは「プロになる気なんて全然ない」といってどうにか受験こぎつけた4級としての入会試験は2勝4敗で不合格成績だったが、記録係要員として5級奨励会入りとなった1978年、第36期名人戦中原誠挑戦したが、「中原強くない負ける人はみんな勝手に転んでいるんだ」、「名人になった土佐帰る指してほしい者は土佐来ればいい」などと強気な発言をした。第1局の朝には突然剃髪して対局場に登場し関係者驚かせた(これに中原動揺したのか第1局敗北全体では2勝4敗で中原防衛)。しかも、この名人戦模様NHK特集という形で取り上げられていたため、坊主姿が関係者だけでなく、日本全国視聴者にも知れ渡ることとなった(ただし、NHK特集放映したのは第三局であり「剃髪姿」ではなかった)。ただ、自身はのちに「相手を驚かそうとしたのではなく、自らの心を引き締めるために剃髪になったのだ」と語っている。 1982年棋聖タイトル獲得する直前小池重明指し込み三番勝負角落ち香落ち平手)を行い、3連敗してしまった。この衝撃当時日本将棋連盟にとっても凄まじいもので、会長大山康晴対し急遽罰金命じたほどであった1988年第29期王位戦王位谷川浩司挑戦者として登場したマスコミに、「身体覚えた将棋教えてやる」と発言し谷川挑発下馬評では当時名人だった谷川が有利との見方大勢だったが、3-3迎えた第七局、十八番ひねり飛車谷川破り王位獲得した次期谷川リターンマッチ挑む際「あれだけやられたのにまだ懲りないのですか」と再度挑発話題となった番勝負は1勝4敗で防衛失敗となった久々タイトル戦登場となった1995年第43期王座戦では羽生善治挑戦したが、優勢な将棋終盤逆転負けする展開が続き、3連敗敗退したその際に、「魔術師逆に魔術羽生マジック)にやられた」とのコメント残している。なお、2022年現在昭和20年代以前生まれた棋士タイトル戦登場したのはこれが最後である。 2006年3月、満59歳11か月にして順位戦B級1組昇級大きな話題集めたが、1期12全敗降級してしまった。 2017年3月2日、第75期C級2組順位戦最終戦島本亮敗れて3勝7敗に終わり降級点累積が3個目となり、規定により同年度の最終対局をもって引退確定3月時点第30期竜王戦6組昇級者決定戦残していたが、5月10日対局金沢孝史敗れて対局終え引退した

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徳田拳士」の記事における「棋歴」の解説

5歳頃、父と祖父将棋指しているのを見た事で、将棋興味持ったその後2009年度第34回小学生将棋名人戦にて優勝し中学1年奨励会へ入ると、2018年4月三段リーグ入り果たした三段リーグでは参戦から7期目までは勝ち越し負け越し3回ずつ、指し分け1回という状態だったが、8期となった第70回2021年下期)にて15勝3敗の成績収め2位でのプロ入り決めた。 なお、プロ入り前(三段当時)は新人王戦にて活躍しており、第51期2020年度)では第45期棋王戦タイトル挑戦や第61王位リーグ入りをした本田奎を、第52期2021年度)には第79期順位戦B級2組への昇級決めた増田康宏を、それぞれ破っている(最終的な三段での公式戦成績は、6勝4敗)。

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豊川孝弘」の記事における「棋歴」の解説

将棋ルール覚えたのは小学3~4年の頃であったが、本格的に指し始めたのは、クラス将棋流行った中学1年の頃であり、その後プロとなった人物としては、かなり遅い部類に入る。友人達一緒に将棋会館道場に通うようになり、中学2年の夏に早くもアマ四段となる。 高校1年時(1982年12月)に奨励会入会高校中退し連盟泊り込みのような状態で将棋修行励んだ奨励会では6級から3級上がるのに1年2ヶ月二段から三段上がるのに4年それぞれ費やすなど、大きな足踏み経験したものの、それ以外順調に昇級昇段続けた第6回1989年後期)より三段リーグ出場4期目となる第9回1991年前期)で13勝5敗(1位)の成績挙げ24歳プロ入り順位戦には第51期1992年度)より参加第58期順位戦C級2組)では奨励会同期飯塚祐紀昇級の一番を深夜まで粘って見事に勝利飯塚昇級阻止した。(飯塚次期豊川次々期に昇級。) しかし4年後の第62期順位戦C級1組最終局、自身昇級の一番で今度飯塚敗れ昇級逃してしまう。4年越し借り返されるになった2004年6月20日放送NHK杯テレビ将棋トーナメント対田康介戦)において、二歩打ってしまい反則負け二歩比較的よく見られる反則負けだが、テレビ中継のあるNHK杯打ってしまったことから話題になった初参加から16年目の第66期順位戦C級1組)において、8勝2敗の成績挙げ、ついにB級2組への昇級決める。 第67期順位戦B級2組でも8勝2敗の成績挙げ2年連続昇級B級1組上がる最終局を1敗のトップ迎え自身敗れて2敗になったものの、ライバル2名のうちの1名(先崎学)も敗れたために昇級するという展開であった棋戦優勝経験がなく、竜王ランキング戦でも3組が最高の豊川にとっては、A級の一歩手前B級1組への昇級は、棋歴の中で大きな意味を持つ。 2015年度第74期順位戦B級2組では2勝8敗の成績終わり降級点2となりC級1組降級となった

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北村秀治郎」の記事における「棋歴」の解説

1931年神田入門し1944年四段となる(プロ昇格)。 順位戦には第1期1946年度)から参加しC級でのスタート。まだC級1組2組分かれるであったため、翌1947年自動的に五段に昇段。さらに第2期1947年度)C級順位戦ではC級上位成績収め次期分かれるC級1組振り分けられることとなり、六段昇段その頃、「精鋭トーナメント戦」で優勝している。 第4期1949年度C級1組順位戦では7勝1敗・1位の成績挙げB級昇級するとともに七段に昇段第6期1951年度B級順位戦では8勝4敗の成績収め第7期新設B級1組振り分けられる。しかし、第8期1953年度B級1組では最下位となり、B級2組へ即降級以降順位戦における昇級復帰)はない。 第9回1965年古豪新鋭戦ベスト4第13回古豪新鋭戦では決勝1969年11月8日)で関屋喜代作に勝ち、優勝。 第26期(1971年度)C級2組順位戦では北村を含む3名が6勝2敗のトップ終えたが、前期不振によりリーグ表で他の2名より下位であった北村次点となり、C級1組昇級復帰)できなかった。 1974年度、第5回早指し将棋選手権で、久々に棋戦予選抜け本戦では2回戦進出一方同年度の第29期(1974年度)C級2組順位戦降級する。しかし、1975年以降順位戦以外では指し続け1982年現役のまま死去急性心不全)。享年74

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高見泰地」の記事における「棋歴」の解説

幼稚園時代に、父親買ってもらったボードゲームセットに将棋含まれていたことが、将棋覚えたきっかけである。 2005年4月6級奨励会入会以後順調に昇級昇段続け2010年1月三段昇段し2010年度前期第47回)より三段リーグ参加2期目となる2010年度後期第48回)は自身連勝し門倉啓太及び阿部光瑠揃って連勝しなければ四段昇段見込める状態で最終日迎えたが、自身連敗したため四段昇段はならなかった。 3期目となる2011年度前期第49回)で、前半9局を8勝1敗でトップ独走の状態から逃げ切り最終的に13勝5敗・1位の成績修め四段昇段プロ入り)。この間第1回加古川青流戦奨励会三段として参加し2回戦田中悠一3回戦西川和宏いずれもプロ四段)に勝利しベスト8進出した。(準々決勝では船江恒平四段敗れる。) プロ入り以降竜王戦においては6組在籍していた2013年度(第26期)ランキング戦4回戦敗北後昇級者決定戦勝ち抜き5組昇級。続く2014年度第27期)ではランキング戦を勝ち続け準決勝村田顕弘戦(2014年5月23日)に勝利した時点4組昇級決定同時に竜王戦昇段規定に基づき五段に昇段当期竜王戦では決勝菅井竜也戦(2014年5月26日)にも勝ち、初のタイトル戦本戦出場決めた2019年度(第32期)は4組昇級者決定戦谷川浩司戦(2019年11月7日)に勝利し3組への昇級決めたテレビ棋戦においても、2013年度第63回NHK杯予選通過し本戦出場。同棋戦では2016年度第66回)でも予選通過し再度本戦出場1回戦でA級八段稲葉陽に勝ち、棋士人生6年目初めてA級在位中の棋士からの白星挙げる同時に、全棋士出場棋戦本戦において初白星2013-2014年度第22期銀河戦でもブロック内で最多連勝(3連勝)を記録し決勝トーナメント出場第3期2018年度叡王戦本戦豊島将之渡辺明丸山忠久破り決勝七番勝負進出叡王戦第3期からタイトル戦昇格したため、決勝戦進出タイトル挑戦準じる扱いとされ、六段昇段した対戦相手金井恒太は、高見同じくタイトル初挑戦であった高見決勝七番勝負を4連勝制して初代叡王輝き昇段規定タイトル1期」を満たして七段に昇段した。なお、順位戦C級2組在籍者タイトル獲得は、1992年(第33期)王位戦郷田真隆以来高見2人となった第4期2019年度叡王戦永瀬拓矢挑戦を受け、0勝4敗でタイトル失冠した。 順位戦ではプロ入り後、昇級と縁のない期間が続いていたが、第78期順位戦において9勝1敗の好成績クラス1位となり、C級1組への昇級決めると、続く第79期順位戦においても8勝2敗の成績クラス3位となり、B級2組への昇級決めた昇級決定後のインタビューではタイトル経験者ありながらC級に留まっていた期間について、プレッシャー負い目感じていたと述懐している。 第35期2022年度竜王戦3組決勝菅井竜也破り27期(2014年度)以来ランキング戦優勝果たし決勝トーナメント進出2組昇級決めた

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神崎健二」の記事における「棋歴」の解説

中学1年生時にアマチュア名人戦和歌山県大会出場して予選敗退そのとき灘蓮照出会った縁で、中学2年終わり頃に灘門下の7級として奨励会入会する奨励会時代地元和歌山中学校高校通いながら、大阪関西将棋会館出向いて記録係務めた奨励会在籍10年間で取った記録301局にも上る二段時に第6回若駒戦」の決勝東西決戦)で石川陽生に勝ち優勝2年後の同棋戦では、羽生善治敗れて準優勝奨励会通常の対局以外に新聞大阪新聞)に掲載される将棋指せたことは、励みにも自信にもなったという。 同じ関西奨励会には、6歳年下入会7年遅い村山聖がいた。神崎村山三段の頃に「(関西からの)次の四段村山」という予想がされたことで奮起し、9連勝規定四段昇段一方村山13勝4敗の規定で、神崎同日付で四段となった順位戦では、初参加から3、4期目で2年連続C級2組8勝2敗の好成績収める昇級できず、7期目に9勝1敗でようやくC級1組上がるこの頃から、王位戦で度々リーグ入りするなど、タイトル戦予選の上位でも活躍する。第34期1993年度王位戦では、紅組リーグ羽生善治同点プレーオフになった敗退1998年度C級1組順位戦では、勝てば昇級という最終局で負けて8勝2敗となり、B級2組昇級逸する。このときの昇級者は、9勝1敗の三浦弘行深浦康市であった深浦逆転昇級)。 2016年八段昇段八段まで全て勝数規定昇段したのは阿部隆中田宏樹中川大輔日浦市郎泉正樹続き史上6人目である。また、順位戦B級2組経験せずに八段昇段したのは屋敷伸之渡辺明日浦市郎続き史上4人目である。 第75期、第76期の順位戦C級2組降級点連続でついたところでフリークラス転出し2018年度(第77期)以降順位戦出場資格放棄した

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井上慶太」の記事における「棋歴」の解説

1978年中学3年生のとき、中学生名人戦準優勝優勝達正光)。翌1979年高校選手権3位となり、同年奨励会入会高校1年での入会は非常に遅い方である。入会から3年余り経った1983年プロ入りを果たす。 1985年度新人王戦棋戦初優勝決勝三番勝負相手森下卓)。翌1986年度には若獅子戦優勝1987年度第36期王座戦南芳一米長邦雄真部一男破りベスト4進出した。翌1988年度王座戦でも米長らを破りベスト4。しかし、当初順位戦との相性悪かった1988年度第47期順位戦C級2組では、勝てば昇級という最終局で逆転負け喫する。しかし、兄弟子谷川浩司から送られた「報われない努力はない」との手紙に勇気付けられ翌年7期目の順位戦にして初の昇級勝ち取る1993年度第52期順位戦C級1組では、タイトル経験者屋敷伸之郷田真隆らを破り10全勝B級2組昇級。さらに、1995年度1996年度順位戦では、2年連続昇級決めて一気にA級八段となる。 初のA級順位戦1997年度)では、最終9回戦の対島朗戦で横歩取り8五飛戦法用いて勝利自身が5勝4敗でA級残留して米長邦雄(4勝5敗)をA級からの陥落追い込みまた、戦法一躍注目を浴びるきっかけともなった翌年度1998年度)のA級順位戦は、最終局で自分負けて兄弟子谷川島朗勝てば降級逃れるという展開となったが、井上谷川ともに敗れたことにより、井上降級となってしまった。 竜王戦ランキング戦では、1993年度第6期)に5組優勝1996年度4組優勝1999年度3組優勝2001年度2組優勝と、通算4回も優勝記録2008年度の第67B級1組順位戦で、混戦中頭一つ抜け出して、A級復帰決める。11期振りのA級復帰は、原田泰夫14期振り)に次ぐ2番目の記録2011年3月3日対局第61期王将戦一次予選・対伊藤博文戦)で勝ち、八段昇段250勝により九段昇段。なお、この時点での通算成績は、635勝456敗(勝率0.5820)。

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高橋道雄」の記事における「棋歴」の解説

将棋の駒動かし方覚えたのは12歳の頃であり、プロとなった者としては極めて遅かった1975年5月6級奨励会入会初段昇段後に苦しみ初段二段三段時代それぞれ1年間ほどあったが、1980年6月4日四段昇段しプロデビュー初参加の順位戦である第40期(1981年度C級2組順位戦で9勝1敗の成績収めC級1組昇級(五段昇段)。いわゆる1期抜け’である。 1982年度行われた第24期1983年度王位戦予選を4連勝駆け抜けリーグ入りリーグでは田中寅彦森安秀光大山康晴谷川浩司青野照市といった錚々たる面々相手に5戦全勝挑戦者決定戦でも桐山清澄勝利してタイトル戦初登場高橋段位はまだ五段のままであった七番勝負では内藤國雄王位4-2スコア破り奪取1983年9月26日)。五段以下でのタイトル獲得史上初で一躍注目された。以後の低段位若手棋士タイトル奪取動き先鞭をつけたものである。なお、最低段タイトル記録は、9年後に郷田真隆四段)によって破られるが、奇しくも同じく王位タイトルである。 1984年度王位加藤一二三奪われるが、その翌年1985年)すぐに奪還する1986年度王位戦高橋への挑戦者として名乗り挙げたのは、兄弟子米長邦雄十段であったが、高橋4 - 0ストレートであっさりと防衛成功。この時点九段昇段条件であるタイトル3期満たしたことになるが、八段昇段していなかったため昇段おあずけとなった前段位の条件満たしていないことにより昇段おあずけとなったのは史上初である。 さらには同年度の第12期棋王戦谷川浩司棋王から奪取して初め二冠となり、将棋大賞最優秀棋士賞受賞。なお、この年度では、5年ぶりに順位戦昇級もしている(C級1組にて9勝1敗の成績B級2組昇級)。 1987年谷川高橋から王位奪い返した後、10月21日塚田泰明中原誠持っていた2冠から1冠(王座)を奪ったことにより、7つタイトルを7人の棋士1つずつ持ち合うという、極めて珍しい状態が生まれていた。 名人=中原誠 十段=福崎文吾棋聖=桐山清澄 王座=塚田泰明(※) 王位=谷川浩司 棋王=高橋道雄(※) 王将=中村修(※)※印の3名は「55年組」。ほかの4名は1979年度以前プロ入り。 しかし、同年11月25日高橋が、福崎破って再び二冠十段棋王となったことにより、「完全戦国時代」は僅か1ヶ月ほどで終わりを告げた十段戦この年度で発展解消され竜王戦移行したため、高橋翌年十段防衛戦はなかった。代替として第1期竜王戦では準決勝からの登場となったものの、その準決勝米長邦雄敗れた。 第46期(1987年度B級2組順位戦10全勝成績収めB級1組昇級1988年度タイトルホルダーとして日本シリーズ出場し優勝同年度、第47B級1組順位戦で8勝3敗・2位成績収め3年連続昇級し1989年4月1日付けでA級八段となる。以降7年連続でA級在籍1992年中原挑戦した50期名人戦七番勝負で、第4局まで3勝1敗でリード。しかし、その後3連敗し名人位奪取はならなかった。高橋の3勝は、全て矢倉戦であり、「中原矢倉では高橋勝てなくなったか」と衝撃与えた[要出典]。高橋負けた4局は、相掛かり中原先手)と横歩取り高橋先手)が各2局。 第7期1994年度)および第9期1996年度)の竜王戦1組優勝1995年度第21期棋王戦で六冠王・羽生善治に挑戦その頃羽生並行して七冠独占をかけて王将戦七番勝負谷川戦っていた。棋王戦五番勝負第1局1996年2月10日)で高橋負けた後、王将戦第4局1996年2月13日 - 14日)で羽生が勝ち、4 - 0で七冠独占成功。よって棋王戦第2局2月23日以降高橋対局相手は七冠王ということになった結果は、第3局3月8日)まで高橋の3連敗決着羽生1995年度タイトル戦完全制覇許した2001年、2002年達人戦連続準優勝2007年第58期王将戦リーグ入り2008年度先手では矢倉後手では横歩取り8五飛原動力として2415敗(勝率0.615、B級1組上で羽生善治久保利明に次ぐ高勝率)と好調で、第67期順位戦B級1組では8勝4敗の成績井上慶太と共に6期ぶりでA級へ復帰したA級昇級決めた2人がともに40歳上であるのは、第43期の有吉道夫二上達也以来。翌第68期(2009年度A級順位戦では2位勝ち越し15年ぶりのA級残留成功した。第69期2010年度A級順位戦では3位に、第70A級順位戦では2勝7敗と大きく負け越したものの、久保利明丸山忠久同率となり、前年度順位上位のため残留となり、史上初の2勝7敗での残留となった。 しかし、以降順位戦における成績不振続き第71期順位戦では深浦康市及び橋本崇載勝ったのみで10人中9位に終わりB級1組降級第72期順位戦でも鈴木大介勝ったのみで13人中最下位B級2組降級。更に27期ぶりにB級2組闘った第73期順位戦でも窪田義行及び島朗勝ったのみで25人中23位で降級点喫した第74期順位戦でも畠山成幸及び中村修勝ったのみで25人中最下位降級点喫しB級2組における降級点累積2個になりC級1組への降級決定2015年度第24期銀河戦における予選土佐浩司負け第66回NHK杯でも予選・1回戦渡辺大夢負けプロ入り以来34年連続長期にわたり、続いていたテレビ棋戦への連続出場ストップした竜王戦では、幾度か2組降級1組復帰繰り返しながらも、第32期2019年度時点では、第1期から参加棋士唯一となる2組上の在籍維持していたが、第32期2組昇級者決定戦1回戦斎藤慎太郎敗れ3組降級となった2021年度第80期順位戦C級1組では61歳迎え年齢ながら好調維持し、9局目を終えた段階で7勝2敗、他力ながら昇級可能性残して最終局を迎えた。仮に昇級となれば1977年第36期順位戦60歳にしてB級1組からA級へ昇級した花村元司記録塗り替える順位戦クラス通じて史上最高齢での昇級であったが、最終局で先崎学敗れたことにより惜しくも昇級とはならなかった。

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棋歴

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折田翔吾」の記事における「棋歴」の解説

2004年10月6級奨励会入会2008年18歳初段昇段将棋専念する為、高校中退2010年二段昇段2011年3月二段昇段から僅か1年三段昇段2016年3月退会三段リーグ(4958回)における通算成績69111敗。 2016年4月26日YouTube将棋実況動画投稿開始投稿名は「アゲアゲ将棋実況」。 2016年11月6日将棋教室開始2017年12月3日、第34期全国アマチュア王将位大会アマ王将戦)で準優勝銀河戦への出場を得る。 2019年2月9日第27期銀河戦本戦での対プロ棋士6連勝により決勝トーナメント進出決定アマチュア選手としては、瀬川晶司(のちにプロ入り)に次ぐ2人目の決勝トーナメント進出だった。 2019年8月30日プロ棋士との対局勝って直近の公式戦成績10勝2敗とし、棋士編入試験受験資格獲得折田翔吾アマプロ公式戦成績対局棋戦対局相手結果2018/7/29 第12回朝日杯将棋オープン戦 一次予選 都成竜馬 五段 ● 2018/8/30 第27期 銀河戦 本戦トーナメント 神崎健二 八段 ○ 2018/8/30 瀬川晶司 五段 ○ 2018/10/2 三枚堂達也 六段 ○ 2018/10/2 今泉健司 四段 ○ 2018/11/14 堀口一史座 七段 ○ 2018/11/14 豊川孝弘 七段 ○ 2018/12/28 窪田義行 七段 ○ 2018/12/28 野月浩貴 八段 ● 2019/6/14 決勝トーナメント 佐藤天彦 名人 ● 2019/7/17 第28銀河戦 予選 脇謙二 八段 ○ 2019/7/17 福崎文吾 九段 ○ 2019/8/30 本戦トーナメント 村田智弘 六段いいところどりで10勝2敗・勝率0.833 2019/8/30 第28銀河戦 本戦トーナメント 伊藤真吾 五段 ○ 2019/10/24 黒沢怜生 五段 ●

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池永天志」の記事における「棋歴」の解説

小学生1年生のとき、父親将棋の本を買ってきた事が、将棋始めたきっかけ三段リーグには第47回2010年上期)から参加第48回第51回では降段点が付いてしまい、第55回第59回には「あと1勝で昇段」を経験するなど(最終的な順位それぞれ6位と4位)、厳しい状況続いた。 そして参加から16期目となった第62回三段リーグ2017年下期)では好調維持し自身最高の成績である14勝4敗の2位で、四段昇段プロ入り)を決めたプロ入り前の2017年行われた第14回詰将棋解答選手権では、藤井聡太に次ぐ2位記録した

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勝又清和」の記事における「棋歴」の解説

1983年第8回中学生名人戦優勝。その年に奨励会入会1級までは順調に昇級したが、そこからの各昇段2年以上ずつかかり、22歳でようやく三段昇段する。しかし、三段リーグでも昇段チャンスをつかめず、一時退会考えた年齢制限26歳)も迫っていた。 転機となったのは、第52期1994年度名人戦七番勝負を戦う米長邦雄名人羽生善治四冠闘志あふれる姿を見たことだった。勝又同年4月 - 9月第15回三段リーグでは昇級逃すも、リーグ順位勝又より下の近藤正和と同星の12勝6敗の成績収める。これが結果的に大きかった次回リーグ表で、勝又3位近藤は4位)。勝又次の第16回三段リーグ1994年度10月 - 3月)の最終日を、2局のうち1局勝てば自力昇段(「マジック1」に相当)という状況迎えた近藤は2勝0敗で追い上げたが、勝又は1敗の後に1勝して近藤と同じ13勝5敗。よって、勝又四段昇段決めた1995年4月1日付け昇段プロ入り)。このときの同時昇段者(トップ通過)は、勝又よりさらに年上北島忠雄29歳であった第30回1996年度早指し将棋選手権予選を4連勝通過本戦では2回戦進出第9期1996年度竜王戦6組準決勝敗れるも、昇級者決定戦敗者復活)で北浜健介に勝ち、竜王戦初参加にして5組昇級。 第57期1998年度C級2組順位戦で、9勝1敗(47人中2位)の成績収め行方尚史10勝0敗・1位)、木村一基(9勝1敗・3位とともにC級1組昇級翌年度の第58期C級1組順位戦降級点喫するが、すぐ第59期に8勝2敗と勝ち越して消去成功第8期銀河戦1999 - 2000年)でブロック戦抜け本戦ベスト8進出。 第74期2003年度棋聖戦最終予選リーグ進出第17期2004年度竜王戦5組準優勝し、4組昇級第56回2006年度NHK杯戦で予選通過し本戦初出場本戦では1回戦井上慶太破り2回戦進出。 第79期(2008年度棋聖戦2度目最終予選リーグ進出第60回2010年度NHK杯戦で2度目予選通過本戦では3回戦進出羽生善治敗れる)。そして2011年3月11日久保利明王将挑戦中の豊島将之六段敗れて2回目降級点第67期順位戦において3勝7敗で1回目降級点)を喫し12期守っていたC級1組からC級2組への陥落確定した。 第73期(2014年度C級2組順位戦で2個目の降級点取ったフリークラス宣言行い2015年度からフリークラス転出した

