棋歴
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明治16年(1983年)、水谷縫次に先で対戦するが、縫次の有名な130手目の妙手にあって敗れる。同年高橋杵三郎と十番碁。 明治29年(1896年)、55歳の時、秀栄門下となっていた22歳の田村保寿四段(先)と対局。三日三晩をかけての打ち切りで行い、166手まで白番中押し勝ちとし、保寿は盤側に伏してしまったという。 明治32年(1899年)、読売新聞の企画で、大阪方円分社長の泉秀節と電信手合を行い(ジゴ)、人気を博した。
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棋歴
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東京の生まれではあるが、後に大阪に移り、関西の岡崎の弟子となる。 終戦後、順位戦が始まり、第4期(1949年度)順位戦では東西のC級乙組で三段以下が合計4名参加した。当時二段だった増田もその一人である(ほかには、東の清野静男三段・浅沼一二段、西の神田鎮雄三段)。増田は四段に飛び昇段して、翌期(第5期)の順位表に載った。 順位戦での前記を含む8年間は、勝ち越しや五分五分の成績を挙げていたが、9年目の成績が不振となった。予備クラスで指すことを良しとせず、引退した。まだ42歳であった。 1980年、脳軟化症のため死去。享年65。 弟子に、タイトル獲得4期の桐山清澄がいる。
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棋歴
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3歳の頃に、将棋好きな父から将棋を教わる。 小学校6年生だった1982年12月、奨励会に6級で入会するも、当初は成績不振で、一時は7級に降級した。しかしその後は順調に昇級を重ね、入会から2年半で初段昇段。1985年12月に二段に昇段するが、翌年に高校に入学すると「あまり将棋の勉強をしなかった」(本人談)ということで一時成績が低迷する。本人によればこの時期に初恋を経験するなど、プライベートでいろいろ出来事があったという。三段リーグに入ったのは1988年。以来、次点(3位)、5位、5位と好成績を3期続け、ついに4期目に14勝4敗で2位の成績を収めて、19歳でプロデビュー(四段昇段)を果たす(1990年4月1日)。同学年の羽生善治が、すでに初の竜王位に就いていた頃のことであった。
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棋歴
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小学1年から父に将棋を習い始める。小学5年生時代の最後(新6年生として)、2001年3月下旬に行われた小学生将棋名人戦西日本大会に大阪府代表として出場。同年9月、6級で奨励会に入会。 2009年4月1日、19歳で四段昇段(プロ入り)。当初はアマチュアに2連敗、第51期(2010年度)王位戦で、予選で井上慶太、桐山清澄、山崎隆之(予選決勝、2009年12月11日)らに勝ち、プロ1年目で王位リーグに参加する活躍(リーグは松尾歩に勝利した1勝のみで陥落となってしまった。)を見せるも、第69期(2010年度)順位戦では初戦から6連敗後4連勝で辛うじて降級点を回避するなど、成績にムラがあった。 第61期(2011年度)王将戦で一次予選を4連勝で突破し、四段の棋士で唯一二次予選に進出。初戦で谷川浩司に勝つも、王将リーグ入りはならず。 第25期(2012年度)竜王戦6組で優勝し、決勝トーナメント初出場。初戦の永瀬拓矢(5組優勝)戦に勝利したが、稲葉陽(4組優勝)に敗れた。 第54期(2013年度)王位戦予選を勝ち抜き3年ぶり2回目のリーグ入り。王位獲得経験者の広瀬章人に勝利したものの、他の対局を全敗し再び陥落となってしまった。なお、前述の広瀬戦(2013年4月22日)の勝利で四段昇段後公式戦100勝目となり同日付けで五段に昇段。 さらに5月15日、第26期(2013年度)竜王戦5組準決勝で千葉幸生に勝利し、昇級が確定。ランキング戦連続2回昇級により、同日付けで六段に昇段した。わずか3週間で2回の昇段を果たした。 2013年度は他にも、第63回NHK杯テレビ将棋トーナメントでは3回戦で羽生善治に勝利しベスト4、第72期順位戦では初戦から無傷の9連勝を遂げ、最終局を待たずしてC級1組への昇級を決めるなど目覚しい活躍を見せ、第41回将棋大賞新人賞を受賞した。 第75期(2016年度)順位戦C級1組では9勝1敗で2位の成績をあげ、B級2組へ昇級。2017年11月1日、竜王戦3組昇決・3位決定戦で北浜健介に勝ち2組に昇級、同日付けで七段に昇段した。
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棋歴
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第18回(1995年度後期)奨励会三段リーグで1位(14勝4敗)の成績を収め、プロ入りした。 プロ3年目の1998年度、NHK杯戦で決勝進出。決勝の相手は羽生善治四冠(当時)であった。堀口の先手で横歩取り模様の出だしで14手まですらすらと進んだが、15手目、通常▲3四飛と横歩を取る一手のところで堀口の手が止まり、序盤早々に時間を使う。そして結局、横歩を取らずに飛車を2八に引き、相掛かり腰掛銀の戦形になった。結果は羽生の勝ちで、堀口は準優勝に終わる。 第30回(1999年度)新人王戦で準優勝(優勝者は藤井猛)。 公式戦として1期目の第8期(2000年度)銀河戦で、本戦(ブロック)で米長邦雄、島朗らを破り15連勝。決勝トーナメントでは佐藤康光、森内俊之らを下して準優勝(優勝は羽生善治)。 全日本プロ将棋トーナメントを発展させ、準タイトル戦としてスタートした2001年度の朝日オープン将棋選手権において、決勝五番勝負で杉本昌隆を3-1で破って初代チャンピオンとなり、選手権者として1期在位した。祝勝会でのスピーチでは、「朝日オープンはお金がいいので」というあからさまな発言をした。翌年、深浦康市を迎えた初防衛戦では、頭を五厘刈りにし決意の程を見せるも、1-3で敗北する。 第61期(2002年度)C級1組順位戦と第62期B級2組順位戦で2年連続昇級を決め、B級1組に昇級。 2005年9月2日の順位戦B級1組青野照市との対局で、56手目の一手に、昼食休憩を挟む5時間24分の記録的な大長考をしたことで話題となった。順位戦の持ち時間は6時間であるため、持ち時間の9割を費やした計算になる。局面は、角換わりの先後同形からの激しい攻め合いの途中であった。結果は、76手までで堀口の勝ち。後日「囲碁・将棋ジャーナル」に出演した際、「長考できたのは気力が充実していたということだ」と語った。 2013年7月の第72期順位戦B級2組2回戦以降、2013年度の残りの公式戦を病気療養のため(病名は公表されず)すべて休場した。途中休場のために残る8局は不戦敗となり、成績下位による2つ目の降級点が付きC級1組へ降級した。翌2014年6月から公式戦復帰を果たし、第73期順位戦C級1組1回戦で澤田真吾と対局した。 第77期(2018年度)順位戦4局目で勝利以降連敗が続き、第78期(2019年度)は全敗し2期連続の降級点でC級2組へ降級となった。翌第79期(2020年度)の2回戦で梶浦宏孝に勝利するまで17連敗を喫した。次戦福崎文吾に勝利した後、7連敗で降級点となり、翌第80期(2021年度)も10戦全敗で17連敗を再度記録し、降級点2となった。
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棋歴
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1997年10月、20歳でプロ入り。2004年の新人王戦で準優勝。2005年度は、全棋士中で1位の勝率(0.787)を記録し、将棋大賞の勝率1位賞と新人賞を同時受賞する。 2006年度、第47期王位戦でリーグ入り。谷川浩司に勝利するが、リーグ残留失敗。 2014年3月22日、第3回電王戦のプロ側の2番手としてコンピューター将棋ソフトのやねうら王と対戦。中終盤の激しい攻防を制したやねうら王に95手で敗退した。 2016年度、第57期王位戦で10期ぶりにリーグ入りも白星に至らず、再びリーグ陥落。
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棋歴
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第10期竜王戦第1局第54手 △5四同銀まで(この次の一手が▲4一金)△谷川浩司竜王 持駒:銀歩4 ▲真田圭一六段 持駒:金 奨励会三段リーグで、初参加から12勝6敗の好成績を2回続けたが昇段に届かず、3回目に13勝5敗で1位の成績を挙げて、1992年4月に19歳でプロ入りをする。 初参加の竜王戦(第6期 = 1993年度)で6組優勝し、5組へ昇級。このとき、すでにタイトル経験者であった郷田真隆を破っている。さらに、本戦(挑戦者決定トーナメント)でも井上慶太、大内延介を破る活躍を見せ、準々決勝で佐藤康光六段(当時)に敗れる(佐藤は、この期に羽生善治から竜王位を奪う)。 第52期(1993年度)順位戦C級2組において9勝1敗で1位の成績を挙げ、C級1組へ昇級。段位は五段となる。 第7期(1994年度)竜王戦5組で敗者復活から3位となり、2期連続昇級で4組へ昇級(竜王戦の昇段規定が旧規定のため、連続昇級でも六段昇段とはならなかった)。 第10期(1997年度)竜王戦で、郷田、鈴木大介らを破り4組優勝。本戦でも破竹の勢いで、阿部隆、塚田泰明、先崎学を破って勝ち上がり、屋敷伸之棋聖(当時)と挑戦者決定三番勝負を戦う。これを2勝1敗で制して、谷川浩司竜王(当時)への挑戦権を得る。これにより、段位は六段となった(竜王戦の昇段規定が旧規定のため、七段への飛び昇段とはならなかった)。「茶髪の挑戦者」として話題となった。七番勝負は0-4で敗退したものの、一気に1組へ飛び昇級した。なお、第1局の55手目(右図の局面)に、谷川の角を移動させるために敵陣の1段目に打った▲4一金は、常識破りの手として論議を呼んだ。 第44期(2003年度)王位戦でリーグ入り。森内俊之らに勝利するが、リーグ残留はならず。
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棋歴
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1995年、日野市立日野第三小学校5年時に小学生将棋名人戦で優勝し、奨励会に入る。 2001年後期から参加した三段リーグを2年・4期で抜け、2003年秋にプロデビュー。それから間もなく頭角を現す。2004年度、第23回朝日オープン将棋選手権で予選を勝ち抜き本戦出場。さらに、同年度に行われた第53期(2005年度)王座戦の予選では、松尾歩、橋本崇載、阿久津主税、島朗らを相手に6連勝して本戦出場にあと一歩と迫るが、予選決勝(二次予選決勝)で先崎学に敗れる。 第19期(2006年度)竜王戦6組で準優勝し、5組へ昇級。 2007年度、第38期新人王戦で棋戦初優勝。さらには第66期順位戦C級2組(在位4期目)で、1敗の後の9連勝で1位となり、C級1組に昇級。この年度は全棋士中で1位の勝率(36勝10敗、0.783)も挙げ、将棋大賞で勝率1位賞と新人賞を同時受賞。 第23期(2010年度)竜王戦で4組優勝し、初めて決勝トーナメントに進出(初戦敗退)。 2011年度、第52期王位戦でリーグ入り。佐藤康光、三浦弘行に勝つなど第4回戦まで無敗で単独トップに立ったが、最終の第5回戦で羽生善治(1敗)に負けて並ばれる。プレーオフでも羽生に敗れ挑戦者決定戦進出を逃したものの、陥落しやすいリーグとして知られる王位リーグでの残留は果たした。翌第53期は2勝3敗で陥落。翌第54期は予選からの再出発となったものの、そこを再び勝ち抜き3年連続でリーグ入りを果たした(リーグでは最終局で佐々木慎に1勝を挙げたのみで陥落)。 第71期順位戦C級1組(在位5期目)で、8回戦(金井恒太戦)以外をすべて勝利し、稲葉陽に次ぐ2位でB級2組に昇級。続く第72期順位戦B級2組でも佐藤天彦に次いで2位となり、B級1組に昇級、規定により七段に昇段した。 2015年には将棋電王戦FINALの第4局でponanzaと対局。自ら立候補しての参加であったが、相横歩取りの末に分の悪い変化に持ち込まれて敗れた。 2015年度のNHK杯テレビ将棋トーナメントでは、1回戦で初出場の八代弥、2回戦で菅井竜也を下し、3回戦で前年度優勝の森内俊之を相手に勝利。準々決勝で豊島将之、準決勝で広瀬章人と、ともに自身より若くタイトル挑戦経験がある二人を倒し、決勝で初出場の千田翔太を下し、初優勝を達成した。一方、第74期順位戦B級1組は3勝9敗で12位に終わり、B級2組へ降級となった。 2017年2月11日、2016年度の第10回朝日杯本戦トーナメントで決勝進出。八代弥との対局は、終盤にもつれ形勢不明の展開になったが、敗れて準優勝。 第30期(2017年度)竜王戦で3組優勝し、7年ぶりに決勝トーナメントに進出。佐藤康光(2組2位)を破ったが、羽生善治(1組2位)に敗れた。 2018年度、第59期王位戦で5年ぶりとなるリーグ入りを果たし、3勝2敗と健闘するも陥落。
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棋歴
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小学校入学前に父親に教わり、将棋を始める。宮田利男が開く将棋道場「三軒茶屋将棋倶楽部」に通い、2009年、小学6年のときに6級で奨励会入会。順調に昇段を重ね17歳で三段リーグ入りしたが、そこから四段昇段まで3年半を要し、途中に同門の弟弟子で幼い頃から研鑽を積んできた1歳下の斎藤明日斗に抜かれる屈辱も味わった。2018年、第63回三段リーグで15勝3敗の成績で四段昇段(同時昇段は山本博志)。四段昇段時のインタビューで、斎藤に抜かれたことに関して「それまで王を持っていた相手に、研究会で玉を持つのがつらかった」と語っている。 棋王挑戦 初参加となった第45期棋王戦にて、予選で永瀬拓矢叡王らを破り、本戦出場が決定。本戦では、佐藤天彦九段・丸山忠久九段・広瀬章人竜王らを破り、無敗で挑戦者決定二番勝負に進出を果たす。1勝で挑戦権を獲得出来る挑戦者決定二番勝負では、敗者復活から勝ち上がってきた佐々木大地五段相手に第2局目で勝利し(1勝1敗)、渡辺明棋王への挑戦権を獲得するとともに、タイトル挑戦権獲得時の昇段規定によって、五段に昇段した。 四段昇段後の棋戦初参加でタイトル挑戦は史上初。四段昇段後1年4か月でのタイトル挑戦権獲得は、屋敷伸之の1年2か月に次ぐ歴代2位の記録である。また、四段の棋士のタイトル挑戦権獲得は、屋敷・郷田真隆に次いで史上3人目。順位戦C級2組在籍者のタイトル挑戦は、屋敷・中田宏樹・郷田・高見泰地に次いで史上5人目でもある。渡辺棋王との五番勝負は1勝3敗に終わった。 同様に初参加となった第61期王位戦では、予選で深浦康市九段・増田康宏六段・宮田敦史七段らに勝利し、初参加の王位戦で挑戦者決定リーグ入りを決めた。リーグ戦紅組では1勝4敗に終わり、リーグ残留を果たせなかった。
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棋歴
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順位戦(福崎初参加時は「昇降級リーグ」)は第38期の初参加から連続の1期抜けで昇級を重ね、3期でB級1組(当時は「昇降級リーグ1組」)まで昇級した(加藤一二三、中原誠、二上達也に次いで史上4人目のスピード昇級)。 第25期十段戦では米長邦雄十段への挑戦を決め、これがタイトル初挑戦となった。当初は米長が圧倒的に有利とみられていたが、4-2で十段を奪取した。福崎は3局を穴熊で勝利し、米長はうち2局を相穴熊で戦ったが、及ばなかった。後にタイトル戦での思い出に残る対局として、この十段戦でタイトル奪取を決めた対局を挙げている。対局終了後、タイトルを奪われた米長の意外な行動について、福崎は以下のように述べている。「このとき、ありえないようなことが…。対局後、僕のところに米長先生がつかつかと歩み寄ってきて、花束をくれたんですよ。『おめでとう』といって。びっくりしました。タイトルを失うと収入がガタ落ちするんですよ。それなのに、奪い取った相手に花束をくれる。その感激は一生忘れませんね」。 1987年3月に終えた第45期順位戦では十段のタイトルを保持したまま、順位戦B級1組から降級した。このとき高橋道雄王位・棋王、中村修王将(タイトルは当時)もB級2組におり、翌期はタイトル保持者3人がB級2組に在籍する極めて珍しい事態となったが、福崎は早くも翌期の第46期順位戦でB級1組復帰を決めた。第51期順位戦ではB級1組で羽生善治を破り、羽生にとっては同期B級1組順位戦唯一の黒星となった。以後、第60期順位戦までB級1組に在籍した。 第26期十段戦では高橋道雄を挑戦者に迎えたが、0-4で失冠。高橋の矢倉に対抗して、全局を相矢倉で戦った。まずは矢倉で1勝してから、穴熊を使う予定だったという。以降も高橋には非常に相性が悪く、十段失冠以降全く勝てていない。2019年現在、高橋に21連敗中である。 第39期王座戦で谷川浩司から3-2で王座を奪取。最初に福崎が2勝するも、谷川が2勝を返して迎えた最終局で、福崎が千日手指し直しの末に勝利した。このタイトルは翌期の第40期王座戦で羽生善治に0-3で奪われ、その後羽生は王座のタイトルを19期に渡り保持し続ける事となる。いつしか「福崎は前王座を19連覇中」「福崎文吾名誉前王座」とのジョークまで生まれ、本人もネタとして使っていた。第59期での羽生の失冠に伴い、福崎が「前王座」と以前ほど呼ばれる事も無くなったが、一部では現在も「名誉前々王座」などと呼ばれる。 タイトル在位歴があり、段位も九段なのにA級経験がないという、やや珍しいケースである。2021年現在「タイトル在位歴はあるが、A級経験がないまま引退した」棋士はおらず、2021年にフリークラスに転出した福崎がこのまま引退すると、史上初の例となる。
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棋歴
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小学6年生時の1985年春、第10回小学生将棋名人戦で3位入賞。この大会で優勝したのが野月浩貴。木村一基がベスト8。 将棋修行のため、小学校卒業と同時に12歳で単身上京。中学生時代には、学校の教師や下宿先で奨励会員という立場を理解してもらえず、バカにされたり罵倒されるなど苦い経験を持つ。そのせいか、当時は「中学中退がかっこいい」などとうそぶいていたという。中学卒業後は都立高校に進学するものの3ヶ月で中退。 1993年、19歳で四段昇段(プロ入り)。このとき、マスコミのインタビューで「羽生さんに勝っていい女を抱きたい。」と発言し、話題となった。 プロ入りから間もない、初参加の第7期竜王ランキング戦6組(1993-1994年)で優勝。6組とはいえども、準々決勝で破った相手は、前年にタイトルを獲得した郷田真隆であった。さらに、佐藤康光竜王への挑戦権を争う本戦トーナメントでも、深浦康市、森内俊之、南芳一、米長邦雄といった強豪をなで斬りにする快進撃。ついに羽生善治との挑戦者決定三番勝負まで進む。三番勝負は、0-2で敗退。ちなみに、羽生はこの期に佐藤から竜王を奪取し、六冠王となっている。 第8期(1994-1995年)の竜王ランキング戦5組でも、決勝で郷田を破って優勝し、昇段規定「竜王ランキング戦2回連続優勝」により五段に昇段した。これは同規定の初の適用であり、その後もこの規定で昇段したのは、行方のほかに木村一基しかいない。決勝トーナメントでは1勝にとどまる。 1995年、テレビ棋戦の早指し新鋭戦で優勝。1995年度将棋大賞の新人賞を受賞。 第13期(1999-2000年)竜王戦2組において3位決定戦を制し、初の1組入りを決める。 2004年度のB級1組順位戦の対中川大輔七段戦で、持将棋、千日手による2度の指し直しで合計23時間(午前10時開始、翌日午前9時15分終局)不眠で将棋を指し続け、結果、勝利を収めている。同年、第55期王将戦リーグ入り。 2006年度のB級1組順位戦2位の成績により、2007年4月にA級八段となる。 2008年2月9日、同年度新設された朝日杯将棋オープン戦で優勝し、全棋士参加棋戦での初優勝を果たす。これは、A級順位戦で1期在籍のみでの降級が決定して間もない頃のことであった。 2013年1月10日、第71期順位戦B級1組11回戦で勝利し、10勝0敗で2局残して、A級復帰を決める。丸山忠久九段以来の12連勝も期待されたが、最終局で久保利明九段に敗れて11勝1敗に終わった。 2013年5月29日、第54期王位戦挑戦者決定戦で佐藤康光九段を破り挑戦権を獲得、遂に念願のタイトル初挑戦であったが、羽生善治を相手に1勝4敗で敗退した。 A級2位として臨んだ第73期A級順位戦において、A級3位の渡辺明、同7位の久保利明、同9位の広瀬章人と同じ6勝3敗で終了。2015年3月16日に行われた挑戦者決定プレーオフ第3戦で、広瀬と渡辺を破った久保と対戦し、150手で久保を下して、初めて羽生善治名人への挑戦権を獲得した。しかし、1勝4敗で敗退した。 第64回(2014年度)NHK杯戦で勝ち進み、準決勝で橋本崇載と対戦。局面劣勢の橋本が秒読みに追われる中で二歩の反則をした際、そのことに気付き、頭を抱えて橋本を逆に驚かせた。 2015年9月5日に行われた第36回将棋日本シリーズの2回戦で渡辺明と対戦し、同棋戦史上最長の297手を記録したうえ、同棋戦史上初の持将棋となった(直後に指し直し局が行われて行方は敗れた)。 2018年1月29日、第89期棋聖戦二次予選で村山慈明七段に勝ち、史上52人目となる公式戦通算600勝(将棋栄誉賞)を達成した。 2018年3月3日、第76期順位戦A級11回戦で稲葉陽八段に敗れ、3勝7敗で連続5期在籍したA級からの降級が決定した。
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棋歴
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1981年12月に奨励会に入会。降段点を一度も喫することなく順調に昇級・昇段し、4年後の1985年6月10日に、当時の奨励会規定の成績を修め、17歳9ヶ月の若さでプロ入りを決めた。 プロ入りの初年度には初出場の第36回NHK杯テレビ将棋トーナメントで予選を勝ち抜き本戦に出場したり、1989年度の第15期棋王戦では本戦ベスト8まで勝ち進み当時の棋王戦制度に基づき次期シード権を獲得したり、1996年度に全棋士トップの勝数(47勝)で将棋大賞の最多勝利賞を受賞したりするなど、勝数が多い強豪であるにもかかわらず、順位戦の成績との巡り合わせは悪く、C級2組からC級1組に昇級するまでに5年、そこからB級2組昇級に更に6年、B級1組昇級には更に4年を、それぞれ費やした。 1993年~1994年に行われた第12回全日本プロ将棋トーナメントで決勝に勝ち進み、中田宏樹と5番勝負を戦った。1勝2敗からの2連勝で優勝し、これが阿部にとって棋士人生初の一般棋戦優勝。 2000年に行われた第20回オールスター勝ち抜き戦でも、当時のA級棋士をはじめとする強豪相手に5連勝を遂げ、優勝。 2組在位で迎えた2002年度(第15期)竜王戦では、予選(ランキング戦)を勝ち抜き、本戦でも佐藤康光・藤井猛らを撃破し、再び中田宏樹との挑戦者決定戦3番勝負に臨み、2勝1敗で勝ち、初のタイトル戦番勝負出場(羽生善治竜王)を決める。結果は千日手2回・2連敗・3連勝・2連敗で竜王位奪取には至らなかった。 B級1組在位5年目で迎えた2005年度(第64期順位戦)では、最終日を待たずに8勝4敗・暫定3位の状態で全対局を完了(最終日が抜け番)し、最終日に8勝3敗・暫定2位の中川大輔が深浦康市に敗れたことで、2位に繰り上がる形でA級昇級。しかし初めてのA級出場となった翌期は力及ばず、久保利明と丸山忠久に勝ったのみの2勝7敗でB級1組からの出直しを余儀なくされた。
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棋歴
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1948年、初参加の順位戦(第3期)において予選リーグで3勝無敗の成績を収めて昇級を決め、四段から六段に飛び昇段。 1956年度、第1回東京新聞社杯高松宮賞争奪将棋選手権戦で高松宮賞を獲得。 1957年度、第1回日本一杯争奪戦で優勝。 第12期(1957年度)B級2組順位戦において9勝2敗で2位となり、B級1組へ昇級するとともに七段に昇段。その後いったん降級するも、第16期(1961年度)B級2組順位戦で9勝3敗の2位となりB級1組へ復帰。さらに翌年度、第17期(1962年度)B級1組順位戦では五十嵐豊一とA級昇級の2番手争いをし、ともに最終局で勝ち9勝4敗の同星となったが、リーグ表順位が上の五十嵐がA級昇級した。以降、下平は順位戦で昇級することはなく、結果的に、五十嵐の1勝によって下平の八段昇段は21年先になる。 1972年7月26日、持ち時間10分の早指し将棋選手権予選・対桜井昇戦で、列車事故のため5分遅刻し、遅刻時間の3倍加算で開始前からすでに時間切れで不戦敗のはずだった。しかし、理事会は事故と5分という遅刻を考慮し、下平に指すように指示した。下平は「規則に則り、遅刻した私は負けのはずだ」と主張したが、そのまま対局が開始された。お互いに角道を開けた後、3二銀と指し、角が取られ、わずか5手で投了した。 第29期(1974年度)C級1組順位戦でC級2組へ降級。翌期、7勝2敗で最終局を迎え、勝てば即C級1組に復帰するところであったが敗れた。 1984年4月、昇段規定に「勝数規定」が新設され、下平は七段昇段時からの勝ち星の積み上げで八段となる。翌年、現役を引退。 1993年、腎不全のため死去。享年68。
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棋歴
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1987年、小学6年生のとき第12回小学生将棋名人戦に出場し(東京都代表)、決勝で北浜健介を破って優勝した。 三段リーグには1992年度下期の第12回より参加。6期目に12勝6敗で2位の成績を収めて、19歳でプロデビュー(四段昇段)を果たす(1995年10月1日)。
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棋歴
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幼少時に父から将棋を教わる。本格的に将棋を始めたのは高校の時で、そこから1年余りでアマチュア二段程度になった。 1997年10月、17歳の時に女流育成会に入会。3年余りを経て2000年10月に女流2級としてデビューした。 2003年4月1日、女流初段に昇段。 2007年5月、LPSA(日本女子プロ将棋協会)に移籍。 2008年6月6日、1dayトーナメント(第13回)で優勝。その一方で教室事業や1dayトーナメントの企画・運営を担当し、2008年5月にLPSAの理事に就任して運営に携わった。 翌年の2009年6月1日、LPSAを退会。北尾は「フリーの女流棋士」としての現役続行を希望しており、日本将棋連盟にその旨を伝えた。これを受けた連盟は「女流棋士の対局権利について」と題した公式発表を6月10日付で行い、「フリーの女流棋士」の対局権利の確保についての方針を示した。 2009年9月から翌3月までNHK教育テレビでNHK将棋講座『先崎学のすぐわかる現代将棋』の聞き手を務めた。 2010年度の第37期女流名人位戦A級リーグに在籍。 2011年4月1日、連盟の客員棋士であった北尾は、日本将棋連盟女流棋士会に再入会し、連盟所属の現役女流棋士に復帰。 2013年8月17日 第7期マイナビ女子オープンでアマチュアに勝利し、女流二段に昇段。
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棋歴
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中学2年時の1978年に第32回アマ名人戦に出場し準優勝。同年11月に4級で奨励会に入会。そこからわずか2年4ヶ月後の1981年3月5日に四段に昇段するという記録的なスピードでのプロ入りを果たした。 順位戦では参加2年目の第41期(1982年度)から好成績を連発し、当期C級2組順位戦を10戦全勝しC級1組へ昇級。翌第42期(1983年度)C級1組順位戦では8勝2敗で4位。第43期(1984年度)C級1組順位戦では10戦全勝でB級2組へ昇級。第44期(1985年度)B級2組順位戦では、トップと同星の8勝2敗で4位。第45期(1986年度)B級2組順位戦では、8勝2敗で2位となりB級1組へ昇級。そして、第46期(1987年度)B級1組順位戦では10勝2敗で1位となり、2年連続昇級でA級八段となる。 この間は順位戦以外においても目まぐるしい活躍を遂げ、若手の登竜門の棋戦でも3回優勝した。第2回(1983年度)早指し新鋭戦で棋戦初優勝(決勝の相手は高橋道雄)。同棋戦では4年後の第6回でも優勝(決勝の相手は森下卓)。新人王戦でも第17回(1986年度)で脇謙二との三番勝負を2連勝で制し優勝。 王将戦では第35期(1985年度)一次予選から勝ち抜き棋界屈指の難関とされる王将リーグ入り、4勝2敗で4位残留。翌第36期(1986年度)は5回戦で谷川浩司に負けただけの5勝1敗で中原誠とのプレーオフに進出(敗北しタイトル挑戦ならず)。翌第37期(1987年度)は前半で4連敗するなど振るわず2勝4敗で高橋道雄との残留決定戦に敗れリーグ陥落。 1986年度に、公式戦22連勝という前人未到の記録を樹立(塚田の連勝を止めたのは谷川浩司)。この連勝には、第17回新人王戦(前述)の準々決勝から決勝三番勝負までの白星の他、中原誠からの2勝、米長邦雄・羽生善治・森雞二からの1勝も含まれていた。尚、この連勝記録は、神谷広志が1987年2月から8月まで28連勝を達成したことによって半年程度で塗り替えられ、2022年3月現在は藤井聡太(29連勝)・神谷広志(28連勝)・丸山忠久(24連勝)に次ぐ歴代4位の記録となっている。 1987年、第35期王座戦でタイトル初挑戦。中原誠王座とのフルセットの戦いの末に3-2で奪取(1987年10月21日)。「55年組」の中で、高橋道雄、中村修に次ぐ3人目のタイトルホルダーとなった。塚田が中原の二冠の一角を崩したことにより、この時点で、7つのタイトルを7人の棋士が1つずつ持ち合うという、極めて珍しい状態が発生した。この年度は、A級昇級(前述)を決めた年度でもある。 1987年10月21日時点のタイトルホルダー 名人 十段 棋聖 王位 王座 棋王 王将 中原誠 福崎文吾 桐山清澄 谷川浩司 (中原誠)↓塚田泰明 高橋道雄 中村修 翌第36期、王座の防衛戦では中原の返り討ちに遭い3連敗で防衛失敗、1期で王座のタイトルを失った。 前期のリーグ成績不振により二次予選から出直しとなった第38期(1988年度)王将戦では即リーグ復帰も2勝4敗で陥落となった。 棋聖戦では第53期(1988年度後期)から第56期(1990年度前期)まで4期連続でベスト4に進出。第56期では大山康晴・島朗・高橋道雄を破り屋敷伸之との挑戦者決定戦に進出(敗北しタイトル挑戦ならず)。 王座戦では失冠から2期後の第38期(1990年)でもベスト4に進出(準決勝で谷川浩司に敗北)。 第41回(1991年度)NHK杯戦で森下卓・郷田真隆・高橋道雄らを破り準優勝(優勝者は羽生善治)。 第8回(1992年度)天王戦で羽生善治・南芳一らを破り準優勝(優勝者は高橋道雄)。 第61期(1992年度後期)棋聖戦でも2次予選を勝ち抜き本戦出場。本戦でも阿部隆・高橋道雄・南芳一を破り2度目の挑戦者決定戦進出(郷田真隆に敗北しタイトル挑戦ならず)。 第44期(1994年度)王将戦で二次予選を勝ち抜き6期振りの王将リーグ入り(リーグは6回戦で有吉道夫に勝っただけの1勝5敗で陥落)。 1997年、第10期竜王戦で1組優勝(本戦では初戦3回戦で当期挑戦者となった真田圭一に敗退)。 2000年12月15日、第19回全日本プロ将棋トーナメント5回戦で岡崎洋に勝ち、八段昇段後に250勝を累積したことにより九段昇段。2022年3月現在、勝数規定により九段昇段した棋士は延べ32人いるが、塚田はその中で最も若い年齢で昇段した。 2008年12月16日、第67期順位戦8回戦で窪田義行に勝ち、史上38人目となる通算600勝(将棋栄誉賞)を達成。 2009年、第17回「達人戦」(非公式棋戦)で準優勝(優勝者は南芳一)。 2013年4月13日、第2回将棋電王戦にて将棋ソフト"Puella α(プエラ・アルファ)"と持ち時間4時間にて対局。相入玉となり持将棋により引き分けとなった。出場理由は、前回の電王戦で入念に準備していた米長が敗れたのを見て悔しかったからだと話していた。 30歳を迎えた第53期(1994年度)順位戦でA級から降級して以降、順位戦における成績がジリ貧となり、2年後の第55期(1996年度)でB級1組からも降級、それから4期後の第59期(2000年度)では最終局まで昇級争いのトップに位置していた。2番手が久保利明・3番手が阿部隆で、塚田自身が勝つか久保と阿部の少なくとも一方が敗れればB級1組に復帰となるところだったが、塚田は田丸昇(既に降級点が確定していた)に敗れ、久保が土佐浩司に、阿部が西川慶二に、それぞれ勝ったため「頭ハネ」でB級2組に据え置かれた。その後もB級2組で苦戦し、第61期(2002年度)・第62期(2003年度)と連続で3勝7敗に終わり降級点を喫し、B級2組からも降級、C級1組でも後半戦まで昇級争いに絡む成績を修めたこともあった(第63期で7勝3敗・第67期で7勝3敗・第68期で8勝2敗・第70期で7勝3敗)が、いずれも最終局前に昇級の見込みがなくなった。50代を迎えて以降順位戦での成績低迷が顕著になり、第73期(2014年度)を2勝8敗と惨敗し降級点を喫した。以降も負け越しが続き、第78期(2019年度)で2つ目の降級点を喫しC級1組からも降級、実に38期振りとなるC級2組でも第79期(2020年度)・第80期(2021年度)と連続で2勝8敗で降級点を喫し、2022年4月1日にフリークラス転出を宣言した。以後、満65歳を迎える年度末(2030年3月31日)まで順位戦以外の棋戦に出場し、現役を続行することとなった。