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津村常吉」の記事における「棋歴」の解説

すでに20代半ば過ぎた1949年アマ名人戦神奈川県代表となる。その翌年1950年二段小堀清一入門し1952年プロ入りを果たす。 順位戦初参加から3期目となる第9期1954年度C級2組順位戦で9勝3敗・2位成績収めC級1組昇級するとともに五段に昇段当時31歳。これが現役棋士として最初で最後昇段となる。 引退間際1970年第1回新人王戦47歳出場し準決勝進出日本将棋連盟には、販売部や道場師範担当して貢献した1993年心筋梗塞死去享年70

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深浦康市」の記事における「棋歴」の解説

1984年奨励会入会5級昇級1年かかったその後順調に昇級昇段し1991年10月1日19歳プロデビュー四段昇段)を果たす。

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藤森哲也」の記事における「棋歴」の解説

父は多くアマ棋戦活躍した藤森保。母はLPSA所属女流棋士藤森奈津子女流四段(以下、本項では「奈津子」と記す)。幼少時代に母に教わって将棋覚えその後蒲田将棋クラブ通って腕を磨いた。父の将棋仲間だった将棋ライター美馬和夫交流があり、著書藤森中飛車左穴熊破り』は美馬執筆協力した1999年9月6級奨励会入会5級3級2級1級1回二段で2回、降級降段危機段級位昇降参照)に瀕したが、これらを乗り越え20歳誕生日直前2007年4月三段昇段同年10月2007年度後期第42回)より三段リーグ参加以後コンスタント成績挙げた初参加から5期目(2009年度後期第46回)及び7期目(2010年度後期第48回)は、自身連勝すれば他の参加者勝敗結果次第四段昇段可能性がある状態で最終日迎えたが、自身連敗したため昇段に至らなかった。 8期目となる2011年度前期第49回昇段争い7番手で最終日迎えた自身連勝し2番手から6番手参加者全員1敗以上すれば2位となる状態だったが、その通りとなり、高見泰地(1位)と共に2011年10月1日付け四段昇段プロ入り)した。

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冨田誠也」の記事における「棋歴」の解説

得意戦法四間飛車5歳のときに父に将棋を教わる。2007年9月奨励会入会2013年4月17歳)より三段リーグ参加。「20歳までに(四段に)上がれると思っていた。(第66回リーグでは)成績ふるわず退会考えた」と語るほどの厳しい状況だったが、第67回三段リーグ一転して好調となり、最終的に14勝4敗の成績収め2位確定遂に四段昇段決まった

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神吉宏充」の記事における「棋歴」の解説

小学生の頃に将棋覚え中学生のときに本格的に指し始める。そのきっかけは、おじさんに「ヨワ将」と呼ばれたこと。 1977年アマチュア名人戦兵庫県代表となる。全国大会では最年少18歳であったが、ベスト4進出角頭歩戦法用いた勝局もあったという。 そして、1978年内藤門下奨励会入会入門前の約3年間は会社員だった。1級での入会1961年若松政和アマ名人戦優勝歴あり)以来17年ぶり。それから4年8か月経った1983年四段昇段プロ入り)を果たす。 オールスター勝ち抜き戦での本戦進出数回あるが、最も活躍した棋戦は、一般将棋ファン対す露出度が最も高いNHK杯戦である。たびたび予選通過し本戦出場した第44回1994年度NHK杯戦では、先崎学加藤一二三らを破り準々決勝進出準々決勝米長邦雄敗れる)。対・加藤戦では解説役で師匠内藤加えて局後の感想戦行ったが、そのとき謙虚ながらも偉大な先輩勝ったという感動露わにした。加藤に「今日強かったと言われ喜んでいる姿を見た内藤に「対戦相手に強いと言われて喜ぶとアマチュアみたいだ」と指摘されるが、「今日はそれでもいいですと言った第49回1999年度NHK杯戦では、青野照市森内俊之に勝つ(この回の優勝者となる鈴木大介3回戦で当たり、先手持将棋となり先後入替の指し直し局で敗れる)。内との対局序盤では、神吉定番振り飛車穴熊にするが、それに対して内は自分飛車振って意表相振り飛車戦に持ち込んだサービス精神旺盛な神吉内に勝った後の感想戦ではガッツポーズ決めていた。 順位戦での通算成績は、8189敗である。C級2組からC級1組昇級することはなかった。17年間(第43期・1984年度 - 第59期2000年度)の中で最終局まで昇級争い絡むことはなく、最高成績3度の7勝3敗である(第43期・第49期・第55期)。うち、第55期勝ち越し降級点2つから1つ減らしたものであった。しかし、第59期2000年度)で降級点累積3点してしまいフリークラス降級した。 2005年8月瀬川晶司プロ編入試験第2局試験官対戦相手)を務める。対局前に振り飛車穴熊戦法」と戦法予告をし、全身ピンクスーツ姿で対局臨み対局前に瀬川に「(目が)チカチカするやろ」と言っておどけてみせる。また、対局中に(対局当事者であるにも関わらず大盤解説場に登場して情勢についてコメントするなどのパフォーマンス見せた結果瀬川勝利対局終了後、「プロ棋士になれる」と瀬川励まし勇気づけた。後に瀬川自伝映画化した泣き虫しょったんの奇跡』に、瀬川編入試験対戦相手である「神田宏充六段役として出演した際にも、当時と同じピンクスーツ姿を見せた。 第18期2009年度 - 2010年度銀河戦で、ブロック戦で4連勝し決勝トーナメント進出1回戦丸山忠久敗れる)。 2010年度をもってフリークラス降級から10年迎え引退決まった。そして、2011年6月1日第24期竜王戦6組昇級者決定戦1回戦牧野光則敗れたのが最終対局となり、同日付で引退した2018年姫路市商店街将棋教室プロ棋士神吉七段の大逆転将棋倶楽部」をオープン。(2019年8月姫路城射楯兵主神社近く移転

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浅沼一」の記事における「棋歴」の解説

終戦後順位戦始まり第4期1949年度順位戦では東西C級乙組三段以下が合計4名参加した当時24歳で東の二段だった浅沼もその一人である(ほかには、東の清野静男三段、西の神田鎮雄三段増田敏二二段)。浅沼四段飛び昇段して、翌期第5期)順位表に載った順位戦の上記を含む最初6年間は指し分け勝ち負け同数)や勝ち越しがあり5割前後の勝率であったが、7年目著しく負けがこみ、予備クラス現在の奨励会三段リーグフリークラスに相当)に陥落当時は、まだ降級点のようなクッション的な制度がなく、1期成績不振ですぐ降級であったその後予備クラス5期2年半)指して引退。まだ33歳であったちなみに5期目では予備クラス初め上がってきた17歳内藤國雄と2局指して2敗している。 引退後日本将棋連盟所属2004年盤寿数え81歳)を迎える。 2011年8月10日脳梗塞のため死去86歳没。

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関屋喜代作」の記事における「棋歴」の解説

1955年22歳プロ入り初参加(1956年度)から8期目の第18期1963年度C級2組順位戦は、2勝10敗で初の降級点喫する。ところが、次の第19期1964年度)では一転して開幕7連勝をするなど、最終局を待たずして10勝1敗(最終成績10勝2敗)の圧倒的な成績C級1組への昇級決める。なお、もう一人昇級者は、同じく10勝2敗の米長邦雄関屋10歳下)であった第2回1958年度古豪新鋭戦優勝。同棋戦第13回1969年度)では、準優勝第38期順位戦(1980年度)の昇降リーグ戦4組現在のC級2組に相当)で3度目降級点により順位戦陥落第11期1970年度)王位戦予選抜けてリーグ入り中原誠山田道美らと戦うが、惨敗第1期1988年度竜王戦ランキング戦6組初戦森内俊之敗れ昇級者決定戦に回る。3人に勝って昇級者決定戦決勝進出し、再び内との決戦になるが、敗れて5組昇級逸する第3期1990年度竜王ランキング戦6組では、準決勝進出し昇級まで1勝とするが、畠山成幸敗れる。昇級者決定戦決勝に回るも中田功敗れ、またも昇級チャンス逃す1991年2月10日第5期1992年度竜王ランキング戦6組3回戦で、弟子豊川孝弘敗れ、‘恩返し’をされる。同年第10回全日本プロトーナメント2回戦佐藤康光下し3回戦駒を進めるが、大内延介敗れる。同年第8回1992年度天王戦六段戦で、泉正樹土佐浩司らを破り準優勝決勝神谷広志敗れる)。これが関屋にとって現役棋士として最後となった

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岩本薫」の記事における「棋歴」の解説

島根県美濃郡高津村(現益田市)に生まれる。3歳韓国釜山移住10歳で父から囲碁を習う。1913年大正2年11歳時に釜山立ち寄った高部道平と6子で打って東京での修行勧められ上京して方円社広瀬平治郎六段(当時)に入門各務鎌吉後援受けて研鑽1917年入段1920年三段昇段記念に各務主催小岸壮二と十番碁を打つ。1924年の碁界大合同日本棋院加わり1926年六段棋正社との院社対抗戦雁金準一に勝ち、小野田千代太郎敗退1926年に碁界を引退してブラジル移住したが、2年後帰国して復帰する1940年七段。 1945年第3期本因坊戦挑戦者となり、橋本昭宇本因坊との六番勝負で3勝3敗となり、翌年決戦三番勝負に2連勝して本因坊に就位、薫和と号する1947年第4期は、初のコミ4目半を導入した五番勝負で、挑戦者木谷実八段に3勝2敗で防衛翌年本因坊2期実績により、当時の最高段八段推挙された。1950年第5期橋本宇太郎敗れる。1952年全本因坊全八段戦優勝1955年ラジオ放送時代NHK杯優勝1973年72歳名人戦リーグ入り1949年には呉清源と十番碁を行い第6局までで呉の5勝1敗で先相先打込まれ、最終的に呉の7勝2敗1ジゴだった。 1951年の呉九段対日本棋院七・八段戦では、コミ無し白番を勝って殊勲と言われる1948年には桑原要次郎がスポンサーとなって、呉との非公開一番勝負がある。大手合1935年秋期甲組優勝

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菊地常夫」の記事における「棋歴」の解説

10歳のとき、同級生から将棋を教わる。 奨励会への入会1965年当時は、ライバル有野芳人1日100局指すという熱の入れようであった1969年後期から旧制度三段リーグ奨励会A組)で指すが、同制度廃止されるまでの9期4年半、四段昇段プロ入り)をすることができなかった。この間奨励会員であるにもかかわらず第15回1971年度)古豪新鋭戦優勝している。 その後三段12勝3敗を記録し1975年6月19日26歳プロ入りを果たす。 プロ1年目1975年度)は、第15期十段戦第24回王座戦一次予選突破第3回名棋戦ベスト8進出第2期棋王戦丸田祐三 を破るなどして、上々スタートを切る当時名人戦順位戦主催紙が朝日新聞社から毎日新聞社移行する関係で、順位戦1977年度に再開されるまで待たされるその間菊地棋士番号119)と同時昇段伊藤果(同118)から松浦隆一(同132)まで15人が次々とプロ入りする。その中には中学生谷川浩司(同131)や後にタイトル獲る田中寅彦(同127)もいた。これにより、C級2組人数19名から33名に膨れ上がった。 しかし、菊地初参加の第36期C級2組順位戦当時の名称は「昇降リーグ戦4組」)で10全勝成績収め1期C級1組上がるまた、この1977年度には、全棋戦通して27勝・7割近い勝率挙げる第1期1988年度竜王戦5組師匠廣津を破るなどして3位となり、4組昇級1996年度には全棋戦通して16勝を挙げ久々に勝ち越す1998年順位戦フリークラス陥落以降10年間、順位戦復帰することができず、2008年引退となった2022年5月23日死去享年72歳

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藤倉勇樹」の記事における「棋歴」の解説

第30回2001年度下半期三段リーグでは5勝13敗と低調だったが、翌第31回2002年度上半期)は一転して13勝5敗の好成績で、1位で四段昇段を果たす。 第19期竜王戦2005 - 06年)6組で、ランキング戦準決勝まで進出し昇級者決定戦でも勝利して5組昇級する。 しかし、順位戦では7期在籍していずれも指し分け(5勝5敗)以下の成績しか収められず、第68期(2009年度C級2組順位戦3つ目の降級点取り熊坂学27歳順位戦制度最速3期在籍陥落)に次ぐ史上2番目の若さ30歳)、本間博と並ぶ史上2番タイ速さフリークラス陥落した2015年度には、第66回2016年度NHK杯将棋トーナメント予選決勝梶浦宏孝四段に勝ち、初の本戦出場決めた本戦では1回戦で、第40回優勝者先崎学九段敗れた)。 フリークラス在籍期限となる2019年度まで規定成績挙げることが出来ず2020年3月時点5組在籍維持していた竜王戦除き2020年度以降開催される公式戦参加資格失った竜王戦のみ2020年12月の第34期出場が可能となったが、2010年改定されフリークラス規定特例によって現役続行となったのは、藤倉史上初である。第34期5組残留決め次期竜王戦参加資格得た。しかし第35期竜王戦ではランキング戦昇級者決定戦いずれも初戦敗れ残留決定戦終了をもって引退となることが決定した2022年5月19日第35期竜王戦5組残留決定戦藤森哲也五段戦黒星となり、これが現役最終となった

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伊藤匠」の記事における「棋歴」の解説

5歳のときに父に将棋を教わる。2010年第9回全国小学生倉敷王将戦低学年の部で準優勝した。同学年藤井聡太がおり、2012年1月行われた第9回小学館学年誌杯争奪全国小学生将棋大会では、伊藤藤井準決勝対局し伊藤勝利している(伊藤2位藤井3位)。同年4月宮田利男三軒茶屋将棋倶楽部将棋研鑽を積む様子NHK教育の「カラフル!」で放送された。2013年7月には父親とともにベラルーシミンスク開催されヨーロッパ選手権会場訪れ世界オープン将棋選手権参加して優勝した。このときカロリーナ・ステチェンスカとも対局して勝っている。 2013年9月奨励会入会2018年4月より三段リーグ参加2020年9月12日第67回三段リーグ14勝2敗となり、1位が確定したため、四段昇段内定した誕生日10月10日7月19日藤井より遅生まれであるため、4年ぶりに最年少棋士交代した2021年3月27日Abema放送された「第4回ABEMAトーナメント」のドラフト会議リーダー棋士務めた藤井聡太から指名を受け、高見泰地とともにチーム藤井」を結成した同年9月18日決勝まで勝ち進んだチーム藤井は、5勝3敗でチーム木村破って優勝果たしたプロ入り同期古賀悠聖との決勝となった52期新人王戦決勝三番勝負では、2021年10月11日行われた第2局を2連勝勝利して棋戦初優勝飾った新人王戦優勝者にはその時点のタイトル保持1人との記念対局組まれることが恒例となっており、同年11月竜王獲得して史上最年少四冠となった藤井聡太との記念対局2022年1月2日放送された(結果98手で藤井勝利)。なお、記念対局同学年棋士同士となるのは史上5例目、10代棋士同士となるのは史上であった2021年12月3日には第63期王位戦予選3組決勝日浦市郎勝利し自身初となる挑戦者決定リーグ進出決めた。この予選ではタイトル保持者である永瀬拓矢王座下す金星挙げている。 第80期順位戦では、順位下位から始まる初参加のため自力昇級ではなかったが、最終局で近藤正和七段に勝利し競争相手敗れたため、9勝1敗の好成績C級2組1期抜けC級1組への昇級と五段への昇段果たした2022年3月30日第63期王位戦挑戦者決定リーグ紅組西尾明七段に勝利して2021年度勝率を0.818(4510敗)とし、年間勝率1位となった。これにより、藤井聡太デビュー以来続けていた年度勝率1位の記録4年途絶えさせた。

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山田道美」の記事における「棋歴」の解説

1960年初参加の順位戦B級1組で5勝7敗の成績ながらも降級するが、翌期すぐB級1組復帰一年間病気休場余儀なくされるなど停滞した時期もあったが、やがてA級に定着し第一線活躍するうになる1964年初参加のA級順位戦優勝し第24期1965年名人戦大山康晴挑戦した1-4敗退再度大山挑んだ第15期王将戦でもフルセットの末に敗れる。 3度目挑戦となった1967年第10期棋聖戦大山下し初タイトル獲得半年後の第11期棋聖戦で、中原誠挑戦退けて防衛。しかし、翌期連続挑戦してきた中原から棋聖位奪われる1970年6月6日第16期棋聖戦挑戦者決定戦大山康晴敗れたのが、公式戦における生涯最期対局となり、12日後の6月18日特発性血小板減少性紫斑病により36歳急死した順位戦A級在籍中であったほか、十段戦王位戦でも挑戦者決定リーグ戦っていた最中だった。現役A級で死去した棋士としては他に大山村山聖がいる。

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矢倉規広」の記事における「棋歴」の解説

プロ入り以来3期目参加となる第56期順位戦(1997年度)で8勝2敗の好成績収めるも、次点昇級逃す。同じ8勝2敗でも矢倉よりリーグ順位上の岡崎洋深浦康市昇級した。このときのリーグ順位は、矢倉が5位、岡崎2位深浦3位であり、僅かな順位の差に泣いた1998年度1999年度王位戦において、2年連続リーグ入り1998年度は、紅組リーグ北島忠雄に1勝を挙げたのみとなり、リーグ陥落1999年度白組リーグ藤井猛高橋道雄らを破って3勝2敗としたが、矢倉を含む4名が3勝2敗で並んだ。そして、トーナメント形式行われた白組プレーオフ1回戦では矢倉は再び高橋を破るが、決勝屋敷伸之敗れて挑戦者決定戦に進むことはできなかった。 第13期(2000年度竜王戦6組において、昇級者決定戦制し5組昇級第17期2004年度竜王戦5組において、初のランキング戦優勝を果たすと同時に4組昇級本戦1回戦では6組優勝者西尾明勝利した2回戦3組優勝者神谷広志敗退)。 2006年度は大不振に陥り、年度単位で5勝17敗の成績終わった。しかし、順位戦では3勝7敗の成績で、降級点回避には成功した第22期2009年度竜王戦4組において2回戦敗退また、昇級者決定戦敗者復活)のトーナメントでは4連勝するも、3位決定戦決勝)で敗退する。竜王戦では通常2度敗れると昇級できないが、中原誠1組)の引退による上位クラス欠員補充のため、4組では追加昇級者決定戦組まれ3位決定戦敗者2名である矢倉脇謙二対決することとなった矢倉はこのチャンスを物にし、脇に勝利自己最高の3組昇級した第25期2012年度竜王戦では2連敗喫し4組降級となった2012年度全成績では2112敗と勝ち越し成功したが、以降2022年現在に至るまで、年度全成績での勝ち越し出来ていない状況続いている。 第78期順位戦(2019年度)で苦戦し2勝8敗で終えた結果初めての降級点が付くこととなった

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棋歴

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有吉道夫」の記事における「棋歴」の解説

将棋熱中したきっかけは、「矢倉囲い美しさ感動したから」だという。 年齢差12歳ほどしかない大山一番弟子で、1951年15歳入門してからの奨励会4年間、大山のもとで内弟子生活を送る。 1955年19歳プロ入り初参加から2期目第11期1956年度C級2組順位戦で、10勝2敗で1位となり、C級1組昇級。さらに、翌年同じく10勝2敗で1位となり、2年連続昇級B級2組上がる1957年度難関王将リーグ第7期)に、初めて入る。第12期1962年度)には、二上達也加藤一二三升田幸三山田道美らを破り6勝1敗で1位タイとなるが、プレーオフ二上敗れ挑戦逸する一方二上は、その勢い乗ったまま大山から王将位を奪取する)。 第14期1959年度B級2組で9勝3敗の2位とし、B級1組昇級第19期1964年度)B級1組順位戦10勝4敗の2位成績収め1965年4月1日をもってA級八段となる。 1966年第7期王位戦王位リーグ抜け挑戦者決定戦山田に勝ち、タイトル初挑戦師匠大山との初のタイトル戦でもある。七番勝負結果は1勝4敗で敗退第11回1966年度)高松宮争奪選手権戦の決勝三番勝負加藤一二三を2勝1敗で破り、同棋戦最後優勝者となる。 第7回1967年度)最強者決定戦準決勝前回優勝者内藤國雄を破るが、決勝三番勝負山田敗れる。 第9期1968年度)王位戦で、大山2度目挑戦(2勝4敗で敗退)。また、第23期1968年度)A級順位戦で8勝2敗で優勝し、ついに、名人戦七番勝負(第28名人戦)の舞台で大山名人と戦う。3勝2敗として大山追い詰めるが、そこから2連敗惜敗第17回1969年度)王座戦決勝三番勝負進出中原誠に1勝2敗で敗れる。同年第9回最強者決定戦決勝三番勝負では大友昇を2勝0敗で破り優勝第21期1971年度)王将リーグで、内藤升田二上らに勝ち、5勝2敗の1位タイプレーオフ中原破り王将戦七番勝負初登場大山王将に3勝4敗で敗退。これ以降大山とのタイトル戦での対決はなく、師匠の壁を打ち破ることはできなかった。 第12回1972年度)最強者決定戦で、決勝三番勝負原田泰夫を2勝1敗で破り、同棋戦2度目優勝第21期1972年後期棋聖戦中原棋聖名人十段合わせ三冠王)に挑戦五番勝負では2連敗の後に3連勝しタイトル奪取1973年2月5日)。初タイトル獲得時の37歳当時高齢記録師匠大山多数回のタイトル獲得歴があり、師弟ともにタイトル獲得歴を有するのは史上初。師弟同時期にタイトル保持であった唯一の例。しかし、翌期米長邦雄棋聖タイトル奪われてしまう(一方米長は、これが初のタイトル獲得であった)。結果的に、これが棋士人生唯一のタイトル獲得歴となった。 第13期(1974年度)から第17期1978年度)まで、トッププロが名を連ねる十段リーグ連続在籍第25期1975年度)王将リーグで、大山二上らに勝ち、5勝2敗の1位タイプレーオフ大山に勝ち、中原王将挑戦するが、七番勝負は1勝4敗で敗退また、第27期1977年度)王将リーグでは、米長邦雄加藤一二三らに勝ち、6勝1敗で挑戦を得るが、中原王将に2勝4敗で、またも敗退。第32期1978年前期棋聖戦でも中原棋聖挑戦し五番勝負は0勝3敗で敗退。これが有吉の、最後タイトル戦登場となった第3回1976年度)名将戦決勝大山を2勝0敗で破り優勝。同棋戦では、第6回1979年度)でも大山決勝戦いそのときは0勝2敗で敗れている。 1978年度、テレビ棋戦第12回早指し将棋選手権優勝準決勝相手中原決勝相手大山)。1980年度には、同じくテレビ棋戦第30回NHK杯戦で優勝決勝相手中原)。 1984年49歳にして史上初の公式戦20連勝記録樹立同時期に第7回1984年度オールスター勝ち抜き戦歴代1位タイ当時)の11抜き達成(5人抜き以上は優勝扱い)。また、43期(1984年度B級1組順位戦で9勝3敗で1位となり、A級に復帰。 第36期1986年度王将戦二次予選決勝大山破り王将リーグ入り第21回1987年度早指し将棋選手権で、52歳にして2度目優勝破った相手は、二上中原中村修準決勝)、森下卓決勝)ら。 第48期1989年度B級1組順位戦10勝2敗で1位となり、55歳にしてA級に2度目復帰以降61歳までA級に在位した。なお、この間1992年度リーグ戦途中)に大山逝去し有吉不戦勝記録されている。 第12回1991年度JT将棋日本シリーズ決勝進出羽生善治敗れ準優勝

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高野秀行 (棋士)」の記事における「棋歴」の解説

7歳の頃、父から教わり将棋始める。その後日本将棋連盟相模原支部長内田昭吉自宅教室で、鈴木大介北浜健介勝又清和佐藤紳哉とともに腕を磨く1983年11歳の頃、4歳上の勝又中学生名人戦優勝して奨励会入りしたのを機にプロ志す1984年12月中原誠当時十段王座)の弟子となり関東奨励会6級入会同期には深浦康市瀬川晶司ら。 プロ入りまでの道は平坦ではなく入会から6か月後の1985年6月に7級に降級1986年3月にやっと6級復帰2級から1級初段から二段には、それぞれ1年9か月かかる。一方で5級から4級には2か月二段から三段には4か月というラッシュがあった。 三段リーグでは、初参加から9期目の第22回三段リーグで、前半を5勝4敗で折り返した後に粘り13勝5敗・1位の成績収め四段昇段決定入会から13年にしてプロ入りを果たす(1998年4月1日付)。 2000年第50回NHK杯戦の予選を3連勝通過本戦1回戦井上慶太を破る。 第16期2003年度竜王戦6組優勝し本戦進出5組昇級2003年度勝率は0.6944(2511敗)で全棋士中9位であった。 第30期(2004年度棋王戦本戦進出予選決勝では渡辺明この年に初の竜王位)に勝った同年第17期竜王戦5組昇級者決定戦敗者復活戦)で、勝てば4組昇級という一番で宮田敦史敗れる。 2005年第24回朝日オープン将棋選手権本戦進出1回戦師匠中原敗れる。 2005年行われた瀬川晶司プロ編入試験試験官対局者)を当初発表されていた熊坂学四段段位当時)に代わり務める。交代について髙野は、「不手際で、せっかく進めてきたイベント支障が出るのを防ぎたかった」と語っている。2005年11月6日瀬川は髙野に勝ち、プロ入り決めた2007年第57回NHK杯戦で本戦出場。第66期2007年度順位戦C級2組で8勝2敗・3位成績挙げプロ入りから10年C級1組へ初昇級過去にも8勝2敗が2度あったが上がれず、三度目の正直となった。 第34期2008年度棋王戦本戦進出本戦2回戦高橋道雄を破る。 2011年2月22日、五段昇段120勝により六段昇段通算220192敗)。

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杉本昌隆」の記事における「棋歴」の解説

1990年プロ入り第48回1998年度NHK杯テレビ将棋トーナメントで、桐山清澄森内俊之中川大輔屋敷伸之らに勝ち、ベスト4進出準決勝堀口一史座敗れる。 2001年第20回朝日オープン将棋選手権で、米長邦雄森内俊之中原誠らを破り決勝進出決勝五番勝負堀口一史座に1勝3敗で敗れ準優勝竜王戦では、第16期2003年度)に3組優勝第17期2004年度)には2組準優勝となり、2年連続昇級1組上り詰めた2008年度B級1組順位戦において、高橋道雄井上慶太と並ぶトップタイの成績(8勝4敗)を挙げたが、順位下位であったため頭ハネA級昇級逃したタイトル挑戦棋戦優勝将棋大賞受賞歴全くない杉本がA級に昇級していれば田丸昇以来珍記録であった)。 第74期2015年度第74期順位戦B級2組では3勝7敗の成績終わり降級点を2個累積させてC級1組降級した。 2018年3月8日第68期王将戦1次予選2回戦弟子藤井聡太と初対局千日手指し直しの末敗れ、「恩返し」を許した2019年2月22日テレビ棋戦での勝利で勝数規定満たし八段昇段した八段まで全て勝数規定昇段したのは阿部隆中田宏樹中川大輔日浦市郎泉正樹神崎健二中田功続き史上8人目である。第77期順位戦では近藤誠也船江恒平、そして藤井聡太と8勝1敗で並んで迎えた3月5日最終局で勝利。他の3人も勝利したが、順位の差で来期B級2組復帰藤井との師弟同時昇級はならなかったが、50歳でのB級2組昇級史上4位の年長記録となった

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戸辺誠」の記事における「棋歴」の解説

1998年第23回小学生将棋名人戦3位になり、同年12歳奨励会入会2006年20歳プロデビューを果たす。 小学生の頃、磯子将棋センター通っていたが(同じ道場出身者永瀬拓矢 がいる。)茨城県引っ越した。そのため、奨励会には茨城県から通っていた。 2007年第20期竜王ランキング戦6組優勝決勝トーナメントでは初戦敗退初参加から2期目となる第67期(2008年度C級2組順位戦で、8勝2敗で昇級(五段昇段)。翌第68期(2009年度C級1組順位戦では10全勝し2期連続昇級六段昇段 = 当時最年少六段)。 また、2009年度戦った第51期王位戦予選で、森内俊之九段久保利明棋王らを破り挑戦者決定リーグ進出。さらに、王位戦白組リーグでは羽生善治名人らに勝ち4勝1敗とし、同じく4勝1敗の羽生とのプレーオフとなった敗れ挑戦者決定戦進出逃す。なお、この間2009年度勝率0.7619(2位)・3210敗で終え将棋大賞新人賞受賞している。 2010年第23期竜王ランキング戦5組優勝決勝トーナメントでは2勝を挙げる

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都成竜馬」の記事における「棋歴」の解説

将棋教室を開くほどの将棋好きだったアマ初段の父が、将棋の駒にちなんで「竜馬」と命名した。父と兄が指しているのを見て4歳頃に将棋覚えた2000年小学5年時に出場した第25回小学生将棋名人戦優勝決勝戦相手1年上の中村太地だった。その後長年弟子取らない方針だった谷川浩司一人だけ弟子を取るという話を耳にし、小さな頃から憧れていた谷川弟子入り志願する手紙書いた谷川小学生名人戦ビデオをわざわざ取り寄せて見て、都成の将棋と縁深い名前や、誕生日1月17日谷川自らも被災した阪神・淡路大震災日付重なることなどに運命的なものを感じ唯一の弟子として迎え入れたという。 同年9月6級関西奨励会入会。しかし、入会当初成績振るわず5級昇級するまで1年9ヶ月、また5級から4級昇級1年3ヶ月費やしたその後調子上げ4級から初段まではおよそ2年でかけ上がった当時宮崎から飛行機大阪関西将棋会館通い中学卒業後は大阪高校進学したが、将棋専念するため3年時に中退2007年7月17歳三段昇段し2007年度後期第42回)より奨励会三段リーグ参加リーグ戦では12勝6敗の成績を4回経験し第45回第52回それぞれ4位となるものの、直後リーグ戦良い成績残せない等で三段リーグ抜けられずにいた。 三段在籍中出場した44新人王戦で、奨励会三段として3人目となる決勝三番勝負進出。その決勝藤森哲也に2勝1敗で勝利し史上初の奨励会員による一般棋戦優勝果たした。この快挙を受け日本将棋連盟は、「新人王戦奨励会三段優勝した場合進行中三段リーグ終了時次点をつける」という規定設け第55回奨励会三段リーグより適用することになった2015年1月22日行われた46新人王戦2回戦、対牧野光則戦は、先手玉が入玉したが後手番の都成は攻め続け先手玉を後方追いやったものの、最終的に343手という長手数敗れた。この対局で、第42回将棋大賞名局特別賞受賞した2015年度後期第58回)の三段リーグでは前半戦から好調維持し最終日の2局を残して2位以下に3勝差をつけて1位を確定し四段昇段決定させた。三段リーグ17期目、26歳年齢制限指し分け(9勝9敗)以下の場合退会となる状況での昇段であった宮崎県出身将棋プロ棋士高崎一生以来2人目。 2016年度初参加となる第75期順位戦では、初参加から2連敗ののち8勝2敗と、9勝1敗の昇級者3人に次ぐ成績上げ次期3位となった2017年度第76期順位戦C級2組最終局で杉本和陽勝利し、8勝2敗の成績となる。第76C級2組10全勝1人の他、8勝2敗で7人が並ぶ大混戦となったが、順位差でC級1組への昇級決め同時に五段に昇段した2018年度は、第31期竜王戦 6組ランキング戦準決勝高野智史勝利して5組昇級決め決勝大橋貴洸勝利して6組優勝決勝トーナメント進出決めた決勝トーナメントでは5組優勝藤井聡太敗れた。また第60期王位戦予選決勝まで勝ち抜き挑戦者決定リーグ入りをかけて谷川浩司との「師弟対決」が実現するも、105手で敗れリーグ入り逃した2019年度入り第45期棋王戦予選決勝藤井聡太下して藤井6戦目にして初勝利本戦進出果たした2019年4月より高見泰地向井葉月乃木坂46とともにNHK Eテレ将棋フォーカス」の司会担当2021年1月よりYouTubeにて自身チャンネル「【将棋棋士都成竜馬とゆく / Ryuma Tonari」を開設した

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村中秀史」の記事における「棋歴」の解説

棋界名伯楽高柳敏夫末弟子として1992年奨励会入会コンスタント勝ち星重ね1998年度前期第23回)より三段リーグ参戦。なかなか大勝ちができず四段入り難航したものの、初参加から13期目で自己最高となる14勝を上げ23歳無事にプロ四段となる。 初参戦の第31期(20042005年度)棋王戦本戦出場本戦2回戦森下卓敗れる。 第67期(2008年度)順位戦ではC級2組にて最終戦まで昇級に絡む。トップ大平武洋が8勝1敗、村中ら8人が7勝2敗で並ぶ混戦迎え順位の差により村中昇級争いの8番手自身4番手の中太地勝って、更に(同点村中より順位が高い)田村康介高崎一生戸辺誠佐藤天彦金井恒太のうち4人が負ければC級1組昇級という極めて可能性が低い状況で、自身勝利を収めたものの、田村・戸辺が勝ち他の3名が敗れたため「あと一人足りず次点に留まった。 初出場の第58期NHK杯1回戦で、木村一基序盤飛車捨てるなどの強手攻め続け撃破した2009年9月15日第22期竜王戦5組昇級者決定戦準決勝 松本佳介戦に勝ち、プロ入りから5年にして四段昇段100勝により五段へ昇段。その翌月10月16日には、勝てば一気六段昇段竜王ランキング戦5組3位決定戦・対戸辺誠戦を迎えたが、このチャンスをものにして勝利連続2回昇級での4組昇級決めとともに、五段昇段から僅か1か月、3勝をあげただけで六段昇段した竜王戦昇段規定では1年以内に2回以上昇段できるため)。 2010年3月9日C級2組順位戦最終戦で、有吉道夫九段勝利有吉はこの敗戦加藤一二三に次ぐ史上2人目の公式戦1,000敗に到る同時に延べ54期に亘り参加し続けた順位戦から退いた

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八代弥」の記事における「棋歴」の解説

将棋覚えたのは小学校1年生の頃。ちょうど東伊豆町から隣の伊東市引っ越すタイミングで、中学校教師である父から教わった4年生になって伊東支部小さな道場に行くようになり、5年生のときに奨励会受験する不合格師匠勧めもあり研修会入会。月に2回ほど東京通った2005年9月6級奨励会入会。後にプロ棋士となる会員としては珍しく入会間もなく成績不振により“B”と言われる降級点喫し、7級降級危機瀕するなどで、最初昇級1年費やした八代本人は後の四段昇段内定インタビューで、この時期辛かったが、周囲応援励みになった旨を述懐した。それからしばらく順調に昇級続け2008年2月初段昇段。しかし、そこで再び長いトンネル入り2009年7月にようやく二段昇段二段では再び順調に勝ち星重ね2010年3月三段昇段これに伴い2010年度前期第47回)より三段リーグ参加4期目となる2011年度後期第50回)で14勝4敗・2位成績修め地元高校卒業するタイミング2012年4月1日付けプロ入りまた、第1期2011年度加古川青流戦にも三段として参加初戦プロ棋士9年藤倉勇樹四段から白星挙げた2015年度第65回NHK杯戦に初出場本戦1回戦村山慈明対戦したものの敗退2017年2月11日2016年度第10回朝日杯将棋オープン戦一次予選から勝ち上がり棋戦初優勝。同棋戦歴代優勝者の中で、八代22歳11か月当時最年少記録、五段での優勝も同棋戦史上初、更に一次予選から出場した棋士優勝も同棋戦史上であったまた、棋士参加棋戦での優勝により、同日付で六段昇段した2018年4月15日放送日)、第68回NHK杯戦に朝日杯優勝シード出場したが、1回戦初出場安用寺孝功六段敗れた2019年4月23日、第32期竜王ランキング戦3組準決勝三枚堂達也勝って連続昇級決め、七段に昇段したちなみに三枚堂も連続昇級かかっており、両者とも六段であったため、文字通りの「七段昇段決定戦であった同年5月新元号令和となったため『平成最後対局』で昇段となった2021年3月24日、第34期竜王ランキング戦2組準決勝当時名人位であった渡辺明勝利し本戦出場と共に1組への昇級決めた。これにより2021年度八代竜王戦では最上位クラス1組順位戦では最下位クラスC級2組属することになり、1995年度先崎学以来26年ぶりの2例目となった本戦トーナメントでは三枚堂達也久保利明破り準決勝まで進出するも、ランキング戦2組決勝敗れた藤井聡太に再び黒星喫し敗退となった2021年12月10日、第35期竜王ランキング戦1組1回戦稲葉陽勝利し史上2期連続竜王戦1組順位戦C級2組所属確定した準々決勝では前期対局し勝利した渡辺明勝利した。第93期(2021年度)の棋聖戦二次予選決勝屋敷伸之に勝ち、本戦トーナメント進出第6期2021年度)の叡王戦段位別予選決勝横山泰明に勝ち、本戦トーナメント進出

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有野芳人」の記事における「棋歴」の解説

1965年入門から10年経った三段当時1975年10月 - 11月に、8連勝記録して27歳プロとなる。この間第1回1971年奨励会若獅子戦優勝している。 1977年度、第5回1978年度)名将戦で、予選突破順位戦では、第36期1977年度よりC級2組出場したものの、13期目までC級1組昇級する成績修められず、出場14期目(第49期1990年度)で降級点喫したのを機に42歳引退する順位戦での通算勝率は、4割ちょうどである。 竜王戦では、発足時5組からのスタートであったが、1度降級危機迎えるものの残留決定戦で勝ち、引退までの4年降級することなく終えた

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加藤一二三」の記事における「棋歴」の解説

肩書タイトルはいずれ当時

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豊島将之」の記事における「棋歴」の解説

平成生まれ初のプロ棋士である。 2018年時点では、豊島菅井竜也稲葉陽糸谷哲郎斎藤慎太郎佐藤天彦(元関西奨励会所属)の6名が「関西若手6強」とされていた。

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堀口弘治」の記事における「棋歴」の解説

奨励会二段の頃、第2回1979年)「若駒戦」(非公式戦)で優勝翌年三段準優勝1984年度第8回若獅子戦で、公式棋戦初優勝順位戦C級2組において、初参加から3年連続で7勝3敗。4期目1985年度)に8勝2敗で3位となり、C級1組昇級第7回1988年度全日本プロトーナメントで、ベスト82017年3月31日フリークラス規定により同年度(2016年度)の最終対局をもって引退将棋連盟より発表された。3月時点第30期竜王戦6組昇級者決定戦残していたが、6月1日対局中尾敏之敗れて対局終え引退確定した

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宮本広志」の記事における「棋歴」の解説

小学1年生時に父に教わって将棋始めた1999年9月に、6級奨励会入会1級から初段への昇段2年強を費やした以外は順調に昇級昇段をし続け2005年3月には三段昇段し第37回2005年度前期)より三段リーグ参加。ここで2位以内成績修めればプロ入りという所まで到達したリーグでは勝ち越すことが多かったものの、なかなか2位以内入れないまま、第50回2011年度後期参加中に26歳年齢制限迎え指し分け(9勝9敗)以下で終えると奨励会退会という危機瀕する当期リーグ最終日3番手で迎えるも、連敗喫し11勝7敗の8位で終え次点獲得チャンス逃した。 翌第51回では序盤から好調続け連勝すれば自力四段昇段可能な状態で最終日迎えた最終局で敗れ成績が4位となり、またもや次点獲得にも至らなかった。 翌第52回出だし3連敗と躓いたものの、中盤以降持ち直し11勝5敗の途中成績迎えた最終日は、自身連勝するか、自身が1勝1敗でも同じ途中成績の他の3名が連勝しなければ昇段できる極めて有利な状況迎えた。しかし再び最終局で敗れ、また同星の竹内雄悟連勝したため今回2位以内入れなかった(最終的に3位だったため、次点獲得した)。 翌第53回では波に乗れず、第15回戦を終えた時点で7勝8敗となり、残り3局を全勝できない退会という窮地に立つ追い込まれ宮本であったが、残り3局を連勝最終成績10勝8敗と勝ち越し、翌第54回への参加辛くも確保した勝ち越し延長続けること4回、28歳となる第54回では、三たび連勝すれば自力昇段可能な状態で最終日迎える。宮本初めてこの状況連勝遂に四段昇段決めた28歳での四段昇段は、三段リーグ経由したものに限定すれば勝ち越し延長規定発足した1994年以降最高齢記録であったまた、奨励会三段時代出場した第1期加古川青流戦では決勝まで進み決勝三番勝負船江恒平先勝からの2連敗敗れたものの、準優勝果たしている。 第74期2015年度C級2組順位戦では、9勝1敗・1位の成績をあげ、C級1組への昇級それに伴い五段に昇段第67回2017年度NHK杯将棋トーナメントに五段・31歳にして初出場1回戦銀河戦優勝につきシード藤井猛九段勝利2回戦三浦弘行九段敗れた

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棋歴

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渡辺大夢」の記事における「棋歴」の解説

5歳時に祖父から教わったのをきっかけとし、将棋始める。将棋会館将棋スクール勝又清和指導を受け、当初勝又への弟子入り希望するが、勝又弟子取らない方針だったことからこれ断り代わりに勝又師匠である石田紹介石田門下となる。 2001年9月6級新進棋士奨励会入会三段まで順調に昇級昇段続け18歳となった直後三段昇段し第40回平成18年後期)より三段リーグ参加毎期コンスタント成績修めるも、なかなか四段昇段結びつく好成績出せなかった。 3期目(第42期)では5番手で最終日迎えトップ吉田正和3番手の船江恒平連敗し2番手の田中悠一が1勝1敗だったため、渡辺連勝していれば2位四段昇段となるチャンスだったが、当期限り年齢制限に伴う退会決定していた会員敗れ次点をも逃した7期目(第46期)では6番手最終日迎え渡辺連勝し3番手の佐々木勇気が1勝1敗となり、4番手の森村賢平及び5番手の藤森哲也連敗したため、2番手の牧野光則結果次第では渡辺2位四段昇段となるところだったが、牧野連勝したため実現には至らなかった。しかしながら菅井牧野に次ぐ3位成績修め1回目次点獲得した12期目(第51期)では4番手で最終日迎え、再び最終2局を連勝。これで上村亘トップ)、宮本広志2番手)、石田直裕3番手)のうち2人が1敗以上すれば2位以内四段昇段となるところだったが、結果上村石田無敗終えたためまたしても実現には至らなかった。しかしながら宮本連勝しなかったことにより、渡辺3位成績修め2回目次点に伴いフリークラス編入する権利獲得。これを行使したことにより、2012年10月1日付け四段昇段プロ入り)。 奨励会三段出場した新人王戦及び加古川青流戦では、対局当時既にプロとなっていた棋士に3勝4敗、女流棋士に2勝0敗と好戦した。第43回2012年新人王戦2回戦では、絶好調最中にあった中村太地五段を撃破した2015年7月8日竜王戦6組昇級者決定戦5回戦で、伊藤博文勝利しフリークラスから順位戦C級2組への昇級決めた棋風粘り強い受け将棋2020年12月25日王座戦一次予選門倉啓太五段と対局予定だったが、自身骨折のために対局が行えず不戦敗となった。続く29日予定されていた澤田真吾七段との王位戦予選での対局延期となった

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鹿野圭生」の記事における「棋歴」の解説

松山商科大学(現・松山大学在学中より活躍し3年連続全国学生女流名人戦決勝進出している。1981年第2回1983年第4回には優勝した女流プロとしてのデビュー戦は1987年3月26日レディースオープントーナメント山下カズ子であったが、山下反則により、プロ初白星反則勝ちという棋界では非常に珍しい記録を残すことになった1998年より4年間、大阪ガスCM出演した大学時代将棋部後輩1997年結婚1999年第一子出産姉御肌キャラクターから、将棋界では「大阪姉御」と呼ばれている。 ニックネームは「カノタマ」または「タマ」。かつて『将棋マガジン』でコラム連載していた時の題名も『タマの目』だった。 関西所属では唯一日本女子プロ将棋協会設立参加し連盟脱退した2014年2月にはLPSA理事就任2017年3月31日引退女流棋士規定により引退生涯成績123243敗。また、LPSA主催大会には出場する意向示している。

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遠山雄亮」の記事における「棋歴」の解説

1993年奨励会入会6級)。2005年年齢制限目前にして25歳四段昇段昇段決めた一局終えた直後、思わずうれし涙にむせぶ姿が、「囲碁・将棋ジャーナル」で映された。 2006年度勝率6割台の好成績挙げたが、初参加の第65期(2006年度C級2組順位戦黒星集まり、3勝7敗でいきなり降級点喫する。翌第66期2007年度)では一転して8勝2敗の好成績挙げたが、順位の差で次点となり、C級1組への昇級と五段昇段逃した第15期銀河戦2006 - 2007年)のブロック戦最多連勝し決勝トーナメント進出ベスト16)。 2007年第57回NHK杯戦で、本戦初出場また、第20期2007年度竜王戦ランキング戦6組準優勝5組昇級)。その5か月後の2007年10月から2008年1月にかけて公式戦10連勝記録真部一男死去による不戦勝含まれている)。 2009年第59回NHK杯戦で、2度目本戦出場。 第81期(2010年度)の棋聖戦にて、一次予選二次予選島朗松尾歩らを破り決勝トーナメント進出ベスト16)。 2010年6月から10月にかけて公式戦11連勝記録し一時連勝ランキングトップに立つ。同年、第52期2011年度王位戦において、予選渡辺明先崎学らを破り、初のリーグ入り(3勝2敗で陥落)。リーグ初戦王将挑戦中の豊島将之勝ったのが公式戦通算100勝目72敗)となり、五段昇段順位戦でも8勝2敗の好成績だったが、稲葉陽との順位1枚の差に泣きまたしてもC級1組への昇級はならなかった。 2012年第25期竜王戦にて4組昇級を果たすも、順位戦不調二度目降級点。 第76期(2017年度順位戦は8勝2敗で降級点一つ減らすも、順位差によりC級1組への昇級はならなかった。

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棋歴(きれき)

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将棋用語一覧」の記事における「棋歴(きれき)」の解説

将棋におけるこれまでの経歴経験値のこと。〈例〉「輝かしい棋歴を誇る」

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沼春雄」の記事における「棋歴」の解説

9-10歳の頃、隣の工場昼休み指されていたのを見たのが将棋覚えたきっかけ1965年第1回高校選手権優勝翌年第2回では団体優勝旧制度奨励会三段リーグ奨励会A組)で、制度終了1973年後期まで5期2年半を戦う。この間1972年前期には10勝2敗で関西優勝関西戦ったのはこの期だけ)をするが、関東優勝宮田利男との東西決戦敗れ四段昇段逃すリーグ廃止後、1975年7月12勝4敗の成績四段昇段プロ入り)。ちょうどその頃名人戦・順位戦主催者移行によるブランク期間があり、順位戦再開まで待たされた。 第17期1976年度)王位戦では挑戦者決定リーグ入り内藤國雄花村元司に勝つが敗退第18期十段戦1978 - 1979年)の予選で、坂口允彦森雞二剱持松二石田和雄土佐浩司破って勝ち上がり難関十段リーグ入りまであと1勝とするが、予選決勝勝浦修阻まれる。 第14回1980年度早指し将棋選手権本戦初めて2勝するが、3回戦またしても勝浦敗れる。 第47期(1988年度C級2組順位戦で8勝1敗(1敗の後に8連勝)で最終局を迎え自力昇級権利があったが、小林宏痛恨黒星喫し、2敗で7位。このとき、沼の敗戦による逆転昇級者は、同じく8勝2敗の佐藤康光。しかし、翌第48期1989年度C級2組順位戦最終局で中川大輔に勝ち、8勝2敗ながらも前期好成績利いてリーグ順位上位のため)3位成績で初の昇級C級1組棋士として新年度始め1990年4月1日)には41歳になっていた。しかし、上がったばかりのC級1組2期連続降級点喫しC級2組陥落以降成績不振終わった

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高群佐知子」の記事における「棋歴」の解説

8歳時に世田谷将棋教室開いていた父から将棋教えられる1984年4月女流棋士養成機関である女流育成会創設されたのをきっかけ清水市代らととも初期会員として入会。また研修会にも同時に入会している。 1986年3月1日当時制度女流3級プロ入り1986年第9期女流王将戦B級リーグ好成績収め、A級に初昇格し翌年4月2級昇級1988年第15期女流名人位戦B級リーグでの成績により、A級に初昇級1989年第1期女流王位戦紅組リーグで8勝1敗の成績挙げる唯一の黒星は7回戦の林葉直子戦)。 1991年第5回レディースオープントーナメント準優勝決勝三番勝負清水市代0-2敗退)。 1995年第3期倉敷藤花戦ベスト41996年第4期挑戦者決定戦進出結果木村さゆり敗退)。翌1997年第5期ベスト4進出した1996年第1回鹿島杯女流将棋トーナメント準優勝決勝三番勝負林まゆみ0-2敗退)。 1999年第10期女流王位戦の白リーグ中井広恵碓井涼子と4勝1敗で並ぶが、プレーオフ中井敗れる。 2000年6月30日第11期女流王位リーグ白組4回戦船戸陽子勝利し女流二段昇段90勝を達成し女流三段昇段2004年、第12期倉敷藤花戦8年ぶりに挑戦者決定戦進出結果清水市代敗退)。 一方で同年の第31女流名人位戦B級リーグは4勝5敗の成績終わり初めB級リーグから陥落以降予選敗退続きB級復帰する事は無かった2018年1月21日第40期女流王将戦予選2回戦山田久美に勝ち、女流三段昇段120勝を達成し女流四段昇段2020年3月をもって一身上の都合により現役引退2019年12月26日の第47女流名人戦予選山口恵梨子敗れたのが公式戦最後対局であった

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古森悠太」の記事における「棋歴」の解説

将棋始めたきっかけは、小学2年生のときに祖父から教わった答えている。 順位戦は第77期(2018年度)から参加C級2組1年目最終局の勝利による4勝6敗で降級点免れた2019年度第5期叡王戦四段戦勝ち上がり本戦進出1回戦斎藤慎太郎敗れた第78期順位戦は9勝1敗の好成績クラス3位になり、順位戦参加2期目C級1組への昇級と五段昇段決めた