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棋歴
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奨励会三段リーグには第40回(2006年度後期)から参加。第43回(2008年前期)の三段リーグで14勝4敗の成績(2位)を収めてプロ入りを決め、通算6例目の親子プロ棋士、戦後初の現役親子プロ棋士となった。 初参加した第68期順位戦で最終日に中村亮介に敗れ、4勝6敗の成績で降級点が付いてしまった。 第63回NHK杯テレビ将棋トーナメントでは谷川浩司、豊島将之ら強豪に勝ち抜き自身初のベスト4入りを果たした。
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棋歴
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中学1年でプロを目指し、福岡から上京。近代将棋社の永井英明のもとに住み込み、修行に励んだ。1980年、第5回中学生名人戦で優勝している。 1986年、18歳でプロ入り。 第51期(1992年度)順位戦C級2組で最初の2局で連敗したが、そこから8連勝する粘りを見せ、C級1組へ昇級。 第41期(2000年度)王位戦でリーグ入り。王位挑戦者となった谷川浩司に黒星をつけるが、リーグ残留失敗。第45期(2004年度)王位戦でもリーグ入り。中原誠、深浦康市らに勝利して2位タイの3勝2敗とするが、前期から残留の中川大輔との順位の差に泣き、リーグ残留失敗。 第70期(2011年度)順位戦で降級点を抱えた状態で3勝しかできず降級のピンチに立たされる。最終局の相手は現役最古参の加藤一二三で、加藤の棒銀に対し振り飛車で挑んだが完敗。降級点累積により19年所属したC級1組からC級2組へ降級となった。 第7期(2021年度)の叡王戦・八段予選決勝で広瀬章人に勝ち、本戦トーナメント進出。一方で2022年2月10日、自身の対局日ではなかったものの、第80期順位戦C級2組において最終局を残した状態で降級点3が確定し、フリークラス陥落が決定した。
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棋歴
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奨励会入会が16歳という遅いスタートであったが、1972年、20歳で四段となりプロ入りする。 宮田の戦績には棋戦優勝やタイトル戦登場がない。しかしながら、準優勝などの活躍(後述)は何度もあり、通算勝率5割以上を長らくキープしていた(通算対局数1000局到達の前後から5割を割っている)。タイトル戦昇格1年目の第31期王座戦では、兄弟子の中原誠と挑戦者決定戦を戦って敗れた。 順位戦への参加は1999年度限りとし、フリークラス宣言をした。 2017年3月31日、フリークラス規定により同年度の最終対局をもっての引退が確定。3月末時点で第30期竜王戦・6組昇級者決定戦のみに出場権を残していたが、5月16日の対局で青野照市に敗れ引退が決定した。 引退後は、世田谷区三軒茶屋の将棋教室や連盟道場などで普及活動に務めている。
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棋歴
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玉の囲いを放棄し、左右の銀を中央に繰り出して攻勢をとる「カニカニ銀」の創案者。この戦法の独創性・優秀性が高く評価され、2003年将棋大賞の升田幸三賞を受賞。「カニカニ銀」と命名したのは森信雄である。森内俊之も実戦(1992年11月20日)で採用して勝ったことがある。 父から教わって将棋を覚えたのは12歳のときであり、将棋を(本格的に)始めたのは高校1年生のときである。福岡県立八幡中央高等学校卒業。北九州アマ王位戦でA級2位となった後、1968年、第4回高校選手権で団体優勝。1968年、アマ名人戦に福岡県代表で出場し、ベスト4。 福岡大学を中退し、1971年10月、岡崎門下で奨励会に3級で入会(関西)。このときすでに二十歳であった。入会後、1級昇級後に2級降級があったり、三段時代が4年弱あるなど苦労したが、1980年1月に28歳で四段昇段を果たす(プロ入り)。なお、1978年に奨励会棋戦の第1回「若駒戦」で優勝している(準決勝の相手は福崎文吾、決勝三番勝負の相手は泉正樹)。 プロ入りした後、年度が明ける前に早速第14回(1980年度)早指し将棋選手権で予選を突破。本戦では2回戦で田中寅彦を破るが、3回戦で米長邦雄(この回に優勝)に敗れる。また、第4回(1981年)若獅子戦で準優勝。第14回(1983年度)新人王戦ではベスト4。 順位戦初参加となる第39期(1980年度)C級2組順位戦は、3勝7敗の成績で、いきなり降級点を喫する。次の第40期(1981年度)では1敗の後の7連勝で昇級争いに加わるも、8勝2敗で6位に終わる。しかし、第41期(1982年度)では9回戦終了時点で8勝1敗とし、全勝の塚田泰明(後に王座・A級)と、同じく全勝の脇謙二とともに、最終局を待たずしてC級1組昇級を決めた(最終局で塚田に負け、8勝2敗)。 第43期(1984年度)C級1組順位戦では8勝2敗・2位の成績を収め、34歳でB級2組に昇級。なお、2敗は塚田泰明と高橋道雄(元・王位、後にA級)から喫したものであった。 第47期(1988年度)B級2組順位戦は、9回戦終了時点で児玉を含み4人が7勝2敗の1位タイで並ぶ。そして、最終局でその4人が全員勝利して8勝2敗で終えたため、前期低成績でリーグ表順位が悪かった児玉は昇級できなかった。また、第49期(1990年度)B級2組順位戦も8勝2敗で終えたものの、同じく2敗でリーグ表上位の森安秀光(元棋聖・元A級)と島朗(元竜王、後にA級)が昇級した。ちなみに、このときのもう一人の2敗者は羽生善治棋王である。 順位戦B級2組には14期連続14期在籍。勝ち越しが6期、負け越しが5期、指し分けが3期であった。その中で降級点を2度消す健闘を見せたが、第56期(1997年度)・第57期(1998年度)に2期連続降級点を取り、C級1組に降級した。 1987年に創設された竜王戦の第1期 (1988年度)は、順位戦でB級2組8位であったため2組からのスタート。初戦から2連敗し3組に落ちそうになるが、残留決定戦で2人に勝つ粘りで2組残留。そして、第4期(1991年度)竜王戦2組では、準決勝で大山康晴十五世名人、決勝で石田和雄八段に勝利して2組優勝し、40歳で1組昇級。本戦では初戦で勝浦修(1組3位)に敗れる。次期の第5期(1992年度)竜王戦1組では福崎文吾王座と二冠を失ったばかりの南芳一を相手に2連敗し、2組降級。この年度以降、竜王戦での昇級(復帰)はない。 第40期(1991 - 1992年)王座戦で森安(秀)、阿部隆に勝って二次予選を抜けるも、本戦トーナメント1回戦で羽生に敗れる。この期から長い王座連覇(同一タイトル連覇の新記録)を始める羽生の1人目の餌食となった。 第34回(2000年度)早指し将棋選手権で本戦出場。1回戦で有吉道夫(元棋聖)に勝ち、2回戦で羽生に負ける。 第68期(2009年度)C級2組順位戦の9回戦は、自身のフリークラスへの陥落と相手の金井恒太の昇級の両方がかかった勝負となるが、千日手指し直しの末に勝利し、自分の目の前での昇級を許さなかった。この一戦は将棋大賞で初の「名局賞特別賞」に選ばれた(第37回将棋大賞)。しかし降級点を逃れることはできず、フリークラスに陥落した。 満60歳となる2010年度内に順位戦に復帰できなかったため、同年度限りで引退が決まった。しかし前年に引退した有吉道夫の引退間際のNHK杯本戦出場決定がきっかけで規定が改められた関係で、2010年度内に参戦していた棋戦については消化し切るまで指せることとなった。そして第24期竜王戦6組で2つ勝ち上がり、3回戦で船江恒平に負けて5組への昇級者決定戦に回る。他の棋戦ではすでに敗退していたため、この竜王戦が児玉にとって棋士人生最後の棋戦となった(4組に上がらないと現役残留できない)。そして、2011年8月10日に大石直嗣に敗れて引退となった。
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棋歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 05:35 UTC 版)
岡崎市の石材店で、五人兄弟の末子として生まれる。父の岡崎淳一郎は、二宮尊徳像を多数作り、最盛期には1日8体を作っていたという。 中学1年生から将棋に熱中。板谷四郎に師事して、1962年に関東奨励会に入会し、6級で指し始め、僅か5か月で3級、2年で初段。そこから20勝1敗で三段に昇段。三段リーグから、東西の人数の調整のため、関西に移り、関西三段リーグを4期で抜けてプロデビュー(同期の関東三段リーグの優勝は勝浦修であり、本来なら東西決戦の勝者が四段となる仕組みだったが、勝浦が二回目のリーグ優勝であったため、東西決戦を免除され、勝浦・石田ともに四段昇進となった)。 関西本部所属の棋士となる。「岡崎の天才児」と呼ばれた。 1967年のプロ入り後も勢いは止まらず、1年目から順位戦で2年連続昇級し、B級2組へスピード出世。しかし、このクラスに7年停滞するスランプ状態を経験、その間に同年齢で石田がライバル視していた中原誠は名人を獲得する。 1972年度、第3回新人王戦で、桐山清澄との決勝三番勝負を2-1で制し、棋戦初優勝。同棋戦では、4年後にも優勝(決勝で森安秀光を2-0で破る)。 1973年度(第23期)と1977年度(第28期)の王将戦でリーグ入り。しかし、残留はできなかった。当時の王将リーグは今より定員が1人多い8人によるリーグ戦だったが、定員の半数にあたる成績下位の4人が陥落となる難関であった。 1974年、心機一転を目指し、岡崎の実家を出て、東京に転居し、所属も東京に移る。 1976年、順位戦でB級1組に昇級。1979年、順位戦A級へ昇級し、3期在籍する。石田が昇級した頃のA級には師匠の次男・板谷進がいたが、2年間で石田の2勝0敗であった。 1986年、東京を離れ、妻の実家があった千葉県柏市に転居する。 第3期(1990年度)竜王戦の竜王ランキング戦3組で優勝。第2代竜王・羽生善治への挑戦権を争う本戦トーナメントでは、中原誠らを破り挑戦者決定三番勝負に進出するが、谷川浩司に0-2で敗れる。第1局は谷川の得意戦法である角換わりを堂々と受けて立っての敗戦であった(第2局は矢倉)。この頃は、順位戦でも好調で、1991年4月にA級に復帰する。しかし、1期で降級した。 翌年の竜王戦(第4期、1991年度)では、2組で準優勝し、本戦トーナメントに2期連続出場(初戦で敗退)。 46歳の時、加瀬純一七段の父親が経営していた「柏将棋センター」をうけついだ。ここから、多くの若手有望棋士が生まれることになる。 2006年4月、フリークラス宣言。2012年5月9日、竜王戦6組・対小林宏戦敗戦を最後に引退。
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棋歴
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10歳のころ、13世名人(関根金次郎)の立派な指導対局姿に心を打たれ、棋士を志す。原田の父は棋士になることに反対していたが、結局は高等小学校を卒業した原田とともに上京して棋士になる手助けをしている。はじめに縁のあった溝呂木光治(当時七段)を訪ねたが、溝呂木は当時三段で足踏みしていた弟子の間宮純一の名前を出して「自分は弟子運が悪い」「私のところじゃ四段になれない」と入門を断り、加藤治郎(当時五段)を紹介した。このため加藤に弟子入りすることになった。 1944年1月に四段に昇段するが、同年4月に陸軍新発田連隊に入隊。中国にわたり、現地で敗戦をむかえて抑留され、1946年6月に帰国して、同年の第一期順位戦に参戦する。 昭和中期を代表する強豪棋士だったことは意外と知られていない。名人以外の全プロが参加する「最強者戦」で見事最強者となったこともあり、大山康晴、升田幸三に次ぐ実力を有していた。なお、升田幸三は現役最後の新聞棋戦棋聖戦で敗北したが、相手は原田泰夫であった。この将棋は原田の名局とされている。 1965年の順位戦でB級2組に陥落したが、居飛車党から振り飛車党に棋風を変更し、1968年にB級1組に復帰する。1971年(昭和46年)には、14期ぶりに48歳でA級に復帰して、石川達三の同名小説に準え「四十八歳の抵抗」といわれ話題になった(自分から「四十八歳の抵抗」と述べたという説もあり)。B級2組まで陥落してからA級に復帰したのは原田一人のみ。
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棋歴
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関西三段リーグで1970年、1972年に優勝するが、東西決戦で敗れて四段昇段を逸する。そして、1973年度に3度目の優勝をし、「3度目は東西決戦不要」の規定により四段昇段してプロデビューする。 1977年度、入るのが難しいとされる十段リーグ(第16期)と王将リーグ(第27期)のメンバーとなった。この年度は、将棋大賞の新人賞、最多勝利賞(43勝)、最多対局賞(65局)を受賞した。 1979年度、第35期棋聖戦で、中原誠への挑戦者となる。五番勝負は敗退したが、将棋大賞の敢闘賞を受賞。 第40期(1981年度)、第41期(1982年度)の昇降級リーグ(順位戦)で、それぞれ8勝2敗(リーグ2組・B級2組相当)、9勝3敗(リーグ1組・B級1組相当)の成績を収め、2年連続昇級で名人戦挑戦者決定リーグ(A級)八段となる。 第43期(2002年度)王位戦でリーグ入り。森内俊之、南芳一に勝利するが、リーグ残留失敗。翌年の第44期(2003年度)王位戦で、またもリーグ入り。佐藤康光らに勝利するが、リーグ残留失敗。 2011年度以降は順位戦に出場せずフリークラスに転出。65歳で迎えた2014年度公式戦の最終対局(2015年5月21日・第28期竜王戦5組残留決定戦・対森雞二)に勝ち、6組への“降級”を回避した上で引退。勝敗に関わらず引退となる対局に勝ち、“有終の美”を飾ったケースは大内延介(2010年4月20日・第23期竜王戦5組残留決定戦・対石田和雄)以来5年ぶりであった。
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棋歴
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1962年度後期奨励会A組に入り、5期目となる1964年度後期奨励会A組で、11勝1敗の抜群の成績で関東優勝。関西優勝者の桜井昇の優勝が2度目(1度目は東西決戦でA組に陥落していた橋本三治に敗北)であったため、東西決戦は行われず、1965年4月1日付けで田辺と桜井が同時に四段昇段(プロ入り)をした。 初参加から4期目の第23期(1968年度)C級2組順位戦において、8勝4敗の成績で次点。これが田辺にとって、順位戦における最高成績である。このときのC級2組は総勢16名で、その中には後にA級八段となる桐山清澄、勝浦修、森安秀光、森雞二がいた。田辺は森安と森に勝ち、桐山に負けた。昇級者は桐山と勝浦であった。 1973年度、第1回名将戦で予選を突破。1974年度に行われた本戦では、1回戦で加藤一二三九段を破るが、2回戦で中原誠名人(三冠)に敗れる。なお、同棋戦では第3回、第4回、第7回、第13回でも本戦出場している。 1976年度、第9回日本将棋連盟杯争奪戦で4回戦に進出。米長邦雄八段に敗れる。 第32回(1982年度)NHK杯戦で本戦出場。1回戦で有吉道夫九段を破る。 第48期(1989年度)C級2組順位戦で、初参加から24期目にして1勝9敗で初の降級点を喫し、49期は全敗、50期は1勝9敗と3期連続降級点となり順位戦から陥落。フリークラス在籍中の1998年度に満60歳となり、現役を引退。 なお、日本将棋連盟普及部に長く在籍した。
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奨励会A組(旧三段リーグ)で10期5年足踏みするが、1973年前期(第10期)に11勝1敗というずば抜けた成績で1位となり、関東1位の桐谷広人との東西決戦を制して、1973年10月1日付けでプロ入りする。 第16期(1975年度)王位戦でリーグ入り。 1978年、第9回新人王戦で決勝三番勝負に進出。相手は、弟弟子で親友でもある森安秀光であった。森安は前回優勝者であり2年連続通算4回目の優勝を狙っていたが、小阪が1敗の後の2連勝で優勝した。なお、中原誠名人との記念対局(名人vs新人王戦優勝者)では敗れた。 第31回(1981年度)NHK杯戦で本戦出場。1回戦で宮坂幸雄に勝ち、2回戦では兄弟子の内藤國雄に勝利する(3回戦で大山康晴に敗れる)。 第44期(1985年度)のC級2組順位戦は、7勝2敗で最終局を迎え、自力ではないものの昇級の可能性があった。これに勝って8勝2敗としたものの、ライバルのうち1名が勝ったため次点(4位)に終わった。翌年度、第45期(1986年度)C級2組順位戦では、順位戦デビューの羽生善治に勝利するなどして、第7戦まで無傷の全勝。しかも、前期の次点の成績により順位表で絶好のポジションにいた。しかし、そこから3連敗して7勝3敗の8位となり、またも昇級を逃した。 1988年度、第1期竜王戦4組においては、勝てば早速3組に昇級という一番(準決勝)で羽生と当たり、負けている。 2010年に引退。2009年度に引退規定が改定され、引退日は年度末(3月末)から最終対局日に変更された。小阪は2010年度に入ってから竜王戦6組の昇級者決定戦で3連勝し、7月14日に千葉幸生に敗れるまで引退日が延びた。
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四段昇段の折に、将棋を始めたきっかけは、5歳のときに父に教わったと答えた。 升田幸三の将棋に憧れ、升田の孫弟子に当たる大平の門下となったが、師匠の大平は長谷部の四段昇段で報道されるまで、理由を知らなかったという。 第62回(2017年度後期)三段リーグにて、最終局を前に12勝4敗で暫定1位となる。そして最終局でも2連勝を決めた結果、14勝4敗で1位をキープし、見事プロ入り。昇段争いのライバル達も、2位~4位(順番に池永天志・服部慎一郎・黒田尭之)まで全員2連勝していたため、もし1勝1敗だと3位(次点)、2連敗だと6位に終わっていた程の激戦だった。 三段2年目(2017年度)では第7期加古川青流戦に参加。1回戦から本田奎(当時三段)、増田康宏、三枚堂達也、稲葉聡などの強敵に4連勝し、ベスト4まで進出する活躍を見せた。
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小学校3年生の時、知り合いのアマチュア強豪に教わり、将棋を始める。 三段リーグには11期在籍。2010年度後期奨励会三段リーグ最終日は昇級争い上位の12勝4敗で迎えることとなったが、2011年3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)のため、対局日が同年3月12日から同年3月23日に延期された。そして当日は1敗後の最終局で勝利し、13勝5敗・1位で四段昇段(プロ入り)を決めた。 プロ入り後、第62回NHK杯戦で予選を突破し、対局者として本戦出場を果たす。1回戦では深浦康市に対し、得意の三間飛車で挑んだが敗れた。 2017年3月2日、第75期順位戦C級2組で9勝1敗の2位となり、C級1組昇級が決まった。 第4回(2019年度)YAMADAチャレンジ杯でベスト4進出。2019年8月18日の公開対局にて、準決勝で藤森哲也、決勝で井出隼平を破り、棋戦初優勝を果たした。
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2011年9月24日、奨励会入会。 2020年9月20日、関西奨励会にて12勝4敗の成績を上げ、三段に昇段。 女性の三段への昇段は、2015年12月の西山朋佳以来3人目となる。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 04:37 UTC 版)
6歳時に父親が購入した本で将棋を覚えた。 2003年、小学校3年生の時に第2回全国小学生倉敷王将戦低学年の部で東京代表で出場し、9位となる。 2005年、小学校5年生の時に第4回全国小学生倉敷王将戦高学年の部で東京代表で出場し、9位となる。同年9月に、奨励会に6級で入会する。 2007年には3級に昇級後11連敗を喫したが、2010年に奨励会初段に昇段を果たす。初段は半年余りで通過し、二段を1年2か月で突破、2012年第52回三段リーグに参加する。 52回、53回リーグは8勝10敗と負け越したが、54回は11勝7敗の結果で9位に躍進した。55回も11勝5敗の6番手につけ、上位対局の結果次第では最終日に連勝すれば昇段の可能性があったが、1局目に敗れ昇段を逃し5位となる。なお、その期に昇段した増田康宏と黒沢怜生はそれぞれ最終日同星の5番手、7番手から連勝で昇段している。 56回リーグでは初日から10連勝し、その後2連敗するも再度連勝を重ね、最終日を残した2月14日に昇段を決める。最終日もきっちりと勝ち、三段リーグ史上最多タイとなる16勝(2敗)を挙げた。 新四段として出場した第74期(2015年度)順位戦ではC級2組で9勝1敗(47人中2位)の好成績を収め、C級2組の1期抜けに成功。これに伴いプロ入りから1年に満たぬ間に五段へ昇段した。 第29期(2016年度)竜王戦6組ランキング戦の準決勝で近藤正和六段に勝ち、5組へ昇級。 さらに決勝でも中田功七段に勝ち、6組優勝者として本戦トーナメントへ出場。本戦でも1回戦で5組優勝者の黒沢怜生五段、2回戦で4組優勝者の中座真七段、3回戦で1組5位の豊島将之七段を破る活躍を見せた。準々決勝では1組4位の深浦康市九段に敗れた。 第65期(2017年度)王座戦では一次予選から9連勝の快進撃で、自身初となる挑戦者決定戦に進出した(中村太地六段に敗れ、タイトル初挑戦はならず) プロ3年目となる2017年度は、前年度の成績優秀につき第67回(2017年度)NHK杯将棋トーナメントでシード(予選免除)となり、本戦トーナメントに初出場(前期の第66回NHK杯は予選2回戦で、梶浦宏孝四段に負け)。 本戦1回戦で、第10回朝日杯優勝者の八代弥六段に勝利した。 2020年6月16日に行われた第79期順位戦C級1組の初戦で森下卓九段に勝利し、五段昇段後公式戦120勝となり、六段に昇段した。
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中学1、2年の頃、将棋クラブでアルバイトをして将棋に夢中になる。 1974年、14歳で奨励会に入会。初段昇段をしてからの2年間、二段に上がれず、退会まで考えた。しかし、1980年8月に王位戦(中原誠対米長邦雄)の第4局の記録を務めた後に調子を上げ、その翌年から二段・三段と昇段していき、1984年8月に四段昇段(プロデビュー)を果たす。 1985年、第19回早指し将棋選手権の予選で、師匠の伊達との師弟対決で勝利。 1987年、第37回NHK杯戦で予選を勝ち抜き、本戦初出場。第48回(1998年)、第56回(2006年)でも本戦出場。 順位戦C級2組では初参加(1985年度・第44期)から5年間は24勝26敗のほぼ五分五分の成績を挙げるも、第49期(1990年度)、第50期に2年連続で降級点を喫する。第51期(1992年度)は6勝4敗で勝ち越し、降級点を1つに戻す。第52期には8勝2敗・6位の成績を収め、これが伊藤にとって順位戦における最高成績となった。第55期(1996年度)、第57期(1998年度)に降級点を喫して累計3点となり、フリークラスに降級。 2001年5月29日に順位戦復帰条件の一つである勝率の規定を満たし、C級2組へ復帰が決定。フリークラスからC級2組への昇格は伊奈祐介に次ぎ2例目であるが、フリークラスへ降級後のC級2組復帰は史上初。 しかしながら、復帰後すぐの第61期(2002年度)、第62期(2003年度)に2年連続で降級点を取ったところで、2004年4月にフリークラス宣言によるフリークラス転出をした。 竜王戦は、第1期で5組からのスタート、以降、昇級も降級もない状態がしばらく続いたが、第20期(2007年度)に残留決定戦で敗れて6組降級。 第66回(2016年度)NHK杯将棋トーナメント予選・東西決勝で中村太地六段を破り、本戦トーナメントへ出場(10年ぶり4回目)。当年度出場者の最年長だったが、本戦1回戦で最年少の増田康宏四段に敗れた。 2020年3月末にてフリークラス在籍期限を満了。2020年5月26日の第33期竜王戦6組昇級者決定戦・今泉健司戦が公式戦最後の対局となり、同日付で現役を引退。
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棋歴
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兄の畠山成幸とともに、将棋界唯一の双子棋士である。奨励会への入会は兄に1年遅れ、三段リーグ参加は1期遅れ(半年遅れ)であったが、3期目の第5回三段リーグ(1989年)で12勝6敗の成績を収めて四段昇段(プロ入り)を決めた。三段リーグから1つの期に四段昇段するのは2名であるが、もう一人の昇段者は同じく12勝6敗の成幸、つまり、双子の同時プロ入りであり、「こんなことがあるのか」と将棋関係者を驚かせた。同成績であるが順位は鎮の方が良かったため、棋士番号は鎮、成幸の順についた。 初参加の第3期(1990年度)竜王戦6組で決勝進出。決勝で兄の成幸に敗れるが、6組からの1期抜けを果たす。次の第4期(1991年度)では、先崎学、兄の成幸、中川大輔らを下して5組優勝し、本戦出場。初戦で丸山忠久に敗れる。 新人王戦では、第24回(1993年度)にベスト4に進出。第28回(1997年度)では決勝で藤井猛に敗れ準優勝。第30回(1999年度)でもベスト4。 第12期(1999年度)竜王戦3組で2位となり、本戦出場。初戦で久保利明に勝利し、次戦で森内俊之に敗れる。 第14期(2001年度)竜王戦2組で2位となり、初の1組昇級を決めるとともに、本戦出場。本戦では郷田真隆に勝ち、木村一基に敗れてベスト4。 2003年、NHK杯戦で中井広恵に敗れ、同棋戦における史上初の女流棋士の勝利を献上してしまった。 第19期(2006年度)竜王戦1組で、羽生善治、中原誠などに勝利して4位となり、4度目の本戦出場。杉本昌隆に勝ち、丸山忠久に敗れベスト4。 成幸が順位戦B級2組に昇級したとき(1996年)、鎮はまだC級2組であった。七段・八段に昇段したのも、兄のほうが早い。しかし、鎮は竜王戦で1組まで上り詰め、順位戦でも、兄がB級2組で長らく停滞している間に昇級を重ね、2006年にはB級1組に上がり、成幸を追い抜いた。 2016年度の第75期順位戦B級1組の最終戦で松尾歩に敗れ、3勝9敗の成績でB級2組に降級することとなった。当期順位戦では弟子の斎藤慎太郎がB級2組で1位の成績を修めB級1組への昇級を決めていたため、皮肉にも「弟子との入れ違い」という形になってしまった。 2017年度の第76期順位戦B級2組では、10回戦(5回戦は抜け番で休み)までで8勝1敗となり、1期でB級1組への復帰を決めた。 2018年度の第77期順位戦B級1組で、斎藤慎太郎との師弟対決が9月25日に実現した。順位戦では、師弟対決は総当たりとなるB級1組以上で組まれる。日付が変わる激戦の末に畠山が斎藤を下した。順位戦の最終結果は5勝7敗のクラス11位で残留を果たした。 2019年度の第78期順位戦B級1組で、9月12日に行われた斎藤慎太郎との師弟対決に勝利し、勝数規定によって八段に昇段した。しかし、順位戦では斎藤以外の棋士に苦戦して3勝9敗のクラス13位(最下位)に終わり、B級2組へ降級。9勝3敗のクラス2位でA級への昇級を決めた弟子の斎藤と対照的な結果となった。 2022年3月5日、第1回ABEMA師弟トーナメント決勝で斎藤慎太郎とのチームでチーム鈴木(鈴木大介-梶浦宏孝師弟)に勝利し、チーム戦の非公式棋戦ながら棋士人生初の優勝を果たした。
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棋歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/21 14:39 UTC 版)
1997年4月、プロデビュー。 初参加の第11期(1998年度)竜王戦6組で準優勝(優勝は北島忠雄)し、5組へ昇級。 第12期も5組3位決定戦で勝ち、4組へ連続昇級。 2000年度、第59期C級2組順位戦で8勝2敗の成績を収め、44人中3位でC級1組に昇級(五段昇段)。 第74期(2003年度)棋聖戦で、島朗、三浦弘行を破り、ベスト8進出。 2006年度、第14期銀河戦で準優勝。トーナメント出場者を決めるブロック戦では中村修(8回戦)・堀口一史座(9回戦)・鈴木大介(10回戦)らを破り、11回戦で羽生善治に敗れるまで6連勝して、本戦トーナメントに進出。ここでも森下卓(1回戦)、川上猛(2回戦)、丸山忠久(準決勝)を破って決勝進出、再び羽生善治との決戦となったが敗れた。第47期王位戦でリーグ進出。深浦康市に勝利するが、2勝3敗でリーグ残留はならず。 竜王戦では前述の連続昇級以降長らく4組に留まっていたが、第23期(2010年度)に4組で準優勝(優勝は村山慈明)し初の3組昇級を決めた。 第24期も3組3位決定戦で勝ち、2組へ連続昇級。竜王戦の昇段規定により、段位は七段となった。 2組在位2年目で迎えた第26期では木村一基(1回戦)、畠山鎮(2回戦)、松尾歩(準決勝)、豊島将之(決勝)を破り、竜王戦出場16年目で初めてランキング戦優勝・本戦出場・1組昇級を達成した。本戦では初戦(1組3位の対羽生善治戦)で敗退した。 第2期(2016年度)叡王戦で予選七段戦を勝ち抜き本戦に進出。本戦1回戦で久保利明に敗れた。 タイトル戦に昇格した第3期(2017年度)叡王戦でも予選七段戦を勝ち抜き2年連続の本戦進出。本戦2回戦で丸山忠久に敗れた。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/04 07:39 UTC 版)
2000年度前期の第27回三段リーグで優勝(2位は上野裕和)を果たし、10月1日付けで四段昇段(プロ入り)。 結婚直後の第62期(2003年度)C級2組順位戦で9勝1敗・2位の成績を収め、C級1組へ初昇級。同時に五段へ昇段。翌年度の第63期、C級1組で降級点を喫するが、第64期に勝ち越して、すぐ降級点を消す。 第36回(2005年)新人王戦で準優勝。決勝で渡辺明竜王(当時)に2-0で敗れた。 第48期(2007年度)王位戦でリーグ入り。丸山忠久、鈴木大介に勝利するが、リーグ残留ならず。 2010年9月16日、第23期(2010年度)竜王戦6組昇級者決定戦準決勝で瀬川晶司に勝ち、勝数規定を満たして六段に昇段。決勝戦では澤田真吾に敗れてこの時点での昇級はならなかったが、上のクラスの欠員補充のため追加で組まれた5位決定戦に回ることになり、同年10月29日に行われた対局で櫛田陽一に勝ち、5組へ初昇級。 第26期(2013年度)竜王戦5組の昇級者決定戦で佐々木勇気に勝ち、4組へ昇級。 第30期(2017年度)竜王戦の4組ランキング戦で決勝まで勝ち進み、3組への昇級を決めたが、決勝で佐々木勇気に敗れた。 2018年2月6日、第76期順位戦C級1組10回戦で片上大輔に勝ち、勝数規定を満たして七段へ昇段した。 第31期(2018年度)竜王戦3組ランキング戦の準決勝で飯塚祐紀を破り、2組への昇級を決め、決勝で斎藤慎太郎を破って3組優勝と決勝トーナメント進出を決めた。
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中学1年の時に天童市で行われた全国中学生選抜大会で準優勝(優勝は瀬川晶司)。その年の12月に奨励会に入会。1986年には3級から4級に降級するという苦い経験をするも、三段リーグを勝ち抜いて1995年10月にプロ四段となる。同時にプロ入りしたのは、田村康介である。 プロ入り直後、第27回新人王戦で斎田晴子を破ったのを皮切りに、デビューから10連勝を達成。これは藤井聡太に次ぎ近藤正和と並んで史上2位タイの記録であり、その中には、後にタイトルホルダーとなる深浦康市からの白星及び第46回(1996年度)NHK杯テレビ将棋トーナメント予選通過となった3連勝も含まれている。 竜王戦でも実力を発揮し、初参加の第9期をランキング戦準決勝まで勝ち進み(桐谷広人に敗北)、昇級者決定戦でも矢倉規広に勝利して5組昇級。翌第10期ではランキング戦を勝ち進み決勝でも中田功に勝利し、2期連続で昇級。ちなみに、当時は竜王ランキング戦連続2回昇級の昇段規定がまだなかったため、この時には五段昇段に至らなかった。第12期でも4組で決勝まで勝ち進み(決勝で久保利明に敗北)、3組に昇級。これが竜王戦における、松本の最高位である。(2011年現在) 第71期(1999年度)棋聖戦では、3次予選に進出。四者リーグの1回戦で当時名人位を保持していた佐藤康光を破る活躍を遂げた。(丸山忠久及び羽生善治に敗れ本戦進出はならず。) 第53回(2003年度)NHK杯テレビ将棋トーナメントでベスト16。二回戦では当時朝日オープン選手権者だった堀口一史座を破る活躍を見せた。 その一方で、順位戦は不得手とする傾向があり、昇級に恵まれなかった。第66期(2006年度)及び第71期(2012年度)で3勝7敗と不振に喘ぎ、降級点を喫してしまった。C級2組の降級点が累積2点となった第71期を最後にフリークラスに転出した。
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生家は扇子屋を営んでいたという。8歳で原田仁平二段に手ほどきを受け、翌年の大会では堀半七五段と4枚落ちで指し分けたという。16歳で大阪の小林東伯斎八段に二段で入門。小林は天野宗歩の弟子である。 18歳で三段、23歳で五段となる。25歳になってからは四国、中国、九州で将棋修行をした。3年後に大阪に戻り、六段となる。2年後に七段となった。ここまでの段位を認定したのは「大阪名人」と称された師の小林であると推測されている[誰によって?]。 1906年、42歳のときに上京し、八段(準名人)を許されたという。関根金次郎(後の十三世名人)は、井上より2年先に八段昇段を果たしていたが、年長者である井上を常に立てていたという。また、関根は当時の名人小野五平と不仲であり、まず井上に名人を譲らせてから名人を襲位しようと画策したこともあるという。 1907年10月、当時の三人の八段である、関根・井上・小菅剣之助の平手対局が神戸新聞により企画され、井上は関根と四番戦うが一勝三敗となる。 1909年、関根とともに「将棋同盟会」を結成したが、翌1910年に離脱し「将棋同志会」を結成。 1915年、小野名人の後継者を決定するための大会が柳沢保恵伯爵らのはからいで開催される(柳沢主催将棋大会)。同年4月、開幕は小野が自身の後継者と目していた坂田三吉八段と関根が対戦する手はずであったが、関根の都合で代わりに井上と坂田の対戦が実現し、井上が敗れた。坂田との対戦は先後2局の予定であったが、井上は延期を申し入れ、坂田は代わりに土居市太郎六段(関根の弟子)と対戦している。同年12月、井上は今度は関根と対戦、一勝一引き分け(持将棋)となる。坂田に対して劣勢となった関根は苦しい立場となったが、坂田が土居七段に連敗したために窮地を脱している。 1920年、小野名人に先立ち井上は急死。56歳。死因は心臓病であった。
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将棋を始めたのは小学2年生の頃詰将棋を解く能力に優れるなど、終盤の読みの正確さで、「スーパーあつし君」のニックネームで呼ばれる。デビュー以来、7割前後の年度勝率を連発し、特定の棋戦で派手な実績はなかったものの、同じ所司門の渡辺明、松尾歩とともに実力者であるとされている。 初参加の第15期(2002年度)竜王戦6組で優勝し、5組昇級。挑戦者決定トーナメントでは、初戦で同門の松尾歩に敗れる。 2度目の参加となる第62期(2003年度)順位戦C級2組で9勝1敗・1位の成績を収め、C級1組へ昇級(五段昇段)。 第17期(2004年度)竜王戦5組準決勝で敗れるも、昇級者決定戦を制し、4組へ昇級。 2004 - 2005年度、朝日オープン将棋選手権にて、2年連続でベスト8。 体調不良により2006年夏頃から不戦敗が続き、2006年12月20日から2008年3月31日までの間は、休場届により休場した。休場届の前、第37期(2006年)新人王戦では、準決勝を不戦敗とした。2007年5月に退院し、体力回復後は研究会を7つも掛け持ちして参加したり、連日将棋会館の控え室で他の棋士と一緒に深夜まで対局の検討に参加するなど精力的に将棋の研究を続けていた。公式戦への復帰は予定通り2008年4月。この年度は全棋士中1位の勝率0.757(28勝9敗)を挙げ、順位戦の降級点も消すなどする見事な復帰を果たし、将棋大賞で初の受賞(勝率1位賞)をした。 2012年、54期王位戦予選を勝ち抜き王位リーグに出場。大石直嗣に勝利したのみで1勝4敗に終わり、リーグ陥落を余儀なくされた。
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棋歴
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アマ時代の最高成績は、第1回中学選抜選手権ベスト4。 13歳で上京し、同じ宮城県出身の中原名人(当時)の内弟子となる。中学卒業後は下宿生活し、「将棋以外のことも勉強したい」と定時制高校に通う。 第7回(1990年度前期)奨励会三段リーグで13勝5敗の1位となり、1990年10月、四段昇段(棋士デビュー)。その年度中に、早くも第58期棋聖戦で一次予選・二次予選を突破し、本戦出場する活躍。このとき破った相手は、中川大輔、村山聖、田中寅彦(元棋聖)、福崎文吾(元王座)らである。 1992年度「富士通杯」で準決勝進出。 第23回(1992年度)新人王戦決勝3番勝負の対戦相手は、奨励会員の石飛英二三段(第15回三段リーグ途中で奨励会退会)。奨励会員初の棋戦決勝進出で例年以上に注目が集まったが、佐藤は堂々とした戦いぶりで石飛を圧倒、2-0で初優勝を決め、プロの面目を保った。佐藤は後日、将棋世界の優勝自戦記で「とにかく四面楚歌だった」と振り返っている。なお、新人王の記念対局は、名人に在位していた中原との「師弟戦」となり、佐藤が勝利した。 第20期(1994年度)棋王戦で中村修元王将、中川大輔らを破り予選を突破。さらに、本戦トーナメントで高橋道雄(タイトル歴5回)を破るが、3回戦で米長邦雄前名人に敗れる。この年度は、30勝超えを達成。 第25期(1999年度)棋王戦で塚田泰明(元王座)、木村一基、同門の小倉久史らに勝ち予選を突破。さらに、本戦トーナメントで米長邦雄、森下卓を破るが、4回戦で藤井猛竜王に敗れる。 第51回(2001年度)NHK杯戦で本戦出場。深浦康市、丸山忠久名人を破るが、3回戦で谷川浩司(7タイトル全ての在位経験者)に敗れる。つづく第52回でも予選を突破し、本戦1回戦で高橋道雄を破る(2回戦で森下卓に敗れる)。 第28期(2002年度)棋王戦の本戦で森下卓を破るが、3回戦で島朗に敗れる。 第54回(2004年度)NHK杯戦で予選を突破するが、本戦1回戦で女流棋士の中井広恵女流二冠(女流王将・倉敷藤花=当時)に敗れる。 第18期(2005年度)竜王戦5組の昇級者決定戦(敗者復活戦)で5連勝し、4組へ昇級。この間、一時的に勝率ランキングで全棋士中トップを走った。 第24期(2011年度)竜王戦4組ランキング戦決勝で広瀬章人王位を破り優勝。3組昇級とともに初の本戦(決勝トーナメント)進出を決めた。 第3期(2017年度)叡王戦で予選七段戦を勝ち抜き本戦に進出。本戦1回戦で渡辺明棋王に敗れた。 第5期(2019年度)叡王戦で予選七段戦を勝ち抜き、2年ぶりに本戦進出。本戦1回戦で青嶋未来に敗れた。 第61期(2020年度)王位戦予選を勝ち抜き、同棋戦で25年ぶりの挑戦者決定リーグ入りを決めた。リーグ戦紅組では0勝5敗に終わった。
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棋歴
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1998年4月、四段昇段(プロ入り)。奨励会三段リーグで次点(3位)2回となった者はフリークラスの四段になれるという規定が新設された後、その権利を行使した初のケースである。 第12期(1999年度)竜王戦6組で昇級者決定戦決勝に進むも、敗れて5組昇級を逃す。同年(1999年)、第18回(2000年度)全日本プロ将棋トーナメントで、米長邦雄、深浦康市、佐藤康光らに勝ち、ベスト8進出。 第14期(2001年度)竜王戦6組ランキング戦では、4回戦で渡辺明に勝ち、2001年5月7日の準決勝戦では伊藤能に勝ち、この勝利に伴い「直近30戦以上で勝率6割5分以上」(20勝10敗)の基準を満たし、フリークラスから順位戦C級2組への昇級が決定。フリークラスから順位戦C級2組への昇格は史上初その後に行われた決勝戦でも松尾歩を破り6組で優勝し、決勝トーナメント出場及び5組昇級を決めた。決勝トーナメントでも2勝(5組優勝の北島忠雄戦及び3組優勝の富岡英作戦)を挙げる。同年度では、第51回NHK杯戦で本戦初出場し南芳一を相手に1勝を挙げるなど、他の棋戦でも活躍した。 第15期(2002年度)竜王戦5組で昇級者決定戦決勝に進むも、渡辺明に敗れる。第17期(2004年度)竜王戦5組でも昇級者決定戦決勝に進むが、またしても昇級を逃す。 第29期(2003年度)棋王戦で本戦初出場。2回戦で米長邦雄を破るが、3回戦で谷川浩司に敗れる。 第64期C級2組順位戦(2005年度)にて、8勝2敗で次点(4位)でC級1組昇級を逃す。このときC級1組へ昇級したのは、安用寺孝功(9勝1敗)、および、阿久津主税、橋本崇載(伊奈と同じく8勝2敗)であった。最終の第10回戦で、もしも3名のうち1名でも負けていれば、伊奈が昇級していたところであった。 第20期(2007年度)竜王戦5組で優勝し、ついに4組昇級。決勝トーナメントでも1勝を挙げる。翌年度、第21期(2008年度)竜王戦4組で準優勝し、3組に昇級するとともに連続2回昇級により六段昇段。 第72期C級2組順位戦(2013年度)では最終節を残して7敗目を喫し、3期連続の降級点でフリークラスへの降級が決まってしまった。フリークラスで四段編入した棋士が順位戦経験後再びフリークラスになるのはこれが初めてである。2014年度の第56期王位戦では、予選決勝で豊島将之に勝利し、フリークラスでは3人目となる挑戦者決定リーグ進出を決めた。しかし、リーグでは3連敗で陥落が決まった。
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奨励会入りは14歳、三段リーグ入りは21歳と遅かった。三段リーグには11期・5年半在籍したが、成績が芳しくない状態が続いた。年齢制限となる満26歳の誕生日を迎えて四段昇段を達成できなかったものの、1996年度後期リーグを勝ち越し退会を回避。翌1997年度前期リーグでは最後に3連敗したものの12勝6敗の成績を収め、26歳で四段昇段(プロ入り)をする。 増田の成績にはあまりムラがないがために、活躍が目立っていない。順位戦での成績は三段リーグ時代の低調さから一変し、初参加からの10年間で61勝39敗と安定した成績を残し、次点も2回あった。しかし、C級1組昇級にはあと一歩届かなかった。 第57回NHK杯テレビ将棋トーナメント(2007年度)で、森下卓九段、中原誠十六世名人らに勝ち、ベスト8進出。準々決勝で渡辺明竜王(当時)に敗退。 竜王戦では、2005年(第18期)に5組優勝。2008年(第21期)には4組優勝して3組まで上がった。なお、組の優勝者として、それぞれ本戦トーナメントに進出したが、いずれも初戦で敗退している。その相手は奇しくも、2名とも弟弟子であった(第18期で片上大輔、第21期では糸谷哲郎に敗退)。 2009年9月11日、五段昇段後120勝を挙げ、六段に昇段(第51期王位戦、対・畠山鎮戦)。 2008年度の第67期順位戦で、11年目にして初の降級点を喫してしまうと、その後は順位戦で苦戦する。2010年、第69期順位戦C級2組で3勝7敗に終わり2度目となる降級点を喫する。翌2011年は、7勝3敗で降級点を1に減らす。2012年は3勝7敗に終わるも、順位差でかろうじて降級点を逃れる。2013年、3勝7敗に終わり降級点2となる。続く2014年、第73期順位戦C級2組で3勝7敗に終わり、降級点3となりフリークラスに編入となった。
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棋歴
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6歳の頃に父親が棋書を買ってきたのが、将棋を覚えたきっかけである。1987年、小学6年(予選時は小学5年)のとき、第12回小学生将棋名人戦で準優勝(決勝で田村康介に敗れる)。翌年の秋から奨励会で指し始める。 1994年、18歳でプロデビュー。当時、現役棋士の中で最年少であった。 プロ1年目のとき、第13回全日本プロ将棋トーナメントで、佐藤康光、森下卓らを破ってベスト4に進出。 初参加の順位戦(第53期・1994年度C級2組順位戦)は4勝6敗に終わったが、次期に10戦全勝してC級1組へと昇級を果たす。C級1組でも、初年度は2勝8敗と低迷し降級点を喫するが、翌年の第56期では8勝2敗の好成績を収め、B級2組へ昇級。これらのことから、当時は「2年目の北浜」と呼ばれた。早い出世のため、C級1組以上では最年少となり、当時、B級以上で北浜に次ぐ低年齢は、5、6歳年上の「羽生世代」であった。 早指し新鋭戦で、2度の準優勝がある。第18回(1999年)の決勝で深浦康市に敗れ、第21回(2002年)の決勝では山崎隆之に敗れた。 また、第31回(2000年度)新人王戦でも準優勝(決勝三番勝負で山崎隆之に1勝2敗で敗れる)。 2002年度の第61期B級2組順位戦で8勝2敗の成績を挙げ、B級1組に昇級(そのとき、竜王戦ではまだ5組で低迷していた)。 第46期(2005年度)王位戦でリーグ入りし、谷川浩司と先崎学に勝利したが、リーグ残留はできなかった。 前述の通り、竜王戦では長らく苦戦していたが、第20期(2007年度)で4組3位、第21期で3組3位となり、2年連続昇級で2組入りした。 順位戦B級1組には6期連続在籍していたが、2008年度は成績不振で、最終局1局を残した状態でB級2組への降級が決まってしまった。しかし、最終局の対・森下卓戦では、終盤で解説者(ネット中継)を驚嘆させる見事な寄せを披露して4勝目を挙げ、意地を見せた(その結果、森下が共に降級となった)。 元々関西が好きで、以前から住んでみたいと考えていたが、2014年、対戦相手や研究会のメンバーを大きく変えたいとの理由で関西への移籍を実現した。
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棋歴
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1981年に奨励会に入会。1級から2級に降級したり、初段で3年停滞したりするなど苦労し、23歳でようやく三段に昇段する。 三段リーグでも苦戦が続いたが、期間中に26歳の年齢制限を迎える第13回三段リーグ(1993年度上半期)では一転して前半から首位に立ち、後半負けが込んだが2位を死守し、四段昇段を果たした。 第17回(1998~1999年)全日本プロトーナメントで、藤井猛らを破りベスト4進出。次の第18回(1999~2000年)では、準優勝をする(決勝五番勝負で、谷川浩司に0-3で敗れる)。 第45期(2004年度)王位戦でリーグ入り。深浦康市に勝利するが、リーグ残留失敗。 第64期(2005年度)順位戦C級1組で、出だしから8連勝する。9回戦で昇級を争う渡辺明竜王(当時)との直接対決に敗れ、自力昇級がなくなったが、最終10回戦で渡辺明が窪田義行に敗れたため、再び岡崎に昇級のチャンスが巡ってきていた。しかし岡崎も中田功に敗れたため、惜しくもB級2組への昇級を逃した(昇級者は山崎隆之、渡辺明)。その後第65期・第67期に降級点を喫し、C級2組へ降級。 第73期(2014年度)順位戦C級2組で、9回戦を終えて8勝1敗の好成績で4位につけ、最終戦で自身が勝利し中村亮介が敗れれば昇級となる状況だった。最終戦で中村は敗れたものの、自身も永瀬拓矢に敗れ、惜しくもC級1組への昇級を逃した(昇級は横山泰明、千田翔太、村田顕弘)。 翌年の2015年度は、4月から11月まで公式戦12連敗と不振が続き、順位戦C級2組でも3勝7敗に終わり、前期の活躍で順位3位にもかかわらず累積2つ目の降級点となる不運な1年となった。 七段昇段を決めた直後に行われた、第76期(2017年度)順位戦C級2組最終局で井出隼平に敗れ3勝7敗の成績に終わる。今期の順位の差で累積3つ目の降級点を喫し、2018年度以降はフリークラスに編入され、順位戦に出場できないこととなった(在籍期限は岡崎が満60歳となる2028年3月まで)。
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棋歴
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1980年10月、16歳11ヶ月で奨励会に5級で入会。遅いスタートであった。20歳で二段となるがそこで4年間足踏みをし、三段となったのは24歳1ヶ月という当時の三段昇段の年齢制限(25歳)が近い時期であった。三段リーグでは3年(6期)在籍し、6期目に15勝3敗の成績で2位となり、27歳にして四段昇段(プロ入り)を果たす。同時昇段者(1位)は、7歳下の藤井猛であった。 第24期(1998年度)棋王戦で本戦入りする活躍。第9期(2001年度)銀河戦では本戦で7連勝し、ベスト8入り。第44期(2003年度)王位戦でリーグ入り。渡辺明らに勝利するが、リーグ残留失敗。 順位戦C級2組では、8勝2敗が3回(昇級時を含む)、7勝3敗が4回、降級点なし、という安定した成績を挙げていたが、なかなか昇級できずにいた。14期目となる第63期(2004年度)で自身3度目の8勝2敗で3位に食い込み、41歳にして初昇級を果たした。なお、C級2組順位戦の局数は年間10局であるが、当期における平藤の対局では、上野裕和戦での二度にわたる千日手指し直し(1日で合計3局戦った)を含めて5回の千日手があったので、実際は15局指している。以降、順位戦ではC級1組に在籍し、第70期(2011年度)では他力ながらも最終局までB級2組昇級の可能性を残していた。
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棋歴
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弟の畠山鎮とともに、将棋界唯一の双子棋士である。しかも、1989年10月1日に二人同時にプロ入り(四段昇段)し、話題と驚きを呼んだ(奨励会三段リーグから1つの期に四段昇段するのは原則2名だけであり、その2名が畠山兄弟であった)。 小学4年から5年に上がる頃の1980年春、第5回小学生将棋名人戦で準優勝。 奨励会の頃に参加した第12回(1990年)「若駒戦」(非公式棋戦)で優勝。 プロ入り後、1991年度に大型棋戦の全日本プロトーナメント(第10回)でベスト4に進出する活躍で、早くも頭角を現す。準決勝で羽生善治棋王(当時)に敗退。 1993年度、王将戦(第43期)の予選を7連勝で勝ち上がり、入るのが困難とされる王将リーグに名を連ねる活躍。リーグでは初戦で羽生善治竜王(当時)から1勝を挙げたが、残り5局を落とした。5連敗の相手は、森内俊之六段(後の名人)、米長邦雄名人(当時)、村山聖七段、中原誠前名人(当時)、郷田真隆五段(前年度に王位のタイトル獲得)である。 1994年度、新人王戦でベスト4入り。同年度、第13回早指し新鋭戦で棋戦初優勝。 順位戦では、鎮がまだC級2組に留まっていた頃の第54期(1995年度)C級1組順位戦で屋敷伸之、久保利明、中川大輔らを破って8勝2敗の2位の成績を収め、B級2組に昇級。ちなみに、2敗を喫した相手は、三浦弘行と郷田真隆である。 1997年度、第45期王座戦でベスト4入り。同年度、第38期王位戦では、リーグ入り。 1998年度、第29回新人王戦で三浦弘行と決勝三番勝負を戦うが、0-2で敗れて準優勝。同年度、第46期王座戦で2年連続ベスト8。 第13期(2000年度)竜王戦3組で優勝し、2組昇級を決める(鎮に1年遅れ)。本戦トーナメントでも、初戦で5組優勝の山本真也に勝ったが、その次(準々決勝)で羽生善治に敗れた。第42期(2001年度)王位戦でリーグ入り。2017年3月8日、勝数規定により八段に昇段した。
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棋歴
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1982年、第3回全国中学生選抜将棋選手権大会で優勝。同年12月奨励会に6級で入会し、師匠の松田のもとで内弟子生活を送る。 奨励会三段に昇段したとき、ちょうど現行制度の第1回三段リーグが始まった。第2回リーグの昇段者争いは接戦となり、木下は10勝5敗の成績ながら1位の成績を取って、プロ入りを果たす。 第4期(1991年度)竜王戦6組の初戦でアマチュアの天野高志に敗れるが、敗者復活の昇級者決定戦を勝ち進み、最後に郷田真隆に勝利して、5組に昇級した。 26歳のとき、東京から郷里の長野に居を移し、対局のたびに東京に出向く生活を始める。 第12期(1999年度)竜王戦5組で優勝(4組昇級)。藤井猛竜王への挑戦権を争う本戦トーナメントでは、初戦の佐藤紳哉に勝利し、2回戦で井上慶太に敗れた。 順位戦では2008年度まで21年間C級2組で指した後、フリークラス宣言をおこなった。
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棋歴
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小学校3年の頃、父親から将棋を教わる。若松門で奨励会に入ったのは中学2年生の秋であり、遅めのスタートであった。谷川浩司と井上慶太は兄弟子である。 奨励会棋戦の第11回「若駒戦」で優勝。決勝日(1989年6月5日)の前に、すでに四段昇段していた。 1988年度後期奨励会三段リーグで、史上1位タイの16勝2敗の成績を収め、1989年4月にプロ入り。高田尚平とともに、平成に入ってからの初の四段昇段者である。 第21回(1990年度)新人王戦でベスト4。 第4期(1991年度)竜王戦6組(1990 - 1991年)で、郷田真隆新四段らに勝ち決勝進出。 第5期(1992年度)竜王戦では、丸山らに勝ち5組優勝。 第47期(2006年度)王位戦で、リーグ入り。残留には至らなかったものの、当時の名人・森内俊之に勝利するなど、健闘した。 その一方で順位戦を不得手とする傾向が見られ、プロ入りから28年間連続でC級2組に在籍し、第63期(2004年度)と第67期(2008年度)でいずれも2勝8敗に終わり降級点を喫した。成績次第ではフリークラスへの降級が危惧される状況で臨んだ第68期(2009年度)では、同様の境遇にあった有吉道夫に勝利するなど、4勝6敗(44人中35位)で降級を回避した。第72期(2013年度)に6勝4敗の成績を挙げ、5年ぶりに降級点を消去した。 しかし翌期以降の順位戦では再び成績が振るわず、第74期(2015年度)でまたもや2勝8敗で降級点を喫し、フリークラス降級の危機に陥った。その状況で迎えた第75期(2016年度)でも苦戦が続き、2017年1月19日の8回戦において、降級点争いの競合相手である森雞二が勝った事により、藤原の当年度におけるの降級点取得(累積3個目)が確定。このことに伴い、第48期(1989年度)から28年間連続で順位戦C級2組に在籍した記録も途絶えた。 フリークラス初年度は一転して好調が続き、降級から10ヶ月が経過した2018年1月末現在で17勝9敗、同年3月末までに4敗する前に1勝を挙げることで、第77期(2018年度)以降のC級2組順位戦に復帰が可能となる見込みであったが、4連敗してしまい初年度の復帰はならなかった 。この連敗の中には、第31期竜王戦において、かつての自らの弟子である久保田貴洋アマに敗れた局が含まれる。
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棋歴
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幼稚園の頃、アマチュア四段の父に教わったことが将棋を始めたきっかけであった。 1998年9月、6級で奨励会に入会。直後に7級に降級し、5級昇級までに2年弱を費やした。以降も18歳の誕生日直前にようやく初段となり、そこから二段まで2年半、二段から三段まで3年3ヶ月を費やすなど、後にプロ棋士となる奨励会員としては、著しい苦労をした。 24歳で迎えた第48回(平成22年後期)より三段リーグに参加。好不調の波はあったものの、4期目となる第51回(平成24年前期)で14勝4敗の成績(優勝)を修め、25歳(26歳の年齢制限まであと1期しか猶予がない状態)でプロ入り。 第24回(2012年)新人王戦には、奨励会三段として出場したが1回戦で敗れた。 2013年度は2桁勝利をあげたが、第72期C級2組順位戦に白星が集まらずに3勝7敗に終わり、順位戦1年目でいきなり降級点となる不運な年であった。 第2回(2016年度)叡王戦への不参加を表明。理由について連盟から公式発表はないが、一門のイベントで中村修がファンに謝罪している。本人も「将棋ファンを心配させて申し訳ない」「理由はいくつかあるが、今は伏せておく」「今後は、他の棋戦で頑張る」という内容をネットで述べている。 2018年10月30日、第31期竜王6組昇級者決定戦 決勝(対牧野光則五段)に勝ち、5組昇級を決めた。2020年度は、第46期棋王戦予選決勝で都成竜馬を破り本戦に出場。本戦トーナメントでも竜王名人の豊島将之に勝利する活躍を見せた。
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棋歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/22 03:54 UTC 版)
1982年、第7回中学生名人戦で優勝。その翌年に奨励会で指し始める。第1回三段リーグで13勝3敗の成績を挙げ、プロ入り(四段昇段)する。そのときのもう一人の昇段者は、同門の先崎学であった。以来、順位戦では毎年安定して好成績を残す。B級1組に初昇級するまでの15年間において、9勝1敗が1回、8勝2敗と7勝3敗が各々6回であり、次点に泣いた期が3度あった。 第11回(1988年度)若獅子戦で、棋戦初優勝。第20回(1989年度)新人王戦で準優勝。 第45回(1995年度)NHK杯戦では、七冠王となったばかりの羽生善治と決勝で戦う。得意の右玉戦法で羽生に立ち向かった。敗れて準優勝に終わったが、それから間もない頃、NHKテレビに出演した際、「羽生を相手にして力いっぱい指した。今年度一番の対局。」と感想を語った。 1997年、竜王戦で1組に初昇級。6組初参加より決勝トーナメント出場経験が一度もないまま1組に昇級した棋士は、中川が史上初である。 第57期(1998年度)B級2組順位戦の第9回戦で藤井猛竜王(当時)に2つ目の黒星をつけ、先崎のB級1組昇級をアシストした。自らのB級1組昇級は、その4年後であった。 第41期(2000年度)王位戦でリーグ入り。タイトル経験者3名(丸山忠久、郷田真隆、南芳一)に勝利して3勝2敗とするが、同星の郷田(前期から残留)との順位差に泣き、リーグ残留ならず。 第11期(2003年度)銀河戦の決勝トーナメントで羽生善治竜王・名人(当時)、森内俊之らを破り決勝進出。決勝で佐藤康光棋聖(当時)に敗れて準優勝。 第64期(2005年度)B級1組順位戦の最終局は、勝てばA級昇級という一番であったが、深浦康市に敗れて昇級を逃した。 第55期(2007年度)王座戦で、渡辺明竜王(当時)を下してベスト8進出。 第57期(2009年度)王座戦で、高橋道雄、阿久津主税、谷川浩司、森下卓、藤井猛を破り、挑戦者決定戦まで進むが、山崎隆之に敗れ、初のタイトル挑戦を逃す。 2010年度、日本将棋連盟理事の仕事をこなす中、第69期B級2組順位戦で昇級争いトップ(8勝1敗)の状態で最終局の対畠山成幸戦を迎える(畠山にとっては、勝てば降級点を消せるという一局)。結果、中川は敗れ、昇級争いのライバルが勝ったため、逆転昇級を許してしまった。 2011年12月9日、公式戦通算600勝(将棋栄誉賞)を達成。 2011年12月21日、一身上の都合により、日本将棋連盟理事を辞任。のち、連盟会長であった師匠米長邦雄の死去後の『将棋世界』追悼号(2013年3月号)に追悼文を寄せ、米長の晩年は師弟関係が絶縁状態だったことを記した。2013年6月7日、将棋連盟理事改選により再び理事に就任する。
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棋歴
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1988年度後期三段リーグにて15勝3敗で2位の成績を挙げ、1989年4月1日付で四段に昇段。プロ入り後2年間で計55勝を挙げた。 順位戦C級2組には20期在籍。第53期(1994年度)にて2勝8敗で降級点を喫す。その後、第66期(2007年度)は2勝8敗、第67期(2008年度)は1勝9敗となり、2期連続の降級点で、2009年度よりフリークラスに降級した。 竜王戦は3組に5期在籍。第5期(1992年度)5組ランキング戦と第20期(2007年度)4組ランキング戦の決勝で敗退し、決勝トーナメントに出場することはなかった。 フリークラス在籍年限経過後の2019年4月1日に公式戦最終対局完了後の引退が発表された。2019年8月9日の第32期竜王戦6組昇級者決定戦で杉本和陽に敗れ、現役引退となった。
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棋歴
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5、6歳の頃、近所の子供が指しているのを見たのが将棋との出会いであるが、夢中になったのは中学2年の頃。以来、3年間、毎週の土日に川西市にあった森安秀光(当時五段)の教室に通い、最終電車で帰宅する。 その森安を師匠として1975年、17歳のときに奨励会で指し始める。比較的順調に昇級・昇段を重ね、1979年12月に三段となる。 ところが、そこからが鬼門であった。1982年4月に二段に降段。8月には三段に復帰するものの、なかなか四段昇段(プロ入り)できずにいるうち、1987年に三段リーグ制度が復活。四段昇段は半年に2名という狭き門となった。第1回三段リーグでは17人中16位で惨敗。しかし、第2回では一転、2局を残した時点で早くもプロ入りを決めた。30歳2か月でのプロ入り(1988年4月1日)は、戦後生まれの将棋棋士では伊藤能の30歳8か月に次ぐ2番目の高齢記録(当時)であった。また2014年時点まで唯一二段降段後にプロとなった棋士である。 1998年度と1999年度に対局数30前後、勝率5割前後の成績を挙げ、棋士人生での一つのピークを迎える。 順位戦・竜王戦共に昇級歴はなく、順位戦は15年連続でC級2組に在籍し、その間、降級点が累積3点となったため、2003年度からフリークラスとなる。竜王戦も第2期から出場したものの最高記録は6組ランキング戦準決勝進出(第13期及び第14期)であった。 プロ入り以来長らく公式戦の本戦(決勝トーナメント)に出場できずにいたものの、プロ入り23年目の第19期銀河戦では、ブロック戦で最多勝ち抜き者(田丸昇・藤原直哉・佐藤和俊に勝ち3連勝)に該当し、棋士人生で初めて決勝トーナメントに出場した(トーナメントは1回戦で渡辺明に敗北)。 上述の経緯でフリークラスに降級してから10年間で、順位戦C級2組への復帰条件に相当する成績を収めることができず、2012年度の最終対局日をもって引退することが内定していた。野田は2012年度末(2013年3月31日)の時点で、第26期竜王戦6組昇級者決定戦への出場資格を残し、1回戦(2013年5月29日)では島本亮に勝ったものの、2回戦(2013年6月27日)で室岡克彦に敗れ、同日付けで引退した。三段リーグを勝ち抜いた棋士の引退は野田が初めてである。
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棋歴
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奨励会二段の頃、第5回(1982年度)「若駒戦」の決勝(東西決戦)で有森浩三に勝って優勝。同棋戦では翌年も決勝進出している(神崎健二に敗れ、準優勝)。 第44期(2003年度)王位戦の予選で中原誠、深浦康市に勝ってリーグ入りする活躍。リーグでは1勝に留まり、残留失敗。 第56回(2006年度)NHK杯戦では、阿久津主税、森下卓に勝ち、ベスト16入り。 第73期順位戦C級2組で3勝7敗に終わり、降級点3となりフリークラスに編入となった。
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棋歴
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羽生善治と同日に四段に昇段した(1985年12月18日奨励会例会にて)。 2004年4月より女流育成会幹事を務めた。(2009年3月末、女流育成会の廃止により退任) プロ入り以来、順位戦との相性が悪く、C級2組に19期在位して最終局まで昇級争いに残ったのは第50期(1991年度)のみ、第63期(2004年度)で降級点の累積が3点となり、規定によりフリークラスに降級し、順位戦への参加資格を失った。その後10年以内の復帰は叶わず、2016年4月1日の第65期王将戦一次予選で石井健太郎に敗れたのを最後に現役を引退した。 順位戦を除く棋戦では、コンスタントに実績を残している。第32期(1990年度)王位戦では予選を勝ち上がり挑戦者決定リーグに白組で出場。3回戦終了の時点でリーグ陥落が確定していたものの、最終戦でそれまで4戦全勝だった郷田真隆に勝ち、郷田のリーグ全勝を阻止し中田宏樹とのプレーオフにもつれ込ませると同時に、自身のリーグ全敗を回避した。
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棋歴
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京華中学校に在学中より、大学生も参加する関東オール学生最強者戦などで上位入賞を果たす。2004年、北國王将杯の準決勝で敗れたことをきっかけに、富山県に転居。 2005年5月15日、朝日アマ名人戦で、天野高志名人との三番勝負に勝利し、歴代最年少記録の19歳3か月で獲得。これにより参加資格を得た第24回朝日オープン将棋選手権では、プロに3連勝(阪口悟四段、浦野真彦七段、有吉道夫九段)し予選決勝まで進み、矢倉規広五段(当時)に敗れる。アマチュア時代の活躍は他に、平成最強戦優勝(2005年)・準優勝(2001年)、赤旗名人戦準優勝(2003年)。 朝日アマ名人獲得の実績により受験資格(満22歳以下でアマチュア公式戦全国大会優勝または準優勝者)を満たし、奨励会初段を受験。試験は、関西将棋会館で奨励会員と5番勝負をし3勝するもので、3勝1敗で合格。初段受験制度を利用した初のケースとなった。合格後は、初段を3か月、二段を1年3か月で通過して、三段リーグ入り。初参加の第42回三段リーグでは、15回戦を終了した時点で13勝2敗とトップであったが、そこから3連敗を喫し次点(3位)。翌第43回三段リーグも11回戦を終了した時点では9勝2敗とトップであったが、リーグ終盤に失速し再び次点(13勝5敗)。しかし2回の次点によって得られるフリークラス編入の権利を行使して、プロ入りした。 第60回NHK杯で、予選決勝で橋本崇載に勝利し初の本戦出場を果たす。本戦1回戦では頭を丸刈りにして対局に臨んだが、屋敷伸之に敗れた。 第52期王位戦で、予選決勝で中村修に勝利し初のリーグ入りを果たす。勢いに乗ってその後も勝ち星を重ね、2011年1月19日の竜王戦6組ランキング戦2回戦の対伊藤博文戦で勝利した時点で、フリークラスから順位戦C級2組への昇級条件の1つ(良いとこ取り30局以上で勝率6割5分以上)を満たし、昇級を果たした。その昇級決定後に始まった王位リーグでは、残留はならなかったがA級棋士の三浦弘行から勝ち星を挙げた。 第24期(2011年度)竜王戦6組で準優勝し、竜王戦初昇級(5組昇級)。翌第25期では2回戦で敗退したものの、昇級者決定戦を勝ち抜き2012年10月22日の決勝(及川拓馬戦)に勝利し、2年連続の昇級。これに伴い、竜王ランキング戦連続昇級の規定に基づき、同日付で五段昇段。 第76期(2017年度)順位戦C級2組では成績が振るわず0勝10敗に終わり、第74期(2015年度、3勝7敗)以来、2個目の降級点を喫した。 第77期(2018年度)順位戦C級2組では3勝7敗の成績を挙げるも、前年度クラス最下位による順位差が響いて3個目の降級点が付き、フリークラスに陥落することになった。