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高田丈資」の記事における「棋歴」の解説

1966年4月28歳11ヶ月にしてプロ入り四段)。その少し前、奨励会三段のときに、第9回1965年度)古豪新鋭戦4回戦まで勝ち進んでいる(4回戦米長邦雄敗れる)。 プロ1年目第21期1966年度)C級2組順位戦は、5勝7敗で負け越すその中で中原誠桐山清澄敗れている(中原12全勝で初昇級桐山10勝2敗・3位昇級できず)。 2年目第22期1967年度)C級2組順位戦で9勝3敗・2位成績収めC級1組昇級(五段昇段)。以降B級2組昇級することはなかった。 第1回1972年後期早指し将棋選手権本戦2回戦進出中原名人三冠)に敗れる)。同棋戦ではその後活躍しており、第4回1974年前期)では本戦3回戦進出桐山敗れる)。第5回1974年後期)では早指しを得意とする加藤一二三(元十段)を予選破り本戦では2回戦まで進出第10回1977年前期)では本戦1回戦進出第11回1977年後期)では本戦2回戦進出中原名人四冠)に敗れる)。第12回1978年度)では本戦森安秀光らを破り4回戦進出有吉道夫(元棋聖)に敗れる)。 1977年石川陽生弟子に取る。 現役のまま、1979年心不全のため42歳死去した

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椎橋金司」の記事における「棋歴」の解説

奨励会への入会1962年旧制度三段リーグ奨励会A組)への参加1969年後期からで、同制度終了する1973年後期までの9期4年半、四段昇段プロ入り)をすることができなかった。 その頃第3回奨励会若獅子戦関東決勝で、田中寅彦4級角落ち破って関東優勝。しかし、西の優勝者淡路仁茂三段との決勝では、秒読み悪手指して敗れ準優勝に終わる。このときは、観戦記担当団鬼六記録係にわざわざお茶持ってくるという気遣い見せた。団は「お茶を出す時間節約していれば…」と思ったという。 その頃から好調となり、三段リーグ制度1974年廃止されるや否や同年9月25歳四段昇段する。 第2回1975年度)名将戦本戦入り第13回1979年度早指し将棋選手権予選突破。さらに本戦1回戦谷川浩司を破る。 順位戦では、1992年C級2組から陥落以降10年間、順位戦復帰することができず、2001年度最後に53歳引退となった

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酒井順吉」の記事における「棋歴」の解説

小学校4年の頃から神戸市藤内道場通い中学2年のときにプロ志す奨励会への入会1966年旧制度三段リーグ奨励会A組)への参加は、1970年後期から同制度終了する1973年後期までであったその間1971年後期には関西優勝をしてプロ入りチャンス巡ってきたが、東西決戦田丸昇敗れ昇段逃すリーグ制廃止後、1976年3月12勝4敗を記録し26歳プロ入りを果たす。 プロ1年目1976年度に、第18期1977年度)王位戦リーグ入り決めるなどの活躍で、20超え成績収める。これが、酒井現役時代における最高の年度となった1978年第17期十段戦予選谷川浩司らを破り5回戦進出順位戦では19年C級2組指した後、1996年フリークラス陥落以降10年間、順位戦復帰することができず、2006年引退となった

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橋本三治」の記事における「棋歴」の解説

1952年順位戦C級2組初参加し9勝3敗の3位C級1組昇級1953年、2勝10敗の最下位C級2組1期で戻る。 1960年C級2組順位戦で2勝11敗により陥落し、そこから4年半にわたって予備クラス奨励会三段所属したクラス)で指した予備クラス陥落し復帰した数少ない棋士である。6期目には関西優勝関東優勝米長邦雄敗れ敗者復活では大内延介敗れ順位戦復活ならず。9期目に関西優勝し関東優勝桜井昇に勝ち順位戦復帰した1967年復帰3期目この期に3勝9敗で降級点。翌1968年も3勝9敗で降級点2つ目を得てその後3年連続指しわけ1973年3勝7敗で3つ目の降級点得て順位戦から陥落した1985年引退するまでの通算成績191336敗。 1970年創設され年齢制限のなかった第1回新人王戦45歳出場し決勝進出29歳山口英夫2連敗準優勝引退後は半九郎というペンネーム観戦記者務めたこともある。

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二見敬三」の記事における「棋歴」の解説

戦時中木見弟子となり、1948年若くしてプロとなる。記録残っておらず四段昇段日が確定していないため、日本将棋連盟年少での四段昇段記録の列に二見加えていない。 第5期順位戦C級乙組で1位となり、次期C級1組昇級。これにより、飛び昇段六段となる。 第6期順位戦C級1組は、次期B級2つ分けるため、1位が次期B級1組に、2、3位が次期B級2組それぞれ昇級する戦いであったが、二見3位となりB級2組昇級1960年第4回古豪新鋭戦優勝1970年度、6月から年度末まで休場。しかし、翌1971年度にほぼ五分成績カムバックを果たす。 他の棋戦比べると、二見順位戦との相性悪かった。ちょうど名人戦・順位戦1年間中断した頃、順位戦から陥落する。それから間もなく1977年度から長期休場1980年現役七段のまま肝硬変により48歳死去

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中村真梨花」の記事における「棋歴」の解説

2008年度第2期マイナビ女子オープン挑戦者決定戦進出したが、岩根忍女流初段敗れてタイトル初挑戦ならず。 2009年度9月24日第17期大山名人杯倉敷藤花戦挑戦者決定戦本田小百合女流二段破りタイトル初挑戦果たした。しかし三番勝負では里見香奈ストレート敗退2012年9月7日第34期女流王将戦挑戦者決定戦中井広恵女流六段破り2度目タイトル挑戦里見香奈との三番勝負第一局は勝利したが、第二局・第三局と連敗して1勝2敗となり、タイトル獲得はならなかった。 2013年度、第40女流名人位戦挑戦者決定リーグ優勝し(7勝1敗)、3度目タイトル挑戦。しかし五番勝負では里見香奈ストレート敗退2014年度、第41女流名人戦挑戦者決定リーグ途中まで5勝0敗でトップ走っていたが、骨折療養のため9月5日から12月31日まで休場余儀なくされ、休場期間の不戦敗により連続挑戦逸した2018年度第26期大山名人杯倉敷藤花戦挑戦者決定戦進出したが、谷口由紀女流二段敗れて挑戦獲得ならず。 2019年度第1期ヒューリック杯清麗戦では唯一予選全勝通過したが、4人で争う本戦初戦甲斐智美敗れ決勝進出はならなかった。

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狩山幹生」の記事における「棋歴」の解説

祖父教わり将棋始める。 第69回三段リーグ通算13勝5敗の成績挙げ、同じ井上慶太門下横山友紀と共に四段昇段決めた岡山県出身棋士は、同門兄弟子にあたる菅井竜也以来11年ぶりとなり、倉敷市出身では大山康晴十五名人以来81年ぶりとなる。また、同門三段からの同時昇段は、共に森信雄門下千田翔太竹内雄悟昇段した第52回以来8年半ぶりであったプロ対局相手塚田恵梨花塚田にとっても男性棋戦対局であった)、次局も里見香奈二局続けて女流棋士との対局という稀なスタートを切ると、この二局含めて5連勝上々プロデビュー飾った

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石高澄恵」の記事における「棋歴」の解説

将棋覚えたのは1982年、ちょうど中学卒業した頃。5歳年下の弟が小学校友達から駒の動かし方教えてもらったことがきっかけ。だが、両親将棋をやらず、弟も早々止めてしまい、通っていた高校女子高だったため対局相手がおらず、1年近く独学将棋楽しんでいた。 1985年高校卒業と同時女流育成会入会し2年弱で女流プロ棋士となる。以降年間負け越し続いていたが、1991年度第14期女流王将戦A級昇級するなどの好成績挙げて頭角を現す2年後1993年度には、第7回レディースオープントーナメントベスト4入り同年度の第20期女流名人位戦B級リーグではA級昇級決める。翌年からA級に3年連続在籍する1994年度には、第5期女流王位戦高群佐知子とのプレーオフ制して白組優勝し挑戦者決定戦進出。しかし、紅組優勝中井広恵敗れる。

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井道千尋」の記事における「棋歴」の解説

6歳のときに将棋好きの父に教わり将棋始め中学1年の頃に女流棋士目指し始める。珠洲市立宝立中学校時代中学生選抜将棋選手権全国大会出場2003年4月女流育成会入会その2年後の2005年4月高校2年時に女流2級としてデビュー当初石川県在住だったために所属関西在籍だったが、高校卒業後の2007年4月拠点東京に移す。 2008年12月3日、第35期女流名人戦B級リーグ9回戦で鈴木環那勝利して女流初段昇段2013年度第7期マイナビ女子オープンではベスト4進出2017年6月28日第3回女子将棋YAMADAチャレンジ杯中澤沙耶勝利して女流二段昇段2020年4月1日より8月31日まで公式戦休場。(出産及び育児のため)

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山田朱未」の記事における「棋歴」の解説

1999年前期女流育成会後期育成会で1位となりプロ昇格果たした2003年度の第14期女流王位戦リーグでは白組全勝優勝。しかし挑戦者決定戦中井広恵敗れタイトル挑戦逃した2003年度第17回レディースオープントーナメントでは勝ち進むが、9月12日準決勝石橋幸緒逆転負けし、決勝三番勝負進出逃した2007年1月21日きしろ杯争奪関西女流メイショウ戦非公式戦)の決勝戦里見香奈敗れ準優勝2013年度以降休場繰り返し2013年度1年間休場2015年度も再び休場2016年度第24期倉敷藤花戦第38期女流王将戦には出場したが、2016年5月1日から2018年度まで休場2019年度公式戦復帰したものの、2020年度より再び休場している。

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瀬戸博晴」の記事における「棋歴」の解説

4歳の頃、兄から教えられ将棋出会う。そして、中学1年のとき兄に将棋道場に連れていかれたのがきっかけ将棋好きになり、2年後にはアマチュア四段腕前となる。 高校2年16歳のとき、5級奨励会入会初段昇段までは1年半年というスピード出世その間振り飛車穴熊戦法多用したため「穴熊瀬戸」と呼ばれる。しかし、プロ入り一歩手前三段長らく停滞する転機きっかけとなったのは、師匠二上達也から送られ年賀状に「穴熊限界を知ること」と書かれていたことだった。一転して居飛車矢倉多用するようになってから調子上がり1979年10月18日三段昇段から3年4か月で、ついに四段昇段を果たす。 1985年度公式戦師匠二上弟弟子羽生善治と当たり、いずれも敗北する。しかし、同年中に行われた48期1986年度前期棋聖戦一次予選二次予選突破し本戦進出本戦では1回戦中原誠名人敗れる。なお、半年後の第49期棋聖戦一次予選1回戦では、羽生勝っている。 1989年度、全棋士参加大型トーナメント棋戦である第8回全日本プロトーナメント」で、大内延介九段中原誠棋聖王座らに勝ち、5回戦進出順位戦では参加8期目(1987年度・第46C級2組順位戦)から10期目にかけて3期連続降級点喫しC級2組から陥落10年後、1999年度最後に現役引退した。但し、引退確定した時点で第136組竜王戦昇級者決定戦への参加資格残っていたため引退以降もこれに参戦し2回戦鈴木輝彦に、3回戦菊地常夫それぞれ勝利4回戦北浜健介敗れ全ての公式戦消化した

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鈴木環那」の記事における「棋歴」の解説

1997年10月女流育成会入会その後Aクラスにおいて指し分けに近い成績で何期か足踏みした後、2002年度前期2位以下に大差をつける12勝3敗の成績で1位となり、14歳女流プロ棋士となる。 2008年1月16日第1期マイナビ女子オープン2回戦で、斎田晴子前年度倉敷藤花)を破ってベスト4進出自身初の本戦シード獲得したが、準決勝2008年2月7日)で鈴木初手合の矢内理絵子女流名人当時)に敗れ決勝五番勝負には進出できなかった。3月10日には、第30期女流王将戦準決勝岩根忍破って挑戦者決定戦進出したが、挑戦者決定戦2008年4月9日)で再度矢内敗れた。なお、矢内とのこの2局は相矢倉将棋となり、鈴木36手目までは全く同じ手順であった2008年2月29日第19期女流王位戦予選決勝中井広恵クイーン名人)を破り初の挑戦者決定リーグ入り。なお、2007年度は以上のような活躍で、対局数不足で公式記録ではないものの、勝率全女棋士中1位(0.8333、15勝3敗)となった。 第35期女流名人位戦では、2008年3月行われた予選勝ち抜き4期ぶりにB級リーグ入りしたが、リーグでは4勝5敗の成績ながらも陥落した第6期マイナビ女子オープン快進撃続け挑戦者決定戦まで進んだが、2013年3月4日里見香奈敗れタイトル戦初出場はならなかった。 2017年第3回女子将棋YAMADAチャレンジ杯では、最後の出場機会ながら決勝まで勝ち上がるものの、決勝石本さくら敗れて自身公式戦初優勝はならず準優勝2021年第3期大成建設杯清麗戦では2回戦野原未蘭敗れるも、2回戦敗者再挑戦トーナメント勝ち抜き本戦入り本戦準決勝中井広恵勝利し8年ぶりに挑戦者決定戦進出するも、加藤桃子敗れタイトル戦出場逃した2021年から新設されヒューリック杯白玲戦女流順位戦第1期順位決定リーグ戦G組2位となり、その後各組同順位者が出場する順位決定トーナメント(9~16位)において優勝第2期女流順位戦でのA級入り決めた

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中村亮介」の記事における「棋歴」の解説

中学2年時代の1999年6月13歳奨励会入会以降順調に昇級昇段重ね2004年4月18歳プロデビュー2006年デビューから2回目参加となる竜王戦竜王ランキング戦6組優勝。さらに、竜王挑戦を争う本戦トーナメントでも2勝を挙げる活躍2007年第38回新人王戦決勝三番勝負進出村山慈明0-2敗れ準優勝に終わる。 第13期(2007年度銀河戦において、本戦ブロック戦)で5人抜きをして決勝トーナメント進出。さらに中川大輔破ってベスト8準々決勝森内俊之名人当時)に敗れる。 2014年には第73期順位戦C級2組にて、終盤まで昇級争いに加わる。そして勝てばC級1組昇級という大一番最終局を迎え、こちらも勝てば昇級可能性がある村田顕弘対局。しかし結果敗れC級1組昇級果たせなかった。

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及川拓馬」の記事における「棋歴」の解説

父に教えられ5歳将棋始める。小学3年所沢転居し所沢市小手指小学校5年1998年9月に、6級奨励会入り奨励会入り以前は、同じ埼玉県出身同年代金井恒太渡辺正和対戦する機会多かったその頃タイトルに、彩の国小学生名人小4)など。 初参加の竜王ランキング戦6組準決勝2008年5月2日)で勝利しプロ入りから最短6組抜ける。 第57期2009年度王座戦で、挑戦者決定トーナメント進出深浦康市王位当時)に勝ってベスト82018年度入り第68回 NHK杯予選決勝窪田義行七段に勝ち、本戦出場(三回目)。一回戦加藤桃子女王116手で敗れたその後は高勝率維持し続け第77期順位戦ではただひと全勝街道走って残り1局を残してC級1組への昇級決めた。また第4期叡王戦本戦にも進出し増田康宏橋本崇載破ってベスト8まで進出した挑戦者となった永瀬拓矢破れた)。

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阪口悟」の記事における「棋歴」の解説

1991年9月奨励会6級入会当初は7級降級危機陥るなど著しく苦労したものの、2年上かけ5級昇級し以降18歳初段になるまでは順調に進捗した。しかし初段で再び苦労し二段への昇段3年近く費やした三段リーグには第28回2000年後期)より参加、ここでも初参加から3期連続負け越し第29回2001年前期)では降段点を喫するなど辛酸をなめたが、それ以降コンスタント成績修めた。そして成績次第では年齢制限に基づき退会余儀なくされるという背水の陣臨んだ第36回2004年度前期)において14勝4敗(村中秀史に続く2位)の成績四段昇段した2009年12月8日第68期順位戦C級2組(対横山泰明五段)の対局に勝ち、勝星昇段四段昇段100勝)により五段に昇段。 第58期2010年度王座戦ベスト8順位戦には第64期(2005年度)より参加C級2組在位3年目の第66期2007年度)は7勝2敗(3番手)で最終局を迎え同じく7勝2敗(2番手)の佐々木慎との直接対決敗れて昇級逃すその後負け越し喫したこともあるものの、第71期(2012年度)を9勝1敗の好成績終え在位8年目にして初昇級遂げた2018年7月19日規定成績挙げ六段昇段NHK杯戦は、第69回2019年度)で予選勝ち抜きプロデビュー15年目の本戦初出場となった1回戦藤井聡太敗れた

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金沢孝史」の記事における「棋歴」の解説

1985年奨励会入会同期木村一基野月浩貴(同じ勝浦門下)、屋敷伸之2歳年上)がいる。野月屋敷とは同郷小学生の頃から札幌指していた。15歳初段17歳三段昇段速かったが、三段リーグ17期(8年半)在籍もたつき年齢制限間近四段昇段を果たす。当時、『将棋世界』誌に載った四段昇段所感記事には、「自分より弱い」人達が、先に次々と昇段した悔しさ書き綴られていた。 第42期(2001年度王位戦リーグ入りする活躍見せたが、5戦全敗終わった最終戦屋敷伸之との対局では41手目一手4時46分の大長考をした。 第43期(2002年度王位戦では、2年連続リーグ入り順位戦A級及びタイトル戦番勝負経験者淡路仁茂南芳一から勝ち星挙げるが、他の3名に敗れリーグ残留はならなかった。 順位戦では、第61 - 62期(2002 - 2003年度)にC級2組降級点を2回連続喫し翌期最終戦佐藤和俊に勝ちフリークラスへの降級3つ目の降級点)を回避したものの、2005年4月1日付け在位6期31歳若さ宣言によりフリークラス編入出場停止処分後述)からの復帰直後2006年度から2007年度にかけては本戦進出こそないものの非常に優秀な成績収め、8連勝を2回記録したその間連続する対局良いところ取り20勝7敗という、仮に降級したフリークラス棋士ならば、規定により順位戦復帰できる好成績をあげた。 2018年9月27日第60期王位戦予選2回戦高見泰地叡王勝利フリークラス宣言した最高位順位戦C級2組棋士が、タイトルホルダー勝利したのは、2005年銀河戦決勝トーナメント櫛田陽一六段佐藤康光棋聖勝利して以来13年ぶり。高見泰地には第4期叡王戦タイトル戦のあとにも、2019年9月5日に、第13回朝日杯予選 一次予選 3回戦でも勝利している。 2021年3月末にてフリークラス在籍期限満了同年5月17日第34期竜王戦6組昇級者決定戦所司和晴戦が公式戦最後対局となり、同日付で現役引退

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野月浩貴」の記事における「棋歴」の解説

1985年札幌市光陽小学6年生として第10回小学生将棋名人戦優勝。これがきっかけで、勝浦修門下新進棋士奨励会入会する同期入会木村一基金沢孝史屋敷伸之(「同郷2歳年上屋敷目標であり憧れであった」と後年語っている)がいる。森内俊之兄弟子である。奨励会三段の頃は、NHK杯戦の記録秒読み係として頻繁に出演した1996年前期奨励会三段リーグ11勝7敗の成績2位となり、四段昇段プロ入り)をする。11勝7敗での四段昇段は低成績昇段タイ記録野月が初)であり、このときのリーグでは野月と同星は6名いた(野月前期リーグ12勝6敗の好成績収めていたため、リーグ表での順位2位であったことが利いた)。 第17回1998年度早指し新鋭戦で、久保利明との決勝制して優勝順位戦では、第59期2000年度)にC級1組、第62期(2003年度)にB級2組、第63期(2004年度)にB級1組昇級。第65期(2006年度)にB級2組降級第56回2006年度NHK杯戦で、渡辺明当時竜王)、島朗らを破りベスト4進出2010年10月22日行われた竜王戦3組3位決定戦で勝ち、自己最高の2組昇級2017年1月20日第43期棋王戦予選2回戦小倉久史七段に勝利し、勝数規定八段昇段した2017年2月1日開設されAbemaTV将棋チャンネルプロデューサー役を務めているが、2017年度盤上でも好調であった第76期順位戦B級2組では開幕から連勝し2018年1月11日の8回戦(対 阿部隆)に勝利した時点12期ぶりにB級1組への昇級復帰)を決め最終的に10全勝となった。 第59期2018年度王位戦予選勝ち抜き挑戦者決定リーグ進出リーグ戦白組では豊島将之澤田真吾等の若手棋士苦戦し0勝5敗に終わった第77期順位戦B級1組では3勝9敗のクラス最下位B級2組降級することとなった。さらに第78期順位戦B級2組では1勝9敗のクラス最下位となった第79期順位戦B級2組は4勝6敗であったが、前期最下位による順位差と、この期より降級点付与拡大されたことが響いて2つ目の降級点がつく結果となり、C級1組降級した。

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塚田正夫」の記事における「棋歴」の解説

1927年花田長太郎入門1928年9月奨励会創設二段として参加1932年四段昇段東京棋界新鋭となり、塚田坂口允彦建部和歌夫は「昭和三銃士」と呼ばれた1939年皇軍慰問団では、将棋団長となった上海南京訪問団長安永一塚田正夫囲碁田岡敬一為和、藤沢秀行竹内澄夫将棋加藤治郎加藤恵三、永沢勝雄、松田茂行囲碁将棋各5人の編成詳細は「棋道報国会」を参照 1947年戦前から無敵誇っていた木村義雄名人破って名人位獲得実力名人となって以降2人目の名人となる。翌1948年名人戦大山康晴挑戦退けて防衛した。また同1948年朝日新聞社主催塚田正夫名人升田幸三八段 五番勝負が行われたが、こちらも3勝2敗で勝利する。 だが1949年名人戦木村敗れて失冠。この名人戦最終第五局(この年だけ五番勝負だった)は「済寧館決戦」といわれた名勝負となったが、塚田潔い投了話題となった1953年1月九段位を取得した直後に、前1952年引退していた木村と、読売新聞社主催の「木村・新九段三番勝負」(前年までの名人九段五番勝負代替棋戦)を行い二連勝した。 一方九段戦(のちの十段戦現在の竜王戦)では1952年の初獲得後に、3連覇その後4連覇まで記録伸ばす)した功績により初の「永世九段」となる。なお、1958年段位としての九段昇段規定新設され大山康晴升田幸三九段昇段したが、塚田は、九段戦防衛により保持していた「タイトルとしての九段」を1956年失冠してからは、永世称号に基づき段位としての九段」を称していた。 「将棋の段級#九段と十段」も参照 1960年第1期王位戦1962年第1期棋聖戦タイトル戦登場を果たすが、いずれも大山康晴敗れた名人失冠後順位戦A級では、4度挑戦者決定プレーオフ敗退する等、再度名人挑戦復位果たせず、第26期(1971年度)には2勝6敗でクラス10位(最下位)となり、実力制名人経験者として史上初のB級1組降級となった。翌第27期1972年度)B級1組では7勝4敗でクラス2位の成績挙げてA級に復帰し60歳まで在籍した1974年将棋会館建替え問題のために加藤治郎会長始め理事退任その後任として将棋連盟会長就任在任中には名人戦問題揺れ将棋界舵取り尽力した1977年12月13日昇降リーグ戦1組順位戦B級1組)で花村元司敗れたのが公式戦最期対局となる。塚田病気入院していたものの、花村リーグ5勝1敗の好成績だったこともあり、一時退院して対局にはげんだという。同年12月30日現役のまま死去63歳没。病床無意識に発した最後の言葉は「扇子持ってこい、財布出せ」だったという。葬儀・告別式1978年1月16日将棋会館日本将棋連盟葬として行われた没後将棋界でただ一人の「名誉十段」を追贈される。さらに、1989年には実力第二名人追贈される(升田幸三に贈るために「実力制第○代名人」の称号この年制定されたため)。 文京区善仁寺には、塚田十三回忌将棋駒の形をした墓碑建てられ塚田作九手詰め詰将棋作品刻まれている。

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大島映二」の記事における「棋歴」の解説

将棋覚えたきっかけは、10歳ぐらいのときに新聞紙上の将棋書かれていた「不思議な数字」に興味持ったことであり、後にプロになる者としては、かなり遅いスタートであったちなみに、「不思議な数字」とは、棋譜のことである。 しかしながら1971年14歳奨励会入り5年後1976年19歳プロ入りを果たす。 1980年度若手登竜門である若獅子戦第4回)で、棋戦初優勝1989年度第2期竜王ランキング戦4組準優勝し、3組昇級ちなみに、このときの4組優勝者森下卓五段(当時であった1991年度第32期王位戦リーグ入り順位戦では、初参加の第36期C級2組1977年度)以来昇級降級点もなく第54期1995年度)を迎えたこの期では、残り1局の時点で8勝1敗で4番手という絶好ポジションにつけたライバルは、大島より順位が下で9勝無敗北浜健介、および、大島より順位上で同じく8勝1敗の先崎学中田宏樹の計3名であった自力ではないものの、最終10回戦勝てば昇級可能性高かった。しかし、最終局では大島だけでなくライバル3人もすべて勝ったため、大島は9勝1敗で次点という“頭ハネ”を食らってしまった。以降順位戦勝ち越すことが出来ず、第56期1997年度)に2勝8敗で初の降級点喫する。第61期(2002年度)に2勝8敗で2度目降級点。第63期(2004年度)に3勝7敗で3度目降級点喫しフリークラス陥落となったその後10年間でC級2組復帰を果たすことができず、フリークラス引退規定により2015年3月12日付で引退となった