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棋歴
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1955年、25歳でプロデビュー。 1956年、東西対抗勝継戦で5人抜き(優勝)。1962年の同棋戦では6人抜き(優勝)。 第17期(1962年度)順位戦C級2組で9勝4敗の1位の成績を収め、33歳にして初昇級。第19期(1964年度)ではC級1組で10勝2敗の1位の成績でB級2組へ昇級。そして、第21期(1966年度)では10勝2敗の2位で、自己最高のB級1組へ昇級。2期目で降級するが、第30期(1975年度)B級2組で9勝1敗で1位となり、B級1組へ復帰。 1969年度、第9期十段戦で三次予選3回戦に進出。 第24回(1976年度)王座戦で、内藤國雄らを破りベスト4進出。準決勝で二上達也に敗れる。それと並行して、第29期棋聖戦で本戦進出。1回戦で二上達也を破るが、2回戦で森雞二に敗れる。 第19期(1978年度)王位戦の予選で芹沢博文、二上達也らを破り、リーグ入り。米長邦雄らに勝って3勝2敗でトップに並ぶが、プレーオフで敗退する。 第18回(1984年度)早指し将棋選手権で田中寅彦、内藤國雄に勝って4回戦に進出するが、中原誠に敗れる。 第10期(1997年度)竜王戦5組の昇級者決定戦決勝で、2ヶ月前まで棋聖だった三浦弘行に勝ち、4組へ復帰。 第57期(1998年度)C級2組順位戦で、累積3つ目の降級点を喫し、69歳で現役を引退。
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棋歴
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10歳の頃、父から教わり将棋を始める。 1968年、6級で奨励会に入会。以降、三段昇段までは、各昇級昇段に1年以上をかけることなく順調に昇る。 1973年度後期から三段リーグ(旧制)で3期(1年半)を戦うが四段に上がれず、そこで三段リーグ制度が廃止。それから約1年後の1975年3月4日、武市三郎に勝ち、12勝4敗の規定により四段昇段(プロ入り)。その武市との一局で採用した戦法は、奨励会入会以来2度目の採用の振り飛車(阪田流向かい飛車)であった。「知らない将棋を指せば震えないだろう」と考えたからだという。 プロ3年目の1977年度に、全棋士中5位の勝率(0.667)を挙げる。 第17期十段戦の予選(1977 - 1978年)で5連勝し、狭き門の十段リーグ入りにあと一歩と迫るが、予選決勝で大山康晴に敗れる(当時、本戦入りできるのは毎期2人のみであった) 第41期(1982年度後期)と第47期(1985年度後期)の棋聖戦で一次予選・二次予選を通過し、本戦進出。 第42期(1983年度)と第43期(1984年度)のC級2組順位戦で、2期連続で次点(4位)となり昇級を逸する(いずれも8勝2敗)。第49期(1990年度)にも8勝2敗の成績を収めたが、9位。 第1期竜王戦(1987 - 1988年)で5組優勝。本戦進出するとともに4組昇級。 第59期(2000年度)C級2組順位戦で累積3点目の降級点を喫し、フリークラスに陥落。以降、2011年までに順位戦復帰を果たせず、規定により引退。
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棋歴
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1997年 初段、二段 1998年 三段 1999年 四段 2001年 五段 2003年 六段 2006年 新人王戦優勝 2008年 七段 2010年 台日精鋭プロ囲碁選手権準優勝(優勝は周俊勲) 2013年 第38期碁聖戦挑戦者決定戦に進出も、河野臨に敗れ挑戦ならず。
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棋歴
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5歳の頃に父親に将棋を教わったことをきっかけに、将棋を覚える。次第に熱中し、NHK杯テレビ将棋トーナメントを毎週録画するようになり、いつしかクラスメートと将棋を指しても物足りなさを感じるほどに棋力は上達し、近所の将棋教室に通うようになって、さらに上達した。 2007年4月に、6級で奨励会に入会、15歳で初段、16歳で二段に昇段するまではすこぶる順調だったものの、そこで足踏みをし、3度も初段降段の危機に瀕し、結局三段昇段に3年8ヶ月を費やした。奨励会最後の関門である三段リーグには、2013年度後期(第54回)より参加。当初2期はコンスタントに白星を重ねて勝ち越したものの、四段昇段につながる成績(2位以上)を修められなかった。参加3期目(第56回・2014年度後期)でも、他力ながら昇段の可能性を残していた状態で迎えた最終日に連勝できず、4位に留まってしまった。しかし順位2位で迎えた翌第57回では4勝3敗の前半戦から連勝を重ね、成績首位で迎えた最終局でも1勝1敗となり、逃げ切りの形で優勝を決め、四段に昇段した。 奨励会三段として出場した第5期(2015年度)加古川青流戦では、当時既にプロ四段となっていた石井健太郎に勝利した。 2017年6月20日、第30期(2017年度)竜王戦6組昇級者決定戦にて、加藤一二三に勝利した。加藤は前年の順位戦にて累積3度の降級点を取り、規定により引退が決まっていた。そのため、本棋戦が最後の参加棋戦であり、敗退すると最後の対局となることから、加藤に引導を渡す形となった。 第50期(2019年度)新人王戦を決勝まで勝ち抜く。増田康宏との決勝三番勝負を2勝1敗で制し、棋戦初優勝となった。新人王の記念対局(非公式戦)は、同年に46歳で初タイトルを獲得した木村一基王位との「師弟戦」となり、高野が勝利した。
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棋歴
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末尾の年表 も参照。 1983年に史上最年少で名人になった頃、「中原時代」を築いた中原誠十六世名人の後継者と目され、1991年度には四冠王となった。しかし続いてやってきたのは「谷川時代」ではなく、羽生世代の棋士達との対決の時代であった。特に、羽生善治との150局を超える戦い(現役棋士同士では最多)は、ゴールデンカードと呼ばれることとなる。
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棋歴
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父から将棋を教わったのをきっかけとして、小学校3年当時から「将棋サロン吉祥寺」(後に荻窪に移転)に通い棋力を上達させた。 2003年に将棋サロン吉祥寺の席主から、指導対局に訪れた田丸昇を紹介され、師弟関係を締結。同年9月に6級で奨励会に入会。奨励会入会以降も、将棋サロン吉祥寺に毎日のように通い、主にアマチュアの強豪選手と練習対局を続けた。棋士・奨励会員が有志で結成する研究会には時間的な束縛を苦として所属しなかった。田丸及び席主の理解もあり、順調に昇級・昇段を続け、2009年7月に三段に昇段。三段リーグには2009年度後期(第46回)より参加。その間、2011年9月に将棋サロン吉祥寺が閉店し、練習の場所を失った井出はリーグにおける成績が低迷した。2011年11月に将棋サロンが荻窪に移転して以降は調子を取り戻しコンスタントに勝ったものの、四段昇段に繋がる好成績は修められず、11勝5敗で最終日を迎えた参加7期目(第52回・2012年度後期)の三段リーグでは、井出が連勝し、宮本広志が1敗以上すれば四段昇段の可能性があり、将棋サロンの席主が将棋会館に赴き吉報を待ったにもかかわらず、17回戦で敗れたため昇段には至らなかった。 以降、再び成績不振に陥ったものの、田丸との話し合いの席で「何かを変えてみるといい」とアドバイスを受けてから、当初消極的だった公式戦の記録係を積極的に勤めたり、棋風の幅を広げたりして乗り越えた。 そして迎えた参加13期目(第58回・2015年度後期)の三段リーグでは、初戦から3連敗するなど前半戦は4勝5敗と負け越したものの、後半戦で連勝を重ね、10勝6敗で最終日を迎えた。当期三段リーグは都成竜馬が最終日を待たずに優勝(四段昇段)を決定させて、2位争いが熾烈な状態であった。11勝5敗が佐々木大地を含む4名(うち1名は井出より前期成績に基づく順位が上位であった)・10勝6敗のうち井出より順位が上位であった参加者が2名いたため、井出が2位になるためには、井出自身が連勝した上で、11勝5敗で井出より順位が上位であった1名が連敗し、他の5名が1敗以上喫することが条件とされ、その確率は0.78%とされていた。しかし最終日の対局結果において上記の条件が全て満たされたため、井出が逆転で2位に繰り上がり四段昇段を決定させた。
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棋歴
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5歳のとき父から教わり将棋を始める。 11歳、小学6年生時の2006年9月、6級で奨励会入り。以来、快進撃を続け、中学2年生時の2009年1月に三段に到達。三段リーグを2期以内で抜ければ、現行三段リーグ制度のもとでは渡辺明に次ぐ2人目の中学校在学時でのプロ入り決定となるところであったが、3期目までは10勝8敗が最高で、昇段争いに加わることはなかった。 4期目の2010年度後期三段リーグは快調に白星を重ね、最終日を前に13勝3敗の単独トップに立つ。ところが2011年3月23日、東日本大震災の影響で延期された最終日に、連敗し13勝5敗となった。阿部は集中力を保つことが難しかったことを認めている。しかし昇級争いのライバルも軒並み苦戦し、阿部が連敗した場合に逆転する可能性があった5人のうち、逆転したのは門倉啓太(13勝5敗で順位は23位の阿部より上位の6位)だけだった為、2位で四段昇段(プロ入り)を果たした。16歳5か月でのプロ入りは、現行の三段リーグ制度が始まって以降では、藤井聡太(14歳2ヶ月)、渡辺明(15歳11か月)、佐々木勇気(16歳1か月、阿部の半年前にプロ入り)に次ぐ4番目の年少記録である。
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棋歴
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「石井健太郎 (棋士)」の記事における「棋歴」の解説
祖父に将棋盤を貰ったことをきっかけに、将棋に興味を持ち始め、所司には奨励会入会前(幼稚園時代)から将棋教室で教わったという。2003年、第28回小学生将棋名人戦に千葉県代表として出場。 2004年9月29日に6級で奨励会に入会。初段まで順調に昇級及び昇段を続け、初段から二段に1年2ヶ月、二段から三段に1年8ヶ月とややもたついたものの、2009年3月(高校2年生当時)に三段リーグへの参加権を獲得した。 初参加から3期目(2011年度前期・第49回)は昇段争いの8番手で最終日を迎え、自身が連勝し、2番手から7番手の参加者が全員1敗以上すれば2位となる状態で連勝を遂げ、更に2番手から6番手の参加者が全員1敗ずつしたものの、7番手の藤森哲也も連勝したため“頭ハネ”を喰らい3位(次点の獲得)に留まってしまった。第50回・第52回でも、次点獲得の可能性を残して最終日を迎えたが、いずれも連勝できずフリークラス編入権を逸した。しかし、第53回(2013年度前期)では前半から好調を維持しトップ独走の状態から逃げ切り、最終日を待たずして2位以上を確定させ、最終的に15勝3敗・1位の成績を修め、四段昇段(プロ入り)。 第1回(2011年度)加古川青流戦に奨励会三段として参加し、2回戦で瀬川晶司、3回戦で渡辺大夢、準々決勝で永瀬拓矢にそれぞれ勝利し、ベスト4に進出した。(準決勝で当年度優勝者の船江恒平に敗れる。) 2015年度には、第9回朝日杯の二次予選 決勝で佐藤康光九段に勝利し、本戦へ出場(本戦は1回戦で当年度優勝者の羽生善治四冠に負け)。 プロ4年目(順位戦は3期目)となる2016年度は、前年度の成績優秀につき第66回(2016年度)NHK杯将棋トーナメントでシード(予選免除)となり、本戦トーナメントに初出場(前期の第65回NHK杯は予選1回戦で、中村亮介五段に負け)。本戦1回戦では、師匠である解説の所司和晴七段が見守るなか、大石直嗣六段に勝利した。 2017年10月30日、第59期王位戦予選(対横山泰明六段)に勝ち、五段に昇段した。 第76期(2017年度)順位戦C級2組では8勝2敗の成績を挙げるも、順位差で昇級を逃した。 第77期(2018年度)順位戦C級2組では前年同様8勝2敗の成績を挙げるも、今度は前年度の好成績による順位差により3番目の昇級枠に滑り込み昇級を果たした。 第78期(2019年度)順位戦C級1組では9勝1敗の好成績だったが、近年の競争の激しさ(C級1組では74期から5期連続で9勝1敗頭ハネが発生)と昇級直後の順位の悪さにより昇級はならなかった。
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棋歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/13 23:50 UTC 版)
1985年度の関東奨励会で9連勝し、四段昇級。第45期C級2組順位戦で9勝1敗となり、3位でC級1組に昇級。C級1組には15期在籍した。 2010年4月、第68期C級2組順位戦で降級点2となり、フリークラス宣言した。2010年に現役勤続25年表彰。
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棋歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/18 08:46 UTC 版)
小学5年の夏に祖父に教わって将棋を始めた。後にプロとなった者としては遅めのスタートである。 2000年4月、女流育成会(Bクラス編入)入会。 2001年、第10回アマ女王戦で優勝。同年アマ女流名人戦準優勝。さらに全国中学生選抜将棋選手権大会の女子の部でも優勝を果たした。また、「フェアリープリンセス」というチームで団体戦にも出場していた。 2003年10月、女流2級としてプロデビュー。 2006年度、第29期女流王将戦で予選の3局を勝ち抜き、本戦入り。それにより昇級規定で2007年4月1日付けで女流1級に昇級した。 2007年、第1期マイナビ女子オープンで本戦入り(1回戦で甲斐智美に敗れる)。 2009年、第36期女流名人位戦予選を3連勝で勝ち抜き、B級リーグ入り。リーグ戦では5勝4敗と勝ち越し、A級昇級はならなかったもののリーグ残留を果たす。同年の第21期女流王位戦でも予選を通過。しかし挑戦者決定リーグでは1勝4敗に終わる。 2013年4月、前年度指し分け(9勝6敗)により女流初段に昇段した。 2014年、第22期倉敷藤花戦では挑戦者決定戦に進出。しかし山田久美に敗れ、初のタイトル挑戦は逃した。また同年の第26期女流王位戦でも予選を通過したが、挑戦者決定リーグでは5年前と同じく1勝4敗に終わった。 2016年、第2回女子将棋YAMADAチャレンジ杯では準優勝を果たした。 2021年1月19日、第43期女流王将戦予選1回戦で山口仁子梨に勝ち、女流初段昇段後60勝となり女流二段に昇段した。
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棋歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/22 13:58 UTC 版)
奨励会時代もプロになってからも関東所属であるが、師匠は関西の本間爽悦八段である。これは、親戚の一人が本間との交流があったからである。 本格的に将棋を始めたのは中学2年の頃であり、後にプロになった者としてはかなり遅い。中学卒業後、15歳で奨励会に入会。三段昇段から四段昇段(プロ入り)までは僅か4か月ほどであったが、二段から三段昇段までには3年以上かかった。その間、対戦相手の昇段がかかった一番で何度も勝ち、「奨励会の殺し屋」というキャッチフレーズがつく。依田と同じ1980年度にプロ入りしたのは合計8人と多く、55年組と総称される。 1985年度に22勝18敗、勝率0.550の成績を挙げ、棋士として一つのピークを迎える。 1990年度は年間では負け越すも、大山康晴十五世名人、屋敷伸之棋聖、および、後の名人・丸山忠久から勝利を挙げる。 1994年、フリークラス宣言でフリークラスに転出し、順位戦から退く。 2009年度は、フリークラス宣言者の引退規定により現役最後の年度となる。2010年3月25日、竜王戦6組昇級者決定戦1回戦・対武者野勝巳戦で敗れ、全棋戦の対局を消化。同日付で引退。55年組の中では最初の引退となった。
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棋歴
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入門当初は関西奨励会に所属し、地元の高校に進んだ。初段の時に関東奨励会に移籍し、以降、22歳で三段に上がるまでの間、師匠の家で内弟子生活を送る。関西所属時は、奨励会の対局以外で将棋をほとんど指さなかったにもかかわらず、順調に昇級を重ねた。 1981年4月に四段昇段(プロ入り)。 第2回(1986年度)天王戦の四段戦で森下卓・富岡英作らを破って優勝し、本戦進出。さらに本戦1回戦で南芳一を破るが、2回戦で森雞二に敗れる。 第16期(1990年度)棋王戦で本戦出場。 1991年度、第59期棋聖戦で、一次予選・二次予選を抜けて本戦入り。一次予選決勝では佐藤康光を、二次予選決勝では大山康晴を破っている。 第7期(1994年度)竜王戦5組で準優勝し、4組初昇級。また、第20期(1994年度)棋王戦で2度目の本戦出場。 2001年度、第20回朝日オープン将棋選手権で本戦出場。 順位戦の降級点規定により、2003年度よりフリークラスとなった。それから10年間、順位戦C級2組への復帰条件に相当する成績を収めることができず、2012年度の最終対局日をもって引退することが内定していた。植山は2012年度末(2013年3月31日)の時点で、第26期竜王戦6組昇級者決定戦への出場資格を残し、1回戦(2013年6月5日)では兄弟子の田丸昇に勝ったものの、2回戦(2013年6月28日)で石川陽生に敗れ、同日付けで引退した。
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1980年に四段になった55年組の一人である。 奨励会二段の頃、第1回(1978年度)「若駒戦」で準優勝。 第46期(1987年度)C級2組順位戦で羽生善治と並んで10戦全勝し、同時昇級。 1999年6月3日に早指し将棋選手権の川上猛戦で、禁手である連続王手の千日手を指して負けた。 2013年7月4日、第26期竜王戦ランキング戦5組残留決定戦(対岡崎洋六段)に勝ち、八段に昇段した。 2017年10月4日、第59期王位戦予選で木下浩一七段に勝ち、公式戦通算600勝(将棋栄誉賞)を達成した。 第77期(2018年度)順位戦C級1組は3勝7敗で2つ目の降級点が付く結果となり、C級2組に降級となったが、C級2組で指すことを選ばずフリークラスに転出した。以降、順位戦以外の公式戦参加は、最長で満65歳を迎える2025年度までとなる。
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1981年11月に四段に昇段しプロ入り。 1983年度、2期目の順位戦となる第42期順位戦C級2組で8勝2敗の成績を挙げてC級1組に昇級。 1986年度に入ると、第12期棋王戦で本戦入り。本戦でも初戦でA級に昇級したばかりの南芳一に勝つ活躍を見せた。また、第28期王位戦でも予選を勝ち抜き、挑戦者決定リーグでも森雞二、米長邦雄に勝つなど活躍した。 1988年度、4組からのスタートとなった第1期竜王戦で3組昇級を決める。そして、第47期順位戦でも、C級1組5期目にしてB級2組昇級を決めた。 1990年度、第3期竜王戦3組で準優勝を果たし、2組昇級と本戦出場を決めた。2組には第7期までの4期在籍した。 王座戦は第47期(1998年度)に、棋王戦では第28期(2002年度)、32期(2006年度)にそれぞれ本戦入りを果たした。順位戦B級2組では第53期(1994年度)、第58期(1999年度)で降級点を取ることがあったが(第53期分は第55期の勝ち越しで消去)、それ以外は大きく勝ち越したり負け越したりしない状態が続いた。竜王戦も、第8期(1994/95年)より3組から昇降級しない状態が続いた。 2006年度、第65期順位戦B級2組で2つ目の降級点を取り、18期在籍したB級2組から降級した。2008年度、第21期竜王戦でも16期在籍した3組から降格。以降、4組、5組でも連続で降級し、第24期以降は6組在籍となった。 以降、順位戦は、C級1組で第68期(2009年度)、第69期(2010年度)に連続降級点を喫しC級2組に降格。C級2組でも第71期(2012年度)、第72期(2013年度)で降級点。 2014年度、第73期順位戦C級2組で1勝9敗に終わり、降級点3となりフリークラスに編入となった。 2019年1月17日、病気療養を理由に2018年12月10日にさかのぼって、2019年3月31日まで休場することが発表された。その後も休場期間の延長が繰り返され、公式戦への復帰がないまま、フリークラス在籍最終年度の2021年6月30日付で現役を引退した。
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級友と学校で対局したのが将棋を始めたきっかけであった。 2001年9月、6級で奨励会に入会。直後は成績が振るわず、1年後には“直近10局で2勝8敗”を2回喫し、奨励会規定により7級に降級、5級昇級に2年を費やした。それ以降は順調に昇級・昇段を続け、18歳となった直後に二段に昇段。1年半で三段に昇段し、第44回(平成20年後期)より三段リーグに参加。4期目の第47期では4勝14敗と不振に喘ぎ降段点を喫する苦労を味わったものの、8期目となる第51回(平成24年前期)で13勝5敗の成績(上村亘に次いで2位)を修め、大学を卒業した翌年の23歳でプロ入り。 奨励会三段枠で出場した第1期(2011年)加古川青流戦では、1回戦で当時既にプロとなっていた佐藤慎一四段を破った。(2回戦で奨励会員に敗退) 第4期(2014年)加古川青流戦では、決勝三番勝負に進出。藤森哲也に連勝して自身初の一般棋戦優勝を果たす。 2016年、第47期新人王戦で決勝に進出したが、増田康宏に連敗で敗れ、準優勝。 2017年8月15日、第59期王位戦予選(対北島忠雄七段)に勝ち、五段に昇段。
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明石市立藤江小学校1年の時に上級生から教わったことをきっかけに将棋を始める。当時はサッカーの方が好きだったが、頼まれて出場した将棋大会で県大会まで勝ち進んだのを機に将棋に本腰を入れた。加古川将棋センターに通い、小6で奨励会に入会。2006年、2007年の文部科学大臣杯 小・中学校将棋団体戦で準優勝を果たしている。なお、2006年大会ではのちにプロ棋士となる冨田誠也と同チームであった。 17歳で三段リーグ入り。 三段時代の第49期新人王戦では澤田真吾六段、梶浦宏孝四段らを破り決勝三番勝負に進出。奨励会三段の決勝進出は史上5人目だったが、藤井聡太七段に連敗し準優勝に終わった(なお、出口の新人王戦での成績は、プロ入り後も含めてこの準優勝が最高であった)。第64回奨励会三段リーグでは開幕から10連勝と波に乗り、終盤失速したものの14勝4敗の1位で四段昇段を決めた(同時昇段は黒田尭之)。井上慶太門下では稲葉陽、菅井竜也、船江恒平に次いで4人目のプロ棋士となった。
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奨励会二段のとき、第7回若駒戦で優勝(1985年2月2日)。それから約1年半後の1986年7月にプロ入り。 プロ入り当初は好不調の波が著しく、初参加から2年目となる第47期(1988年度)順位戦ではC級2組において降級点を喫するも、15年目の第60期(2001年度)で8勝2敗・42人中3位の成績を修め、C級1組へ昇級。 第2期(1989年度)竜王戦では6組ランキング戦を優勝。5組へ昇級する。第13期(2000年度)では5組ランキング戦で準優勝し、4組へ昇級(第14期は5組降級、第15期は4組復帰、第15期で5組へ再び降級)。 第58期(1991年度前期)棋聖戦で一次予選から6連勝し、初の本戦入り(1回戦で中原誠に敗れる)。 1993年度は全成績で32勝15敗と大きく勝ち越した(年度全体での長沼の成績としては、2021年現在まで最大の勝利数となっている)。 第42期(2001年度)王位戦でリーグ入り。残留には至らなかったものの、谷川浩司・山崎隆之に勝利するなど健闘した。 第50期(2002年度)王座戦で一次予選からの6連勝で、初の本戦入り(1回戦で郷田真隆に敗れる)。 2007年以降、早指し棋戦での活躍が顕著になる。 第57回(2007年度)NHK杯戦は、予選で杉本昌隆・小林健二らを破り、プロ入り21年目にして本戦初出場。本戦でも井上慶太・松尾歩らを破って勝ち進み、さらには、準々決勝で羽生善治の無理攻めを受け止めて勝利し、ベスト4に進出。準決勝で前回優勝者であり同門の弟弟子でもある佐藤康光(この期も優勝する)に敗れたものの、次期シード権を獲得した。 第21期(2008年度)竜王戦では5組昇級者決定戦を制して4組復帰。 第18期(2009年度 - 2010年度)銀河戦では、決勝トーナメント出場者を決めるブロック戦で勝又清和(7回戦)・神谷広志(8回戦)・屋敷伸之(9回戦)・高橋道雄(10回戦)・久保利明(11回戦)らを破り、決勝トーナメントに進出(1回戦で行方尚史に敗れる)。翌第19期でも、高崎一生・橋本崇載らを破り、2年連続で決勝トーナメントに進出。更に決勝トーナメントの1回戦でも木村一基を破りベスト8となった(準々決勝で糸谷哲郎に敗れる)。そして翌第20期でも本戦ブロックを5連勝で突破し、3年連続で決勝トーナメントに進出(1回戦で広瀬章人に敗れる)。 2016年度ではデビュー以来最大の絶不調に陥る。第75期順位戦では1勝9敗で降級点、年度の全成績でも3勝19敗と大幅な負け越しとなった。 2017年度も不調は続き、第76期順位戦では2勝8敗で2回目の降級点となり、C級2組へ陥落した。第30期竜王戦でも3連敗して5組へ降級。また、年度の全成績は5勝20敗であり、再び大幅に負け越した。 第27期(2018年度 - 2019年度)銀河線本戦Gブロック4回戦で、1回戦から勝ち上がってきた立命館大学1年生の木村孝太郎アマと対戦し、118手目に二歩を打って反則負けとなった。二歩による反則負けは、第22期(2013年度 - 2014年度)銀河戦本戦Bブロックの沖幹生アマ対伊藤博文戦以来5年ぶりで、銀河戦史上3度目となった。 第32期(2019年度)竜王戦では5組で3連敗を喫し、6組へ降級となった。 第79期(2020年度)C級2組順位戦では3勝7敗で終わり、1回目の降級点となった。
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棋歴
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5歳ぐらいの頃、縁台将棋を見て将棋を覚える。 1957年4月、9歳で升田幸三門下となり上京して内弟子となる。升田の妻の実家が隣町にあり、そこに升田が避暑に来ていたことで偶然出会ったのがきっかけだという。内弟子と同時に奨励会初等科に入会するが、慣れない環境もありホームシックのために同年7月に帰郷する。本人によれば「たった数ヵ月では帰りにくかった」とのことで、すぐには故郷に戻らず、大阪の叔母のところに1年ほど住んでいた。 1958年、7級で増田敏二門下として再度入門。当時は田中魁秀とよく練習将棋を指していたという。中学卒業後は関西将棋会館の「塾生」となる。 旧制度の奨励会三段リーグに1964年前期から在籍。3期目に11勝1敗というずば抜けた成績で関西優勝をするが、中原誠との東西決戦で昇段を逃す。しかし、次期の1965年度後期で再び11勝1敗で1位となり、規定により東西決戦なしで四段昇段(プロ入り)を果たす。 順位戦では、第23期(1968年度)のC級2組で11勝1敗(1位)、第24期(1969年度)のC級1組で10勝2敗(2位)、第27期(1972年度)のB級2組で8勝2敗(1位)でそれぞれ昇級。そして、第29期(1974年度)のB級1組で12勝1敗で1位の成績を収め、1975年4月にA級八段となった。四段から八段までの昇段が、すべて順位戦の規定での昇段である。以降、12期連続でA級在籍。 1975年度、王座戦の決勝三番勝負で中原誠を2-0で破り、棋戦初優勝。 1976年度前期の棋聖戦でタイトル初挑戦。大山康晴に1-3で敗れ、奪取はならなかった。 1976年度前期の早指し選手権戦で優勝。同棋戦では、1983年度に2度目の優勝をしている。 1980年度の順位戦A級リーグにおいて7勝2敗で優勝し、1981年の名人戦の挑戦者となるが、中原との七番勝負は1-4で敗退。1983年度の十段戦でも中原に挑戦したが、七番勝負は2-4で敗退。 1982年度、第1回全日本プロトーナメントにおいて、決勝三番勝負で青野照市に2-1で勝利し、初代優勝者となる。 1984年度、棋王戦五番勝負で米長邦雄四冠王を3-1で破り、初のタイトル獲得。米長の永世棋王獲得(5連覇)を阻止した。翌年度、谷川浩司に0-3で奪われる。 1986年度から1987年度前半にかけては、大活躍する。第48期(1986年度前期)棋聖戦五番勝負で、またも米長邦雄からタイトル奪取し(3-1)、2度目のタイトル獲得。王座戦で中原誠に挑戦(0-3で敗退)。第49期(1986年度後期)棋聖戦で南芳一の挑戦を3-1で退け、タイトル初防衛。さらに、第50期(1987年度前期)棋聖戦で西村一義の挑戦を3-0のストレートで下し、棋聖3連覇(半年後に、南芳一に0-3で奪われる)。 1988年度、第1期竜王戦で1組優勝。 2007年8月9日、公式戦通算900勝を達成した。史上9人目で、59歳での達成は最年長記録。 還暦を超えてからも各棋戦において健闘し、3組在位で迎えた50代最後の竜王戦(2007年度、第20期)では決勝戦まで勝ち進み2組昇級を決めた。 2017年度のNHK杯テレビ将棋トーナメントの予選で1回戦で井上慶太に、2回戦で小林健二に、決勝で増田裕司にそれぞれ勝利し、69歳にして本戦出場。これは同年度同棋戦の本戦出場者50人の中で最高齢。1回戦で飯島栄治に敗れ、本戦勝利はならなかった。 加藤一二三及び森雞二が規定により引退した2017年度以降は、桐山が最高齢かつ最古参、そして唯一の棋士番号2桁の現役棋士となった。 2018年3月末時点の公式戦通算勝利は992勝で、通算1000勝まであと8勝に迫るも、2018年度は前年度から26連敗するほど大不振の年となり、第77期順位戦C級2組で2つ目の降級点を喫した。第32期竜王戦5組昇級者決定戦で伊奈祐介に勝利して連敗を止めたものの、この年度の公式戦勝利はこの1勝のみであった。 2019年度も公式戦で連敗が続き、2020年1月16日に行われた第78期順位戦C級2組8回戦で高見泰地に敗れ0勝8敗となり、この時点で3つ目の降級点が確定しフリークラスへ陥落。年齢制限により竜王戦を除く2020年度以降の公式戦の参加資格を失った。この年度も順位戦9回戦で近藤正和に勝利した1勝のみに終わった。 第33期竜王戦で5組在籍を維持した場合のみ、竜王戦に限り第34期に出場が可能であったが、2020年7月7日に行われた竜王戦5組残留決定戦で井出隼平を千日手指し直しの末に破り、現役続行を決めるとともに通算995勝目を挙げた。 第34期竜王戦では前期に続いて5組残留決定戦に回ったが、2021年5月14日の上村亘戦に勝利して5組残留そして現役続行を決めるとともに通算996勝目を挙げた。なお、フリークラス編入を経て在籍期限経過後、竜王戦5組在籍による特例規定は2年間に限られるため、第35期竜王戦で4組に昇級することができなければ引退が決定する。しかし2022年2月22日の5組昇級決定戦で伊奈祐介七段に敗れたことで4組昇級がなくなり、引退が決定。2022年4月27日の5組残留決定戦・畠山鎮戦が最終局となり現役を引退した。1000勝を目前にしながらあと4勝及ばずの引退となった。
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棋歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/05 08:28 UTC 版)
将棋に熱中し出したのは中学の頃で、後に一流棋士になった者としては晩学である。1968年(昭和43年)に15歳で新進棋士奨励会に4級で入会。将棋会館で寝泊まりし雑用をこなす「塾生」となった。 東西対抗三段リーグ制度(奨励会A組)の最後のリーグ卒業者である。青野が関東優勝を決めた後、過去に2度の関西優勝歴があった淡路仁茂が関西優勝をしたため、東西決戦なしで二人が同時に四段に昇段することとなった。その朗報が青野のもとに届いた当日、青野がちょうどタイトル戦の記録係をしていたことは話題となった。 プロ1年目(1974年度、21歳)で新人王戦に優勝。出場時は四段昇段前であったが、2回戦と3回戦の間に四段昇段している。 プロ2年目(1975年度)には、順位戦でC級1組昇級を決め、さらには第27期棋聖戦と第2回名将戦でも本戦で活躍するなど全棋士中トップの勝率(0.745)を挙げ、第3回将棋大賞の勝率一位賞と新人賞を同時受賞。 1978年度、公式戦15連勝を記録(将棋大賞連勝賞)。同年度、第5期名棋戦で優勝。 第37期(1978年度)C級1組順位戦、第38期(1979年度)B級2組順位戦で、ともに9勝1敗で1位となり、2年連続昇級でB級1組に上がる。そして、B級1組3年目で9勝3敗・1位の成績を収め、1983年、A級八段となる。その後3期目で陥落するが、1期で復帰している。 1979年度、新人王戦で2度目の優勝。記念対局では、前回優勝の時には敗れた中原誠名人に勝つ。 第32回(1982年度)NHK杯戦で決勝進出。中原誠に敗れて準優勝。第1回全日本プロトーナメントで準優勝。 第24期(1983年度)王位戦でリーグ入り。谷川浩司、大山康晴、田中寅彦、森安秀光を相手に4連勝する快進撃であったが、5回戦で新鋭の高橋道雄との全勝対決で敗れ、挑戦権を逃す(高橋はこの期に王位を獲得し、史上最低段タイトルの記録を作ることとなる)。 第46期(1987年度)A級順位戦で5勝4敗とし、A級で初めて勝ち越す。 第37期(1989年度)王座戦でタイトル初挑戦。五番勝負で途中まで2勝1敗として中原誠王座を角番に追い詰めるが、そこから2連敗して惜敗。全局先手番勝利のタイトル戦であった。 第3期(1990年度)竜王戦で高橋・谷川・中原らを破り、1組優勝。 2000年、10期ぶりにA級に復帰(以降4期連続で在籍)。同年、史上23人目の通算600勝(将棋栄誉賞)を達成。次の第59期A級順位戦では5勝4敗とし、A級の順位を自己最高の5位とした。 第8回(2000年)および第11回(2003年)の達人戦(非公式戦)で優勝。第16回(2008年)には準優勝。 第68期(2009年度)B級2組順位戦で、降級点を1つ抱えた状態で前半戦4連敗しC級1組への陥落が危ぶまれたが、そこから5勝5敗の指し分けとし、逆に降級点を消した(2年連続指し分けの規定)。同じクラスから元タイトルホルダーの内藤國雄・森雞二が降級していく中で、ベテランの意地を見せた。 2010年、第58期王座戦でベスト4に進出。 2011年2月17日、史上23人目の通算700勝(655敗)を達成。 還暦を迎えて以降も、特に順位戦において健闘を続けてきた。第70期(2011年度)順位戦で桐山清澄(当時64歳)がC級1組に降級して以降、昭和20年代生まれの棋士で唯一B級2組に留まり続ける。なお当期順位戦では、1勝9敗と振るわず再び降級点を喫してしまったものの、翌第71期は2勝5敗から後半戦3連勝で5勝5敗の指し分け、翌第72期は4勝6敗と負け越したものの前期の好成績が影響し降級点を回避した。 翌第73期は3勝5敗からの2連勝で5勝5敗の指し分け、翌第74期は初戦から2連勝と好調に滑り出し、後半戦でやや失速し最終局(10回戦・対井上慶太戦)を4勝5敗で迎えた。この対局に勝ち、2期連続で指し分けの成績により、再び降級点を抹消。 第42期(2016年度)棋王戦予選で千葉幸生六段に勝ち、10年ぶりとなる本戦に進出。本戦トーナメントでは糸谷哲郎八段に敗れた。 第76期順位戦でC級1組、第79期でC級2組に降級した。2022年度は桐山清澄の引退により現役最年長、フリークラス宣言の場合に定年となる65歳を超える現役でも唯一の棋士となる。
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棋歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/05 09:20 UTC 版)
小学生3年の時に、家に将棋教室の先生が来てくれたのがきっかけで将棋を始める。3年の冬には東海研修会に入会。 2014年、第39回小学生将棋名人戦準優勝。同年夏に新進棋士奨励会に入会する。この頃ある研究会で藤井聡太と指すことになり、右玉戦法で藤井を圧倒したため、以後しばらくは右玉戦法を主力としていた。 三段に昇段して2期めの2020年後期の第68回三段リーグで13勝5敗の成績を修め、1986年の長沼洋以来35年ぶりの岐阜県出身プロ棋士となった(なお女流棋士には山口仁子梨・山口稀良莉姉妹がいる)。 第35期竜王戦6組ランキング戦準決勝にて門倉啓太を破り、決勝進出。5組昇級を決める。
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棋歴
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将棋との出会いは3歳のとき。祖父と伯父が指しているのをみてなんとなくルールを覚えた。小学校1年生のときから2歳上の兄と将棋センターに通う。1988年、小学3年生(予選出場は2年生から)のとき、第13回小学生将棋名人戦で準優勝。翌々年の1990年9月から奨励会で指し始め、1999年度前期から三段リーグに参加する。そして、混戦となった2002年度後期三段リーグで11勝7敗という成績で2位となり、四段昇段を果たした。11勝7敗での四段昇段の前例は野月浩貴のみであり、このときは村山慈明・遠山雄亮・佐藤天彦・広瀬章人などが同成績の激戦であったが、順位に恵まれた西尾が昇段となった。 第12期(2004年度)銀河戦で、決勝トーナメントに進出。 第78期(2007年度)棋聖戦で、中原誠、森内俊之(当時名人)らを破り、ベスト8入り。 第24期(2011年度)竜王戦3組準決勝(2011年4月21日)で小林裕士に勝って2組昇級を決め、六段に昇段。 第23期(2015年度)銀河戦では本戦トーナメントで9連勝を達成し、ブロック最多連勝者として決勝トーナメント進出。決勝トーナメントでも三浦弘行を破りベスト8の成績を残した。 また、非公式戦ではあるものの、2014年に開催された将棋電王戦タッグマッチにおいてponanzaとチームを組み、優勝を果たした。 2017年3月2日、第75期順位戦C級2組で9勝1敗の一位となり、C級1組昇級が決まった。 2019年2月13日、規定の成績を挙げたとして、七段に昇段。この日行われた第45期棋王戦予選で藤森哲也に勝ったことによる勝数規定を満たしてのものであるが、この時点で第26期銀河戦の結果(2018年12月25日収録・2019年2月14日放映の田中悠一戦の勝利と、2019年1月17日収録・2019年3月14日放映の宮本広志戦の敗退)が放映されていなかったため、詳細な事由公表はされなかった。発表は14日夕方だったため、1日遅らせていれば勝数規定と明確に発表できたのであるが、それを待つことなく発表された。
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1970年、16歳のときに廣津の弟子となり、奨励会で指し始める。二段昇段(1973年5月)から三段昇段(1977年4月)までが長かった。ただし、三段昇段の事由となった12勝3敗の途中には、結核を患ったことによる約半年の休場がある。 デビュー直後の第38期(1979年度)順位戦C級2組(当時の名称は「昇降級リーグ戦4組」)で8勝1敗で最終戦を迎え昇級争いに加わるが、敗れて8勝2敗となり次点(4位)で昇級を逃す。ところが翌年(第39期)では最後に2連敗して7勝3敗の成績でありながら、前期成績によるリーグ表上位が活きて2位となり、C級1組へ昇級。その翌年の第40期(1981年度)C級1組では8勝2敗で2位となり、連続昇級でB級2組に上がる。 第48期(1989年度)順位戦B級2組で7勝3敗ながら2位となり、A級に一歩手前のB級1組へ昇級。段位は七段となった。翌年、第49期(1990年度)B級1組では、元棋聖の田中寅彦や当時王座獲得の途上にあった福崎文吾などから勝利を挙げるも、3勝8敗で陥落。なお、第50期(1991年度)順位戦では9回戦(1992年2月21日)で羽生善治前竜王と当たり、負けている。 第6期(1980年度)棋王戦で初代棋王の大内延介らに勝ち、本戦3回戦進出。 1981年度、第31回NHK杯戦の3回戦で中原誠棋聖に勝ち、4回戦に進出(ベスト8)。 第37期(1989年度)王座戦では、予選(1988年度)で大内延介や王将2期の中村修らに勝ち本戦進出。本戦では谷川浩司名人に勝ち2回戦進出。 第43期(1995年度)王座戦で中原誠永世十段を予選決勝で破り、さらに本戦ではタイトル5期の南芳一に勝って2回戦進出。しかし、その一方で第54期(1995年度)- 第55期(1996年度)の順位戦B級2組で2期連続の降級点を喫し、C級1組への陥落が決定。鈴木はC級1組で指さずに将棋の普及活動や文筆活動に力を入れたいとし、フリークラス宣言をして順位戦から転出する道を選択。2004年、フリークラスの在籍期限よりも前に引退届を提出し引退。 2017年5月29日、日本将棋連盟理事(非常勤)に就任。
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棋歴
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5才の時、父(アマ5段)に教わったのが、将棋をはじめたきっかけである。父親と同じ「八王子将棋クラブ」に通っていた。 小学4年生のときにプロをめざしはじめ、桜井昇八段に入門する。11歳(小6)で奨励会に入会。奨励会三段リーグにおいて、第36回(2004年度後期)14勝4敗で次点、第40回(2006年度後期)でも13勝5敗で次点となり、通算2度の次点の規定によりフリークラスのプロ棋士となる権利を得る。当時25歳で年齢制限が迫っていたこともあり、権利を行使してプロデビューした。 また、上記の他に第39回でも14勝4敗の成績を残しており、ここでは次点にも届いていない(昇段者は佐藤天彦と戸辺誠、次点は豊島将之)。通常、奨励会三段リーグで14勝4敗の成績はほぼ昇段が確実とされる成績であり、この成績で昇段に至らなかった例は現在までに7例しかない(豊川、田村、豊島、伊藤2、服部、西山)。また、14勝を2度、13勝を1度という極めて高い成績を残しながら一度も2位以内に届かなかった棋士も伊藤のみである。 第60回NHK杯で、予選を突破して初の本戦出場を果たす。本戦では一回戦で阿部隆に勝利し、二回戦で羽生善治に敗れた。 2011年7月25日から11月25日まで公式戦16連勝を記録。そして12連勝目に当たる10月26日の第24期竜王戦6組3位決定戦(敗者復活戦)の大野八一雄戦の勝利で、竜王戦5組昇級を決めると同時にフリークラスから順位戦C級2組への昇級条件の1つ(良い所取り30局以上で勝率6割5分以上)を21勝11敗で満たし、フリークラス四段の棋士となってから4年7ヶ月で順位戦の参加資格を勝ち取った。 2013年度に開催された第7回朝日杯将棋オープン戦では当時の順位戦A級棋士である谷川浩司を本戦トーナメントで破りベスト8、翌2014年度に開催された第8回大会では当時の順位戦A級棋士である阿久津主税、三浦弘行を本戦トーナメントで破りベスト4に入る活躍をみせた。
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棋歴
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1984年に22歳で奨励会三段となったが、その後、なかなか四段昇段(プロ入り)ができなかった。 1987年に三段リーグ制度が復活し四段昇段は狭き門となるが、その第1回の四段昇段の2名は、いずれも米長門の弟弟子の中川大輔、先崎学であった。 その5年後、伊藤は、当時の規定である年齢制限(31歳までに四段昇段)の1期前の第11回三段リーグで2位に入り、四段昇段(プロデビュー)を果たした。その最終日は、リーグ順位22位、成績4番手で迎えたが、2戦2勝し、さらにライバルが敗れての大逆転で、伊藤自身は「神風」「奇跡」と表現した。 プロ入り後は主に早指し棋戦でその才能を発揮し、第44回(1994年度)NHK杯の予選を勝ち抜き本戦に進出。1回戦で森雞二に、2回戦では東和男にそれぞれ勝利した。いずれも、後手番から相手の得意戦法からの激しい攻めに動じることなく受けて立つ、伊藤ならではの勝局であった。 その他にも、要所要所で見せ場を作っている。第19回全日本プロ将棋トーナメント1回戦(2000年6月16日)では、後に初代永世竜王となる渡辺明に棋士人生初の黒星を喫させ、第61期順位戦・C級2組3回戦(2002年8月20日)では、第30回将棋大賞・連勝賞を受賞した山崎隆之の連勝を16で止めた。 その一方で、持ち時間が長い順位戦は不得手としており、C級2組で13年指したあいだ、指し分け(5勝5敗)を超える成績を収められず、第54期(1995年度)及び第64期(2005年度)で降級点を喫し、2006年にフリークラス宣言をした。 順位戦と同様に持ち時間が長い竜王戦も不得手としており、第6期(1992-1993年度)から第29期(2015-2016年度)まで、最下級クラスの6組から昇級できずにいた。 2016年12月25日、現役のまま死去。54歳没。日本将棋連盟は七段を追贈した(2016年12月25日付)。
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棋歴
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6歳の頃、祖父と父が指しているのをみて将棋を始める。2006年に開催された第31回小学生将棋名人戦で優勝。同年9月に奨励会入会。 2013年4月に奨励会三段となる。三段として2016年度の第6回加古川青流戦に出場して決勝に進出。井出隼平との三番勝負は1勝2敗に終わり、準優勝となる。 奨励会三段リーグは第58回(2015年度下期)と第64回(2018年度下期)にて最終局で敗れて昇段を逃す(第64回では、次点を獲得している)。そして第65回(2019年度上期)にて、13勝5敗でリーグ2位の成績を挙げ、遂に四段昇段によるプロ入りを決めた。なお、三重県出身の棋士がプロになるのは、澤田真吾以来10年ぶりの事だった。
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棋歴
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初挑戦となった1988年前期の三段リーグを16勝2敗で1位通過、20歳でプロデビュー。中原の弟子の中で、最も早くプロになった。小倉に土をつけた屋敷伸之が2位で小倉と同様三段リーグ1期抜けを果たしたが、第1回を除くと三段リーグ初挑戦者によるワンツーフィニッシュは2013年9月に至るまでこの時が唯一であり、三段リーグ1期抜けも両者のほかには第12回(1992年度後期)で川上猛、第24回(1998年度後期)で松尾歩、第53回(2013年度前期)で三枚堂達也、第59回(2016年度前期)で藤井聡太が達成しただけである。
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棋歴
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奨励会への入会は16歳8ヶ月(高校2年)と非常に遅かった。しかし入会後は、初段までハイペースで昇段するなど、大きく成績を崩すことなかった。1982年6月7日、23歳で四段昇段しプロ入りを遂げた。 1990年、新人王戦で準優勝(決勝三番勝負で、森下卓に敗戦)。1998年、第11期竜王戦で、ランキング戦5組で優勝して本戦出場を果たす(6組で優勝した北島忠雄に1回戦で敗れる)。 順位戦では初参加の第42期(1983年度)よりC級2組に在籍。第46期(1987年度)及び第51期(1992年度)では7勝3敗の好成績だったが、昇級には至らなかった。第62期(2003年度)に3つ目の降級点を取り、フリークラスに降級した。その後、10年以内にC級2組昇級条件を満たすことが出来ず、規定により2014年5月1日に引退となった。
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棋歴
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第30回(2001年度後期)三段リーグで、13勝5敗で大平武洋に次ぐ2位に入り、24歳で四段昇段。三段リーグでは、当時中学3年生で後に永世竜王となる渡辺明と2度対戦し、いずれも勝利した。 しかしプロ入り後は実力が発揮できず、順位戦では初参加の第61期(2002年度)から3期連続で降級点を喫し、順位戦の制度上最短記録・最年少記録(27歳)でフリークラスに陥落してしまった。成績は第61期で2勝8敗(45人中43位)・第62期で3勝7敗(44人中37位)・第63期で2勝8敗(47人中44位)。B級2組以下の順位戦が1期あたり10戦に定着した第27期(1972年度)以降の、初参加期順位戦における最少勝数の記録でもある。 2005年度の第31期棋王戦予選決勝で、中座真五段に勝ち、本戦に出場。現役13年において、タイトル戦の本戦出場はこれが唯一であった。 2010年10月8日、竜王戦6組昇級者決定戦(3位決定戦)で櫛田陽一に勝って5組昇級を決め、竜王戦・順位戦を通じて棋士人生初の昇級。2014年5月22日、竜王戦5組残留者決定戦で川上猛に破れ6組に降級。 2014年8月3日(放送日)、NHK杯将棋トーナメントに初出場。1回戦で香川愛生と対戦。香川の師匠の中村修九段が解説者であるにもかかわらず「熊坂、金を取れ、よし、取った!」と声を出すほどの熱戦を繰り広げ、96手で全棋士参加棋戦の本戦での初勝利を挙げた。 11月23日(放送日・対局は後述の森内戦の前)の2回戦も、インタビュー時に「最近、少し調子がいい」と謙遜して答えていたが、惜しくも畠山鎮七段に敗れた。 2014年10月22日、第56期王位戦予選2回戦で森内俊之竜王に勝利。フリークラス所属の棋士がタイトルホルダーに勝利したのは2008年に銀河戦本戦トーナメントで中原誠永世十段が羽生善治名人に勝利して以来6年ぶり。順位戦の最高所属クラスがC級2組のフリークラス棋士がタイトルホルダーに勝利したのは2005年に銀河戦決勝トーナメントで櫛田陽一六段が佐藤康光棋聖に勝利して以来9年ぶり。中原・櫛田はいずれも自らの意志で転出(宣言)したフリークラスだったため、「順位戦C級2組で降級点が3累積しフリークラスに編入された」棋士としては史上初であった。 2015年2月5日、竜王戦6組ランキング戦2回戦で渡辺大夢に勝利し、この時点における熊坂の成績は、 前年度NHK杯戦予選1回戦からの17局:17勝10敗 2014年度成績:14勝10敗 であった。 熊坂は2014年度末までのフリークラスの在籍期限が迫っており、年度末での引退決定を回避するためには2014年度中に順位戦C級2組へ復帰しなければならなった。C級2組昇級の条件は、 直後の3局を3連勝(連続30局で20勝10敗、勝率.667で「良い所取りで、30局以上の勝率が6割5分以上」を満たす) 年度末まで3勝1敗以上(年度成績が17勝11敗、勝率.647で「年間対局の成績で、「参加棋戦数+8」勝以上の成績を挙げ、なおかつ勝率6割以上。」を満たす) のどちらかの成績を達成することであった。 そして、2015年2月19日のNHK杯戦予選は1回戦で大平武洋に勝利するも、2回戦で高橋道雄に敗れ「連続30局で20勝10敗」は達成出来なかった。3月19日の竜王戦ランキング戦3回戦では増田康宏に敗れ、「年度成績が17勝11敗」も達成出来なかった。 2015年4月1日、フリークラス編入者の在籍年限となる10年が経過したことにより、連盟より引退が発表される。5月7日、第28期竜王戦6組昇級者決定戦2回戦で石井健太郎に敗れ、この対局をもって現役引退となった。1994年4月に順位戦制度及びフリークラス規定が現行のものになって以降、四段昇段から最短の13年1ヶ月での現役引退となった。棋士番号200番台の棋士として、そして21世紀に四段昇段した棋士としても初めての引退であった。
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棋歴
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三枚堂の祖父が懇意にしていた内藤國雄にすすめられて将棋を覚える。内藤の紹介で石田和雄が師範を務める「柏将棋センター」に、1歳年下の佐々木勇気と共に幼稚園時代から通い詰め、石田に見守られつつ棋力を向上させた。 2004年9月に内藤國雄門下で奨励会に入会。6級から5級に昇級するのに1年8ヶ月を費やし、その間2回に亘り7級降級の危機に瀕し、2級から1級にも1年3ヶ月、1級から初段にも1年7ヶ月、初段から2段にも1年9ヶ月を費やすなど、段級位が低かった頃は著しく苦労した。しかし、2011年12月に二段となって以降は一転して好調を維持し、1年経った2012年12月に三段となり、2013年度前期・第53回から三段リーグに参加する権利を得た。 三段リーグ参加後も好調は続き、初参加の第53回で2番手(13勝3敗)の状態で最終日を迎え1勝1敗としたものの、3~4番手(12勝4敗)の参加者がいずれも連勝しなかったことにより、最終的に14勝4敗・2位の成績を修め、第24回(1999年度後期)の松尾歩以来29回(14年6ヶ月)ぶり、現行制度以降5人目の“三段リーグ1期抜け”の快挙を遂げる形で四段昇段(プロ入り)した。 このような“スピード昇段”を遂げた為、奨励会三段として出場できる公式戦(竜王戦・新人王戦・加古川青流戦)に出場した経験が無い。 プロ四段としての初対局は2013年12月20日・第40期棋王戦予選、対局相手は偶然にも佐々木勇気であった。(結果は負け) プロ5年目(順位戦は4年目)となる2017年度は、前年度の成績優秀につき第67回(2017年度)NHK杯将棋トーナメントでシード(予選免除)となり、本戦トーナメントに初出場。本戦1回戦で、菅井竜也七段に敗れた。 2017年5月8日、第30期竜王ランキング戦5組準決勝戦(対伊藤真吾五段)に敗れ、この時点での竜王ランキング戦連続2回昇級による五段昇段を逃すが、この敗戦が六段・七段への昇段を早めるきっかけとなった(詳細は後述)。 2017年7月27日、第11回朝日杯将棋オープン戦一次予選(対増田康宏四段)に勝ち、勝数規定(四段昇段後100勝)を満たし五段昇段。 2017年8月27日、第2回上州YAMADAチャレンジ杯で、大橋貴洸(準決勝)と髙見泰地(決勝)を破り、棋戦初優勝。 2017年11月24日、第30期竜王ランキング戦5組昇級者決定戦(対富岡英作八段)に勝ち、4組昇級とともに六段に昇段(竜王ランキング戦連続2回昇級による)。もし上述の同年5月8日の準決勝戦に勝っていたら、その時点で竜王ランキング戦連続2回昇級で五段に昇段したはずだが、同年7月27日の勝数規定による昇段はなくなり、他に昇段規定に該当する事由がなかったため、同年の六段への昇段はなかった。結果的に、5月8日の敗戦が、短期間で四段から六段へと昇段する結果をもたらした。この件に関し、片上大輔七段が「三枚堂四段が竜王戦で裏街道に回ってから昇級したことで、六段にジャンプアップというケースが生じました。」と述べている 2018年5月4日、第31期竜王ランキング戦4組2位となり、3組昇級。 2019年9月4日、第32期竜王ランキング戦3組昇級者決定戦(対行方尚史八段)に勝利して2組昇級。六段昇段後の竜王ランキング戦2回連続昇級により、七段に昇段した。上述の敗戦による六段へのスピード昇段が、七段へのスピード昇段にも繋がった。 第78期順位戦は9勝1敗の好成績でクラス2位となり、C級1組への昇級を決めた。
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棋歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 12:14 UTC 版)
小学校3年生の夏、担任の先生にJTこども大会の案内をもらい、新潟で開催された大会で負けてくやしかったので強くなろうと思って本格的に将棋を始める。小学校4年生まで魚津市立道下小学校に通い、道下公民館の主催する将棋サークルに通っていた縁で、同公民館はInstagramやTwitterで服部を応援している。 2019年、奨励会三段時代に出場した第9期加古川青流戦では決勝まで駒を進め、池永天志四段に敗れたものの準優勝の結果を残した。 三段リーグでは初参加となる2017年第62回奨励会三段リーグで14勝4敗の好成績をあげるも、順位差から次点に留まり1期抜けとはならなかった(14勝をあげながら昇段とならなかったのは2006年第39回の豊島将之・伊藤真吾(2度目)以来5人目、6例目)。しかしその後も11勝、10勝、12勝とコンスタントに成績を残し続け、2019年第66回奨励会三段リーグで再び14勝4敗を記録。今度は順位差によって同じく14勝4敗だった西山朋佳をかわして2020年4月1日付での四段昇段プロ入りを決めた。同期昇段は谷合廣紀、同日付でのプロ入りに編入試験合格者である折田翔吾がいる。 2020年度、初参加の第79期順位戦C級2組では8勝2敗と健闘。勝敗数では3位タイであったものの、順位の差から昇級次々点のリーグ5位に留まり、三段リーグに続き初参加ゆえの順位の低さが響く形となった。 2021年度、第10期の中止を挟んで2年ぶりの開催となった第11期加古川青流戦では、第9期決勝敗退後に残した「また来年、四段になってこの舞台に戻ってきたい」の言葉通り、四段となって再び決勝まで進出。井田明宏四段との三番勝負を2勝1敗で制し、一般棋戦で初優勝した。 第80期順位戦C級2組では開幕7連勝と好調なスタートを切りながら終盤3局で2敗を喫したことで8勝2敗のリーグ4位に終わり、昇級を逃す結果となった。 第7期叡王戦では四段予選を勝ち抜き本戦トーナメントへ出場。八代弥七段、豊島将之九段、船江恒平六段を破り、同棋戦の四段予選勝ち抜き者としては初めて挑戦者決定戦へと進出したが、出口若武五段に敗れタイトル挑戦とはならなかった。
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棋歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 10:04 UTC 版)
小学1年次に、児童館で教えられたことが将棋を覚えたきっかけ。翌年には埼玉県小学生準名人を獲得するほど上達する。 2001年、熊谷市立東小学校4年の第26回小学生将棋名人戦では、東日本代表として決勝トーナメント進出し準優勝する。この模様はNHK教育テレビで放送された。2002年、熊谷市立東小学校5年の第27回小学生将棋名人戦では、東日本代表として決勝トーナメント進出し4強で敗れる。この模様は前述同様NHK教育テレビで放送された。2003年、熊谷市立東小学校6年の第2回全国小学生倉敷王将戦高学年の部では4位。 2003年9月に高橋道雄門下で奨励会に入会。入品までは順調に昇級を重ねるも、初段ではB(奨励会の降段点)を2度取るなど3年余り昇段に掛かったが、二段では3連勝後1敗の後8連勝で3か月余りで三段昇段を果たし即三段リーグ入りを果たす。三段リーグでは、初参加の48回では当回で四段昇段を決めた阿部光瑠の最終局に勝利し1位昇段を阻止するなど見せ場を作ったものの、54回までは参加7期で63勝63敗と中位の成績に留まっていた。2012年よりNHK杯テレビ将棋トーナメントで記録係を務める。第55回三段リーグでは、10戦目までで5敗の後、6連勝し11勝5敗(7番手)で最終日を迎えたが、最終日に2連勝した終了時点でも、上位者3名中2名が勝つと昇段できない状態であった。そのうち増田康宏のみが勝利したため同星2位で四段昇段を遂げた。師匠の高橋は、四段昇段をもう少し早く予想していたことを述べつつ、今後の活躍に期待する旨を公式ブログで明らかにしている。 第66回(2016年度)NHK杯将棋トーナメント予選・決勝で長岡裕也五段に勝ち、奨励会時代に長らく記録係を務めていたテレビ棋戦に初出場(第65回は予選2回戦で佐藤紳哉六段に敗れている)。対局者としては初めてとなる1回戦では、師匠である解説者の高橋道雄九段が見守るなか健闘するも、第1期叡王戦優勝者の山崎隆之八段に敗れた。 第29期竜王戦でも連勝を続け、5組ランキング戦準決勝で村田顕弘六段に勝ち、4組昇級とともに2年連続昇級により五段へ昇段。 つづいて決勝でも、先崎学九段に勝ち本戦トーナメントに出場。本戦では、1回戦で6組優勝者の青嶋未来五段に敗れた。 第43期(2017年度)棋王戦挑戦者決定戦トーナメントでは、行方尚史八段、橋本崇載八段、鈴木大介九段らに勝ちベスト4進出。準決勝で三浦弘行九段に敗れるも、敗者復活戦で佐藤天彦名人と敗者復活戦に回った三浦に勝利して挑戦者決定二番勝負に進出。2連勝が必要となる永瀬拓矢七段との対戦は1勝1敗に終わり、挑戦はならなかった。
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棋歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/01 11:47 UTC 版)
父から教わり、将棋を始める。 その後アマチュア女流棋戦などに参加をする傍らで、2016年11月に関西研修会にD2で入会。4年半ほど在籍して2021年3月に既定の成績をクリアしてB2に昇級、2021年5月1日付で女流2級として関西所属の女流棋士になる。
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棋歴
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1957年、5級で原田泰夫九段門下となり奨励会入り。1964年四段。1985年七段。2002年3月末で引退。2006年八段。 1970年度の第1回新人王戦で優勝。兄弟弟子には佐藤庄平、桜井昇、近藤正和らがいる。 2018年5月20日、死去。76歳没。
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棋歴
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奨励会6級の時代が長く、「奨励会の主」という不名誉なニックネームがつく。 1963年度後期奨励会A組(旧制度の三段リーグ)で関西優勝。東西決戦で山口英夫を破り、四段昇段(プロ入り)。それから間もなく、第8回(1964年度)古豪新鋭戦で準優勝(決勝で米長邦雄四段に敗れる)。 第36期C級2組順位戦で累積2つ目の降級点を喫し、順位戦からの陥落の危機を迎えるが、翌年度、第37期(1978年度)C級2組順位戦で9勝1敗(2位)の成績を収め、C級1組へ昇級。順位戦史上、降級点2点からの昇級は、木下が初めてのケースである。 第31回(1981年度)NHK杯戦で大内延介八段、森雞二八段、大山康晴王将らを破りベスト4進出の活躍(準決勝で加藤一二三十段に敗れる)。 1982年度、全棋士参加の大型棋戦としてスタートした「全日本プロ将棋トーナメント」の第1回で、弟子の南芳一五段(5年後に二冠王となる)らに勝ち5回戦に進出(5回戦で桐山清澄八段に敗れる)。 1999年度、フリークラス在籍で満60歳の誕生日を迎え、2000年の春に現役を引退。通算400勝まであと2勝であった。その直後に七段に昇段。第13期竜王戦6組昇級者決定戦2回戦(対増田裕司)のみ七段棋士として対局した。 2010年10月7日、大腸がんのため大阪市内の病院で死去。71歳没。
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棋歴
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8歳で小学3年の頃、父と兄から習い、将棋を始める。 1953年に16歳でアマチュア名人戦北海道代表になり、1954年1級で渡辺東一名誉九段に入門。1957年四段(プロ入り)。 第14期(1959年度)C級2組順位戦と第15期(1960年度)C級1組で各々1位の成績を収め、2期連続昇級でB級2組へ昇級。 第11期(1961年度)王将戦でリーグ入り。4勝3敗で勝ち越すが、同星の加藤博二・二上達也との残留決定戦で敗れ、リーグ陥落。 1964年、第4回「最強者決定戦」で二上達也・丸田祐三らを破り決勝進出。内藤國雄と決勝三番勝負を戦い、1勝2敗で準優勝。同じく1964年度、第19期B級2組順位戦で9勝3敗・2位の成績を収め、B級1組へ昇級。 第6期(1965年度)王位戦で初めてタイトル挑戦者となる。相手は、五冠独占連続3年目の途中にあった大山康晴。七番勝負は0-4のストレート負けとなった。なお、王位リーグには通算8回入っている。 第6期(1967年度)十段戦で、狭き門の十段リーグに初めて入る。升田幸三と二上達也には各々1勝1敗とするが、他の3名からは1勝も挙げられず、2勝8敗で陥落。 第26期(1971年度)B級1組順位戦で7勝1敗・1位の成績を収め、A級へ昇級。第27期(1972年度)A級順位戦は5勝5敗で残留。第28期(1973年度)A級順位戦は2勝8敗で降級。 第20期棋聖戦(1972年度前期)と第21期棋聖戦(1972年度後期)で、挑戦者決定戦に進出するも敗れる。 第12期(1973年度)十段戦で2度目の十段リーグ入りをし、5勝5敗で残留。次期は3勝7敗で陥落。 1977年、第4期「名棋戦」で、棋士人生で唯一の優勝。 第37期(1978年度)B級2組順位戦で、前半の2勝3敗から粘って5連勝し、7勝3敗・1位でB級1組に復帰。これが最後の順位戦昇級となった。 第1期竜王戦(1987 - 1988年)で、佐藤は3組からのスタート。初戦から2連敗し、1期目にして降級のピンチを迎える。残留決定戦(4名中3名が降級)の1回戦は相手の芹沢博文が死去したため不戦勝。2回戦で丸田祐三に勝ち、降級は免れた。 順位戦C級1組在籍時の1996年3月、59歳で自ら現役を引退する。 2010年9月1日、慢性腎不全で死去。享年73。
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棋歴
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1956年、四段昇段(プロ入り)。 第9回(1965年)古豪新鋭戦で優勝。 1966年、東西対抗勝継戦で5人抜き(優勝)。 プロ入りから14年後の1970年に四段のまま引退する。 日本将棋連盟関西本部の普及部を長く担当。また、自宅教室、出張先のクラブ、団体等での指導、町の文化委員を務めるなど、将棋の普及活動に広く尽力。 2017年9月6日、85歳で死去。
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棋歴