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村田顕弘」の記事における「棋歴」の解説

1998年小学6年富山県出身中田章道師匠として、関西奨励会試験受けた不合格。しかし、翌1999年中学校1年6級として奨励会入り2001年初段昇段し2004年前期から三段リーグで戦う。 2007年中田の妻が四段入り期待しながら6月没したことに発奮し同年秋にその弔いとなる四段昇段果たした第41回三段リーグ2007年度前期)での成績15勝3敗(1位)。21歳でのプロ入りである。 初参加の第34期2008年度棋王戦予選勝ち上がり本戦出場同じく初参加の第67期(2008年度C級2組順位戦では8勝2敗の好成績挙げ、新四段4名の中で唯一の勝ち越しまた、2009年10月16日竜王戦6組3位決定戦において、新人王戦優勝波に乗る強敵広瀬章人破り、7連勝5組昇級デビューから6割台の年度勝率連発し糸谷哲郎豊島将之稲葉陽とともに関西若手四天王」と呼ばれるうになる第4回朝日杯将棋オープン戦2010年 - 2011年)で予選突破本戦1回戦久保利明を破る。また、59期2011年度王座戦本戦進出ベスト16)。 五段昇段2012年3月6日付け。第70C級2組順位戦10回戦最終局)の阪口悟五段との対局勝利して四段昇段公式戦通算100勝に到達したことに伴うもの。 第73期(2014年度C級2組順位戦では、最終戦前の時点中村亮介岡崎洋次ぎ5位につけていたが、最終戦中村との直接対決制し岡崎敗れたため、3位となりC級1組昇級2017年11月7日棋聖戦1次予選今泉健司勝利し昇段の「勝ち星規定」を満たし六段昇段

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林まゆみ」の記事における「棋歴」の解説

将棋始めたのは14歳の頃で、後にプロとなった人物としては非常に遅い。自分から父に申し出て将棋教わったという。 近畿大学学生であった4年間に、学生将棋女流名人戦1987 - 1990年)で4連覇という完全制覇達成1994年棚田真由美が、2005年石内奈々絵がこの記録に並ぶ)。1990年女流アマ名人となる(第22回女流アマ名人戦優勝)。同年第4回レディースオープントーナメントアマチュアとして出場予選突破し、さらに本戦3回戦まで進出。その戦績引っさげて、1991年女流育成会入会し翌年早くもプロとなる。 女流名人位戦では、第19期1992年度)でB級昇格第21期1994年度)でB級復帰決める。第22期1995年度)ではB級で6勝3敗の成績挙げるも、A級昇格逸する1996年度第1回鹿島杯女流将棋トーナメントにおいて、決勝三番勝負高群佐知子右玉戦法打ち破り2-0優勝1996年9月1日)。同日付で女流初段昇段第11回1997年度レディースオープントーナメントベスト4。同棋戦では、第13回1999年度)でも清水市代らを破りベスト4第27期2000年度)と第28期(2001年度)の女流名人位戦それぞれ予選勝ち抜きB級参加2002年度行われた14期女流王位戦予選勝ち抜き2003年度リーグ参加斎田晴子千葉涼子らがいるリーグの中で5戦全敗に終わる。 2010年3月31日付け降級点規定により引退となり、その翌日4月1日引退女流棋士規定により女流三段昇段同年8月10日付で「一身上の都合により」日本将棋連盟退会し、「女流棋士」の肩書きがなくなる。女流棋士制度始まってから同日までの時点66人の女流棋士誕生しているが、その中で退会により‘元女棋士となったケースは、日本将棋連盟LPSA合わせてが5例目。

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野田澤彩乃」の記事における「棋歴」の解説

1997年10月女流育成会入会し1999年10月1日女流2級としてプロ入り2003年4月1日女流棋士昇級昇段規定の「女流2級で年度成績指し分け以上(7勝以上)」を満たし2002年度成績8勝6敗)、女流1級昇級2020年3月31日付で現役引退引退後公式戦記録係務めることが多くABEMA等のネット配信対局番組で映ることがある

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浦野真彦」の記事における「棋歴」の解説

小学4年生のときに友達から将棋を教わる。翌年に家が高槻市引っ越した際、近所棋士住んでいるという話を聞きつけ、師匠中井自宅開いていた将棋教室通い始めた当時自宅将棋盤すらない状態だったにも関わらず、いきなり師匠に「プロなりたい」と直訴したという。13歳新進棋士奨励会入会したため、高校にも行かなかった。 初参加から3期目順位戦45期(1986年度C級2組において10全勝しC級1組昇級。第47期(1988年度順位戦C級1組では8勝2敗の成績収めB級2組昇級1989年度婚約発表直後に、第1回IBM順位戦昇級激突戦」(非公式戦)で優勝決勝相手森下卓)。 1995年度B級2組順位戦で9勝1敗の成績収めB級1組に初昇級した。しかし、明くる1996年度B級1組順位戦では、有吉道夫青野照市小林健二内藤國雄田丸昇とともに6名で5勝7敗の成績並んで終えB級1組初参加のためリーグ表で下位浦野1期B級2組降級してしまうという不運味わった。 その一方で第9期1996年度竜王戦では3組準優勝し、初の本戦出場を果たすとともに自己最高の2組昇級した。 第29期(2003年度棋王戦で、屋敷伸之井上慶太らを破ってベスト4進出準決勝谷川浩司敗れ敗者復活戦では深浦康市敗れて挑戦者決定戦進出はならなかった。次年度(第30期)はベスト16シードされ中川大輔から1勝を挙げてベスト8進出。しかし、準々決勝森内俊之三冠王竜王名人王将 = 当時)に敗れ2年連続シード権獲得逸した2013年度には、第26期竜王戦5組残留決定戦中村亮介敗れ6組降級。更に2014年9月から10月に亘り体調崩し入院したため、同時期に予定されていた4局が不戦敗となったそれ以降公式戦において成績不振続き順位戦C級1組参加していた2014年度(第73期)・2015年度(第74期)ではそれぞれ1勝9敗・2勝8敗に終わり降級点を2個累積させてC級2組降級。翌2016年度(第75期)は順位戦33期目で初めての全敗当期最後にフリークラス宣言をし、翌期以降順位戦への出場放棄した

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佐々木慎」の記事における「棋歴」の解説

2001年4月プロデビュープロ入り初年度は、1510敗で6割の勝率挙げる初参加の第15期2002年度竜王ランキング戦6組で、昇級者決定戦制して3位となり、6組からの1期抜け5組昇級2003年度第29期棋王戦第22回朝日オープン将棋選手権第51期王座戦の、挑戦者決定トーナメント進出棋王戦では予選から加藤一二三らを制するも、挑戦者決定トーナメント2回戦当時タイトルホルダー棋聖王将)の佐藤康光敗れる。王座戦永世名人資格保持する中原誠らを制し本戦進出した。 翌2004年度第52期王座戦においても、行方尚史らを破り挑戦者決定トーナメント進出永世名人当時王位谷川浩司敗れる)。 第18期2005年度竜王ランキング戦5組準優勝し、4組昇級2007年度公式戦13連勝記録。これにより、将棋大賞での初受賞となる連勝賞を受賞順位戦6期目には8勝2敗で次点(4位)で昇級逃すものの、7期目の第66期2007年度)において8勝2敗の成績2位となり、C級1組昇級した第58回2008年度NHK杯戦は前年続き2回目本戦出場藤井猛元竜王らに勝ち、ベスト8進出準々決勝では羽生善治敗れる。藤井との一局相振り飛車からの激し将棋であり、自陣居玉のまま藤井陣を攻め倒した2010年-2011年度には公式戦15連勝記録。 第59期2011年度王座戦加藤一二三戸辺誠および当時A級九段高橋道雄らを破り本戦進出本戦では青野照市に勝ちベスト8準々決勝久保利明棋王王将)に敗れる。 2012年2月22日NHK杯戦の予選における白星で、五段昇段120勝に達し六段昇段同年第54期王位戦予選勝ち抜きリーグ入り。 第72期2013年度順位戦C級1組において8勝2敗の成績2位となり、B級2組昇級第1期叡王戦2015年度)では3回戦澤田真吾決勝永瀬拓矢らを制し本戦出場決めたベスト16)。同年12月24日通算300達成第67回2017年度NHK杯戦に続き予選勝ち抜いて5期目の本戦出場となる第68回2018年度1回戦においては千日手から後手となった新人王増田康宏厳し攻め終始冷静な指し回し受け潰した。本戦2回戦では佐藤天彦との激し捻り合い見せた2020年3月11日六段昇段150勝に達し、七段に昇段。第68王座戦予選三浦弘行制し本戦出場(16強入り)。第70回NHK杯戦では予選勝ち抜き6度目となる本戦出場決めたプロ20年目となる2021年度は、第71期王将戦二次予選進出し佐藤康光永世棋聖・現会長)に得意戦法相振り飛車快勝した(18入り)。同年9月15日通算400達成第34期竜王戦昇級者決定戦では6連勝し3組昇級

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横山友紀」の記事における「棋歴」の解説

2011年第36回小学生将棋名人戦ベスト4三段リーグには第62回2017年度後期)から参加8期目の第69回2021年度前期三段リーグでは序盤で2勝3敗と躓きながらもその後連勝街道乗り最終日の1局目に勝利し13勝4敗の成績最終局を残して1位が確定。同じ井上慶太門下狩山幹生と共に四段昇段決めた自身体調不良のため後日延期され最終局では黒星喫し最終的な勝敗13勝5敗(1位)となった

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古賀悠聖」の記事における「棋歴」の解説

得意戦法居飛車3、4歳のときに祖父将棋を教わる。2011年小学5年生のときに第10回全国小学生倉敷王将戦高学年の部で全国優勝同年9月奨励会入りした。奨励会三段リーグ第62回2017年度下期)より参加第65回2019年度上期)にて13勝5敗の成績リーグ3位となり、次点獲得2020年9月26日第67回三段リーグ13勝5敗の3位となり、規定次点2回獲得によるフリークラス編入行使し四段昇段内定させた。 2021年9月8日、第52期新人王戦準決勝梶浦宏孝七段に勝ち、「良い所取りで、30局以上の勝率が6割5分以上であること」を満たして順位戦フリークラスからC級2組への昇級決まった2021年10月11日行われた52期新人王戦決勝三番勝負まで勝ち進んだが、プロ入り同期伊藤匠2連敗喫して準優勝終わった2021年初開催となったSUNTORY 将棋オールスター 東西対抗戦(準公式戦)の関西予選勝ち上がり東西各5人で構成される決勝戦へと進出した12月26日行われた東西対抗決勝戦では第3局で東の代表・永瀬拓矢王座下し西軍の5戦全勝での勝利貢献した

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山本真也」の記事における「棋歴」の解説

小学1年生の時、父親教わったことをきっかけ将棋覚え小学5、6年頃には関西将棋会館や後に師匠となる北村文男天王寺開設していた道場に足を運ぶようになった中学2年時に天童市行われた全国中学生選抜大会出場ベスト16川上猛敗れる。それから間もなく奨励会入会6級から5級上がるのに1年4か月初段から二段にも1年4か月、そこから更に三段リーグ入り2年3か月要する苦労経験する第22回1997年度後期)で年齢制限26歳迎えるも、勝ち越しによる在籍期間延長恩恵を受け、翌第23回にも参加。そこで1位の成績をおさめ、プロ入り勝ち取った2009年度第68期順位戦C級2組で、在籍11期目で初め降級点取り(2勝8敗)、フリークラス宣言をしてフリークラス転出した

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山本博志」の記事における「棋歴」の解説

小学1年の時、父親教わって将棋始める。4年時小倉久史門下となり、6年時の2008年奨励会入会第59回三段リーグでは、2016年6月4日藤井聡太から勝利を収めている(この第59回藤井は1位となり四段昇段)。 2018年9月2日第63回三段リーグ13勝5敗と本田奎に次ぐ2位となり、四段昇段決める。

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杉本和陽」の記事における「棋歴」の解説

将棋始めたのは6歳のとき。きっかけアマチュア二段の父が指しているところを見て覚えたという。2003年第28回小学生将棋名人戦優勝同年9月奨励会入会三段リーグには2008年第44回から参加8期目の第51回三段リーグ戦では後1勝で昇段というところまで迫るも届かなかった。13期目の第56回三段リーグ戦では、3位になったことで次点獲得した16期目の第59回三段リーグ戦でも後1勝で昇段というところまで迫ったが、再び届かず。そして17期目の第60回奨励会三段リーグ戦、2017年3月4日行われた例会最終日連勝し12勝6敗・2位となったことで、遂に四段への昇段決めた

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上野裕和」の記事における「棋歴」の解説

奨励会では1991年9月入会から1999年9月三段昇段まで、降級降段点Bを8回に亘り取得するなど苦労したものの、その都度立ち直り三段リーグでは初参加から2期目第27回2000年度前期)で13勝5敗で2位成績修め四段昇段。 新四段として参加した60期2001年度C級2組順位戦では3勝7敗と振るわず早々に降級点喫したその後好不調に波があったものの、2004年度行われた第54回NHK杯予選を3連勝勝ち抜き本戦出場するなどの活躍をした。第65期(2006年度)に9勝1敗(3位)の成績修めC級1組昇級(五段昇段)。しかし昇級直後2期連続降級点喫し制度最短C級2組降級以降公式戦成績振るわず、特に順位戦ではC級2組において第69期2010年度)から第71期に亘り3期連続降級点喫し35歳順位戦への参加資格失ったフリークラス編入)。 2018年入り第68回 NHK杯予選決勝梶浦宏孝四段に勝ち、14年ぶり(二回目)に本戦出場

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清野静男」の記事における「棋歴」の解説

1936年木村義雄十四世名人門下入門1949年三段順位戦参加しC級2組全勝、翌1950年C級1組昇級し六段飛び級四段経験がないプロ棋士は、清野の他にはプロ編時に五段の花村元司がいる。 1959年第9期王将戦二次予選山田道美坂口允彦連勝し挑戦者決定リーグ入り1965年第6期1965年前期棋聖戦 決勝トーナメント出場1972年新たに創設され第1回1972年後期早指し将棋選手権予選勝ち抜き本戦トーナメント出場2回戦原田泰夫敗れた1974年八段昇段し表彰感謝の日」には普及活動表彰された。 1977年第4回名将戦予選決勝滝誠一郎に勝ち本戦トーナメント出場現役のまま同年55歳死去

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前田祐司」の記事における「棋歴」の解説

1972年4級奨励会入会1974年20歳プロ入り四段昇段)。 順位戦C級2組C級1組それぞれわずか2期抜けたB級2組では五分に近い星が続きなかなか昇級争い絡めなかったものの、1985年B級1組昇級した1986年度NHK杯テレビ将棋トーナメントにおいて、ひねり飛車戦法駆使して塚田泰明谷川浩司中原誠といった一流棋士次々と撃破し決勝進出。そして迎えた森雞二との決勝戦は、千日手指し直しの末に勝利し見事に優勝前田一世を風靡した瞬間であった2003年現役通算400勝。 40歳以降徐々に順位戦クラス下げ2004年度順位戦C級2組3つめの降級点取ってフリークラス降級した。 2014年6月4日第27期竜王戦ランキング戦6組昇級者決定戦千田翔太四段戦敗戦以って引退となった

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長岡裕也」の記事における「棋歴」の解説

少年時代は、羽生善治通っていた八王子将棋クラブにて腕を磨く第36回(2004年度後期)三段リーグにおいて広瀬章人に次ぐ14勝4敗の成績四段昇段プロ入り)。 初参加となる第64期(2005年度)順位戦において2勝8敗で降級点喫する。これは第70期順位戦終わった2012年3月時点では、降級点取得史上最年少記録20歳)である。また、B級2組以下の順位戦1期あたり10戦に定着した第27期1972年度)以降の、初参加期順位戦における最少勝数記録熊坂学竹内雄悟と並ぶタイ記録)でもある。 第16期(2008年度)銀河戦本戦ブロック戦)で4連勝瀬川晶司阪口悟塚田泰明阿久津主税勝利し平藤眞吾敗れる)。それにより進出した決勝トーナメントでは1回戦佐藤康光棋王(当時)と対戦し敗退第22期2009年度竜王戦6組決勝進出決勝稲葉陽敗れ本戦進出逃すが、準優勝により5組昇級。続く第23期2010年度竜王戦5組では準決勝3位決定戦敗れたものの、4組欠員補充のための5位決定戦2010年11月2日)で小倉久史に勝ち、4組昇級連続2回昇級により同日付で五段昇段。なお、同日時点での通算成績1788989とちょうど5割だった。 C級2組に留まったまま迎えた70期(2011年度順位戦では3勝7敗と振るわず2個目の降級点喫した以降フリークラス降級危機瀕した状態が続いたものの、第73期(2014年度)で6勝4敗と6期ぶりに勝ち越し降級点を1個抹消第21期2013年度銀河戦本戦ブロック戦)で8連勝安西勝一阪口悟中村亮介菅井竜也日浦市郎村山慈明安用寺孝功戸辺誠勝利し藤井猛敗れる)。それにより進出した決勝トーナメントでは豊島将之対戦し敗退ブロック戦での8連勝は、現行制度では第14期北島忠雄と並ぶ最多タイ記録である。 第77期(2018年度順位戦C級2組では2勝8敗と著し不振に陥り再度降級点を2個累積以降2期連続で4勝6敗と負け越したもののフリークラス降級回避、第80期(2021年度)で6勝4敗と6期ぶりに勝ち越し再度降級点を1個抹消

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長沢千和子」の記事における「棋歴」の解説

将棋の駒動かし方覚えたのは、小学4年生の頃。将棋道場経営していた父は、歌を覚えるのが早いという千和子記憶力着目し将棋強くなるではないか思ったという。 千和子中学1年生のとき(1977年度)、父が「中部県名人戦」で優勝し、その大会で審判務めたプロ棋士松田茂役(後に千和子師匠)が父を訪ねて来た。その際松田が千和子将棋指し才能があるのではないかと言った。これが将棋本格的に始めたきっかけである。 1979年8月松田茂役門下として、女流2級プロ入り1983年度第6期女流王将戦林葉直子女流王将への挑戦を得、タイトル戦初登場三番勝負は0勝2敗で敗退1984年度第11期女流名人位戦でも挑戦五番勝負は1勝の後の3連敗敗退20代前半の頃、女流王将戦挑戦争いをしていたとき、山下カズ子との対局勝勢局面で、4段目で歩を成るという反則負けをし、以降スランプ陥る将棋の道から退くことさえ考えたが数か月後に立ち直り以降従来の「才能で指す」というスタイル改め棋譜並べ過去実戦研究)や詰将棋などに打ち込むうになる。その努力1995年度レディースオープントーナメント実り決勝当時三冠清水市代破り一般棋戦初優勝果たした2008年7月2日女流名人位戦B級の対伊奈川愛菓戦で勝ち、通算300達成2018年2月16日蛸島彰子引退したことにより、現役女流棋士最年長となる。

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飯島栄治」の記事における「棋歴」の解説

1991年江東区立平久小学校6年生出場時は5年生)のとき、第16回小学生将棋名人戦準優勝決勝戦相手は、後に多数アマチュア棋戦実績上げプロ公式戦でも棋士相手互角勝負演じた清水上徹であった(戦形は相矢倉)。同年奨励会入会試験合格入会から6年半をかけて三段昇段し三段リーグ4期目1999年度第26回三段リーグ2位成績通過して2000年4月20歳プロ入り。(同回三段リーグの1位は当時15歳渡辺明初参加から3期目第16期2003年度竜王戦6組準優勝決勝高野秀行敗れ本戦進出はならなかったが、5組昇級。 第62期(2003年度C級2組順位戦最終局までライバル上位4名との昇級争いとなった。その最終局で飯島勝って8勝2敗としたものの、4名中3名が勝ったため次点(4位)で一歩届かなかった。しかし、次の63期(2004年度)では近藤正和とともに開幕8連勝最終成績を9勝1敗・1位として、C級1組昇級した。 第32期2006年度棋王戦予選突破し本戦挑戦者決定トーナメント渡辺明破って3回戦進出深浦康市敗れる)。 第18期2005年度)、第19期2006年度)の竜王戦5組では、2期連続残留決定戦回ってから降級免れるという苦戦であったが、第20期2007年度)では5組準優勝4組昇級。さらに第21期2008年度竜王戦4組3位決定戦勝って3組昇級し竜王戦連続2回昇級により六段昇段第15期2007年度銀河戦本戦ブロック戦)で、鈴木大介行方尚史らを破るなどして4連勝決勝トーナメント進出。さらに、決勝トーナメントでは藤井猛羽生善治破ってベスト4入り準決勝渡辺明敗れる)。 第58回2008年度NHK杯戦で本戦出場し三浦弘行らを破って3回戦ベスト16)に進出羽生善治敗れる)。 順位戦ではC級1組上がってから4期連続で7勝3敗であったが、5期目の第68期(2009年度)は、1戦目で広瀬章人負けた後に全て勝ち、9勝1敗・2位B級2組昇級した第22期2009年度竜王戦3組では準決勝負け3位決定戦敗者復活)でも敗退した。しかし、1組中原誠引退による次期2組欠員補充のため、3度目チャンスとなる追加昇級者決定戦5位決定戦)が組まれ、この一局野月浩貴に勝ち2組昇級。さらに、第23期2010年度竜王戦2組では、3位決定戦2010年10月22日)で島朗に勝ち、4期連続昇級1組に初昇級(七段昇段)。6組から参加した棋士で、一度も本戦に出場していない状況での1組昇級は、中川大輔橋本崇載次いで史上3人目である。 第25期2012年度竜王戦1組でも準決勝深浦康市敗れたが、一局勝負1組3位本戦出場者決定戦橋本崇載に勝ち、自身初の本戦出場決めた決勝トーナメント2組優勝佐藤天彦に勝ち、準決勝進出の大健闘見せた山崎隆之敗れた)。 第62期王将戦2012年度)では、定員僅か7名(予選勝ち抜くは3名)の難関とされる王将リーグ入り果たしたが、1回戦から順に郷田真隆渡辺明豊島将之深浦康市羽生善治久保利明敗れ、6戦全敗終わった。 第74期2015年度B級2組順位戦では、7回戦を終えた時点で6勝1敗、同星で順位上位糸谷哲郎及び野月浩貴を追う展開で迎えた8回戦は糸谷との直接対決であったが、これに敗れて2敗で4番手に後退した。しかし飯島残り2局を連勝し、1番手糸谷2番手の阿部隆3番手の野月はいずれ残り2局を1勝1敗としたため飯島最終順位2位繰り上がりB級1組昇級決定させた。初のB級1組順位戦となった75期2016年度)は、3勝9敗という結果1期B級2組降級となった以降順位戦における成績振るわずB級2組出戻っていた第77期(2018年度)において降級点喫し、第78期(2019年度)でも4勝6敗であるにもかかわらず不運に降級点喫してしまいC級1組陥落してしまった。 2021年2月2日第79期順位戦C級1組高橋道雄九段に勝ち、七段昇段後190勝の規定により八段昇段した。七段への昇段2010年であったため、「長かった長かったです10年かかりましたよ。長かったです…」と語った翌期第80期順位戦C級1組では7勝3敗でB級2組への復帰決めた2021年度の第69期王座戦では、久保利明深浦康市破りベスト4進出果たした

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船江恒平」の記事における「棋歴」の解説

祖父教えられ5歳将棋囲碁始める。当時は「将棋が好きというよりも祖父好きだった」という。小学2年時同郷井上慶太師範務め加古川将棋センター入会し将棋打ち込む1998年加古川市立東神吉南小学校5年出場時は4年)のとき、第23回小学生将棋名人戦準優勝決勝負けた相手は、1学年上の高崎一生である。この期出場者には、他にも後にプロ棋士になった者が多く船江西日本大会で牧野光則糸谷哲郎勝っている。その年の秋に井上弟子となり、6級関西奨励会入り加古川市立神吉中学校2年だった2001年6月には1級昇級する。そこまで比較的順調であったが、初段昇段まで1年9か月二段昇段までは約2年要す三段リーグには2006年度前期から参加。同じ井上門下弟弟子である稲葉陽菅井竜也先を越され、「早く追いつきたい」と思っていた。2010年度前期三段リーグは、14勝4敗が1名(佐々木勇気)、13勝5敗に船江含み4名が並ぶ結果となったが、船江前回リーグ最後に粘りの4連勝12勝6敗としていたことが結果的に大きくリーグ順位上位により2位となり、佐々木とともに四段昇段を果たす。 2011年創設され加古川青流戦決勝進出する宮本広志奨励会三段当時)との三番勝負では、関西将棋会館行われた第1局そ落したものの、加古川市行われた第2局第3局連勝し地元主催棋戦初代優勝者となった2012年1月5日2013年実施される第2回電王戦プロ側代表に選ばれる1月14日第2回電王戦が、プロ棋士対コンピュータの5対5の一斉対局となることが発表された。 2011年度第70期順位戦では初参加にしてC級2組10全勝成績修めC級1組昇級及び五段昇段決めた順位戦C級2組の“1期抜け”は1989年度(第48期)の屋敷伸之以来22年ぶり、10全勝を伴うものとなると1985年度(第44期)の富岡英作以来26年ぶりの快挙である。 2013年4月6日第2回将棋電王戦第3戦でコンピュータ将棋ソフト『ツツカナ』と対局184手で敗れた同年12月31日、『ツツカナ』とのリベンジマッチ85手で勝利し雪辱果たした2018年度第77期順位戦では9勝1敗の好成績上げるが、順位上の杉本昌隆近藤誠也も同成績だったため、同成績だった藤井聡太とともにB級2組への昇級逃した