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1953年、プロデビュー。初参加の順位戦(第8期C級2組順位戦)において7勝3敗で2位となり、1期でC級1組に昇級。 2年後、第10期(1955年度)C級1組順位戦で11勝2敗の1位で、B級2組へ昇級。このとき、2位で同時に昇級した‘神武以来の天才’こと加藤一二三から白星を挙げた。 さらに2年後の第13期(1958年度)B級2組順位戦では9勝4敗の1位でB級1組へ昇級。以降17年間B級1組に在籍し続けたが、A級昇級には手が届かなかった。 第10回(1965年度)高松宮賞争奪戦で大山康晴名人(五冠独占中)、塚田正夫永世九段らに勝ち、決勝三番勝負に進出。山田道美に1勝2敗で敗れるが、高松宮賞を獲得。 1967年、第10期棋聖戦で中原誠らに勝ち、予選を突破。本戦では升田幸三九段らに勝ち、準決勝で丸田祐三八段に敗れる。 1969年度、第15期棋聖戦本戦で、大山康晴、芹沢博文、二上達也を破り挑戦者決定戦に進出。内藤國雄に敗れる。 第13回(1979年度)早指し将棋選手権で4回戦に進出。 第7回(1980年度)名棋戦で青野照市、福崎文吾らに勝ち優勝。同棋戦の最後の優勝者となった。 1987年度から2年間、日本将棋連盟の理事を務める。 1994年9月、現役を引退。 2019年10月現在、棋士番号を持つ存命の将棋棋士の中で最も棋士番号が若い(プロ四段となってから経過した年数が最も長い)。
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棋歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/16 04:42 UTC 版)
幼少期に母方祖父に教わり、将棋を覚えた。本格的に将棋を始めたのは小学3年生のときで、その後は地元の広島将棋センターに通って腕を磨いた。広島観音高校在学中に、故・村山聖九段を偲んで広島で開催されている「怪童戦」を2連覇して注目を集める。 2004年9月、高校2年生の時に3級で奨励会に入会。同期入会者の中では2番目に年長であった。奨励会に入会したのは、将棋を全く知らない祖母から「そんなに将棋が好きだったらプロ目指してみないの?」と言われ、学校の勉強も好きではなかったことから「好きな将棋をして生きていけたら最高」と思ったのがきっかけ。 好不調の波があり、昇級・昇段に苦労したものの、2008年5月に三段に昇段。第44回(2008年度後期)より三段リーグに参加。ここでも好不調の波があり、第44回及び第49回(2010年度前期)ではあと1勝足りなければ降段点を喫するところだった。その一方で、第47回(2009年度前期)及び第50回(2010年度後期)では、最終局まで昇段争いに加わる活躍を見せる。 第47回では最終日2連勝すれば昇段であったが1戦目に敗れ、船江恒平と同星の13勝5敗も順位差で次点となった。(他同星に斎藤慎太郎、宮本広志) 第50回では、最終日1戦目で順位上位者が敗れ自身が勝利したため、2戦目で宮本広志が敗れ自身が勝利すれば2度目の次点を得られる所であったが、宮本は敗れたものの自身も敗れ、12勝6敗の同星複数名で次点を逃す。 第52回(2012年度後期)は、最終2局を待たずに弟弟子の千田翔太の昇段が内定し、残る1枠を竹内を含む4人が5敗で並び争う混戦。竹内は前期の成績に基づく順位の関係から、自身が連勝し、かつ1名が2連敗、宮本広志と他1名が1敗以上しなければ昇段できない厳しい状況の中、2位で四段昇段を決めた。 2013年、初参加となる第72期順位戦では2勝8敗に終わり、初参加期順位戦における最少勝数の記録タイ(他に熊坂学、長岡裕也)に終わり、降級点を喫した。これとは対照的に、第27期竜王戦6組ランキング戦では好成績を上げる。アマチュア選手・中田功・佐藤慎一・三枚堂達也を降し、準々決勝に進出。しかしそこで優勝する藤森哲也に敗れ、続く昇級者決定戦でも八代弥に敗れ、1期抜けでの5組昇級には至らなかった。 2014年第86期棋聖戦では一次予選から勝ち上がり、二次予選では谷川浩司や北浜健介を下して決勝トーナメント出場を決めた。(なお同トーナメント一回戦で、豊島将之に敗れる。) 2016年、第29期竜王戦6組ランキング戦では田中寅・星野良生・石川泰を下し準決勝まで勝ち上がり中田功に破れるも、昇級者決定戦決勝において勝ち上がってきた門倉啓太を破り、5組昇級を果たした。 2018年、第68回NHK杯戦の予選・決勝で桐山清澄に勝ち、本戦トーナメント出場。同年9月13日、第67期王座戦一次予選で船江恒平を破り、通算100勝達成。これにより五段に昇段した。
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棋歴
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若くして病気に悩まされた棋士である。 師匠の原田とは10歳違いであり、1949年に佐藤が6級で原田門に入門したとき、原田はまだ26歳であった。プロ入りは1954年の7月、棋士番号は63であり、その直後(約1か月後)にプロ入りしたのが史上初の「中学生棋士」・加藤一二三である。 第12期(1957年度)C級2組順位戦と第13期(1958年度)C級1組順位戦で連続昇級を勝ち取り、B級2組へ昇級。しかし、第15期(1960年度)は病気でB級2組を休場。 第20期(1965年度)B級2組順位戦で9勝3敗(2位)の成績を収め、自己最高のB級1組へ昇級。さらには、つづく第21期(1966年度)で、終盤まで加藤一二三・内藤國雄とA級昇級を争う。しかし、最後の2局を病気で不戦敗し、脱落する。 以降は、第22期と第23期で2年連続休場し、第24期では7つの不戦敗を含む0勝12敗でB級2組へ降級。第25期(1970年度)でB級2組を休場したところで引退した。
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棋歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/27 17:07 UTC 版)
1998年、宮崎市立大宮小学校6年生(出場時は5年生)のとき、第23回小学生将棋名人戦で優勝する。この回の出場者には後にプロ棋士になった者が多く、船江恒平(5年)が準優勝、戸辺誠(6年)が3位、金井恒太(6年)と中村太地(4年)が東日本ベスト4、糸谷哲郎(4年)が西日本ベスト4、牧野光則(4年)が西日本ベスト16である。また、広瀬章人(6年)は東日本大会で戸辺に敗れ、佐藤天彦(5年)は西日本大会で糸谷に負けている。 その1998年の秋に米長の弟子となり、6級で奨励会入り。わずか1年半後の2000年4月に初段に昇段するというハイペースで、将棋界では数例しかない「中学生棋士」の記録の達成の可能性があった。しかし、初段昇段以降に失速し、2005年10月1日に四段(プロ)になるまで5年半を要した。とはいえ、前述のメンバーの中では広瀬に次いで2番目に早いプロ入りであった。ちなみに宮崎県出身者として初の将棋プロ棋士でもある。
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棋歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/28 08:04 UTC 版)
中学1年生のときには、まだアマチュア4級という遅咲きながら、それから1年足らずでアマチュア四段の実力となる。そして、中学2年の秋に奨励会に入り、20歳の誕生日を迎える前にプロ棋士となった。 1983年の若獅子戦で準優勝。1984年の早指し新鋭戦でも準優勝。 1987年の2月から8月にかけて、当時未開拓だった「飛車先不突き矢倉」を武器に公式戦28連勝の記録を樹立(下記参照)。同じ「55年組」の塚田泰明が半年ほど前に作ったばかりの記録(22連勝)を、あっさりと、そして大幅に塗り替えた。以後、30年間破られなかった記録であったが、2017年6月26日の第30期竜王戦決勝トーナメントで藤井聡太が29連勝を達成し、歴代2位となった。 1997年度のB級2組順位戦で9勝1敗の成績を収め、B級1組へ昇級。 第48期(2007年度)王位戦で、同棋戦初のリーグ入り。森内俊之名人(当時)に勝利するが、リーグ残留失敗。 第74期(2015年度)C級1組順位戦では初戦から6連敗し、後半に巻き返したが3勝7敗に終わり、降級点2でC級2組へ降級が決まった。 第78期(2019年度)C級2組順位戦で1勝9敗の成績で2回目の降級点を取り、2020年4月1日付でフリークラス宣言を行った。以後、満65歳を迎える2026年度まで現役となる。 公式戦28連勝とその前後の対局一覧連勝対局日(1987年)棋戦相手手番結果- 1月29日 第37期王将戦 一次予選 1回戦 小野敦生 後手 ● 1 2月10日 第45期順位戦 C級1組 9回戦 野本虎次 後手 ○ 2 2月23日 第37回NHK杯戦 予選 伊藤果 先手 ○ 3 予選 決勝 安恵照剛 先手 ○ 4 3月03日 第45期順位戦 C級1組 10回戦 富沢幹雄 先手 ○ 5 3月19日 第13期棋王戦 予選 2回戦 山口英夫 先手 ○ 6 3月26日 第10回勝ち抜き戦 予選 2回戦 池田修一 先手 ○ 7 予選 決勝 佐伯昌優 先手 ○ 8 4月01日 第51期棋聖戦 一次予選 2回戦 瀬戸博晴 先手 ○ 9 4月08日 第13期棋王戦 予選 3回戦 池田修一 先手 ○ 10 4月30日 第13期棋王戦 予選 決勝 関根茂 後手 ○ 11 5月04日 第37回NHK杯戦 本戦 1回戦 石田和雄 先手 ○ 12 5月12日 第13期棋王戦 本戦 1回戦 石田和雄 先手 ○ 13 5月15日 第51期棋聖戦 一次予選 3回戦 山口千嶺 後手 ○ 14 5月25日 第21回早指し戦 予選 武者野勝巳 先手 ○ 15 永作芳也 後手 ○ 16 鈴木輝彦 後手 ○ 17 6月05日 第13期棋王戦 本戦 2回戦 青野照市 先手 ○ 18 6月09日 第46期順位戦 C級1組 1回戦 剱持松二 先手 ○ 19 6月12日 第51期棋聖戦 一次予選 4回戦 達正光 先手 ○ 20 6月23日 第51期棋聖戦 一次予選 決勝 堀口弘治 先手 ○ 21 6月27日 第21回早指し戦 本戦 1回戦 有野芳人 後手 ○ 22 7月07日 第46期順位戦 C級1組 2回戦 武者野勝巳 後手 ○ 23 7月10日 第6回全日本プロ 1回戦 滝誠一郎 先手 ○ 24 7月13日 第51期棋聖戦 二次予選 2回戦 石田和雄 後手 ○ 25 7月17日 第13期棋王戦 本戦 3回戦 二上達也 後手 ○ 26 7月22日 第36期王座戦 一次予選 2回戦 武市三郎 先手 ○ 27 7月24日 第51期棋聖戦 二次予選 決勝 青野照市 後手 ○ 28 8月17日 第51期棋聖戦 本戦 1回戦 米長邦雄 後手 ○ - 8月21日 第36期王座戦 一次予選 3回戦 室岡克彦 後手 ●
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棋歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/03 20:08 UTC 版)
大阪に住んだ後、父親の死去で、中学2年で母親と上京する。 晩学で知られる。将棋を覚えたのが16歳の頃と遅かったが、近所の将棋クラブでひたすら将棋を指し続け、僅か半年でアマ三段の実力にまで上達する。森は「この期間は夜の11時まで夕食もとらずに将棋を指し続けた」と語っている。戦前はいざ知らず、森以降の世代で、これほどの「晩学」で名人位挑戦、タイトル保持まで進んだ棋士は他にいない。 奨励会入りを志したのも、短期間で将棋道場の中では最強となってしまって「もっと強い人と指したい」という思いを抱いたからであり、道場の師範である大友昇が森の奨励会受験に際して「絶対にプロになれない」と止めにかかったのに対し、森は「プロになる気なんて全然ない」といってどうにか受験にこぎつけた。4級としての入会試験は2勝4敗で不合格の成績だったが、記録係要員として5級で奨励会入りとなった。 1978年、第36期名人戦で中原誠に挑戦したが、「中原は強くない、負ける人はみんな勝手に転んでいるんだ」、「名人になったら土佐に帰る、指してほしい者は土佐に来ればいい」などと強気な発言をした。第1局の朝には突然剃髪して対局場に登場し、関係者を驚かせた(これに中原は動揺したのか第1局に敗北。全体では2勝4敗で中原の防衛)。しかも、この名人戦の模様がNHK特集という形で取り上げられていたため、森の坊主姿が関係者だけでなく、日本全国の視聴者にも知れ渡ることとなった(ただし、NHK特集が放映したのは第三局であり「剃髪姿」ではなかった)。ただ、森自身はのちに「相手を驚かそうとしたのではなく、自らの心を引き締めるために剃髪になったのだ」と語っている。 1982年、棋聖のタイトルを獲得する直前に小池重明と指し込み三番勝負(角落ち、香落ち、平手)を行い、3連敗してしまった。この衝撃は当時の日本将棋連盟にとっても凄まじいもので、会長大山康晴は森に対し急遽罰金を命じたほどであった。 1988年、第29期王位戦に王位の谷川浩司の挑戦者として登場した際マスコミに、「身体で覚えた将棋を教えてやる」と発言し谷川を挑発。下馬評では当時名人だった谷川が有利との見方が大勢だったが、3-3で迎えた第七局、十八番のひねり飛車で谷川を破り、王位を獲得した。次期谷川がリターンマッチを挑む際「あれだけやられたのにまだ懲りないのですか」と再度挑発し話題となった。番勝負は1勝4敗で森の防衛失敗となった。 久々のタイトル戦登場となった1995年の第43期王座戦では羽生善治に挑戦したが、優勢な将棋を終盤で逆転負けする展開が続き、3連敗で敗退した。その際に、「魔術師が逆に魔術(羽生マジック)にやられた」とのコメントを残している。なお、2022年現在、昭和20年代以前に生まれた棋士がタイトル戦に登場したのはこれが最後である。 2006年3月、満59歳11か月にして順位戦B級1組に昇級。大きな話題を集めたが、1期で12戦全敗で降級してしまった。 2017年3月2日、第75期C級2組順位戦最終戦で島本亮に敗れて3勝7敗に終わり、降級点の累積が3個目となり、規定により同年度の最終対局をもっての引退が確定。3月末時点で第30期竜王戦・6組昇級者決定戦を残していたが、5月10日の対局で金沢孝史に敗れて全対局を終え、引退した。
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棋歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/03 18:11 UTC 版)
5歳頃、父と祖父が将棋を指しているのを見た事で、将棋に興味を持った。その後、2009年度に第34回小学生将棋名人戦にて優勝し、中学1年で奨励会へ入ると、2018年4月に三段リーグ入りを果たした。 三段リーグでは参戦から7期目までは勝ち越しと負け越しが3回ずつ、指し分けが1回という状態だったが、8期目となった第70回(2021年下期)にて15勝3敗の成績を収め、2位でのプロ入りを決めた。 なお、プロ入り前(三段当時)は新人王戦にて活躍しており、第51期(2020年度)では第45期棋王戦のタイトル挑戦や第61期王位リーグ入りをした本田奎を、第52期(2021年度)には第79期順位戦でB級2組への昇級を決めた増田康宏を、それぞれ破っている(最終的な三段での公式戦成績は、6勝4敗)。
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棋歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/12 15:39 UTC 版)
将棋のルールを覚えたのは小学3~4年の頃であったが、本格的に指し始めたのは、クラスで将棋が流行った中学1年の頃であり、その後にプロとなった人物としては、かなり遅い部類に入る。友人達と一緒に将棋会館の道場に通うようになり、中学2年の夏に早くもアマ四段となる。 高校1年時(1982年12月)に奨励会に入会。高校を中退し、連盟に泊り込みのような状態で将棋の修行に励んだ。 奨励会では6級から3級に上がるのに1年2ヶ月、二段から三段に上がるのに4年をそれぞれ費やすなど、大きな足踏みを経験したものの、それ以外は順調に昇級・昇段を続けた。 第6回(1989年後期)より三段リーグに出場。4期目となる第9回(1991年前期)で13勝5敗(1位)の成績を挙げ、24歳でプロ入り。 順位戦には第51期(1992年度)より参加。 第58期順位戦(C級2組)では奨励会同期の飯塚祐紀の昇級の一番を深夜まで粘って見事に勝利、飯塚の昇級を阻止した。(飯塚は次期、豊川は次々期に昇級。) しかし4年後の第62期順位戦(C級1組)最終局、自身の昇級の一番で今度は飯塚に敗れ昇級を逃してしまう。4年越しで借りを返される形になった。 2004年6月20日放送のNHK杯テレビ将棋トーナメント(対田村康介戦)において、二歩を打ってしまい反則負け。二歩は比較的よく見られる反則負けだが、テレビ中継のあるNHK杯で打ってしまったことから話題になった。 初参加から16年目の第66期順位戦(C級1組)において、8勝2敗の成績を挙げ、ついにB級2組への昇級を決める。 第67期順位戦B級2組でも8勝2敗の成績を挙げ、2年連続昇級でB級1組に上がる。最終局を1敗のトップで迎え、自身は敗れて2敗になったものの、ライバル2名のうちの1名(先崎学)も敗れたために昇級するという展開であった。棋戦優勝の経験がなく、竜王ランキング戦でも3組が最高の豊川にとっては、A級の一歩手前のB級1組への昇級は、棋歴の中で大きな意味を持つ。 2015年度の第74期順位戦B級2組では2勝8敗の成績に終わり、降級点2となりC級1組へ降級となった。
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棋歴
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1931年、神田に入門し、1944年に四段となる(プロ昇格)。 順位戦には第1期(1946年度)から参加し、C級でのスタート。まだC級が1組・2組に分かれる前であったため、翌1947年、自動的に五段に昇段。さらに第2期(1947年度)C級順位戦ではC級上位の成績を収め、次期に分かれるC級の1組に振り分けられることとなり、六段昇段。その頃、「精鋭トーナメント戦」で優勝している。 第4期(1949年度)C級1組順位戦では7勝1敗・1位の成績を挙げ、B級に昇級するとともに七段に昇段。第6期(1951年度)B級順位戦では8勝4敗の成績を収め、第7期で新設のB級1組に振り分けられる。しかし、第8期(1953年度)B級1組では最下位となり、B級2組へ即降級。以降、順位戦における昇級(復帰)はない。 第9回(1965年)古豪新鋭戦でベスト4。第13回古豪新鋭戦では決勝(1969年11月8日)で関屋喜代作に勝ち、優勝。 第26期(1971年度)C級2組順位戦では北村を含む3名が6勝2敗のトップで終えたが、前期の不振によりリーグ表で他の2名より下位であった北村は次点となり、C級1組に昇級(復帰)できなかった。 1974年度、第5回早指し将棋選手権で、久々に棋戦の予選を抜け、本戦では2回戦進出。一方、同年度の第29期(1974年度)C級2組順位戦で降級する。しかし、1975年度以降も順位戦以外では指し続け、1982年に現役のまま死去(急性心不全)。享年74。
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棋歴
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幼稚園時代に、父親に買ってもらったボードゲームセットに将棋が含まれていたことが、将棋を覚えたきっかけである。 2005年4月、6級で奨励会に入会。以後順調に昇級・昇段を続け、2010年1月に三段に昇段し、2010年度前期(第47回)より三段リーグに参加。2期目となる2010年度後期(第48回)は自身が連勝し、門倉啓太及び阿部光瑠が揃って連勝しなければ四段昇段が見込める状態で最終日を迎えたが、自身が連敗したため四段昇段はならなかった。 3期目となる2011年度前期(第49回)で、前半9局を8勝1敗でトップ独走の状態から逃げ切り、最終的に13勝5敗・1位の成績を修め、四段昇段(プロ入り)。この間、第1回加古川青流戦に奨励会三段として参加し、2回戦で田中悠一、3回戦で西川和宏(いずれもプロ四段)に勝利し、ベスト8に進出した。(準々決勝では船江恒平四段に敗れる。) プロ入り以降、竜王戦においては6組に在籍していた2013年度(第26期)ランキング戦を4回戦で敗北後、昇級者決定戦を勝ち抜き5組昇級。続く2014年度(第27期)ではランキング戦を勝ち続け、準決勝の村田顕弘戦(2014年5月23日)に勝利した時点で4組昇級を決定、同時に竜王戦の昇段規定に基づき五段に昇段。当期竜王戦では決勝の菅井竜也戦(2014年5月26日)にも勝ち、初のタイトル戦本戦出場を決めた。2019年度(第32期)は4組昇級者決定戦で谷川浩司戦(2019年11月7日)に勝利し、3組への昇級を決めた。 テレビ棋戦においても、2013年度(第63回)NHK杯の予選を通過し、本戦出場。同棋戦では2016年度(第66回)でも予選を通過し、再度の本戦出場。1回戦でA級八段の稲葉陽に勝ち、棋士人生6年目で初めてA級在位中の棋士からの白星を挙げると同時に、全棋士出場棋戦の本戦において初白星。2013-2014年度(第22期)銀河戦でもブロック内で最多連勝(3連勝)を記録し、決勝トーナメントに出場。 第3期(2018年度)叡王戦本戦で豊島将之、渡辺明、丸山忠久を破り、決勝七番勝負に進出。叡王戦は第3期からタイトル戦に昇格したため、決勝戦進出がタイトル挑戦に準じる扱いとされ、六段に昇段した。対戦相手の金井恒太は、高見と同じくタイトル初挑戦であった。高見は決勝七番勝負を4連勝で制して初代叡王に輝き、昇段規定「タイトル1期」を満たして七段に昇段した。なお、順位戦C級2組在籍者のタイトル獲得は、1992年(第33期)王位戦の郷田真隆以来、高見が2人目となった。 第4期(2019年度)叡王戦は永瀬拓矢の挑戦を受け、0勝4敗でタイトルを失冠した。 順位戦ではプロ入り後、昇級と縁のない期間が続いていたが、第78期順位戦において9勝1敗の好成績でクラス1位となり、C級1組への昇級を決めると、続く第79期順位戦においても8勝2敗の成績でクラス3位となり、B級2組への昇級を決めた。昇級決定後のインタビューではタイトル経験者でありながらC級に留まっていた期間について、プレッシャーと負い目を感じていたと述懐している。 第35期(2022年度)竜王戦3組決勝で菅井竜也を破り、27期(2014年度)以来のランキング戦優勝を果たし、決勝トーナメント進出と2組昇級を決めた。
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棋歴
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中学1年生の時にアマチュア名人戦の和歌山県大会に出場して予選敗退。そのときに灘蓮照と出会った縁で、中学2年の終わり頃に灘門下の7級として奨励会に入会する。奨励会時代は地元・和歌山の中学校・高校に通いながら、大阪の関西将棋会館に出向いて記録係を務めた。奨励会在籍の10年間で取った記録は301局にも上る。二段の時に第6回「若駒戦」の決勝(東西決戦)で石川陽生に勝ち優勝。2年後の同棋戦では、羽生善治に敗れて準優勝。奨励会の通常の対局以外に新聞(大阪新聞)に掲載される将棋を指せたことは、励みにも自信にもなったという。 同じ関西奨励会には、6歳年下で入会が7年遅い村山聖がいた。神崎と村山が三段の頃に「(関西からの)次の四段は村山」という予想がされたことで奮起し、9連勝の規定で四段昇段。一方、村山も13勝4敗の規定で、神崎と同日付で四段となった。 順位戦では、初参加から3、4期目で2年連続C級2組8勝2敗の好成績を収めるが昇級できず、7期目に9勝1敗でようやくC級1組に上がる。この頃から、王位戦で度々リーグ入りするなど、タイトル戦予選の上位でも活躍する。第34期(1993年度)王位戦では、紅組リーグで羽生善治と同点でプレーオフになったが敗退。 1998年度のC級1組順位戦では、勝てば昇級という最終局で負けて8勝2敗となり、B級2組昇級を逸する。このときの昇級者は、9勝1敗の三浦弘行と深浦康市であった(深浦が逆転昇級)。 2016年に八段昇段。八段まで全て勝数規定で昇段したのは阿部隆、中田宏樹、中川大輔、日浦市郎、泉正樹に続き史上6人目である。また、順位戦B級2組を経験せずに八段昇段したのは屋敷伸之、渡辺明、日浦市郎に続き史上4人目である。 第75期、第76期の順位戦でC級2組の降級点が連続でついたところでフリークラスに転出し、2018年度(第77期)以降の順位戦出場資格を放棄した。
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棋歴
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1978年、中学3年生のとき、中学生名人戦で準優勝(優勝は達正光)。翌1979年、高校選手権で3位となり、同年、奨励会に入会。高校1年での入会は非常に遅い方である。入会から3年余り経った1983年、プロ入りを果たす。 1985年度、新人王戦で棋戦初優勝(決勝三番勝負の相手は森下卓)。翌1986年度には若獅子戦で優勝。1987年度の第36期王座戦で南芳一、米長邦雄、真部一男を破りベスト4に進出した。翌1988年度の王座戦でも米長らを破りベスト4。しかし、当初は順位戦との相性は悪かった。1988年度の第47期順位戦C級2組では、勝てば昇級という最終局で逆転負けを喫する。しかし、兄弟子の谷川浩司から送られた「報われない努力はない」との手紙に勇気付けられ、翌年、7期目の順位戦にして初の昇級を勝ち取る。 1993年度の第52期順位戦C級1組では、タイトル経験者の屋敷伸之、郷田真隆らを破り10戦全勝でB級2組へ昇級。さらに、1995年度、1996年度の順位戦では、2年連続昇級を決めて、一気にA級八段となる。 初のA級順位戦(1997年度)では、最終9回戦の対島朗戦で横歩取り8五飛戦法を用いて勝利。自身が5勝4敗でA級残留して米長邦雄(4勝5敗)をA級からの陥落に追い込み、また、同戦法が一躍注目を浴びるきっかけともなった。 翌年度(1998年度)のA級順位戦は、最終局で自分が負けても兄弟子の谷川が島朗に勝てば降級を逃れるという展開となったが、井上、谷川ともに敗れたことにより、井上は降級となってしまった。 竜王戦のランキング戦では、1993年度(第6期)に5組優勝、1996年度に4組優勝、1999年度に3組優勝、2001年度に2組優勝と、通算4回も優勝を記録。 2008年度の第67期B級1組順位戦で、混戦の中頭一つ抜け出して、A級復帰を決める。11期振りのA級復帰は、原田泰夫(14期振り)に次ぐ2番目の記録。 2011年3月3日の対局(第61期王将戦一次予選・対伊藤博文戦)で勝ち、八段昇段後250勝により九段昇段。なお、この時点での通算成績は、635勝456敗(勝率0.5820)。
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棋歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/26 13:49 UTC 版)
将棋の駒の動かし方を覚えたのは12歳の頃であり、プロとなった者としては極めて遅かった。1975年5月に6級で奨励会入会。初段昇段後に苦しみ、初段、二段、三段の時代がそれぞれ1年間ほどあったが、1980年6月4日に四段昇段してプロデビュー。 初参加の順位戦である第40期(1981年度)C級2組順位戦で9勝1敗の成績を収め、C級1組に昇級(五段昇段)。いわゆる‘1期抜け’である。 1982年度に行われた第24期(1983年度)王位戦の予選を4連勝で駆け抜け、リーグ入り。リーグでは田中寅彦、森安秀光、大山康晴、谷川浩司、青野照市といった錚々たる面々を相手に5戦全勝。挑戦者決定戦でも桐山清澄に勝利してタイトル戦初登場。高橋の段位はまだ五段のままであった。七番勝負では内藤國雄王位を4-2のスコアで破り、奪取(1983年9月26日)。五段以下でのタイトル獲得は史上初で一躍注目された。以後の低段位若手棋士のタイトル奪取の動きの先鞭をつけたものである。なお、最低段タイトルの記録は、9年後に郷田真隆(四段)によって破られるが、奇しくも同じく王位のタイトルである。 1984年度、王位を加藤一二三に奪われるが、その翌年(1985年)すぐに奪還する。 1986年度の王位戦で高橋への挑戦者として名乗りを挙げたのは、兄弟子の米長邦雄十段であったが、高橋は4 - 0のストレートであっさりと防衛に成功。この時点で九段昇段の条件であるタイトル3期を満たしたことになるが、八段に昇段していなかったため昇段はおあずけとなった。前段位の条件を満たしていないことにより昇段がおあずけとなったのは史上初である。 さらには、同年度の第12期棋王戦で谷川浩司棋王から奪取して初めて二冠となり、将棋大賞の最優秀棋士賞を受賞。なお、この年度では、5年ぶりに順位戦昇級もしている(C級1組にて9勝1敗の成績でB級2組昇級)。 1987年、谷川が高橋から王位を奪い返した後、10月21日に塚田泰明が中原誠が持っていた2冠から1冠(王座)を奪ったことにより、7つのタイトルを7人の棋士が1つずつ持ち合うという、極めて珍しい状態が生まれていた。 名人=中原誠 十段=福崎文吾棋聖=桐山清澄 王座=塚田泰明(※) 王位=谷川浩司 棋王=高橋道雄(※) 王将=中村修(※)※印の3名は「55年組」。ほかの4名は1979年度以前のプロ入り。 しかし、同年11月25日、高橋が、福崎を破って再び二冠(十段・棋王)となったことにより、「完全戦国時代」は僅か1ヶ月ほどで終わりを告げた。十段戦はこの年度で発展解消され竜王戦に移行したため、高橋の翌年の十段防衛戦はなかった。代替として第1期の竜王戦では準決勝からの登場となったものの、その準決勝で米長邦雄に敗れた。 第46期(1987年度)B級2組順位戦で10戦全勝の成績を収め、B級1組に昇級。 1988年度、タイトルホルダーとして日本シリーズに出場し、優勝。 同年度、第47期B級1組順位戦で8勝3敗・2位の成績を収め、3年連続昇級し、1989年4月1日付けでA級八段となる。以降7年連続でA級在籍。 1992年に中原に挑戦した第50期名人戦七番勝負で、第4局まで3勝1敗でリード。しかし、その後3連敗し名人位奪取はならなかった。高橋の3勝は、全て矢倉戦であり、「中原は矢倉では高橋に勝てなくなったか」と衝撃を与えた[要出典]。高橋が負けた4局は、相掛かり(中原先手)と横歩取り(高橋先手)が各2局。 第7期(1994年度)および第9期(1996年度)の竜王戦1組で優勝。 1995年度、第21期棋王戦で六冠王・羽生善治に挑戦。その頃、羽生は並行して七冠独占をかけて王将戦七番勝負を谷川と戦っていた。棋王戦五番勝負第1局(1996年2月10日)で高橋が負けた後、王将戦第4局(1996年2月13日 - 14日)で羽生が勝ち、4 - 0で七冠独占に成功。よって棋王戦第2局(2月23日)以降の高橋の対局相手は七冠王ということになった。結果は、第3局(3月8日)まで高橋の3連敗で決着。羽生の1995年度タイトル戦完全制覇を許した。 2001年、2002年と達人戦で連続準優勝。 2007年、第58期王将戦リーグ入り。 2008年度は先手では矢倉、後手では横歩取り8五飛を原動力として24勝15敗(勝率0.615、B級1組以上では羽生善治、久保利明に次ぐ高勝率)と好調で、第67期順位戦B級1組では8勝4敗の成績で井上慶太と共に6期ぶりでA級へ復帰した。A級昇級を決めた2人がともに40歳以上であるのは、第43期の有吉道夫と二上達也以来。翌第68期(2009年度)A級順位戦では2位で勝ち越し、15年ぶりのA級残留に成功した。第69期(2010年度)A級順位戦では3位に、第70期A級順位戦では2勝7敗と大きく負け越したものの、久保利明、丸山忠久と同率となり、前年度順位上位のため残留となり、史上初の2勝7敗での残留となった。 しかし、以降は順位戦における成績不振が続き、第71期順位戦では深浦康市及び橋本崇載に勝ったのみで10人中9位に終わりB級1組へ降級。第72期順位戦でも鈴木大介に勝ったのみで13人中最下位でB級2組へ降級。更に27期ぶりにB級2組で闘った第73期順位戦でも窪田義行及び島朗に勝ったのみで25人中23位で降級点を喫した。第74期順位戦でも畠山成幸及び中村修に勝ったのみで25人中最下位で降級点を喫し、B級2組における降級点が累積2個になりC級1組への降級が決定。 2015年度は第24期銀河戦における予選で土佐浩司に負け、第66回NHK杯でも予選・1回戦で渡辺大夢に負け、プロ入り以来34年連続の長期にわたり、続いていたテレビ棋戦への連続出場がストップした。 竜王戦では、幾度かの2組降級と1組復帰を繰り返しながらも、第32期(2019年度)時点では、第1期からの参加棋士で唯一となる2組以上の在籍を維持していたが、第32期の2組昇級者決定戦1回戦で斎藤慎太郎に敗れ、3組降級となった。 2021年度の第80期順位戦C級1組では61歳を迎える年齢ながら好調を維持し、9局目を終えた段階で7勝2敗、他力ながら昇級の可能性を残して最終局を迎えた。仮に昇級となれば1977年度第36期順位戦で60歳にしてB級1組からA級へと昇級した花村元司の記録を塗り替える順位戦全クラスを通じて史上最高齢での昇級であったが、最終局で先崎学に敗れたことにより惜しくも昇級とはならなかった。
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棋歴
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2004年10月、6級で奨励会入会。 2008年、18歳で初段に昇段、将棋に専念する為、高校を中退。 2010年、二段昇段。 2011年3月、二段昇段から僅か1年で三段昇段。 2016年3月、退会。三段リーグ(49~58回)における通算成績は69勝111敗。 2016年4月26日、YouTubeに将棋実況動画を投稿開始。投稿名は「アゲアゲ将棋実況」。 2016年11月6日、将棋教室を開始。 2017年12月3日、第34期全国アマチュア王将位大会(アマ王将戦)で準優勝、銀河戦への出場権を得る。 2019年2月9日、第27期銀河戦本戦での対プロ棋士6連勝により決勝トーナメント進出決定。アマチュア選手としては、瀬川晶司(のちにプロ入り)に次ぐ2人目の決勝トーナメント進出だった。 2019年8月30日、プロ棋士との対局に勝って直近の公式戦成績を10勝2敗とし、棋士編入試験の受験資格を獲得。 折田翔吾アマ 対プロ公式戦成績対局日棋戦対局相手結果2018/7/29 第12回朝日杯将棋オープン戦 一次予選 都成竜馬 五段 ● 2018/8/30 第27期 銀河戦 本戦トーナメント 神崎健二 八段 ○ 2018/8/30 瀬川晶司 五段 ○ 2018/10/2 三枚堂達也 六段 ○ 2018/10/2 今泉健司 四段 ○ 2018/11/14 堀口一史座 七段 ○ 2018/11/14 豊川孝弘 七段 ○ 2018/12/28 窪田義行 七段 ○ 2018/12/28 野月浩貴 八段 ● 2019/6/14 決勝トーナメント 佐藤天彦 名人 ● 2019/7/17 第28期 銀河戦 予選 脇謙二 八段 ○ 2019/7/17 福崎文吾 九段 ○ 2019/8/30 本戦トーナメント 村田智弘 六段 ○ いいところどりで10勝2敗・勝率0.833 2019/8/30 第28期 銀河戦 本戦トーナメント 伊藤真吾 五段 ○ 2019/10/24 黒沢怜生 五段 ●
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棋歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 15:21 UTC 版)
小学生1年生のとき、父親が将棋の本を買ってきた事が、将棋を始めたきっかけ。 三段リーグには第47回(2010年上期)から参加。第48回と第51回では降段点が付いてしまい、第55回と第59回には「あと1勝で昇段」を経験するなど(最終的な順位はそれぞれ6位と4位)、厳しい状況が続いた。 そして参加から16期目となった第62回三段リーグ(2017年下期)では好調を維持し、自身最高の成績である14勝4敗の2位で、四段昇段(プロ入り)を決めた。 プロ入り前の2017年に行われた第14回詰将棋解答選手権では、藤井聡太に次ぐ2位を記録した。
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棋歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/01 22:49 UTC 版)
1983年に第8回中学生名人戦で優勝。その年に奨励会に入会。 1級までは順調に昇級したが、そこからの各昇段に2年以上ずつかかり、22歳でようやく三段に昇段する。しかし、三段リーグでも昇段のチャンスをつかめず、一時は退会も考えた。年齢制限(26歳)も迫っていた。 転機となったのは、第52期(1994年度)名人戦の七番勝負を戦う米長邦雄名人と羽生善治四冠の闘志あふれる姿を見たことだった。勝又は同年度4月 - 9月の第15回三段リーグでは昇級を逃すも、リーグ表順位で勝又より下の近藤正和と同星の12勝6敗の成績を収める。これが結果的に大きかった(次回のリーグ表で、勝又は3位、近藤は4位)。勝又は次の第16回三段リーグ(1994年度10月 - 3月)の最終日を、2局のうち1局勝てば自力昇段(「マジック1」に相当)という状況で迎えた。近藤は2勝0敗で追い上げたが、勝又は1敗の後に1勝して近藤と同じ13勝5敗。よって、勝又が四段昇段を決めた(1995年4月1日付けで昇段・プロ入り)。このときの同時昇段者(トップ通過)は、勝又よりさらに年上の北島忠雄(29歳)であった。 第30回(1996年度)早指し将棋選手権の予選を4連勝で通過。本戦では2回戦進出。 第9期(1996年度)竜王戦6組の準決勝で敗れるも、昇級者決定戦(敗者復活)で北浜健介に勝ち、竜王戦初参加にして5組昇級。 第57期(1998年度)C級2組順位戦で、9勝1敗(47人中2位)の成績を収め、行方尚史(10勝0敗・1位)、木村一基(9勝1敗・3位)とともにC級1組に昇級。翌年度の第58期C級1組順位戦で降級点を喫するが、すぐ第59期に8勝2敗と勝ち越して消去に成功。 第8期銀河戦(1999 - 2000年)でブロック戦を抜け、本戦ベスト8に進出。 第74期(2003年度)棋聖戦で最終予選リーグ進出。 第17期(2004年度)竜王戦5組で準優勝し、4組へ昇級。 第56回(2006年度)NHK杯戦で予選を通過し、本戦初出場。本戦では1回戦で井上慶太を破り、2回戦進出。 第79期(2008年度)棋聖戦で2度目の最終予選リーグ進出。 第60回(2010年度)NHK杯戦で2度目の予選通過、本戦では3回戦進出(羽生善治に敗れる)。そして2011年3月11日、久保利明王将に挑戦中の豊島将之六段に敗れて2回目の降級点(第67期順位戦において3勝7敗で1回目の降級点)を喫し、12期守っていたC級1組からC級2組への陥落が確定した。 第73期(2014年度)C級2組順位戦で2個目の降級点を取った。フリークラス宣言を行い、2015年度からフリークラスに転出した。
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棋歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/23 16:05 UTC 版)
すでに20代半ばを過ぎた1949年、アマ名人戦で神奈川県代表となる。その翌年の1950年、二段で小堀清一に入門し、1952年にプロ入りを果たす。 順位戦初参加から3期目となる第9期(1954年度)C級2組順位戦で9勝3敗・2位の成績を収め、C級1組に昇級するとともに五段に昇段。当時31歳。これが現役棋士としての最初で最後の昇段となる。 引退間際の1970年、第1回新人王戦に47歳で出場し、準決勝に進出。 日本将棋連盟には、販売部や道場師範を担当して貢献した。 1993年、心筋梗塞で死去。享年70。
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棋歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/13 16:49 UTC 版)
1984年に奨励会に入会。5級昇級に1年かかったがその後は順調に昇級・昇段し、1991年10月1日に19歳でプロデビュー(四段昇段)を果たす。
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棋歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/05 03:28 UTC 版)
父は多くのアマ棋戦で活躍した藤森保。母はLPSA所属の女流棋士・藤森奈津子女流四段(以下、本項では「奈津子」と記す)。幼少時代に母に教わって将棋を覚え、その後は蒲田将棋クラブに通って腕を磨いた。父の将棋仲間だった将棋ライター美馬和夫と交流があり、著書『藤森流中飛車左穴熊破り』は美馬が執筆協力した。 1999年9月、6級で奨励会に入会。5級・3級・2級・1級で1回、二段で2回、降級・降段の危機(段級位の昇降を参照)に瀕したが、これらを乗り越え、20歳の誕生日直前の2007年4月に三段昇段、同年10月(2007年度後期・第42回)より三段リーグに参加。以後、コンスタントな成績を挙げた。初参加から5期目(2009年度後期・第46回)及び7期目(2010年度後期・第48回)は、自身が連勝すれば他の参加者の勝敗結果次第で四段昇段の可能性がある状態で最終日を迎えたが、自身が連敗したため昇段に至らなかった。 8期目となる2011年度前期・第49回は昇段争いの7番手で最終日を迎えた。自身が連勝し、2番手から6番手の参加者が全員1敗以上すれば2位となる状態だったが、その通りとなり、高見泰地(1位)と共に2011年10月1日付けで四段に昇段(プロ入り)した。
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棋歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/16 05:59 UTC 版)
得意戦法は四間飛車。 5歳のときに父に将棋を教わる。2007年9月に奨励会へ入会。2013年4月(17歳)より三段リーグに参加。「20歳までに(四段に)上がれると思っていた。(第66回のリーグでは)成績がふるわず、退会も考えた」と語るほどの厳しい状況だったが、第67回三段リーグで一転して好調となり、最終的には14勝4敗の成績を収め、2位が確定。遂に四段昇段が決まった。
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棋歴
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小学生の頃に将棋を覚え、中学生のときに本格的に指し始める。そのきっかけは、おじさんに「ヨワ将」と呼ばれたこと。 1977年のアマチュア名人戦で兵庫県代表となる。全国大会では最年少の18歳であったが、ベスト4進出。角頭歩戦法を用いた勝局もあったという。 そして、1978年、内藤門下で奨励会に入会。入門前の約3年間は会社員だった。1級での入会は1961年の若松政和(アマ名人戦優勝歴あり)以来17年ぶり。それから4年8か月経った1983年、四段昇段(プロ入り)を果たす。 オールスター勝ち抜き戦での本戦進出も数回あるが、最も活躍した棋戦は、一般の将棋ファンに対する露出度が最も高いNHK杯戦である。たびたび予選を通過し本戦出場した。 第44回(1994年度)NHK杯戦では、先崎学・加藤一二三らを破り準々決勝進出(準々決勝で米長邦雄に敗れる)。対・加藤戦では解説役で師匠の内藤も加えて局後の感想戦を行ったが、そのとき、謙虚ながらも偉大なる先輩に勝ったという感動を露わにした。加藤に「今日は強かった」と言われ喜んでいる姿を見た内藤に「対戦相手に強いと言われて喜ぶとアマチュアみたいだ」と指摘されるが、「今日はそれでもいいです」と言った。 第49回(1999年度)NHK杯戦では、青野照市と森内俊之に勝つ(この回の優勝者となる鈴木大介に3回戦で当たり、先手で持将棋となり先後入替の指し直し局で敗れる)。森内との対局の序盤では、神吉は定番の振り飛車穴熊にするが、それに対して森内は自分の飛車も振って、意表の相振り飛車戦に持ち込んだ。サービス精神旺盛な神吉は森内に勝った後の感想戦ではガッツポーズを決めていた。 順位戦での通算成績は、81勝89敗である。C級2組からC級1組に昇級することはなかった。17年間(第43期・1984年度 - 第59期・2000年度)の中で最終局まで昇級争い絡むことはなく、最高成績は3度の7勝3敗である(第43期・第49期・第55期)。うち、第55期の勝ち越しは降級点を2つから1つに減らしたものであった。しかし、第59期(2000年度)で降級点を累積3点としてしまい、フリークラスに降級した。 2005年8月、瀬川晶司のプロ編入試験第2局の試験官(対戦相手)を務める。対局前に「振り飛車穴熊戦法」と戦法予告をし、全身ピンクのスーツ姿で対局に臨み、対局前に瀬川に「(目が)チカチカするやろ」と言っておどけてみせる。また、対局中に(対局当事者であるにも関わらず)大盤解説場に登場して情勢についてコメントするなどのパフォーマンスを見せた。結果は瀬川の勝利。対局終了後、「プロ棋士になれる」と瀬川を励まし、勇気づけた。後に瀬川の自伝を映画化した『泣き虫しょったんの奇跡』に、瀬川の編入試験の対戦相手である「神田宏充六段」役として出演した際にも、当時と同じピンクのスーツ姿を見せた。 第18期(2009年度 - 2010年度)銀河戦で、ブロック戦で4連勝し、決勝トーナメント進出(1回戦で丸山忠久に敗れる)。 2010年度をもってフリークラス降級から10年を迎え、引退が決まった。そして、2011年6月1日、第24期竜王戦6組昇級者決定戦1回戦で牧野光則に敗れたのが最終対局となり、同日付で引退した。 2018年、姫路市の商店街に将棋教室「プロ棋士神吉七段の大逆転将棋倶楽部」をオープン。(2019年8月に姫路城・射楯兵主神社近くに移転)
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棋歴
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終戦後、順位戦が始まり、第4期(1949年度)順位戦では東西のC級乙組で三段以下が合計4名参加した。当時24歳で東の二段だった浅沼もその一人である(ほかには、東の清野静男三段、西の神田鎮雄三段・増田敏二二段)。浅沼は四段に飛び昇段して、翌期(第5期)の順位表に載った。 順位戦での上記を含む最初の6年間は指し分け(勝ち負け同数)や勝ち越しがあり5割前後の勝率であったが、7年目に著しく負けがこみ、予備クラス(現在の奨励会三段リーグやフリークラスに相当)に陥落。当時は、まだ降級点のようなクッション的な制度がなく、1期の成績不振ですぐ降級であった。 その後、予備クラスで5期(2年半)指して引退。まだ33歳であった。ちなみに、5期目では予備クラスに初めて上がってきた17歳の内藤國雄と2局指して2敗している。 引退後も日本将棋連盟に所属。2004年、盤寿(数えの81歳)を迎える。 2011年8月10日、脳梗塞のため死去。86歳没。
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1955年、22歳でプロ入り。 初参加(1956年度)から8期目の第18期(1963年度)C級2組順位戦は、2勝10敗で初の降級点を喫する。ところが、次の第19期(1964年度)では一転して開幕7連勝をするなど、最終局を待たずして10勝1敗(最終成績は10勝2敗)の圧倒的な成績でC級1組への昇級を決める。なお、もう一人の昇級者は、同じく10勝2敗の米長邦雄(関屋の10歳下)であった。 第2回(1958年度)古豪新鋭戦で優勝。同棋戦の第13回(1969年度)では、準優勝。 第38期順位戦(1980年度)の昇降級リーグ戦4組(現在のC級2組に相当)で3度目の降級点により順位戦陥落。 第11期(1970年度)王位戦で予選を抜けてリーグ入り。中原誠、山田道美らと戦うが、惨敗。 第1期(1988年度)竜王戦のランキング戦6組の初戦で森内俊之に敗れ、昇級者決定戦に回る。3人に勝って昇級者決定戦決勝に進出し、再び森内との決戦になるが、敗れて5組昇級を逸する。第3期(1990年度)竜王ランキング戦6組では、準決勝に進出し昇級まで1勝とするが、畠山成幸に敗れる。昇級者決定戦決勝に回るも中田功に敗れ、またも昇級のチャンスを逃す。 1991年2月10日第5期(1992年度)竜王ランキング戦6組3回戦で、弟子の豊川孝弘に敗れ、‘恩返し’をされる。同年、第10回全日本プロトーナメント2回戦で佐藤康光を下し3回戦に駒を進めるが、大内延介に敗れる。同年、第8回(1992年度)天王戦の六段戦で、泉正樹、土佐浩司らを破り準優勝(決勝で神谷広志に敗れる)。これが関屋にとって現役棋士としての最後の華となった。
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棋歴
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島根県美濃郡高津村(現益田市)に生まれる。3歳で韓国の釜山へ移住。10歳で父から囲碁を習う。1913年(大正2年)11歳の時に釜山に立ち寄った高部道平と6子で打って東京での修行を勧められ、上京して方円社の広瀬平治郎六段(当時)に入門。各務鎌吉の後援を受けて研鑽、1917年に入段。1920年三段昇段、記念に各務の主催で小岸壮二と十番碁を打つ。1924年の碁界大合同で日本棋院に加わり、1926年に六段、棋正社との院社対抗戦で雁金準一に勝ち、小野田千代太郎に敗退。1926年に碁界を引退してブラジルに移住したが、2年後に帰国して復帰する。1940年七段。 1945年に第3期本因坊戦挑戦者となり、橋本昭宇本因坊との六番勝負で3勝3敗となり、翌年再決戦三番勝負に2連勝して本因坊に就位、薫和と号する。1947年の第4期は、初のコミ4目半を導入した五番勝負で、挑戦者の木谷実八段に3勝2敗で防衛。翌年本因坊2期の実績により、当時の最高段位八段に推挙された。1950年の第5期は橋本宇太郎に敗れる。1952年、全本因坊全八段戦で優勝。1955年、ラジオ放送時代のNHK杯で優勝。1973年に72歳で名人戦リーグ入り。 1949年には呉清源と十番碁を行い、第6局までで呉の5勝1敗で先相先に打込まれ、最終的に呉の7勝2敗1ジゴだった。 1951年の呉九段対日本棋院七・八段戦では、コミ無し白番を勝って殊勲局と言われる。1948年には桑原要次郎がスポンサーとなって、呉との非公開一番勝負がある。大手合1935年秋期甲組優勝。
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棋歴
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10歳のとき、同級生から将棋を教わる。 奨励会への入会は1965年。当時は、ライバルの有野芳人と1日100局指すという熱の入れようであった。 1969年度後期から旧制度の三段リーグ(奨励会A組)で指すが、同制度が廃止されるまでの9期・4年半、四段昇段(プロ入り)をすることができなかった。この間、奨励会員であるにもかかわらず、第15回(1971年度)古豪新鋭戦で優勝している。 その後、三段で12勝3敗を記録し、1975年6月19日に26歳でプロ入りを果たす。 プロ1年目(1975年度)は、第15期十段戦と第24回王座戦で一次予選を突破、第3回名棋戦でベスト8進出、第2期棋王戦で丸田祐三 を破るなどして、上々のスタートを切る。 当時、名人戦と順位戦の主催紙が朝日新聞社から毎日新聞社に移行する関係で、順位戦が1977年度に再開されるまで待たされる。その間、菊地(棋士番号119)と同時昇段の伊藤果(同118)から松浦隆一(同132)まで15人が次々とプロ入りする。その中には、中学生の谷川浩司(同131)や後にタイトルを獲る田中寅彦(同127)もいた。これにより、C級2組の人数は19名から33名に膨れ上がった。 しかし、菊地は初参加の第36期C級2組順位戦(当時の名称は「昇降級リーグ戦4組」)で10戦全勝の成績を収め、1期でC級1組へ上がる。また、この1977年度には、全棋戦を通して27勝・7割近い勝率を挙げる。 第1期(1988年度)竜王戦5組で師匠の廣津を破るなどして3位となり、4組へ昇級。 1996年度には全棋戦を通して16勝を挙げ、久々に勝ち越す。 1998年に順位戦でフリークラスへ陥落。以降10年間、順位戦に復帰することができず、2008年に引退となった。 2022年5月23日死去。享年72歳。
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第30回(2001年度下半期)三段リーグでは5勝13敗と低調だったが、翌第31回(2002年度上半期)は一転して13勝5敗の好成績で、1位で四段昇段を果たす。 第19期竜王戦(2005 - 06年)6組で、ランキング戦で準決勝まで進出し、昇級者決定戦でも勝利して5組に昇級する。 しかし、順位戦では7期在籍していずれも指し分け(5勝5敗)以下の成績しか収められず、第68期(2009年度)C級2組の順位戦で3つ目の降級点を取り、熊坂学(27歳で順位戦の制度上最速の3期在籍で陥落)に次ぐ史上2番目の若さ(30歳)、本間博と並ぶ史上2番目タイの速さでフリークラスに陥落した。 2015年度には、第66回(2016年度)NHK杯将棋トーナメント予選の決勝で梶浦宏孝四段に勝ち、初の本戦出場を決めた(本戦では1回戦で、第40回優勝者の先崎学九段に敗れた)。 フリークラス在籍期限となる2019年度まで規定の成績を挙げることが出来ず、2020年3月末時点で5組在籍を維持していた竜王戦を除き、2020年度以降に開催される公式戦の参加資格を失った。竜王戦のみ2020年12月の第34期に出場が可能となったが、2010年に改定されたフリークラス規定の特例によって現役続行となったのは、藤倉が史上初である。第34期も5組残留を決め、次期の竜王戦参加資格を得た。しかし第35期竜王戦ではランキング戦、昇級者決定戦いずれも初戦で敗れ、残留決定戦の終了をもって引退となることが決定した。 2022年5月19日、第35期竜王戦5組残留決定戦 対藤森哲也五段戦で黒星となり、これが現役最終局となった。
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棋歴
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5歳のときに父に将棋を教わる。2010年の第9回全国小学生倉敷王将戦の低学年の部で準優勝した。同学年に藤井聡太がおり、2012年1月に行われた第9回小学館学年誌杯争奪全国小学生将棋大会では、伊藤と藤井が準決勝で対局し伊藤が勝利している(伊藤は2位、藤井は3位)。同年4月、宮田利男の三軒茶屋将棋倶楽部で将棋の研鑽を積む様子がNHK教育の「カラフル!」で放送された。2013年7月には父親とともにベラルーシのミンスクで開催されたヨーロッパ選手権の会場を訪れ、世界オープン将棋選手権に参加して優勝した。このときカロリーナ・ステチェンスカとも対局して勝っている。 2013年9月に奨励会入会。2018年4月より三段リーグに参加。2020年9月12日に第67回三段リーグで14勝2敗となり、1位が確定したため、四段昇段が内定した。誕生日が10月10日で7月19日の藤井より遅生まれであるため、4年ぶりに最年少棋士が交代した。 2021年3月27日にAbemaで放送された「第4回ABEMAトーナメント」のドラフト会議でリーダー棋士を務めた藤井聡太から指名を受け、高見泰地とともに「チーム藤井」を結成した。同年9月18日の決勝まで勝ち進んだチーム藤井は、5勝3敗でチーム木村を破って優勝を果たした。 プロ入り同期の古賀悠聖との決勝となった第52期新人王戦決勝三番勝負では、2021年10月11日に行われた第2局を2連勝で勝利して棋戦初優勝を飾った。新人王戦の優勝者にはその時点のタイトル保持者1人との記念対局が組まれることが恒例となっており、同年11月に竜王を獲得して史上最年少四冠となった藤井聡太との記念対局が2022年1月2日に放送された(結果は98手で藤井の勝利)。なお、記念対局が同学年の棋士同士となるのは史上5例目、10代の棋士同士となるのは史上初であった。 2021年12月3日には第63期王位戦予選3組決勝で日浦市郎に勝利し、自身初となる挑戦者決定リーグ進出を決めた。この予選ではタイトル保持者である永瀬拓矢王座を下す金星を挙げている。 第80期順位戦では、順位が下位から始まる初参加のため自力昇級ではなかったが、最終局で近藤正和七段に勝利し競争相手が敗れたため、9勝1敗の好成績でC級2組の1期抜け、C級1組への昇級と五段への昇段を果たした。2022年3月30日、第63期王位戦挑戦者決定リーグ紅組で西尾明七段に勝利して2021年度の勝率を0.818(45勝10敗)とし、年間勝率1位となった。これにより、藤井聡太がデビュー以来続けていた年度勝率1位の記録を4年で途絶えさせた。
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棋歴
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1960年初参加の順位戦B級1組で5勝7敗の成績ながらも降級するが、翌期すぐB級1組へ復帰。一年間の病気休場を余儀なくされるなど停滞した時期もあったが、やがてA級に定着し、第一線で活躍するようになる。 1964年初参加のA級順位戦で優勝し、第24期(1965年)名人戦で大山康晴に挑戦したが1-4で敗退。再度大山に挑んだ第15期王将戦でもフルセットの末に敗れる。 3度目の挑戦となった1967年第10期棋聖戦で大山を下し、初タイトルを獲得。半年後の第11期棋聖戦で、中原誠の挑戦を退けて防衛。しかし、翌期、連続挑戦してきた中原から棋聖位を奪われる。 1970年6月6日の第16期棋聖戦・挑戦者決定戦で大山康晴に敗れたのが、公式戦における生涯最期の対局となり、12日後の6月18日に特発性血小板減少性紫斑病により36歳で急死した。順位戦A級在籍中であったほか、十段戦と王位戦でも挑戦者決定リーグで戦っていた最中だった。現役A級で死去した棋士としては他に大山、村山聖がいる。
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棋歴
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プロ入り以来3期目の参加となる第56期順位戦(1997年度)で8勝2敗の好成績を収めるも、次点で昇級を逃す。同じ8勝2敗でも矢倉よりリーグ表順位が上の岡崎洋と深浦康市が昇級した。このときのリーグ表順位は、矢倉が5位、岡崎が2位、深浦が3位であり、僅かな順位の差に泣いた。 1998年度、1999年度の王位戦において、2年連続でリーグ入り。1998年度は、紅組リーグで北島忠雄に1勝を挙げたのみとなり、リーグ陥落。1999年度は白組リーグで藤井猛、高橋道雄らを破って3勝2敗としたが、矢倉を含む4名が3勝2敗で並んだ。そして、トーナメント形式で行われた白組プレーオフ1回戦では矢倉は再び高橋を破るが、決勝で屋敷伸之に敗れて挑戦者決定戦に進むことはできなかった。 第13期(2000年度)竜王戦6組において、昇級者決定戦を制し、5組へ昇級。 第17期(2004年度)竜王戦5組において、初のランキング戦優勝を果たすと同時に、4組へ昇級。本戦の1回戦では6組優勝者の西尾明に勝利した(2回戦で3組優勝者の神谷広志に敗退)。 2006年度は大不振に陥り、年度単位で5勝17敗の成績に終わった。しかし、順位戦では3勝7敗の成績で、降級点の回避には成功した。 第22期(2009年度)竜王戦4組において2回戦で敗退。また、昇級者決定戦(敗者復活)のトーナメントでは4連勝するも、3位決定戦(決勝)で敗退する。竜王戦では通常2度敗れると昇級はできないが、中原誠(1組)の引退による上位クラスの欠員補充のため、4組では追加の昇級者決定戦が組まれ、3位決定戦の敗者2名である矢倉と脇謙二が対決することとなった。矢倉はこのチャンスを物にし、脇に勝利。自己最高の3組へ昇級した。 第25期(2012年度)竜王戦では2連敗を喫し、4組へ降級となった。2012年度の全成績では21勝12敗と勝ち越しに成功したが、以降は2022年現在に至るまで、年度全成績での勝ち越しが出来ていない状況が続いている。 第78期順位戦(2019年度)で苦戦し2勝8敗で終えた結果、初めての降級点が付くこととなった。
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棋歴
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将棋に熱中したきっかけは、「矢倉囲いの美しさに感動したから」だという。 年齢差が12歳ほどしかない大山の一番弟子で、1951年に15歳で入門してからの奨励会の4年間、大山のもとで内弟子生活を送る。 1955年、19歳でプロ入り。 初参加から2期目の第11期(1956年度)C級2組順位戦で、10勝2敗で1位となり、C級1組へ昇級。さらに、翌年も同じく10勝2敗で1位となり、2年連続昇級でB級2組へ上がる。 1957年度、難関・王将リーグ(第7期)に、初めて入る。第12期(1962年度)には、二上達也、加藤一二三、升田幸三、山田道美らを破り6勝1敗で1位タイとなるが、プレーオフで二上に敗れ、挑戦権を逸する(一方の二上は、その勢いに乗ったまま大山から王将位を奪取する)。 第14期(1959年度)B級2組で9勝3敗の2位とし、B級1組へ昇級。第19期(1964年度)B級1組順位戦で10勝4敗の2位の成績を収め、1965年4月1日をもってA級八段となる。 1966年、第7期王位戦の王位リーグを抜け、挑戦者決定戦で山田に勝ち、タイトル初挑戦。師匠の大山との初のタイトル戦でもある。七番勝負の結果は1勝4敗で敗退。 第11回(1966年度)高松宮賞争奪選手権戦の決勝三番勝負で加藤一二三を2勝1敗で破り、同棋戦の最後の優勝者となる。 第7回(1967年度)最強者決定戦の準決勝で前回優勝者の内藤國雄を破るが、決勝三番勝負で山田に敗れる。 第9期(1968年度)王位戦で、大山に2度目の挑戦(2勝4敗で敗退)。また、第23期(1968年度)A級順位戦で8勝2敗で優勝し、ついに、名人戦七番勝負(第28期名人戦)の舞台で大山名人と戦う。3勝2敗として大山を追い詰めるが、そこから2連敗で惜敗。 第17回(1969年度)王座戦で決勝三番勝負に進出。中原誠に1勝2敗で敗れる。同年、第9回最強者決定戦の決勝三番勝負では大友昇を2勝0敗で破り、優勝。 第21期(1971年度)王将リーグで、内藤、升田、二上らに勝ち、5勝2敗の1位タイ。プレーオフで中原を破り、王将戦七番勝負に初登場。大山王将に3勝4敗で敗退。これ以降、大山とのタイトル戦での対決はなく、師匠の壁を打ち破ることはできなかった。 第12回(1972年度)最強者決定戦で、決勝三番勝負で原田泰夫を2勝1敗で破り、同棋戦で2度目の優勝。 第21期(1972年度後期)棋聖戦 で中原棋聖(名人・十段と合わせ、三冠王)に挑戦。五番勝負では2連敗の後に3連勝し、タイトル奪取(1973年2月5日)。初タイトル獲得時の37歳は当時の高齢記録。師匠の大山も多数回のタイトル獲得歴があり、師弟ともにタイトル獲得歴を有するのは史上初。師弟が同時期にタイトル保持者であった唯一の例。しかし、翌期は米長邦雄に棋聖のタイトルを奪われてしまう(一方の米長は、これが初のタイトル獲得であった)。結果的に、これが棋士人生で唯一のタイトル獲得歴となった。 第13期(1974年度)から第17期(1978年度)まで、トッププロが名を連ねる十段リーグに連続在籍。 第25期(1975年度)王将リーグで、大山、二上らに勝ち、5勝2敗の1位タイ。プレーオフで大山に勝ち、中原王将に挑戦するが、七番勝負は1勝4敗で敗退。また、第27期(1977年度)王将リーグでは、米長邦雄、加藤一二三らに勝ち、6勝1敗で挑戦権を得るが、中原王将に2勝4敗で、またも敗退。第32期(1978年度前期)棋聖戦でも中原棋聖に挑戦し、五番勝負は0勝3敗で敗退。これが有吉の、最後のタイトル戦登場となった。 第3回(1976年度)名将戦の決勝で大山を2勝0敗で破り、優勝。同棋戦では、第6回(1979年度)でも大山と決勝を戦い、そのときは0勝2敗で敗れている。 1978年度、テレビ棋戦の第12回早指し将棋選手権で優勝(準決勝の相手は中原、決勝の相手は大山)。1980年度には、同じくテレビ棋戦の第30回NHK杯戦で優勝(決勝の相手は中原)。 1984年、49歳にして史上初の公式戦20連勝の記録を樹立。同時期に、第7回(1984年度)オールスター勝ち抜き戦で歴代1位タイ(当時)の11人抜きを達成(5人抜き以上は優勝扱い)。また、第43期(1984年度)B級1組順位戦で9勝3敗で1位となり、A級に復帰。 第36期(1986年度)王将戦の二次予選決勝で大山を破り、王将リーグ入り。 第21回(1987年度)早指し将棋選手権で、52歳にして2度目の優勝。破った相手は、二上、中原、中村修(準決勝)、森下卓(決勝)ら。 第48期(1989年度)B級1組順位戦で10勝2敗で1位となり、55歳にしてA級に2度目の復帰。以降、61歳までA級に在位した。なお、この間(1992年度のリーグ戦の途中)に大山が逝去し、有吉に不戦勝が記録されている。 第12回(1991年度)JT将棋日本シリーズで決勝進出。羽生善治に敗れ、準優勝。
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棋歴
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7歳の頃、父から教わり将棋を始める。その後、日本将棋連盟相模原支部長の内田昭吉の自宅教室で、鈴木大介、北浜健介、勝又清和、佐藤紳哉らとともに腕を磨く。1983年、11歳の頃、4歳上の勝又が中学生名人戦で優勝して奨励会入りしたのを機に、プロを志す。 1984年12月、中原誠(当時十段・王座)の弟子となり関東奨励会に6級で入会。同期には深浦康市、瀬川晶司ら。 プロ入りまでの道は平坦ではなく、入会から6か月後の1985年6月に7級に降級。1986年3月にやっと6級復帰。2級から1級、初段から二段には、それぞれ1年9か月かかる。一方で、5級から4級には2か月、二段から三段には4か月というラッシュがあった。 三段リーグでは、初参加から9期目の第22回三段リーグで、前半を5勝4敗で折り返した後に粘り13勝5敗・1位の成績を収め、四段昇段が決定。入会から13年にしてプロ入りを果たす(1998年4月1日付)。 2000年、第50回NHK杯戦の予選を3連勝で通過。本戦1回戦で井上慶太を破る。 第16期(2003年度)竜王戦6組で優勝し、本戦進出、5組初昇級。2003年度の勝率は0.6944(25勝11敗)で全棋士中9位であった。 第30期(2004年度)棋王戦で本戦進出。予選決勝では渡辺明(この年に初の竜王位)に勝った。同年、第17期竜王戦5組昇級者決定戦(敗者復活戦)で、勝てば4組初昇級という一番で宮田敦史に敗れる。 2005年、第24回朝日オープン将棋選手権で本戦進出。1回戦で師匠の中原に敗れる。 2005年に行われた瀬川晶司プロ編入試験の試験官(対局者)を当初発表されていた熊坂学四段(段位は当時)に代わり務める。交代について髙野は、「不手際で、せっかく進めてきたイベントに支障が出るのを防ぎたかった」と語っている。2005年11月6日、瀬川は髙野に勝ち、プロ入りを決めた。 2007年、第57回NHK杯戦で本戦出場。第66期(2007年度)順位戦C級2組で8勝2敗・3位の成績を挙げ、プロ入りから10年でC級1組へ初昇級。過去にも8勝2敗が2度あったが上がれず、三度目の正直となった。 第34期(2008年度)棋王戦で本戦進出。本戦2回戦で高橋道雄を破る。 2011年2月22日、五段昇段後120勝により六段昇段(通算220勝192敗)。
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棋歴
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1990年、プロ入り。 第48回(1998年度)NHK杯テレビ将棋トーナメントで、桐山清澄、森内俊之、中川大輔、屋敷伸之らに勝ち、ベスト4進出。準決勝で堀口一史座に敗れる。 2001年、第20回朝日オープン将棋選手権で、米長邦雄、森内俊之、中原誠らを破り、決勝進出。決勝五番勝負で堀口一史座に1勝3敗で敗れ、準優勝。 竜王戦では、第16期(2003年度)に3組優勝、第17期(2004年度)には2組準優勝となり、2年連続昇級で1組へ上り詰めた。 2008年度のB級1組順位戦において、高橋道雄、井上慶太と並ぶトップタイの成績(8勝4敗)を挙げたが、順位が下位であったため頭ハネでA級昇級を逃した(タイトル挑戦・棋戦優勝・将棋大賞受賞歴が全くない杉本がA級に昇級していれば、田丸昇以来の珍記録であった)。 第74期(2015年度)第74期順位戦B級2組では3勝7敗の成績に終わり、降級点を2個累積させてC級1組へ降級した。 2018年3月8日、第68期王将戦1次予選2回戦で弟子の藤井聡太と初対局、千日手指し直しの末敗れ、「恩返し」を許した。 2019年2月22日、テレビ棋戦での勝利で勝数規定を満たし、八段に昇段した。八段まで全て勝数規定で昇段したのは阿部隆、中田宏樹、中川大輔、日浦市郎、泉正樹、神崎健二、中田功に続き史上8人目である。第77期順位戦では近藤誠也、船江恒平、そして藤井聡太と8勝1敗で並んで迎えた3月5日の最終局で勝利。他の3人も勝利したが、順位の差で来期B級2組へ復帰。藤井との師弟同時昇級はならなかったが、50歳でのB級2組昇級は史上4位の年長記録となった。