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青木清」の記事における「棋歴」の解説

奨励会では、プロ入り一歩手前三段時代10年間もあった。旧制度三段リーグ奨励会A組)では1967年後期から制度が終わる1973年後期まで13期を過ごしたその間1968年後期リーグチャンス巡ってきたが、東西決戦池田修一野本虎次敗れて昇段逃した1972年度、第2回奨励会若獅子戦関西トーナメント優勝。その決勝中田章道1級相手にした香落ち対局であったまた、同年度、第16回古豪新鋭戦ベスト4進出1977年8月20日29歳プロ入りを果たす。 プロ3年目迎えた39期(1980年度順位戦では7勝3敗・31人中7位の成績修め最終局まで昇級争い加わった第9回(1986年度)オールスター勝ち抜き戦予選突破し本戦でも当時順位戦A級在籍していた南芳一を破る活躍もした。以上が青木代表的な戦績とされている。 1983年度は1敗と1不戦敗の後に年度末まで休場復帰以降成績振るわないことが多く1991年度には参加した公式戦全敗12敗)を喫した順位戦には延べ12期在位昇級歴はなく、第46期(1987年度)から3期連続C級2組において降級点喫し42歳順位戦への参加資格失った以降10年間、順位戦復帰する為の規定成績修めることができず、1999年度最後に引退となった

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松浦隆一」の記事における「棋歴」の解説

東京下町育ち高校選手権戦に出場していた開成高校2年生のときに、腕試し奨励会試験を受け、4級で仮入会プロ入り四段)は1977年2月4日であるが、1976年新人王戦1回戦 - 3回戦勝利第21期1980年度王位戦リーグ入り中原誠名人から金星挙げ破竹の勢い谷川浩司六段にも勝利するが、2勝3敗でリーグから陥落する1982年度39対局21勝・勝率0.538、1984年度42対局23勝・勝率0.548の好成績挙げる竜王戦では第1期から5組であったが、第11期6組降級。しかし、翌期(第12期1999年度)の6組準優勝し、5組復帰した。第18期以降は再び6組在籍した順位戦では、初参加からC級2組昇級降級点もない状態が長く続いたが、21期目(第57期=1998年度)から3期連続降級点喫したため2001年度からフリークラス編入10年間の在籍期間満了した時点最終対局2011年6月10日第24期竜王戦昇級者決定戦2回戦・対伊藤真吾四段)に敗れ引退となった

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井田明宏」の記事における「棋歴」の解説

将棋出会ったのは、父の転勤山口県周南市にいた小学1年夏休みの時。「新聞将棋興味持ち、父にルール教わった」と語っている。小学4年で「プロ棋士なりたい」と思い研修会入会小学5年から、師匠となる小林健二教室腕を磨くその後、「奨励会試験4級時に苦労した」が、2020年度下半期第68回三段リーグで1位となり、24歳四段昇段を果たす(同時昇段高田明浩)。

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松尾歩」の記事における「棋歴」の解説

父(名古屋大学教授物理学)から将棋の手ほどきを受けた1990年小学3年で、ジュニア選手権小学生の部全国2位になる。 1993年中学1年で、中学生将棋名人戦出場するも、途中で敗退ジュニア選手権中部東海地区大会中学生の部では、ベスト8に入る。 1994年3月6級奨励会入会1級2年余り足踏みするも、初段から三段24勝8敗で駆け上がった1999年後期三段リーグ入りを果たすと14勝4敗の1位で四段昇段プロデビュー)。三段リーグ1期四段昇段成績修めた棋士は、松尾以前小倉久史・屋敷伸之川上猛の3名のみ、松尾以降三枚堂達也藤井聡太のみである。 2001年度新人王戦優勝するとともに順位戦C級2組10全勝、年度勝率0.744(全棋士3位)、16連勝(同2位)、32勝(同9位タイ)の活躍をし、将棋大賞新人賞受賞2002年第43期王位戦予選勝ち抜き挑戦者決定リーグ出場結果は2勝3敗(中村修及び木村一基勝利)で陥落2005年4月24日放送NHK杯戦・対先崎学戦で、敗勢状況から二歩打って反則負けをした。テレビ放送される対局での反則負け珍しく前年度豊川孝弘に続く同棋戦2年連続二歩発生ということ話題となった2006年竜王戦2組3位決定戦制し1組昇級2007年11月ペア将棋として行われた日本女子プロ将棋協会棋戦である1dayトーナメント男性として初め参加同時に植山悦行七段、片上大輔五段らも参加)。元妻香織とのペア優勝した2008年第49期王位戦6年振り2回目王位リーグ出場結果は1勝4敗(井上慶太のみに勝利)で陥落2009年前述豊川とともに順位戦B級1組昇級2010年第51期王位戦2年振り3回目王位リーグ出場結果は2勝3敗(佐藤康光及び木村一基勝利)で陥落2011年3月11日行われた61B級1組順位戦最終局(13回戦)は、佐藤康光最終局を待たずしてA級昇級復帰)を決め、残る1枠屋敷伸之松尾直接対決(7勝4敗同士)で争う形で迎えた対局途中で東北地方太平洋沖地震東日本大震災)が発生し避難為に対局一時中断し、余震が続く中で対局が行われたが、屋敷敗れ松尾のA級初昇級お預けとなった。 更に半月後に行われた第24期竜王戦1組の5位出場者決定戦 で、1回戦(対木村一基)に敗れ4年在籍した1組からの陥落余儀なくされた。 2013年第54期王位戦3年振り4回目王位リーグ出場藤井猛大石直嗣宮田敦史勝利し最終局の行方尚史戦に勝てば初のリーグ残留確定する同時に行方とのプレイオフ挑むチャンスだったが、行方敗れ、3勝2敗の好成績にもかかわらず順位の関係 から陥落となった2014年第22期銀河戦準決勝羽生に勝つも、決勝同門渡辺明敗れて準優勝に終わる。全棋士参加棋戦での初優勝はできなかった。 2016年第29期竜王戦2組ランキング戦準決勝阿部健治郎敗れ昇級者決定戦回った昇級者決定戦では飯島栄治下し4期ぶりに1組復帰決めた2017年第30期竜王戦1組ランキング戦深浦康市屋敷伸之丸山忠久下し決勝進出決勝羽生善治下して1組初優勝した。決勝トーナメントでは久保利明下し初め挑戦者決定三番勝負進出した反対山から勝ち上がってきたのは1組決勝下した羽生善治だった。挑戦者決定三番勝負では第2局制したものの第3局敗れ、初の竜王挑戦はならなかった。 2019年第32期竜王戦2組降級したが、2021年第34期竜王戦昇級者決定戦藤井猛破り1組復帰決めた2022年第80期順位戦2009年から13連続在籍していたB級1組からB級2組への降級決定したNHK杯戦では準決勝深浦康市勝利し決勝進出決勝では豊島将之敗れ棋士参加棋戦初優勝は成らなかった。

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勝浦修」の記事における「棋歴」の解説

父が将棋好きで、旅館業を営む傍ら出入り業者相手に朝から晩まで将棋指している環境育ったという。 福井資明九段師事福井との縁は小学3年生の頃に指導受けてからの縁で、中学入学同時に内弟子生活に入ったという。 1961年15歳のときに全日本アマチュア名人戦北海道代表。1962年には十段戦アマチュアにおいて参加大内延介敗れた同年中学卒業と同時上京して奨励会受験当初1級での受験であるが成績ふるわず不合格になるはずだったものの、温情2級での入会許されたという。渡辺東一門下となった下宿先京須行男森内俊之母方の祖父)の実家であったという。 1年半ほどの期間で三段となり、旧制度三段リーグ奨励会A組)ではしばらく足踏みしたが、1966年前期後期2期連続関東優勝し1967年4月四段昇段しプロ入りした。昇段決めた一局相手は、森雞二。 第13期(1968年後期棋聖戦本戦初出場1回戦山田道美を破る。 順位戦では、プロ2年目第23期1968年度)C級2組で9勝3敗・2位となり、C級1組昇級(五段昇段)。また、C級1組では1年目に9勝3敗で次点3位)に終わるも、2年目10勝3敗・1位となり、B級2組昇級六段昇段)。さらに、B級2組2年目で8勝2敗・2位となり、B級1組昇級(七段昇段)。そして、B級1組3年目の第30期(1975年度)で10勝3敗・1位の成績収め1976年4月1日付けでA級八段となった。ちょうどこのとき名人戦主催移行問題のため順位戦開始延期され勝浦初めてのA級順位戦戦い始めるまで待たされた。A級に5期連続在籍の後にB級1組降級したが、その後、A級に復帰したこともある。A級在籍通算7期第22期1972年度)王将戦初め王将リーグ入り(A級より定員少な難関)。4勝3敗で残留したが、次の第23期陥落以降第27期・第29期・第30期・第31期の王将戦では、リーグ復帰と即陥落繰り返している。 第16期1975年度)王位戦で初のリーグ入り第17期1976年度)王位戦タイトル初挑戦七番勝負では中原誠王位2-4敗れる。以降何度も王位リーグ入りしている。 1979年度は、テレビで放映される2つ早指し棋戦で、いずれもベスト4進出第29回NHK杯戦、第13回早指し将棋選手権)。 第3回1980年度オールスター勝ち抜き戦で7連勝。5連勝以上は優勝扱いのため、これが棋戦初優勝第29回1981年度王座戦タイトル戦昇格以前)で挑戦者となり、決勝三番勝負では大山康晴王将1-2敗れる。同年度、第14回日本将棋連盟杯争奪戦大山康晴準々決勝)、加藤一二三準決勝)、森安秀光決勝)を破って優勝第8回将棋大賞技能賞を受賞。 第46期(1985年度前期棋聖戦にて本戦中原誠二・谷川浩司らを破り米長邦雄棋聖への挑戦獲得五番勝負1-3敗退。「カミソリ自分のこと)が泥沼米長のこと)に浸かって切れ味鈍ってしまった」との言葉を残している。勝浦の1勝は、ロサンゼルス行われた第2局挙げたもので、内容勝浦先手相掛かりからの乱戦であった同年度、オールスター勝ち抜き戦自身2度目の5連勝以上(6連勝)を達成1985年11月1日八段昇段250勝を達成し九段昇段年間25勝を超えるハイペースであった竜王戦では、第2期1989年度)に2組優勝本戦初戦敗退するが、1組昇級第4期1991年度竜王戦1組では3位となり本戦ベスト4進出1組には通算4期在籍1993年通算600勝を達成将棋栄誉賞)。 1997年フリークラス宣言により順位戦B級2組からフリークラス転出65歳迎え2011年度(または2012年最終対局日)まで指す権利があったが、本人意思1年早く引退することが発表された。残す対局第61期王将戦第24期竜王戦6組昇級者決定戦であったが、いずれも敗れて2011年8月19日竜王戦敗退、対伊藤真吾戦)をもって引退となった

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伊藤果」の記事における「棋歴」の解説

11歳小学5年生の頃、父から無理やり将棋教えられる1963年実戦経験少なくアマチュア5、6であったにもかかわらず奨励会試験受験して合格し南口繁一九段門で関西奨励会6級入会。「記録要員としての合格と言われた。ところが、1か月5級上がり半年後には2級到達する旧制三段リーグ奨励会A組)への参加1967年後期からである。9期4年指した後、1972年半年休場この頃喜和から果に改名しまた、南口一門から関東高柳一門に移る。以降3期1年半指したところで三段リーグ制度廃止。それから約1年後1975年6月19日、よいとこ取り12勝4敗の規定により四段昇段( = プロ入り)。なお、三段時代1973年度、第17回古豪新鋭戦準優勝している(優勝森安秀光)。 1979年度12連勝(全棋士中1位)を記録し将棋大賞連勝賞を受賞第21期1980年度王位戦リーグ入り初参加から4期目C級2組順位戦(第39期、1980年度)で、7勝3敗の成績ながら前期好成績による高順位が活き3位C級1組昇級また、第12回1981年度新人王戦準優勝優勝田中寅彦)。さらには本戦出場者が50となってから初めてのNHK杯戦(第31回1981年度)で準優勝優勝加藤一二三)。これらの活躍原動力となったのが、居飛車穴熊への対策として自ら考案した風車戦法であった相手攻め備えることに特化した戦法である。 第8期1995年度竜王戦2組屋敷伸之森雞二勝って先崎学敗れた後、昇級者決定戦決勝回り森内俊之勝って2組3位1組昇級次期1996年度)は初戦米長邦雄に勝ち、1組残留第10期1997年度)は残留決定戦羽生善治敗れ2組降級。 第14期2001年度竜王戦3組昇級者決定戦制し2組復帰同年度、第20回朝日オープン将棋選手権予選突破するが、本戦初戦羽生敗れる。 第60期2001年度C級2組順位戦累積3つ目の降級点喫しフリークラス陥落以降順位戦への復帰果たせないまま年齢制限となる還暦迎え2011年6月7日の対・佐藤慎一戦(竜王戦6組)での敗戦最後に同日付で引退

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佐伯昌優」の記事における「棋歴」の解説

5歳の頃、将棋趣味としていた兄の影響受けて将棋覚える。 1952年奨励会入会1959年前期予備クラスにおいて関東優勝をし、東西決戦関西星田啓三六段に勝ち、1959年10月1日付け四段昇段プロ入り)。 順位戦では、初参加から2期目第16期1961年度C級2組10勝2敗・1位となり初昇級1年置いて、第18期1963年度C級1組順位戦で8勝3敗・2位成績B級2組昇級1962年第6回古豪新鋭戦米長邦雄三段)に勝ち決勝進出するが、大内延介三段)に敗れて準優勝。しかし、翌年の同棋戦第7回)で2年連続決勝進出し大原英二勝って棋戦初優勝1964年度、第14回東西対抗勝継戦出場し、6人抜き達成優勝扱い)。 1972年第21期棋聖戦本戦丸田祐三二上達也に勝ち、準決勝進出有吉道夫敗れる)。 第29期(1974年度)B級2組順位戦で7勝3敗・2位成績挙げA級へ一歩手前B級1組昇級以降B級1組には連続5期在籍自己最高位)。 1980年度負け越し順位戦B級2組降級したものの、1981年5月にかけて、第6期棋王戦本戦森雞二破り第30回NHK杯本戦谷川浩司に勝ち、第38期棋聖戦本戦花村元司破り第29回王座戦本戦では内藤國雄を破るなど、各棋戦本戦活躍した第35回1985年度NHK杯戦で、加藤一二三3回戦)、雞二(準々決勝)を破りベスト4準決勝内藤國雄敗れる。 第2期1989年度竜王戦3組準優勝2組昇級)。決勝相手は、この期竜王となる羽生善治五段であった。なお、本戦トーナメントでは初戦森下卓敗れる。 第51期(1992年度)の順位戦B級2組では降級喫する当時順位戦26連勝をしていた森内俊之破っている。同組に上がったばかりの内はこの黒星大きく響き、9勝1敗ながらも順位1つの差で頭ハネ遭った第30回1996年度早指し将棋選手権で、南芳一加藤一二三らに勝ち、4回戦進出中原誠敗れる)。 1999年度C級2組順位戦終えた2000年宣言によりフリークラス転出2002年フリークラス規定により定年引退

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坪内利幸」の記事における「棋歴」の解説

14期1973年王位戦挑戦者決定リーグ紅組出場したが、師匠有吉道夫有吉師匠大山康晴と「師弟3代」に亘る同時参戦となった結果は4戦全敗リーグ陥落)。 ひねり飛車を得意戦法とし、これにより若手時代羽生善治中村修快勝したことがあるまた、ひねり飛車にも強く若手時代屋敷伸之撃破したこともある。羽生との対戦はこの一戦1990年第56期棋聖戦一次予選)のみであり、記録上の勝率は「100%」である。また、当該対局羽生初タイトル(竜王)を獲得してから2戦目であり、タイトルホルダーとして初め喫した黒星であった2009年3月31日フリークラス棋士引退規定により引退した

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横山泰明」の記事における「棋歴」の解説

1992年小学校6年生出場時は5年生)のとき、第17回小学生将棋名人戦3位入賞。このとき、もう1人3位同学年山崎隆之1993年8月6級奨励会入会3級昇級後から初段昇段までは苦戦したが、中央大学商学部在学中2002年10月1日四段昇段プロ入り)を果たす。混戦三段リーグ最終日で2連勝して逆転昇段であった12勝6敗)。 初参加の第62期(2003年度C級2組順位戦で8勝1敗で最終10局を迎え勝てば1期抜けとなるところであったが、平藤眞吾敗れて8勝2敗(7位)となり昇級逃す。このときの昇級者は、宮田敦史千葉幸生(以上9勝1敗)、山崎隆之(8勝2敗)。 第17期2004年度竜王ランキング戦6組準決勝敗れるが、3位決定戦石川陽生に勝ち、5組昇級。 第37期(2006年度新人王戦U-26で橋本崇載片上大輔らを破り決勝進出決勝三番勝負糸谷哲郎0-2敗れて準優勝2007年10月30日C級2組順位戦の対・東和男戦で通算100勝を挙げ、五段に昇段。それと前後して行われた第20期2007年度竜王ランキング戦3位決定戦5位決定戦(4位の欠員補充)で、それぞれ堀口一史座元朝選手権者)と村田智弘敗れ4組昇級逃す。しかし、翌年度2008年度)の第21期竜王ランキング戦5組では準決勝敗退するも、3位決定戦松本佳介に勝ち、4組昇級。 第66期2007年度C級2組順位戦では7勝1敗で残り2局のうち1局を勝てば昇級という状況になるが、豊島将之田村康介連敗喫して昇級逃した第16期2008年度銀河戦において、本戦ブロック)でたった2勝で幸運に決勝トーナメント進出中原誠十六名人破ってベスト8入り。 第68期(2009年度C級2組順位戦では8勝2敗の成績挙げるも、リーグ表で上位金井恒太最終局で勝って8勝2敗としたため次点(4位)で昇級逃す。他の昇級者は豊島将之10勝0敗)と高崎一生(9勝1敗)。 第69期2010年度C級2組順位戦では、最終局に勝てば昇級だったが、昇級可能性残していた阿部健治郎敗れまたしても昇級逃した。 第73期(2014年度C級2組順位戦において、勝又清和六段勝利し最終局を残してC級1組への昇級決めたC級2組在籍12年目での達成となった第24期2016年度銀河戦では本戦ブロック)で5連勝達成し決勝トーナメント進出渡辺明竜王らを破ってベスト4入り。 第75期2016年度C級1組順位戦において、開幕から9連勝成績上げ最終局を残してB級2組への昇級決めたC級2組での苦労はうってかわって在籍2年目でのスピード昇級であった。 第79期(2020年度B級2組順位戦において、2021年3月10日最終10戦目で勝利しリーグ3位B級1組への昇級決めた前年および前々年の第7778期でもリーグ3位となりながら昇級2枠であったために昇級逃しており、順位戦規定変更による昇級枠拡大恩恵如実に現れた形となったB級1組初年度となった80期(2021年度)順位戦では、木村一基松尾歩阿久津主税といった実力者苦戦する中A級に昇級した稲葉陽などからも勝利して6勝6敗の指し分け終わった。第81期はB級1組の8位スタートとなる。

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南芳一」の記事における「棋歴」の解説

1980年度昭和55年度)にプロ入りした強豪集団いわゆる55年組」の一人であり、タイトル通算7期は彼らの中で最多である。 10歳の頃に父に教わり将棋始める。 上達速く1975年11歳奨励会試験合格し賀集正三門下で7級で奨励会入会する。しかし、すぐにB(降級一歩手前)になり同年9月退会半年後に再度入会試験を受けるが不合格。それでもあきらめず1977年改め挑戦して合格し木下門下5級で再入会。後にプロ入りした人物として極めて珍しい、奨励会退会後の再入会経験した初段昇段まではスピード出世三段時代が約1年一時苦しんだが、1981年1月プロ入り四段昇段)を果たす。

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久保利明」の記事における「棋歴」の解説

1986年小学生将棋名人戦ベスト4進出準決勝優勝者鈴木大介敗れる)。同年奨励会入会1993年4月17歳四段昇段プロ入り)。その後10年をかけて2003年にA級八段となる。1994年度には、全棋士中1位、歴代6位(当時)の勝率0.8095(34勝8敗)をマーク1997年度にはオールスター勝ち抜き戦で6連勝し棋戦初優勝定員7名・残留4名という棋界随一難関王将リーグ王将戦挑戦者決定リーグ)に、第49期1999年度)に初参加。第49期では陥落するも、翌年50期に即復帰以降59期2009年度)まで陥落することなく連続残留している。 関西奨励会出身であるが、プロ入り後しばらくは関東所属していた。2006年4月関西戻り当時囲碁・将棋ジャーナル」に出演した際、「もう関東へ行くことはない」と述べた

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佐藤天彦」の記事における「棋歴」の解説

1998年小学5年時に小学生将棋名人戦西大会で糸谷哲郎敗れベスト16。その年の9月6級関西奨励会入り中学校卒業機に上京し千葉県東京学館浦安高等学校卒業

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中田宏樹」の記事における「棋歴」の解説

世代的には、いわゆる55年組」と「羽生世代」の中間に当たる。両世代はさまれ、なかなか目立つ活躍できないものの、プロ入りから30年経っても6割近い勝率2018年度までの通算勝率0.587)は、タイトルホルダー匹敵する1985年秋にプロデビュー実質初年度となる1986年度に、羽生善治並んで棋士中1位タイ勝率(0.741)をマークする1989年度オールスター勝ち抜き戦(5連勝以上は優勝扱い)で8連勝する1991年王位戦谷川浩司王位へ挑戦者となる。直前まで、他棋戦含め破竹17連勝をして迎えた七番勝負であったが、2連勝の後4連敗敗退。この4敗のうちの2敗は、中田後手番で、谷川得意の角換わり腰掛銀堂々と受けて立ったのであるこの年度は、将棋大賞新人賞連勝賞を同時受賞1993年度全日本プロ将棋トーナメントでは、阿部隆決勝五番勝負を戦うも、2-3惜敗第7期1994年度竜王戦4組優勝第8期1995年度竜王戦では3組3位となり、連続2回昇級2組上がる第9期2001年度銀河戦決勝トーナメント進出藤井猛竜王当時)を破りベスト4第15期2002年度竜王戦3組2位として本戦出場森下卓森内俊之当時名人)を破り挑戦者決定三番勝負進出阿部隆との9年ぶりの雪辱戦となったが1勝2敗で敗れ竜王挑戦獲得はならなかった。 第22期2009年度竜王戦では4組決勝まで進み3組復帰決めて久々本戦出場可能性もあったが、決勝田中寅彦敗れる。 順位戦でなかなか昇級できず、C級2組抜けるのに10年C級1組抜けるのに9年かかったそのこともあり、プロ入り後の昇段全て勝数規定による昇段である(なお、勝数規定だけで八段まで昇段したのは、2020年時点では中田阿部隆中川大輔日浦市郎泉正樹神崎健二中田功杉本昌隆佐藤秀司長沼洋10人である)。したがって八段昇段通算560勝目100+120+150+190であった。これは、プロ入り後の約20年間、年28勝のペース勝ち星積み上げたことになる。28勝という数字は、年度ランキング10前後相当する勝数である。そして、2008年8月8日公式戦通算600勝(将棋栄誉賞)を達成順位戦でA級もB級1組経験していない棋士600勝は史上初である。 2010年3月5日、第68B級2組順位戦最終局で勝ち、8勝2敗(2位)の成績で初のB級1組昇級決める。順位戦初参加から24年で、年齢45歳となっていた。この時点での通算勝敗は1009対局632勝377敗(勝率0.6264)、順位戦での通算勝敗240対局15585敗(勝率0.6458)である。 2022年3月10日現在、通算勝星767とし、九段昇段まであと43となっている。昇段場合阿部隆次いで二例目の勝数規定だけでの九段昇段となる。

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黒田尭之」の記事における「棋歴」の解説

6歳時に父から教わったことをきっかけ将棋始めた松山市将棋道場松山将棋センター」に通いイベント松山に来た畠山鎮弟子入り兄弟子斎藤慎太郎)。小学6年奨励会入会し2008年第33回小学生将棋名人戦準優勝準決勝では増田康宏勝利)、第7回全国小学生倉敷王将戦優勝2013年4月三段リーグ入り松山市新田高等学校卒業後、愛媛大学進学したが、中退し将棋専念した第58回三段リーグでは、最終局を2連勝すれば結果的に昇段していたが、2局目で佐々木大地敗れ11勝7敗の7位に終わる(佐々木はこの勝利3位となり、2回目次点獲得してフリークラスでのプロ入り果たしている)。藤井聡太大橋貴洸四段昇段果たした第59回三段リーグでは、12勝6敗で3位次点)だった。第63回三段リーグでは、昇段争いライバル3名(山本博志と他2名)が全敗した上で自身が2連勝すれば昇段、という状態となり、最終的に2連勝したもののライバル3名が何れも全敗はしなかったため、12勝6敗の5位に終わる(山本当期2位四段昇段している)。 そして2018年度後期第64回三段リーグにて13勝5敗の成績収め2位となり、参戦12期目にして遂に四段昇段決めた同時昇段出口若武)。愛媛県出身棋士誕生森信雄以来43年ぶりだった。

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中尾敏之」の記事における「棋歴」の解説

幼稚園時代から父に将棋教わりその後日本将棋連盟富士支部道場に連れられていくようになる。しかし、すぐには夢中にはならずアマチュア初段の父に勝てようになったのさえ小学校高学年の頃であった奨励会への入会は、中学3年の頃の1989年三段リーグ参戦してから5期目(2年半)の1998年度前期リーグで、出だし2勝5敗から粘って12勝6敗として2位食い込み1998年10月1日付で四段昇段プロ入り)をする。 プロとして最初に迎えた12期1998 - 1999年竜王戦では6組準決勝進出準決勝昇級者決定戦敗者復活)で勝てば1年目で即5組昇級となるところであったが、どちらでも敗れて昇級逃した第16期2002 - 2003年竜王戦6組ランキング戦準決勝敗退後、昇級者決定戦熊坂学に勝ち5組昇級。続く第17期でも5組ランキング戦準決勝敗退後、昇級者決定戦伊奈祐介に勝ち4組昇級。なお、当時竜王ランキング戦連続2回昇級昇段規定がまだなかったため、昇段はしなかった。 順位戦での最高成績は、第60期2001年度C級2組順位戦の8勝2敗(C級1組昇級には至らず)である。 第66期2007年度C級2組順位戦降級点累積3個となり、規定によりフリークラス降級し、初参加から9期33歳順位戦参加資格失った。これは第46期(1987年度)に現行制度始まって以来熊坂学3期順位戦システム最速)、本間博7期)に次ぐ当時としては3番目の早さであった。 第34期2008年度棋王戦予選決勝進出し、全公式棋戦通して自身初の本戦トーナメント入りまであと1勝と迫ったが、阿久津主税敗れる。 第62期(2012年度NHK杯将棋トーナメント予選勝ち抜き本戦出場1回戦松尾歩敗れる。 フリークラス降級以降、年度毎勝率は5割に満たない年度が続いたが、在籍10年目となる2017年度一転して好調続き2017年12月21日行われた第11回朝日杯将棋オープン戦二次予選1回戦では順位戦A級佐藤康光対戦し、相入玉長手数246手)で勝利した2018年2月27日行われた第31期竜王戦6組ランキング戦牧野光則五段と対戦し、相入玉となり史上最長手数と見られる420手で持将棋となり、指し直し局を100手で敗れた。この持将棋局は2017年度将棋大賞において名局特別賞受賞した引退内定まで残り1週間となる2018年3月22日時点当年度成績1710敗。同年3月27日第44期棋王戦予選4回戦青嶋未来戦は、敗れれば引退決定勝てばフリークラス編入者の昇級規定一つ同一年度内に(参加棋戦数+8)勝以上、かつ勝率6割以上の成績挙げる」により順位戦C級2組への復帰となる大一番となったが、この対局敗れたことで、参加している公式戦終了後引退決定した。この時点で残る対局竜王戦6組昇級者決定戦のみとなっていたが、2018年8月13日行われた4回戦星野良生敗れ現役引退となった

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大内延介」の記事における「棋歴」の解説

小学4年生のとき、将棋道場二枚落ちで3連敗し、それがきっかけ将棋のめりこむ小学6年生の頃には、将棋の駒名産地として知られる山形県天童市にて、1か月間の将棋修行をした。 1954年土居市太郎名誉名人最後弟子として入門1963年4月1日四段昇段プロ入り)は、米長邦雄同期である。 1963年プロデビュー直後初参加の順位戦から2期連続昇級1967年第8期王位戦にて大山康晴への挑戦を得、タイトル戦初登場六段挑戦者当時史上初で、七番勝負は1勝4敗で敗退した穴熊戦法駆使し1975年には第34期名人戦中原誠挑戦するまでに至った二人対比的に、“中原王道大内覇道”と表現された。この名人戦大内中原互角に戦い、3勝3敗でフルセットとなり(このほか千日手も1局あった)、迎えた最終第7局は1日目封じ手時点大内が大優勢となった。しかし、勝利目前ミス手順前後)をして勝ちを逃し持将棋持ち込まれてしまった。これについては、後に大内自身が、「対局室(羽沢ガーデン)の近くビアガーデンがあり、そこから聞こえ酔った人の話し声将棋読みとの‘葛藤’があり、後で指すべき手を先に指してしまった」と語った。そして指し直しの第8局で敗れ名人獲得することができなかった。 タイトル戦昇格した第1期1975年度)棋王戦敗者復活戦勝ち抜き棋王決定リーグ進出前年棋王戦優勝内藤國雄本戦優勝高島弘光との三者によるリーグ戦内藤相星の3勝1敗となり、同点決勝内藤破り自身初のタイトルとなる棋王の座を獲得翌期には加藤一二三挑戦を受け、3連敗ストレート負け失冠した。 日本将棋連盟渉外担当理事だった1991年8月大内朝日新聞社名人戦当時毎日新聞社主催主催復帰する考えがあるか打診した日本将棋連盟の8人の理事のうちでも、朝日へ移す案に賛成派大内二上達也田丸昇の3名のみで、のこり5名は反対だったその後1991年9月1992年3月1992年5月棋士会でも、反対意見多く廃案となった。 第68期(2009年度順位戦C級2組からの降級決定60歳上であるためフリークラス編入できず、以降最終対局(各棋戦不戦敗生じないところ)まで指したところで引退することが決まったタイトル経験者こうした形での引退は、同年有吉道夫ケースとともにであった。そして、勝って負けて引退日となる2010年4月20日竜王戦5組残留決定戦石田和雄破って6組降級させ、自身6組降級(の成績)の汚点棋士人生に残すことなく勝負師として最後飾った2017年6月23日死去死因は非公表)。75歳没。 葬儀近親者のみで済ませ7月17日東京将棋会館で「お別れの会」を開催した囲碁趣味とした大内に、日本棋院から囲碁アマ八段追贈され女優吉永小百合大内吉永は、家族ぐるみで、数十年の親交があった)など、関係者一般将棋ファン合わせて500名が出席した2018年4月2日発表され第45回将棋大賞2017年度)で、大内升田幸三賞特別賞贈られた。受賞事由は「振飛車穴熊戦法確立した工夫」。

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河口俊彦」の記事における「棋歴」の解説

奨励会16年在籍し30歳でようやく四段昇段しプロ棋士となったこれを機に奨励会在籍年齢制限設けられたこともあり、長い間最長記録となっていた(奨励会在籍年数は、1992年伊藤能17年という新記録作りこれを超えた)。 1971年度(第13期)王位戦予選では、当時A級に在位していた加藤一二三を、1975年度(第8回早指し予選では元名人の塚田正夫を、第1回1982年度全日プロ2回戦では名人失冠直後王位タイトル有していた中原誠を、それぞれ破る殊勲挙げた河口には棋戦優勝タイトル挑戦など、卓越した実績はないものの、順位戦では参加10期目となる1976年度(第36期昇降リーグ戦4組現在のC級2組該当)で8勝2敗(33中2位)の好成績収め41歳高齢昇級決める。以降19期にわたりC級1組在籍し続けたC級1組在籍2期目迎えた1978年度(第38期)順位戦では、前期からの連続昇級遂げた谷川浩司当期順位戦における唯一の黒星を喫させた。 難関と言われ十段戦予選準決勝まで進んだことが2回ある(第14期、第18期)。 2002年3月現役引退し将棋関係の著述専念2015年1月30日腹部大動脈瘤のため死去78歳没。没後日本将棋連盟より、八段追贈される。

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岩根忍」の記事における「棋歴」の解説

1994年女流アマ名人戦優勝経て1995年奨励会入会奨励会時代2002年に、第60期名人戦七番勝負第1局記録係を、女性として史上初め単独行っている。 奨励会では最終的に1級まで上がる2003年退会、翌2004年4月1日女流1級としてデビュー女流棋士一般的な登竜門である女流育成会出身ではなく奨励会から直接女流棋士転身した初めてのケースである)。 2009年第2期マイナビ女子オープンではトーナメント勝ち進み挑戦者決定戦清水市代破ってタイトル初挑戦当時岩根出産控えていたために延期経て6月18日からの開幕になった五番勝負結果矢内理絵子に3連敗終わりタイトル奪取はならなかった。 2009年7月8日棋士男性棋士)との初の公式戦で初勝利を挙げる第3回朝日杯将棋オープン戦一次予選、対神吉宏充戦)。 2010年、第18期倉敷藤花戦では勝ち進み挑戦者決定戦甲斐智美破り挑戦者となる。三番勝負では里見香奈初戦勝利し王手をかけるその後2連敗タイトル奪取はならなかった。 2013年一身上の都合により4月から休場当初半年休場予定だったが、1年間休場した2016年第27期女流王位戦では挑戦者決定リーグで4勝1敗で紅組優勝挑戦者決定戦では清水市代破り挑戦者となる。しかし5月からの五番勝負では里見香奈に3連敗三度目挑戦タイトル奪取はならなかった。 2018年第11期マイナビ女子オープンでは挑戦者決定戦に進む。しかし挑戦者決定戦では西山朋佳敗れ、本棋戦9期ぶりの挑戦はならなかった。

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阿久津主税」の記事における「棋歴」の解説

5-6歳ごろに父親より将棋を教わるが、それほど専念はしていなかった。小学4年生ごろ、父親転勤により東京都町田市転居し、父に連れられ将棋会館顔を出すうになる。それから子どもスクール通い卒業八王子将棋クラブへ通うころにはすっかり将棋熱心になっていた。小学5年生で、研修会に入る。同学年佐藤慎一奨励会受験するのを聞き自身奨励会試験を受けることを意識するようになり、小学6年生9月期入会を果たす。同奨励会試験の1位は渡辺明2位橋本崇載だった。1999年2期目3段リーグを1位抜けし(14勝4敗)、四段昇段プロ入り決めてから在学していた高校は、2年生修了退学している。

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近藤正和」の記事における「棋歴」の解説

1996年10月1日25歳プロ入りプロデビューから負けなしの10連勝飾りスタート切ったが、これは藤井聡太2017年)に次ぎ松本佳介1996年)と並ぶ歴代2位デビューからの連勝記録となっている。 1997年第10期竜王戦6組ランキング戦6組優勝者となり、本戦トーナメント出場本戦では3回戦佐藤康光敗れたが、5組昇級同年第47回NHK杯予選決勝石川陽生に勝ち、初参加で本戦出場を果たす。 翌1998年にも予選勝ち抜き第48回本戦トーナメント連続して出場した。 いつもにこやかで「ゴキゲン流」の異名をとり、得意戦法の「ゴキゲン中飛車」は有力な戦法として注目され2001年度には升田幸三賞受賞した2001年度第14期竜王戦において、5組ランキング戦準優勝果たし4組昇級した2004年度一時9割を超える勝率記録し最終的に37勝8敗、勝率.8222の成績で年度最高勝率記録したため、勝率第一位賞と連勝賞を受賞同年順位戦C級1組にも昇級したその他の棋戦でも活躍し、第13銀河戦ではブロック戦で6連勝となり、本戦進出本戦1回戦でも深浦康市勝利した2回戦森下卓敗退)。第23回朝日杯将棋オープン戦では5連勝して本戦ベスト8まで勝ち上がった準々決勝谷川浩司敗退)。 2010年度順位戦苦戦し、2勝8敗で終えた結果1回目降級点となったが、翌年度に6勝4敗で勝ち越したことで、降級点抹消成功した。しかし、同年度の第24期竜王戦では3連敗喫し5組降級となった。そして2013年度第26期竜王戦でも再び3連敗喫し6組降級となった2015年度順位戦で再び降級点喫した後、降級点抹消出来ない状態が続く。そして2018年度順位戦でも苦戦し最終局で勝利すれば降級点三度回避、という状態で日浦市郎対戦日浦順位戦9連敗中の絶不調だったが、結果日浦勝利日浦当期順位戦初白星与えると同時に近藤2度目降級点喫してC級2組陥落となったその後苦戦続き2019年度ではデビュー以来最大不振となる5勝20敗に終わった。それでも順位戦降級点回避成功したが、2020年度順位戦において、1回目降級点喫した

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渡辺和史」の記事における「棋歴」の解説

1999年5歳頃)、父が突然仕事帰り将棋盤と駒買ってきた事がきっかけ始める。 2006年小学生名人戦倉敷王将高学年の部東京都代表、2008年奨励会入会奨励会三段リーグは、第54回2013年度下期)より参加初参加の成績は1勝17敗に終わるも、師匠豊川孝弘から「まだ先がある。二段落ちてもいいくらいの気持ちで」と励まされのびのび指せようになったという。第65回2019年上期三段リーグにて、現行制度最多タイ勝利数となる16勝2敗の成績挙げリーグ1位で四段昇段プロデビュー決めた順位戦2期目となる第80期順位戦では9勝1敗の成績C級1組への昇級及び五段への昇段果たしたまた、2021年度には歴代7位タイとなる20連勝達成し将棋大賞連勝賞を受賞した

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関根紀代子」の記事における「棋歴」の解説

1968年第1回女流アマ名人戦優勝当時旧姓吉田)。未だ女流棋士制度存在しなかった時期蛸島彰子ライバル格として注目された。 1974年女流棋士制度定められ、初の女流棋戦として女流名人位戦(現・女流名人戦)が開始され時に女流二段女流棋士となった詳細は「女流棋士 (将棋)#レッスンプロ時代」を参照 1989年村山幸子引退し現役女流棋士最年長者となる。 若い世代台頭する中で2000年第14回レディースオープントーナメントでは決勝進出老いてもなお実力見せつけた。還暦での番勝負進出女流棋士では最年長である(棋士含めると大山康晴66歳)。 2007年4月より蛸島後任として女流育成会幹事就任2009年3月18日第17期倉敷藤花戦1回戦長沢千和子勝利し20年余りをかけて「女流四段昇段150勝」の昇段規定満たし女流五段に昇段した2009年3月31日女流育成会廃止研修会合併に伴い幹事退任2010年4月女流棋士会役員制度復活により、女流棋士会会長就任2011年4月1日日本将棋連盟正会員となる。女流棋士正会員になった第一号の9人のうちの1名。日本将棋連盟公益社団法人移行しその時点で在籍する女流棋士女流棋士番号がふり直され日本将棋連盟女流棋士番号1番となる。 2011年8月31日日本将棋連盟役員会引退届を提出し受理される普及多大なる功績があったのを認められ9月8日付け女流六段となる。関根引退に伴い女流棋士現役最年長者は蛸島彰子となった2013年4月女流棋士会会長退任し名誉会長となる。

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長谷部久雄」の記事における「棋歴」の解説

21歳プロデビュー初参加の第11期1956年度C級2組順位戦で9勝3敗・2位成績収め1期昇級。 第14期1959年度C級1組順位戦で、7勝2敗・2位成績B級2組昇級。つづく第15期B級2組順位戦で8勝3敗の2位で、2期連続昇級自己最高のB級1組昇級以降B級1組B級2組との間を3往復する第3期1964年度)十段戦で、難関十段リーグに入るが、2勝8敗の成績に終わる。リーグには升田幸三二上達也加藤一二三らがいた。 1966年第8期棋聖戦加藤一二三中原誠らを破り決勝に進むが、二上達也敗れタイトル挑戦はならなかった。 第10期1969年度)王位戦で、中原誠らを破りリーグ入り第10回1971年度)王座戦有吉道夫二上達也大山康晴らを破り挑戦者決定戦に進むが、加藤一二三敗れる。 テレビ棋戦早指し将棋選手権第12回1978年度)と第14回1980年度)で、ともに4回戦進出第21期1980年度王位戦リーグ入り有吉道夫勝浦修らに勝ったが、中原誠谷川浩司負けて3勝2敗となり、挑戦者決定戦には進めなかった。 C級1組において降級点を1個抱えC級2組への降級危機瀕した状態で臨んだ51期1992年度順位戦では、3勝7敗と不振ながら剣が峰降級回避するも、当期限り引退延べ36期参加した間、順位戦における通算勝率はちょうど5割であった2017年12月27日千葉市内の自宅死去84歳没。葬儀近親者のみで営まれたという。将棋連盟からの訃報発表死後1ヶ月後、年が変わってからの2018年1月23日であった死因未公表2月28日お別れの会が行われた。

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阿部健治郎」の記事における「棋歴」の解説

5歳の頃、父親と兄が将棋指しているところを見て自然と覚える。小学1年の時から土岐田勝弘アマ八段棋道師範)が地元主宰する土岐将棋道場に通う。 2001年第22回全国中学生選抜将棋選手権大会準優勝酒田南高等学校卒業上京プロ棋士目指す2002年奨励会入会試験合格し入会三段昇段までは3年駆け抜けたが、三段リーグでややもたつき四段昇段には8期4年間)を要した2009年10月プロ入り後は一転して快進撃見せ初参加の第23期2010年度竜王戦竜王ランキング戦6組)では準優勝し、1期5組昇級プロ入りから最短タイ)を決める。第41新人王戦でも決勝進出し決勝三番勝負では史上初めアマチュア決勝進出した加來博洋を2勝1敗で下し棋戦初優勝果たしたまた、第19期銀河戦では予選突破すると、本戦Eブロックで7連勝決め決勝トーナメント進出した1回戦羽生善治敗れる)。 2011年度は、第24期竜王戦5組ランキング戦ベスト4進出昇級者決定戦でも勝利して4組昇級し竜王戦連続昇級で五段に昇段した第70期順位戦C級2組では10全勝C級1組への昇級決める。 2015年には第41期棋王戦にて予選から勝ち上がり挑戦者決定トーナメント進出トーナメントでも名人含む4冠の羽生善治やA級棋士である久保利明広瀬章人らを破りベスト4入り。この羽生破った一局将棋大賞名局特別賞選ばれた。 また、同年第28期竜王戦においては3組昇級者決定戦にて3位入り2組昇級決定自身段位六段昇段。さらに翌2016年第29期竜王戦2組ランキング戦準決勝にて松尾歩勝利し竜王戦1組昇級決定ランキング戦決勝では郷田真隆敗れ準優勝本戦では3組優勝者永瀬拓矢勝利するが、準々決勝1組3位久保利明敗北)。六段昇段から僅か半年足らずで七段にスピード昇段果たした竜王戦では2021年現在まで1組所属活躍していて、31期~33期と35期では5位決定戦1回戦高橋道雄丸山忠久広瀬章人佐々木勇気それぞれ勝利しており、錚々たる面子2組降級させている。 2017年5月から活動拠点東京から故里酒田移した2020年第61期王位戦では予選勝ち抜き、初の王位リーグ入り。しかし、5戦全敗での陥落となった

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日浦市郎」の記事における「棋歴」の解説

1976年小学5年第1回小学生将棋名人戦準優勝1980年11月中学3年時6級奨励会入会1984年18歳四段昇段( = プロデビュー)。昇段日が4月4日であったため、1984年度(第43期)の順位戦参加僅かに間に合わなかった。 一時期羽生善治に対して勝率高かったことから、「羽生キラー」あるいは「マングース」(ハブ天敵の意)と呼ばれていた。第20期1989年度新人王戦においては準々決勝羽生勝利(この時点で、羽生に3連勝)。そして、中川大輔との決勝三番勝負2-0制し棋戦初優勝を果たす。 順位戦では第47期(1988年度)にC級1組昇級決めるなど、デビュー以来初参加の第44期(1985年度)から第61期(2002年度C級1組順位戦)まで18年間、負け越しがなく、第62期に4勝6敗で初め負け越したその間、8勝2敗が4度もあったが、昇級寄与したのは1回だけであった竜王戦では、第2期1989年度竜王戦4組昇級者決定戦制し3組昇級第4期1991年度竜王戦3組準優勝し、2組昇級決めとともに本戦トーナメントにも初進出初戦敗退)。第7期1994年度)に残留失敗したものの、次の第8期1995年度)に3組優勝をして2組への即復帰決め本戦では5組優勝行方尚史前期に新四段挑戦者決定三番勝負進出)を相手に1勝を挙げる。続く第9期1996年度)には2組準優勝本戦進出するとともに、初の1組昇級を果たす(本戦初戦敗退)。以降5期連続1組在籍。 第62期(1993年度棋聖戦本戦出場。第39期(1998年度王位戦で初の王位リーグ入り屋敷伸之棋聖(当時)に勝利するものの、他は全敗し1勝4敗でリーグ陥落第11期2003年度銀河戦では決勝トーナメント1回戦阿部隆に勝ち、ベスト8入り第17期2004年度竜王戦では、2組昇級者決定戦制し1組復帰。しかし、翌期の第18期から第20期まで合計6連敗喫した事で、一気4組まで降級となった。 第53期2012年度王位戦で、2度目の王位リーグ入り白組当期挑戦者となる藤井猛唯一勝利する活躍見せるも、それ以外では全敗喫しまたしても1勝4敗でリーグ陥落2013年度絶不調に陥り、年度の全成績で5勝16敗に終わった。しかし、順位戦では4勝して降級点回避し竜王戦でも4組残留成功したプロ入り後、五段昇段から八段昇段2010年4月16日)までを全て勝数規定昇段したが、これは阿部隆中田宏樹中川大輔続いて史上4人目また、八段昇段時点順位戦自己最高位C級1組であったのは、屋敷伸之渡辺明続き史上3人目。但し2人順位戦昇級よりタイトル獲得等での昇段早かったために起こったことであり、日浦場合は(新人王戦での優勝はあるものの)タイトル戦登場経験もなく26年C級に留まって年21勝ものペース勝ち星積み重ねた、非常に珍しいケースである。そして、2012年10月10日第54期王位戦予選佐藤紳哉戦)に勝利し順位戦においてB級2組以上に在籍歴がない棋士として史上初め公式戦通算600勝(将棋栄誉賞)を達成した2018年度は、前述した2013年度上の不振陥る。年度の全成績は5勝20敗と大幅に負け越し、年度内に18連敗喫した順位戦では開幕から9連敗となり、棋士人生初めての降級点となったが、最終局で1勝する意地見せた加えて最終局の相手近藤正和だったが、前述通り勝利したことで、近藤C級2組への降級追い込んでいる。 2019年度竜王戦で3連敗し5組降級順位戦では4勝6敗の成績で、辛うじて降級点回避成功する。そして翌年度に6勝4敗と勝ち越したことで、降級点抹消成功した2021年度第71回NHK杯活躍予選を3連勝して11年振り本戦進出を果たすと、若手強豪である池永天志王座タイトル保持者かつ弟弟子である永瀬拓矢連勝した。特に永瀬には初対戦から6連敗と大苦戦していたが、7戦目にしての初白星となった

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糸谷哲郎」の記事における「棋歴」の解説

関西所属であり、豊島将之村田顕弘稲葉陽とともに関西若手四天王」と呼ばれる棋士一人

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菅井竜也」の記事における「棋歴」の解説

5歳時に父親より将棋を教わる。小学4年時に森内俊之指導対局目当て参加した将棋日本シリーズこども大会岡山大会で準優勝。これをきっかけ様々な全国大会にも参加するうになる2003年御津町御津小学校5年時に第28回小学生将棋名人戦出場地方大会出場時は4年)。西の代表2人のうちの1人となり、NHK教育テレビ放映される準決勝進んだ結果敗れて3位同年地元岡山開催され第2回全国小学生倉敷王将戦では高学年の部で優勝2004年小学6年地方大会出場時は5年)で出場した第29回小学生将棋名人戦では、佐々木勇気決勝敗れ準優勝第58回アマチュア名人戦では大人達に混じって戦い岡山県代表となる。同年奨励会入会奨励会三段リーグには第43回2008年度前期)から参加。常に昇段争い加わり4期目では序盤の1勝2敗からの13連勝という爆発力見せ最終日の2局を残してプロ入り決める(最終成績15勝3敗)。また、消化試合となった最終日には、当時中学3年佐々木勇気に勝ち、中学生棋士誕生記録阻んだプロ1年目2010年度に、早くも3210敗・勝率.762の好成績挙げ第5回2011年度大和証券杯ネット将棋・最強戦四・五段の4人中4位で出場1回戦羽生善治名人破ったのを皮切りに豊島将之六段屋敷伸之九段下して決勝進出決勝では同じく四・五から出場した村山慈明五段を下して棋戦初優勝果たした。またこの結果受けて日本将棋連盟役員会審議が行われ、「類まれな成績」により五段に昇段することが決定決勝同日2011年8月21日付で昇段した2011年度は他にも、本戦初出場第61回NHK杯テレビ将棋トーナメントベスト82回戦師匠井上慶太との「師弟対決」に勝利)、第5回朝日杯将棋オープン戦でもベスト4活躍したまた、第70期順位戦C級2組でも9勝1敗の好成績だったが、阿部健治郎中村太地船江恒平の3人が10全勝記録した為、不運にC級1組への昇級はならなかった。なお、菅井の1敗は、兄弟子船江との「同門対決」で喫したのである2011年度はこれらの活躍により、第39回将棋大賞新人賞受賞した2012年度第6回朝日杯将棋オープン戦で、丸山忠久森内俊之谷川浩司を破るも、決勝戦渡辺明敗れて準優勝となった同年度は順位戦前年度続き好調維持し9勝1敗。同星に阪口悟斎藤慎太郎がいたが順位最上位のため1位の成績C級1組への昇級遂げた2013年第71期順位戦では、8勝2敗を上げるも順位差で同星の最上位佐々木慎昇級し同じく同星の中村太地と共に昇級逃す2014年3月15日第3回将棋電王戦において、プロ棋士側の先鋒として第23回世界コンピュータ将棋選手権7位の習甦対戦コンピューター側の着手を「電王手くん」というロボット担当したが、トラブルがあって夕食休憩入り直後コンピューター側が着手してしまい30分の考慮時間菅井が得る形となった対局98手までで習甦敗退した2014年7月19日電王戦リベンジマッチにおいて第3回将棋電王戦敗れた習甦再度対戦持ち時間が8時間ずつで、深夜をまたぐ対局となった振り飛車ではなく居飛車採用したが、中盤長考たたって持ち時間失い144手で習甦再度敗れた2015年3月9日第73期順位戦C級1組高野秀行勝利し、9勝1敗の同星に澤田真吾がいたが、順位差で1位でB級2組昇級を果たす。これにより、翌日六段昇段となる。同年9月29日、第46新人王戦決勝大橋貴洸三段下し優勝11月5日竜王戦2期連続昇級により、七段昇段。 第75期2016年度B級2組順位戦では、8勝2敗・2位成績をあげ、B級1組への昇級決めた。 第58期2017年度王位戦挑戦者決定リーグ白組にて優勝を飾ると、2017年6月9日紅組優勝澤田真吾との挑戦者決定戦に勝ち、羽生善治王位へ挑戦獲得した2017年8月30日、3勝1敗で迎えた第5戦を108手で勝利し、6連覇中の羽生下して自身初のタイトルを手にした。同時に平成生まれ棋士として初めてのタイトルホルダーとなった初防衛戦となった59期2018年度王位戦は、棋聖挑戦であった豊島将之迎えて行われた先手番で先勝した第1局のあとで棋聖獲得した豊島との七番勝負は、先手番側が勝ち続けてフルセット持ち込まれた末、最終第7局で後手をもった菅井破れて1期失冠となった2018年度将棋日本シリーズでは中村太地丸山忠久を破るも、決勝戦渡辺明敗れて準優勝2020年1月23日、第78B級1組順位戦斎藤慎太郎破りA級昇級八段昇段決めた2021年10月27日、第29期(2021年度)銀河戦決勝渡辺明名人破り自身初の全棋士参加棋戦優勝決めた第15回朝日杯将棋オープン戦では、2022年1月15日午前本戦トーナメント1回戦渡辺明名人午後準々決勝豊島将之九段勝利し2月23日午前準決勝佐藤天彦九段午後決勝では兄弟子稲葉陽八段それぞれ打ち破り朝日杯初優勝飾った

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滝誠一郎」の記事における「棋歴」の解説

若手時代から中堅時代にわたり、主に順位戦において活躍したC級2組在籍4期目迎えた第27期1972年度)では、8勝2敗の成績17人中1位)でC級1組昇級C級1組在位14期目で迎えた46期(1987年度)では、9勝1敗の成績24人中1位)でB級2組昇級以後8期にわたりB級2組在籍した。 第56期1997年度)のC級1組順位戦で2個目の降級点喫したのを最後にフリークラス転出65歳定年迎え2013年度最終対局日(2014年3月31日時点勝ち残っている対局全て消化した日)まで現役棋士続け権利があったものの、滝本人が1年早く引退する意思示したことが、日本将棋連盟公式サイトにおいて公表された。2013年8月16日出場残していた第26期竜王戦昇級者決定戦3回戦阿部光瑠戦で敗れ引退となった

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真部一男」の記事における「棋歴」の解説

若手時代1950年代生まれ棋士代表格として期待され当時名人だった中原誠対す対戦成績良さから「将来名人候補」との評判勝ち得た奨励会時代から俊英として知られ山口瞳の「血涙十番勝負」にも「真部一男三段毎年惜しくも昇段逃しているが、奨励会実力ナンバーワン衆目の見る所。それどころか、順調に進めばA級間違い無し俊秀である」という一節がある。 四段昇段後は、順位戦C級2組1期目2期目が7勝3敗。3期目となった1975年度に10全勝C級1組昇級翌年も9勝1敗の好成績B級2組昇級する。1979年度順位戦B級1組昇級その後8年経って1987年度に9勝3敗の成績収め晴れてA級八段となる。B級1組昇級のときに28歳であった棋界プリンスは、すでに36歳となっていた。A級には通算2期在籍若手時代は、当時脂の乗りきっていた米長邦雄を得意とし、1982年度第16回早指し将棋選手権決勝三番勝負では米長ストレート下して優勝するなど、1980年代中ごろまでは米長相手大きく勝ち越していた。この理由について本人は「奨励会時代から米長から目をかけて貰い、『ぶつかり稽古』と称した練習将棋を多い時は月に百局以上も指すなど、若い頃から米長将棋吸収できたため」という旨を著書述べている。 しかし、棋戦優勝は、この1回に終わる。森安秀光関西勢棋士を苦手とするなど、大一番でなかなか勝てず、ついにタイトル戦出場2度目優勝は叶わなかった。 真部大一番 第1期1975年度)棋王戦敗者復活決勝大内延介敗れる。 第10回1977年前期早指し将棋選手権準決勝大山康晴を破るが、決勝加藤一二三敗れ準優勝第8回1977年度)新人王戦決勝三番勝負森安(秀)に敗れ準優勝第28回1978年度)NHK杯戦・決勝米長敗れ準優勝。 第40期(1982年度前期棋聖戦大山森安(秀)らに勝ち挑戦者決定戦に進むが、森雞二敗れタイトル挑戦はならず第30回1982年度王座戦タイトル戦昇格前年準決勝中原誠を破るが、挑戦者決定戦内藤國雄敗れる。 第16回1982年度早指し将棋選手権決勝三番勝負米長2-0破り優勝第9期1983年度棋王戦準決勝中原を破るが、挑戦者決定戦森安(秀)に敗れタイトル挑戦はならず。 第32期1984年度王座戦挑戦者決定戦森安(秀)に敗れタイトル挑戦はならず第10期1984年度棋王戦準決勝森安(秀)を破るが、挑戦者決定戦桐山清澄敗れタイトル挑戦はならず。 第12期1986年度棋王戦挑戦者決定戦高橋道雄敗れタイトル挑戦はならず。 第28期(1987年度王位戦リーグ谷川浩司らに勝ち、谷川と4勝1敗の1位で並ぶが、プレーオフ谷川敗れて挑戦者決定戦進出はならず。 第46期(1987年度B級1組順位戦最終局で勝浦修に勝ち、9勝3敗・2位成績でA級初昇級。 第48期1989年度B級1組順位戦最終局を8勝3敗・自力昇級の状態で迎えたが、福崎文吾負けて4敗目を喫する。しかし、同星でリーグ順位下の森(雞)も敗れたため、2位成績でA級に復帰(雞)を破る援護射撃をしたのは、勝って負けてB級2組への降級次期B級2組リーグ表での順位2位)が決まっていた森安(秀)であったその後1990年頃より原因不明体調不良悩まされ成績1990年にA級から陥落する翌年にはB級1組からも1年降級するなど、急激に落ち込むうになる2007年11月1日から2009年度末までの2年4か月間、病気療養のため全棋戦休場することが日本将棋連盟から公式発表されたが、それから1か月経たない2007年11月24日転移性肝腫瘍のため死去55歳没。公式戦通算成績は598勝614敗。600勝(将棋栄誉賞)を目前にしての早世だった。同日付で日本将棋連盟より九段追贈された。

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牧野光則」の記事における「棋歴」の解説

1997年 - 1999年和歌山大学教育学部附属小学校3年生出場時は2年生)・4年生(同3年生)・5年生(同4年生)の時に、第22・2324小学生将棋名人戦出場第23回では西日本ベスト12第24回ではベスト8進出している。なお、第23回出場者には、高崎一生優勝)や牧野破った船江恒平準優勝)を始めとして、後にプロ棋士になった者が多い(記事高崎一生 」を参照)。 1999年秋、小学5年生にして奨励会入り三段リーグには2005年後期から参加2009年度後期15勝3敗の菅井竜也に次ぐ14勝4敗の2位成績挙げ2010年4月付けプロ入りを果たす。 第53期2012年王位戦では予選突破し挑戦者決定リーグ入り。5局中4局を終えた時点で3勝1敗と、藤井猛同率首位となり、第5局挑戦者決定戦進出賭けて藤井猛対局するも敗れたその後同率並んだ丸山忠久との残留決定戦にも敗れリーグ残留はならなかった。 2018年2月27日から28日にかけ、第31期竜王戦6組ランキング戦にて中尾敏之五段との対局で、戦後公式戦最長手数420手で持将棋成立指し直し局を含め合計520手で勝利した竜王戦6組では度々健闘するも、2012年昇級者決定戦 準決勝土佐浩司2018年には昇級者決定戦 決勝上村亘敗れ5組昇級逃す。しかし、翌年度第32期竜王戦6組準決勝にて井出隼平勝利し決勝戦進出したことで自身初の5組昇級決まった

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千田翔太」の記事における「棋歴」の解説

5歳時に近所小学生教わり将棋覚えた2006年9月奨励会入会中学2年時1級から初段昇るのに1年費やした以外は順調に昇級昇段続け2010年3月中学校卒業と同時期に三段昇段三段リーグでは毎回コンスタント勝ち越し続け6期目となる2012年度後期第52回)では序盤から逃げ切り最終局2局を残した時点14勝2敗として1位の成績確定させ、四段昇段内定させた(最終成績15勝3敗)。三段リーグ通算成績6939敗・勝率.639。 奨励会三段として参加した42期(2011年度新人王戦当時既にプロ四段となっていた菅井竜也らを破りベスト8当期準優勝者の豊島将之敗れる)。 初参加の第55期2013-2014年度王位戦では予選勝ち抜くと、紅組リーグでは当時竜王名人であった森内俊之始め行方尚史豊島将之など強豪棋士を破る大活躍を見せ、さらに広瀬章人とのプレーオフ制し挑戦者決定戦へと進出木村一基との挑戦者決定戦では敗れるも挑戦者決定リーグ残留果たした同じくデビュー年2013年には第3期加古川青流戦決勝進出するも、佐々木勇気との3番勝負に1勝2敗で敗れ準優勝順位戦では初参加の第72期2013年度)に8勝2敗の成績収め高順に付けると、第73期(2014年度)でも好調維持し開幕から9連勝収め1局を残してC級1組への昇級決め、五段に昇段する。時期同じくして、2014年末に開幕した第28期竜王戦でも6組ランキング戦優勝し5組昇級本戦出場果たした2015年度NHK杯テレビ将棋トーナメント初出場1回戦中村亮介2回戦阿久津主税3回戦では竜王タイトル保持していた糸谷哲郎下す準々決勝では昨年の当トーナメント準優勝者で順位戦A級行方尚史最後に自玉を行方が詰ますことができない位置まで逃がして勝利準決勝では同じくA級の久保利明攻めをかわしつつ久保の玉を追い込み勝利決勝村山慈明との対局となり、村山の上部からの銀歩による攻め苦戦結果初出場初優勝逃す2016年度初開催となった上州YAMADAチャレンジ杯決勝進出するも、船江恒平敗れ準優勝第2期叡王戦でも決勝進出したが、佐藤天彦九段名人)との決勝三番勝負に0勝2敗で準優勝同年第42期棋王戦にて、挑戦者決定トーナメント豊島将之広瀬章人久保利明森内俊之破り決勝戦挑戦者決定戦佐々木勇気連勝し渡辺明棋王への挑戦獲得し六段昇段した五番勝負では、第3局先に2勝目上げるもそこから連敗し初タイトル戴冠はならなかった。2016年度将棋大賞最多勝最多対局部門で1位となり、また、この年度に猛威を奮った「対矢倉左美濃急戦」と「角換わり腰掛銀における4二玉・6二金・8一飛型」の2つ戦型広めたことを理由として升田幸三賞受賞した2017年12月1日付で所属関東移した2017年度第76期順位戦順調に勝ち続け、8戦全勝のまま塚田泰明九段勝利し、あと一戦残した状態で自身初のB級2組昇級決め最終局の平藤眞吾戦も勝って全勝昇級。さらに2018年度第77期順位戦順調に勝ち星重ね2019年3月13日最終戦窪田義行勝って9勝1敗としてB級1組への連続昇級決めとともに、七段に昇段した2019年度朝日杯では、去年度の準決勝敗退により本戦トーナメントからの出場屋敷伸之九段深浦康市九段勝利し準決勝では3連覇かかった朝日杯負けなしの藤井聡太七段、決勝過去6戦勝ちなしの永瀬拓矢二冠それぞれ打ち破り自身初の一般棋戦、および朝日杯初優勝飾った2021年度第80期順位戦藤井聡太勝利するなど9勝3敗の好成績収めたものの3位次点)でA級へ昇級逃したまた、角換わり3三金早繰り銀」で自身2度目升田幸三賞受賞した

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富岡英作」の記事における「棋歴」の解説

プロデビュー前の中学生時に俳優石立鉄男将棋教えていた事でも有名な少年棋士であったデビュー後初参加の順位戦1985年度、第44期)で10全勝しC級2組から1期抜けする。この年度の勝率は全棋士中1位の0.740であり、将棋大賞勝率1賞と新人賞同時受賞する。 第50期1991年度B級2組順位戦において8勝2敗で2位成績収めB級1組昇級1990年度から1995年度渡って王座戦(第38期-第43期)の本戦トーナメント6期連続出場2002年度第52回NHK杯戦で、井上慶太米長邦雄羽生善治破りベスト82007年度第20期竜王ランキング戦2組準決勝2007年4月20日)で三浦弘行破り1組に初昇級

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中座真」の記事における「棋歴」の解説

稚内市立稚内南小学校時代小学生将棋名人戦出場し4年時3位5・6年時にベスト81981年奨励会入会20歳三段昇段したが、四段昇段できないまま5年経ち26歳年齢制限迫っていた。四段昇段できなければ退会する覚悟決めて臨んだ第18回三段リーグ1995年度下半期)は、最後一局敗れ12勝6敗で終了本人諦めていたが、その後競争相手の3人が全員敗れ逆転四段昇段決まった。その知らせ聞いた際、放心状態その場座り込んだ姿をとらえた写真が『週刊将棋』に掲載された。

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森下卓」の記事における「棋歴」の解説

小学4年生正月に父に教わり将棋始める。わずが1年8ヶ月後の1978年12歳奨励会合格し入会福岡住んでいたため、祖母とともに上京した1983年9月17歳プロデビュー以来、後に「羽生世代」と呼ばれる棋士とともにチャイルドブランド」の一角として活躍以後長年渡って順位戦A級竜王戦1組在籍し棋戦優勝重ねてきた。しかし、タイトル戦羽生善治挑戦して何度も敗退するなどの結果としてタイトル獲得歴がなく、「シルバーコレクター」「無冠の帝王」の異名を持つ。 1984年、第26期(1985年度王位戦予選を4連勝勝ち抜いてリーグ入りし、頭角を現す。なお、この王位リーグでは2位タイ成績残したが、同星の中原誠との残留決定戦敗れ残留失敗している。 1985年度第16期新人王戦決勝進出井上慶太との番勝負は1勝2敗で敗退し準優勝1986年度第5回早指し新鋭戦決勝進出したが、小野修一敗れ準優勝に終わる。 1987年度は、第21回早指し戦と、第6回早指し新鋭戦の2棋戦決勝進出したが、両方とも決勝敗れ準優勝であったそれぞれ有吉道夫塚田泰明敗れる)。 第47期(1988年度C級2組順位戦で9勝1敗・1位の成績収め順位戦昇級となった同時昇級者は日浦市郎佐藤康光)。また、第29期王位戦では王位リーグ入り決めると、4勝1敗で白組優勝果たしたが、挑戦者決定戦にて森雞二敗れる(リーグ残留には初成功)。 1989年度では、第2期竜王戦にて4組ランキング戦優勝決めると、本戦でも3連勝挑戦者決定戦進出したが、羽生善治2連敗敗退第30期王位戦では再び4勝1敗で白組優勝をするが、挑戦者決定戦谷川浩司敗退翌期リーグ陥落)。しかし、第12回オールスター勝ち抜き戦で5連勝決め最終的に6連勝)、棋戦初優勝を果たす。 1990年度は、新人王戦決勝三番勝負で、大野八一雄2-0破って優勝続けて第六回天王戦で優勝(全棋士参加棋戦初優勝)し、全日本プロトーナメントでも決勝五番勝負で、桐山清澄3-1下して優勝第40期王将戦では初の王将リーグ入り決め、5勝1敗の成績プレーオフに進むが、南芳一敗戦翌期は1勝5敗でリーグ陥落)。また、その勢いで1990年度後期第57期棋聖戦にて優勝しタイトル初挑戦決めたが、屋敷伸之との5番勝負は1勝3敗で敗退した1991年度は、第49期順位戦C級1組で9勝1敗となり、1位でB級2組昇級同時昇級者は神谷広志)。第4期竜王戦では3組ランキング戦優勝挑戦者決定戦まで進み小林宏破って谷川浩司竜王挑戦したが、2勝4敗で敗退。その他、第17期棋王戦では挑戦者決定戦進出第10回全日本プロ将棋トーナメント第22回新人王戦第10回早指し新鋭戦の3棋戦では準優勝、などの好成績収めている。 1992年度は、第33期王位戦にてリーグ復帰紅組で4勝1敗となるが、佐藤康光プレーオフ敗退第12回オールスター勝ち抜き戦では6連勝し、同棋戦にて2回目優勝1993年度では第51期順位戦B級2組で9勝1敗となり、1位でB級1組昇級村山聖との同時昇級)。翌年度第52期順位戦でも8勝3敗の成績となり、同率2位(1位は島朗)で遂にA級入り果たした。そして更に翌年度第53期順位戦でも勢い止まらず、初のA級で7勝2敗の成績収めプレーオフ中原誠勝利し名人初挑戦決める。相手羽生善治だったが、結果は1勝4敗で敗れた1994年度では第20期棋王戦羽生善治挑戦したが、0勝3敗のストレート敗退第16回オールスター勝ち抜き戦では8連勝決め、同棋戦にて3回目優勝1995年度第66期棋聖戦にて勝ち進むが、三浦弘行挑戦者決定戦敗れる。 1996年度では、第22期棋王戦羽生善治挑戦したが、再び0勝3敗のストレート敗退となった結果的に6度タイトル挑戦歴で、棋王戦のみ唯一2回の挑戦決めたが、同時に番勝負勝ち星得られなかった唯一の棋戦となった)。また、第16回全日本プロ将棋トーナメントでも決勝進出したが、谷川浩司に2勝3敗で敗れ2度目準優勝となった1997年度第38期王位戦リーグ入り白組で4勝1敗となり、第33以来王位リーグ残留成功翌期リーグ陥落)。 1998年度第48期王将戦にて、第41以来王将リーグ入りリーグ戦でも5勝1敗で突破し羽生善治挑戦羽生とのタイトル戦4度目であったが、結果は1勝4敗で敗退した2022年現在まで、最後タイトル戦となっている)。なお、年度の全成績では2223敗となり、初めての負け越しとなった1999年度第49期王将戦リーグ戦にて4勝2敗となり、3度目残留成功。年度単位でも2816敗と再び勝ち越した。 2000年度第41期王位戦で再びリーグ入り白組で3勝2敗となり、弟弟子深浦康市との残留決定戦制して5回目リーグ残留成功した翌期は2勝3敗でリーグ陥落)。逆に第50期王将戦では苦戦し、1勝5敗でリーグ陥落となった2002年度第15期竜王戦では1組優勝第52期王将戦ではリーグ復帰するも、1勝5敗で陥落2003年度第61期順位戦苦戦。2勝7敗の10位に終わり、第53期より続いていたA級の座から陥落となったまた、第53期王将戦にて2期連続リーグ復帰をするが、3勝3敗で再び陥落となった2004年度第17期竜王戦では挑戦者決定戦進出するも、渡辺明敗れる。 2005年度第63期順位戦で9勝3敗の成績収めA級へ復帰決めた第18期竜王戦では2連敗し、第5期から続いた竜王戦1組の座から陥落したまた、翌年度順位戦では苦戦続き、3勝6敗で1期でのA級から再陥落となった逆に第19期竜王戦では好調続き2組ランキング戦優勝決め1期竜王戦1組への復帰果たした(しかし翌年度2連敗喫し、再び2組陥落)。 2007年第28回JT将棋日本シリーズ渡辺明竜王佐藤康光JT杯覇者棋聖棋王)、森内俊之名人タイトル保持者を連破して優勝2008年第29回JT将棋日本シリーズは、決勝弟弟子深浦康市王位破って2連覇し、「自分でびっくりしました」と語った。しかし同年順位戦では4勝8敗の不振によりB級2組への陥落決定した2009年度第22期竜王戦2組ランキング戦において準優勝し、再度1組復帰(しかし第24期竜王戦2連敗し、三たび2組降級)。 2018年3月4日B級2組順位戦10回戦で、中村修九段敗れC級1組への降級決定した2022年度第80期順位戦C級1組10回戦時点で2勝7敗となり、2度目降級点確定C級2組への陥落決まった

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脇謙二」の記事における「棋歴」の解説

1975年5級奨励会入り1977年初段1979年四段となりプロ入りを果たす。 1980年第22期王位戦挑戦者決定リーグ入りを果たす。1981年第8期棋王戦本戦入り1982年第24期王位戦でもリーグ入りを果たす。 1983年第41期順位戦C級2組にて10全勝成績C級1組昇級を果たすと、翌年度の第42期でも9勝1敗の好成績B級2組への連続昇級を果たす。第43B級2組では7勝3敗、第44期でも8勝2敗の好成績を残すが、惜しくも昇級果たせず。以降勝ち越し続けるものの、B級2組留まることとなる。しかし、1986年度第13期棋王戦では本戦準決勝進出する活躍をした。1988年度第47期順位戦で8勝2敗の好成績残したものの、順位の関係で不運に昇級逃した1990年度第3期竜王戦2組準優勝果たし1組昇級を果たす。1992年には第5期竜王戦1組優勝快挙果たし本戦でも準決勝にまで進出した。後に脇はフリークラス宣言をしたことで、竜王戦1組優勝経験者順位戦A級B級1組在籍した経験がないという唯一の棋士となった1992年度第51期順位戦B級2組では5勝5敗となり、同組昇級以来続いていた連続勝ち越し8期ストップした1993年第6期竜王戦1組初戦から連敗し2組降級となる。1994年第7期竜王戦ですぐ1組復帰を果たすが、同年度の第53期順位戦B級2組では4勝6敗となり初め負け越しとなった以降竜王戦では1組在籍し続け順位戦B級2組では大きく勝ち越したり負け越したりしない状態が続いた1998年第11期竜王戦2組降級1999年第12期竜王戦でも振るわず3組連続降級となる。同年度、第58期順位戦B級2組で8勝2敗の好成績を残すがまたも昇級ならず。2001年第14期竜王戦3組準優勝果たし2組復帰するが、翌年2002年再度3組降級。そして、2003年第61期順位戦B級2組で1勝9敗となり自身初となる降級点がつく。翌年度の第62期に7勝3敗と勝ち越し一度降級点消滅させるが、再翌年度の第63期では1勝9敗と低迷し再び降級点2006年、第64期でも1勝9敗で連続降級点となり、C級1組降級した。 2008年第21期竜王戦3組初戦から連敗し4組降級2009年第22期竜王戦4組準決勝まで勝ち進み3組復帰まで後1勝とするが、準決勝昇級者決定戦敗れ定員調整昇級者決定戦チャンス逃し3組復帰はならなかった。2010年第23期竜王戦4組初戦から連敗し5組降級2011年第24期竜王戦5組でも1勝も出来ず3連敗し6組降級した。2013年第71期順位戦C級1組10全敗となり、C級1組で初となる降級点がついた。翌年度の第72期は5勝5敗の五分したもの、その翌年度2015年、第73期で3勝7敗となり、二度目降級点C級2組降級した。 2015年度(第57期王位戦予選では、当年度棋戦で高勝率上げた斎藤慎太郎を破るなど4連勝し自身21期ぶりとなるリーグ入り決めた白組リーグでは残留はできなかったものの、叡王戦優勝者山崎隆之八段を破るなどベテラン健在ぶりを見せた。ただし当年度は、王位戦以外の全てのトーナメント棋戦順位戦以外の棋戦)で初戦負けという偏った成績終わった順位戦C級2組は第76期(2017年度)1勝9敗、第77期(2018年度)2勝8敗で2期連続降級点取り2019年度フリークラス宣言行った以降順位戦以外の公式戦参加は、満65歳迎え2025年度までとなる。 2021年4月1日フリークラス規定により九段昇段田丸昇続き史上2人目である。順位戦B級2組以下で九段昇段した棋士には、屋敷伸之渡辺明がいるが、両者とも後にA級に昇級しており、B級1組上の在籍経験がないまま、現役九段での引退見込み)は、脇が史上初めてとなる。

※この「棋歴」の解説は、「脇謙二」の解説の一部です。
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