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棋歴
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1998年の第23回小学生将棋名人戦で3位になり、同年、12歳で奨励会に入会。2006年に20歳でプロデビューを果たす。 小学生の頃、磯子将棋センターに通っていたが(同じ道場出身者に永瀬拓矢 がいる。)茨城県に引っ越した。そのため、奨励会には茨城県から通っていた。 2007年、第20期竜王ランキング戦6組で優勝。決勝トーナメントでは初戦で敗退。 初参加から2期目となる第67期(2008年度)C級2組順位戦で、8勝2敗で昇級(五段昇段)。翌第68期(2009年度)C級1組順位戦では10戦全勝し、2期連続昇級(六段昇段 = 当時の最年少六段)。 また、2009年度に戦った第51期王位戦予選で、森内俊之九段、久保利明棋王らを破り挑戦者決定リーグに進出。さらに、王位戦・白組リーグでは羽生善治名人らに勝ち4勝1敗とし、同じく4勝1敗の羽生とのプレーオフとなったが敗れ、挑戦者決定戦進出を逃す。なお、この間、2009年度を勝率0.7619(2位)・32勝10敗で終え、将棋大賞の新人賞を受賞している。 2010年、第23期竜王ランキング戦5組で優勝。決勝トーナメントでは2勝を挙げる。
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棋歴
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将棋教室を開くほどの将棋好きだったアマ初段の父が、将棋の駒にちなんで「竜馬」と命名した。父と兄が指しているのを見て4歳頃に将棋を覚えた。 2000年、小学5年の時に出場した第25回小学生将棋名人戦で優勝。決勝戦の相手は1年上の中村太地だった。その後、長年弟子を取らない方針だった谷川浩司が一人だけ弟子を取るという話を耳にし、小さな頃から憧れていた谷川に弟子入りを志願する手紙を書いた。谷川は小学生名人戦のビデオをわざわざ取り寄せて見て、都成の将棋と縁深い名前や、誕生日が1月17日で谷川自らも被災した阪神・淡路大震災の日付と重なることなどに運命的なものを感じ、唯一の弟子として迎え入れたという。 同年9月、6級で関西奨励会に入会。しかし、入会当初は成績が振るわず、5級に昇級するまで1年9ヶ月、また5級から4級の昇級も1年3ヶ月費やした。その後は調子を上げ、4級から初段まではおよそ2年でかけ上がった。当時は宮崎から飛行機で大阪の関西将棋会館に通い、中学卒業後は大阪の高校に進学したが、将棋に専念するため3年の時に中退。2007年7月、17歳で三段に昇段し、2007年度後期(第42回)より奨励会三段リーグに参加。リーグ戦では12勝6敗の成績を4回経験し、第45回と第52回でそれぞれ4位となるものの、直後のリーグ戦で良い成績が残せない等で三段リーグを抜けられずにいた。 三段在籍中に出場した第44期新人王戦で、奨励会三段として3人目となる決勝三番勝負進出。その決勝で藤森哲也に2勝1敗で勝利し、史上初の奨励会員による一般棋戦優勝を果たした。この快挙を受け日本将棋連盟は、「新人王戦で奨励会三段が優勝した場合、進行中の三段リーグ終了時に次点をつける」という規定を設け、第55回奨励会三段リーグより適用することになった。 2015年1月22日に行われた第46期新人王戦2回戦、対牧野光則戦は、先手玉が入玉したが後手番の都成は攻め続け、先手玉を後方に追いやったものの、最終的には343手という長手数で敗れた。この対局で、第42回将棋大賞の名局賞特別賞を受賞した。 2015年度後期(第58回)の三段リーグでは前半戦から好調を維持し、最終日の2局を残して2位以下に3勝差をつけて1位を確定し、四段昇段を決定させた。三段リーグ17期目、26歳の年齢制限で指し分け(9勝9敗)以下の場合、退会となる状況での昇段であった。宮崎県出身の将棋プロ棋士は高崎一生以来2人目。 2016年度、初参加となる第75期順位戦では、初参加から2連敗ののち8勝2敗と、9勝1敗の昇級者3人に次ぐ成績を上げ次期は3位となった。 2017年度の第76期順位戦C級2組最終局で杉本和陽に勝利し、8勝2敗の成績となる。第76期C級2組は10戦全勝が1人の他、8勝2敗で7人が並ぶ大混戦となったが、順位差でC級1組への昇級を決め、同時に五段に昇段した。 2018年度は、第31期竜王戦 6組ランキング戦・準決勝で高野智史に勝利して5組昇級を決め、決勝で大橋貴洸に勝利して6組優勝と決勝トーナメント進出を決めた。決勝トーナメントでは5組優勝の藤井聡太に敗れた。また第60期王位戦は予選を決勝まで勝ち抜き、挑戦者決定リーグ入りをかけて谷川浩司との「師弟対決」が実現するも、105手で敗れリーグ入りを逃した。 2019年度に入り、第45期棋王戦は予選決勝で藤井聡太を下して対藤井6戦目にして初勝利、本戦進出を果たした。 2019年4月より高見泰地・向井葉月(乃木坂46)とともにNHK Eテレ「将棋フォーカス」の司会を担当。 2021年1月よりYouTubeにて自身のチャンネル「【将棋棋士】都成竜馬とゆく / Ryuma Tonari」を開設した。
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棋歴
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棋界の名伯楽・高柳敏夫の末弟子として1992年に奨励会入会、コンスタントに勝ち星を重ね、1998年度前期(第23回)より三段リーグに参戦。なかなか大勝ちができず四段入りに難航したものの、初参加から13期目で自己最高となる14勝を上げ、23歳で無事にプロ四段となる。 初参戦の第31期(2004~2005年度)棋王戦で本戦出場。本戦2回戦で森下卓に敗れる。 第67期(2008年度)順位戦ではC級2組にて最終戦まで昇級に絡む。トップの大平武洋が8勝1敗、村中ら8人が7勝2敗で並ぶ混戦で迎え、順位の差により村中は昇級争いの8番手、自身が4番手の中村太地に勝って、更に(同点で村中より順位が高い)田村康介・高崎一生・戸辺誠・佐藤天彦・金井恒太のうち4人が負ければC級1組に昇級という極めて可能性が低い状況で、自身は勝利を収めたものの、田村・戸辺が勝ち他の3名が敗れたため「あと一人足りず」次点に留まった。 初出場の第58期NHK杯の1回戦で、木村一基を序盤で飛車を捨てるなどの強手で攻め続け撃破した。 2009年9月15日、第22期竜王戦5組昇級者決定戦準決勝 松本佳介戦に勝ち、プロ入りから5年にして四段昇段後100勝により五段へ昇段。その翌月の10月16日には、勝てば一気に六段昇段の竜王ランキング戦5組3位決定戦・対戸辺誠戦を迎えたが、このチャンスをものにして勝利。連続2回昇級での4組昇級を決めるとともに、五段昇段から僅か1か月、3勝をあげただけで六段に昇段した(竜王戦の昇段規定では1年以内に2回以上昇段できるため)。 2010年3月9日のC級2組順位戦最終戦で、有吉道夫九段に勝利。有吉はこの敗戦で加藤一二三に次ぐ史上2人目の公式戦1,000敗に到ると同時に、延べ54期に亘り参加し続けた順位戦から退いた。
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棋歴
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将棋を覚えたのは小学校1年生の頃。ちょうど東伊豆町から隣の伊東市に引っ越すタイミングで、中学校教師である父から教わった。4年生になって伊東の支部の小さな道場に行くようになり、5年生のときに奨励会を受験するも不合格。師匠の勧めもあり研修会へ入会。月に2回ほど東京に通った。 2005年9月、6級で奨励会に入会。後にプロ棋士となる会員としては珍しく、入会後間もなく成績不振により“B”と言われる降級点を喫し、7級降級の危機に瀕するなどで、最初の昇級に1年を費やした。八代本人は後の四段昇段内定のインタビューで、この時期が辛かったが、周囲の応援が励みになった旨を述懐した。それからしばらく順調に昇級を続け、2008年2月に初段に昇段。しかし、そこで再び長いトンネルに入り、2009年7月にようやく二段昇段。 二段では再び順調に勝ち星を重ね、2010年3月に三段に昇段。これに伴い2010年度前期(第47回)より三段リーグに参加。4期目となる2011年度後期(第50回)で14勝4敗・2位の成績を修め、地元の高校を卒業するタイミングの2012年4月1日付けでプロ入り。また、第1期(2011年度)加古川青流戦にも三段として参加、初戦でプロ棋士歴9年の藤倉勇樹四段から白星を挙げた。 2015年度の第65回NHK杯戦に初出場、本戦1回戦で村山慈明と対戦したものの敗退。 2017年2月11日、2016年度の第10回朝日杯将棋オープン戦で一次予選から勝ち上がり棋戦初優勝。同棋戦の歴代優勝者の中で、八代の22歳11か月は当時の最年少記録、五段での優勝も同棋戦史上初、更に一次予選から出場した棋士の優勝も同棋戦史上初であった。また、全棋士参加棋戦での優勝により、同日付で六段に昇段した。 2018年4月15日(放送日)、第68回NHK杯戦に朝日杯優勝のシード枠で出場したが、1回戦で初出場の安用寺孝功六段に敗れた。 2019年4月23日、第32期竜王ランキング戦3組準決勝で三枚堂達也に勝って連続昇級を決め、七段に昇段した。ちなみに三枚堂も連続昇級がかかっており、両者とも六段であったため、文字通りの「七段昇段者決定戦」であった。同年5月に新元号・令和となったため『平成最後の対局』で昇段となった。 2021年3月24日、第34期竜王ランキング戦2組準決勝で当時の名人位であった渡辺明に勝利し、本戦出場と共に1組への昇級を決めた。これにより2021年度の八代は竜王戦では最上位クラスの1組、順位戦では最下位クラスのC級2組に属することになり、1995年度の先崎学以来、26年ぶりの2例目となった。本戦トーナメントでは三枚堂達也、久保利明を破り準決勝まで進出するも、ランキング戦2組決勝で敗れた藤井聡太に再び黒星を喫し敗退となった。 2021年12月10日、第35期竜王ランキング戦1組1回戦で稲葉陽に勝利し、史上初2期連続竜王戦1組、順位戦C級2組所属が確定した。準々決勝では前期も対局し勝利した渡辺明に勝利した。第93期(2021年度)の棋聖戦・二次予選決勝で屋敷伸之に勝ち、本戦トーナメント進出。第6期(2021年度)の叡王戦・段位別予選決勝で横山泰明に勝ち、本戦トーナメント進出。
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棋歴
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1965年の入門から10年経った三段当時の1975年の10月 - 11月に、8連勝を記録して27歳でプロとなる。この間、第1回(1971年)奨励会若獅子戦で優勝している。 1977年度、第5回(1978年度)名将戦で、予選を突破。 順位戦では、第36期・1977年度よりC級2組に出場したものの、13期目までC級1組に昇級する成績を修められず、出場14期目(第49期・1990年度)で降級点を喫したのを機に、42歳で引退する。順位戦での通算勝率は、4割ちょうどである。 竜王戦では、発足時は5組からのスタートであったが、1度降級の危機を迎えるものの残留決定戦で勝ち、引退までの4年を降級することなく終えた。
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棋歴
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棋歴
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平成生まれ初のプロ棋士である。 2018年時点では、豊島・菅井竜也・稲葉陽・糸谷哲郎・斎藤慎太郎・佐藤天彦(元関西奨励会所属)の6名が「関西若手6強」とされていた。
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棋歴
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奨励会二段の頃、第2回(1979年)「若駒戦」(非公式戦)で優勝。翌年は三段で準優勝。 1984年度、第8回若獅子戦で、公式棋戦初優勝。 順位戦C級2組において、初参加から3年連続で7勝3敗。4期目(1985年度)に8勝2敗で3位となり、C級1組へ昇級。 第7回(1988年度)全日本プロトーナメントで、ベスト8。 2017年3月31日、フリークラス規定により同年度(2016年度)の最終対局をもっての引退が将棋連盟より発表された。3月末時点で第30期竜王戦・6組昇級者決定戦を残していたが、6月1日の対局で中尾敏之に敗れて全対局を終え、引退が確定した。
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棋歴
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小学1年生の時に父に教わって将棋を始めた。 1999年9月に、6級で奨励会に入会。1級から初段への昇段に2年強を費やした以外は順調に昇級・昇段をし続け、2005年3月には三段に昇段し、第37回(2005年度前期)より三段リーグに参加。ここで2位以内の成績を修めればプロ入りという所まで到達した。 リーグでは勝ち越すことが多かったものの、なかなか2位以内に入れないまま、第50回(2011年度後期)参加中に満26歳の年齢制限を迎え、指し分け(9勝9敗)以下で終えると奨励会退会という危機に瀕する。当期リーグは最終日を3番手で迎えるも、連敗を喫し11勝7敗の8位で終え次点獲得のチャンスを逃した。 翌第51回では序盤から好調を続け、連勝すれば自力で四段昇段が可能な状態で最終日を迎えたが最終局で敗れ、成績が4位となり、またもや次点の獲得にも至らなかった。 翌第52回は出だし3連敗と躓いたものの、中盤以降で持ち直し、11勝5敗の途中成績で迎えた最終日は、自身が連勝するか、自身が1勝1敗でも同じ途中成績の他の3名が連勝しなければ昇段できる極めて有利な状況で迎えた。しかし再び最終局で敗れ、また同星の竹内雄悟が連勝したため今回も2位以内に入れなかった(最終的に3位だったため、次点を獲得した)。 翌第53回では波に乗れず、第15回戦を終えた時点で7勝8敗となり、残り3局を全勝できないと退会という窮地に立つ。追い込まれた宮本であったが、残り3局を連勝、最終成績を10勝8敗と勝ち越し、翌第54回への参加権を辛くも確保した。 勝ち越し延長を続けること4回、28歳となる第54回では、三たび連勝すれば自力で昇段が可能な状態で最終日を迎える。宮本は初めてこの状況で連勝、遂に四段昇段を決めた。28歳での四段昇段は、三段リーグを経由したものに限定すれば、勝ち越し延長の規定が発足した1994年以降の最高齢記録であった。 また、奨励会三段時代に出場した第1期加古川青流戦では決勝まで進み、決勝三番勝負で船江恒平に先勝からの2連敗で敗れたものの、準優勝を果たしている。 第74期(2015年度)C級2組順位戦では、9勝1敗・1位の成績をあげ、C級1組への昇級とそれに伴い五段に昇段。 第67回(2017年度)NHK杯将棋トーナメントに五段・31歳にして初出場。1回戦で銀河戦優勝につきシードの藤井猛九段に勝利。2回戦は三浦弘行九段に敗れた。
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棋歴
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5歳の時に祖父から教わったのをきっかけとし、将棋を始める。将棋会館の将棋スクールで勝又清和の指導を受け、当初は勝又への弟子入りを希望するが、勝又は弟子を取らない方針だったことからこれを断り、代わりに勝又の師匠である石田を紹介、石田門下となる。 2001年9月、6級で新進棋士奨励会に入会。三段まで順調に昇級・昇段を続け、18歳となった直後に三段に昇段し、第40回(平成18年後期)より三段リーグに参加。毎期コンスタントな成績を修めるも、なかなか四段昇段に結びつく好成績が出せなかった。 3期目(第42期)では5番手で最終日を迎え、トップの吉田正和、3番手の船江恒平が連敗し、2番手の田中悠一が1勝1敗だったため、渡辺が連勝していれば2位で四段昇段となるチャンスだったが、当期限りで年齢制限に伴う退会が決定していた会員に敗れ、次点をも逃した。 7期目(第46期)では6番手で最終日を迎え、渡辺が連勝し、3番手の佐々木勇気が1勝1敗となり、4番手の森村賢平及び5番手の藤森哲也が連敗したため、2番手の牧野光則の結果次第では渡辺が2位で四段昇段となるところだったが、牧野が連勝したため実現には至らなかった。しかしながら、菅井・牧野に次ぐ3位の成績を修め、1回目の次点を獲得した。 12期目(第51期)では4番手で最終日を迎え、再び最終2局を連勝。これで上村亘(トップ)、宮本広志(2番手)、石田直裕(3番手)のうち2人が1敗以上すれば2位以内で四段昇段となるところだったが、結果は上村と石田が無敗で終えたためまたしても実現には至らなかった。しかしながら、宮本が連勝しなかったことにより、渡辺は3位の成績を修め、2回目の次点に伴いフリークラスに編入する権利を獲得。これを行使したことにより、2012年10月1日付けで四段昇段(プロ入り)。 奨励会三段枠で出場した新人王戦及び加古川青流戦では、対局当時既にプロとなっていた棋士に3勝4敗、女流棋士に2勝0敗と好戦した。第43回(2012年)新人王戦2回戦では、絶好調の最中にあった中村太地五段を撃破した。 2015年7月8日、竜王戦6組の昇級者決定戦5回戦で、伊藤博文に勝利し、フリークラスから順位戦C級2組への昇級を決めた。 棋風は粘り強い受け将棋。 2020年12月25日、王座戦一次予選で門倉啓太五段と対局予定だったが、自身の骨折のために対局が行えず不戦敗となった。続く29日に予定されていた澤田真吾七段との王位戦予選での対局も延期となった。
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棋歴
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松山商科大学(現・松山大学)在学中より活躍し、3年連続で全国学生女流名人戦の決勝に進出している。1981年の第2回、1983年の第4回には優勝した。 女流プロとしてのデビュー戦は1987年3月26日のレディースオープントーナメントの山下カズ子戦であったが、山下の反則により、プロ初白星が反則勝ちという棋界では非常に珍しい記録を残すことになった。 1998年より4年間、大阪ガスのCMに出演した。 大学時代の将棋部の後輩と1997年に結婚、1999年に第一子を出産。 姉御肌のキャラクターから、将棋界では「大阪の姉御」と呼ばれている。 ニックネームは「カノタマ」または「タマ」。かつて『将棋マガジン』でコラムを連載していた時の題名も『タマの目』だった。 関西所属では唯一、日本女子プロ将棋協会の設立に参加し、連盟を脱退した。2014年2月にはLPSAの理事に就任。 2017年3月31日、引退女流棋士規定により引退。生涯成績は123勝243敗。また、LPSA主催の大会には出場する意向を示している。
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棋歴
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1993年、奨励会に入会(6級)。2005年、年齢制限を目前にして25歳で四段に昇段。昇段を決めた一局を終えた直後、思わずうれし涙にむせぶ姿が、「囲碁・将棋ジャーナル」で映された。 2006年度は勝率6割台の好成績を挙げたが、初参加の第65期(2006年度)C級2組順位戦に黒星が集まり、3勝7敗でいきなり降級点を喫する。翌第66期(2007年度)では一転して8勝2敗の好成績を挙げたが、順位の差で次点となり、C級1組への昇級と五段昇段を逃した。 第15期銀河戦(2006 - 2007年)のブロック戦で最多連勝し、決勝トーナメントに進出(ベスト16)。 2007年、第57回NHK杯戦で、本戦初出場。また、第20期(2007年度)竜王戦のランキング戦6組で準優勝(5組昇級)。その5か月後の2007年10月から2008年1月にかけて公式戦10連勝を記録(真部一男の死去による不戦勝が含まれている)。 2009年、第59回NHK杯戦で、2度目の本戦出場。 第81期(2010年度)の棋聖戦にて、一次予選・二次予選で島朗、松尾歩らを破り、決勝トーナメントに進出(ベスト16)。 2010年、6月から10月にかけて公式戦11連勝を記録し、一時、連勝ランキングでトップに立つ。同年、第52期(2011年度)王位戦において、予選で渡辺明、先崎学らを破り、初のリーグ入り(3勝2敗で陥落)。リーグ初戦で王将挑戦中の豊島将之に勝ったのが公式戦通算100勝目(72敗)となり、五段昇段。順位戦でも8勝2敗の好成績だったが、稲葉陽との順位1枚の差に泣き、またしてもC級1組への昇級はならなかった。 2012年、第25期竜王戦にて4組昇級を果たすも、順位戦が不調で二度目の降級点。 第76期(2017年度)順位戦は8勝2敗で降級点を一つ減らすも、順位差によりC級1組への昇級はならなかった。
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棋歴(きれき)
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将棋におけるこれまでの経歴や経験値のこと。〈例〉「輝かしい棋歴を誇る」
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棋歴
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9-10歳の頃、隣の工場で昼休みに指されていたのを見たのが将棋を覚えたきっかけ。1965年第1回高校選手権優勝。翌年の第2回では団体優勝。 旧制度の奨励会三段リーグ(奨励会A組)で、制度終了の1973年度後期まで5期・2年半を戦う。この間、1972年度前期には10勝2敗で関西優勝(関西で戦ったのはこの期だけ)をするが、関東優勝の宮田利男との東西決戦で敗れ、四段昇段を逃す。リーグ廃止後、1975年7月に12勝4敗の成績で四段昇段(プロ入り)。ちょうどその頃、名人戦・順位戦で主催者移行によるブランク期間があり、順位戦再開まで待たされた。 第17期(1976年度)王位戦では挑戦者決定リーグ入り。内藤國雄、花村元司に勝つが敗退。 第18期十段戦(1978 - 1979年)の予選で、坂口允彦、森雞二、剱持松二、石田和雄、土佐浩司を破って勝ち上がり、難関の十段リーグ入りまであと1勝とするが、予選決勝で勝浦修に阻まれる。 第14回(1980年度)早指し将棋選手権で本戦で初めて2勝するが、3回戦でまたしても勝浦に敗れる。 第47期(1988年度)C級2組順位戦で8勝1敗(1敗の後に8連勝)で最終局を迎え、自力昇級の権利があったが、小林宏に痛恨の黒星を喫し、2敗で7位。このとき、沼の敗戦による逆転昇級者は、同じく8勝2敗の佐藤康光。しかし、翌第48期(1989年度)C級2組順位戦の最終局で中川大輔に勝ち、8勝2敗ながらも前期の好成績が利いて(リーグ表順位で上位のため)3位の成績で初の昇級。C級1組の棋士としての新年度の始め(1990年4月1日)には41歳になっていた。しかし、上がったばかりのC級1組で2期連続の降級点を喫し、C級2組に陥落。以降の成績は不振に終わった。
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棋歴
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8歳の時に、世田谷で将棋教室を開いていた父から将棋を教えられる。 1984年4月、女流棋士養成機関である女流育成会が創設されたのをきっかけに清水市代らととも初期会員として入会。また研修会にも同時に入会している。 1986年3月1日、当時の制度で女流3級でプロ入り。 1986年、第9期女流王将戦B級リーグで好成績を収め、A級に初昇格し翌年4月に2級に昇級。 1988年、第15期女流名人位戦B級リーグでの成績により、A級に初昇級。 1989年、第1期女流王位戦の紅組リーグで8勝1敗の成績を挙げる(唯一の黒星は7回戦の林葉直子戦)。 1991年、第5回レディースオープントーナメントで準優勝(決勝三番勝負で清水市代に0-2に敗退)。 1995年、第3期倉敷藤花戦でベスト4。1996年の第4期は挑戦者決定戦に進出(結果は木村さゆりに敗退)。翌1997年の第5期もベスト4に進出した。 1996年、第1回鹿島杯女流将棋トーナメントで準優勝(決勝三番勝負で林まゆみに0-2で敗退)。 1999年、第10期女流王位戦の白リーグで中井広恵・碓井涼子と4勝1敗で並ぶが、プレーオフで中井に敗れる。 2000年6月30日、第11期女流王位リーグ白組4回戦で船戸陽子に勝利し、女流二段昇段後90勝を達成し、女流三段に昇段。 2004年、第12期倉敷藤花戦で8年ぶりに挑戦者決定戦に進出(結果は清水市代に敗退)。 一方で同年の第31期女流名人位戦B級リーグは4勝5敗の成績に終わり、初めてB級リーグから陥落。以降は予選敗退が続き、B級に復帰する事は無かった。 2018年1月21日、第40期女流王将戦予選2回戦で山田久美に勝ち、女流三段昇段後120勝を達成し、女流四段に昇段。 2020年3月末をもって、一身上の都合により現役を引退。2019年12月26日の第47期女流名人戦予選で山口恵梨子に敗れたのが公式戦最後の対局であった。
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棋歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/26 15:12 UTC 版)
将棋を始めたきっかけは、小学2年生のときに祖父から教わったと答えている。 順位戦は第77期(2018年度)から参加。C級2組1年目は最終局の勝利による4勝6敗で降級点を免れた。 2019年度は第5期叡王戦で四段戦を勝ち上がり、本戦進出。1回戦で斎藤慎太郎に敗れた。第78期順位戦は9勝1敗の好成績でクラス3位になり、順位戦参加2期目でC級1組への昇級と五段昇段を決めた。
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棋歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/08/25 03:42 UTC 版)
1966年4月、28歳11ヶ月にしてプロ入り(四段)。その少し前、奨励会三段のときに、第9回(1965年度)古豪新鋭戦で4回戦まで勝ち進んでいる(4回戦で米長邦雄に敗れる)。 プロ1年目の第21期(1966年度)C級2組順位戦は、5勝7敗で負け越す。その中で、中原誠や桐山清澄に敗れている(中原は12戦全勝で初昇級、桐山は10勝2敗・3位で昇級できず)。 2年目に第22期(1967年度)C級2組順位戦で9勝3敗・2位の成績を収め、C級1組へ昇級(五段昇段)。以降、B級2組へ昇級することはなかった。 第1回(1972年度後期)早指し将棋選手権で本戦2回戦に進出(中原名人(三冠)に敗れる)。同棋戦ではその後も活躍しており、第4回(1974年度前期)では本戦3回戦進出(桐山に敗れる)。第5回(1974年度後期)では早指しを得意とする加藤一二三(元十段)を予選で破り、本戦では2回戦まで進出。第10回(1977年度前期)では本戦1回戦進出。第11回1977年度後期)では本戦2回戦進出(中原名人(四冠)に敗れる)。第12回(1978年度)では本戦で森安秀光らを破り4回戦進出(有吉道夫(元棋聖)に敗れる)。 1977年、石川陽生を弟子に取る。 現役のまま、1979年に心不全のため42歳で死去した。
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棋歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/08/26 00:40 UTC 版)
奨励会への入会は1962年。旧制度の三段リーグ(奨励会A組)への参加は1969年後期からで、同制度が終了する1973年度後期までの9期・4年半、四段昇段(プロ入り)をすることができなかった。 その頃、第3回奨励会若獅子戦の関東の決勝で、田中寅彦4級を角落ちで破って関東優勝。しかし、西の優勝者・淡路仁茂三段との決勝では、秒読みで悪手を指して敗れ、準優勝に終わる。このとき椎橋は、観戦記担当の団鬼六や記録係にわざわざお茶を持ってくるという気遣いを見せた。団は「お茶を出す時間を節約していれば…」と思ったという。 その頃から好調となり、三段リーグ制度が1974年に廃止されるや否や、同年9月に25歳で四段昇段する。 第2回(1975年度)名将戦で本戦入り。 第13回(1979年度)早指し将棋選手権で予選を突破。さらに本戦1回戦で谷川浩司を破る。 順位戦では、1992年にC級2組から陥落。以降10年間、順位戦に復帰することができず、2001年度を最後に53歳で引退となった。
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棋歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/08/26 03:35 UTC 版)
小学校4年の頃から神戸市の藤内道場へ通い、中学2年のときにプロを志す。 奨励会への入会は1966年。旧制度の三段リーグ(奨励会A組)への参加は、1970年後期から同制度が終了する1973年度後期までであった。その間、1971年度後期には関西優勝をしてプロ入りのチャンスが巡ってきたが、東西決戦で田丸昇に敗れ、昇段を逃す。リーグ制度廃止後、1976年3月に12勝4敗を記録し、26歳でプロ入りを果たす。 プロ1年目の1976年度に、第18期(1977年度)王位戦のリーグ入りを決めるなどの活躍で、20勝超えの成績を収める。これが、酒井の現役時代における最高の年度となった。 1978年、第17期十段戦予選で谷川浩司らを破り、5回戦に進出。 順位戦では19年間C級2組で指した後、1996年にフリークラスに陥落。以降10年間、順位戦に復帰することができず、2006年に引退となった。
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棋歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/03/21 01:16 UTC 版)
1952年、順位戦C級2組に初参加し9勝3敗の3位でC級1組に昇級。1953年、2勝10敗の最下位でC級2組に1期で戻る。 1960年、C級2組順位戦で2勝11敗により陥落し、そこから4年半にわたって予備クラス(奨励会三段が所属したクラス)で指した。予備クラスに陥落し復帰した数少ない棋士である。6期目には関西優勝も関東優勝の米長邦雄に敗れ、敗者復活では大内延介に敗れ順位戦復活ならず。9期目に関西優勝し、関東優勝の桜井昇に勝ち順位戦に復帰した。 1967年、復帰後3期目のこの期に3勝9敗で降級点。翌1968年も3勝9敗で降級点を2つ目を得て、その後3年連続指しわけも1973年3勝7敗で3つ目の降級点を得て、順位戦から陥落した。1985年に引退するまでの通算成績は191勝336敗。 1970年に創設され年齢制限のなかった第1回新人王戦に45歳で出場し決勝に進出。29歳の山口英夫に2連敗で準優勝。 引退後は半九郎というペンネームで観戦記者を務めたこともある。
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棋歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/05/03 05:56 UTC 版)
戦時中、木見の弟子となり、1948年に若くしてプロとなる。記録が残っておらず四段昇段日が確定していないため、日本将棋連盟は年少での四段昇段記録の列に二見を加えていない。 第5期順位戦C級乙組で1位となり、次期のC級1組に昇級。これにより、飛び昇段で六段となる。 第6期順位戦C級1組は、次期にB級を2つに分けるため、1位が次期のB級1組に、2、3位が次期のB級2組にそれぞれ昇級する戦いであったが、二見は3位となりB級2組へ昇級。 1960年、第4回古豪新鋭戦で優勝。 1970年度、6月から年度末まで休場。しかし、翌1971年度にほぼ五分の成績でカムバックを果たす。 他の棋戦と比べると、二見は順位戦との相性が悪かった。ちょうど名人戦・順位戦が1年間中断した頃、順位戦から陥落する。それから間もなく1977年度から長期休場。1980年、現役七段のまま肝硬変により48歳で死去。
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棋歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/02 03:25 UTC 版)
1993年8月 奨励会6級で入会 1994年 女流育成会入会 1998年度 第6期大山名人杯倉敷藤花戦 :挑戦(清水市代に1-2で敗退) 同年度、第25期女流名人位戦 :挑戦(清水市代に1-3で敗退) 1999年度 第10期女流王位戦 :挑戦(清水市代に1-3で敗退) 2000年度 第11期女流王位戦 :挑戦(清水市代に0-3で敗退) 同年度 第5回鹿島杯女流将棋トーナメント 優勝 2001年 奨励会2級で退会 2002年度 第29期女流名人位戦 :挑戦(中井広恵に2-3で敗退) 2004年度 第31期女流名人位戦 :挑戦(清水市代に1-3で敗退) 2005年6月 第27期女流王将戦で中井広恵を3-0で破り、7回目の挑戦で初タイトルを獲得。 2006年6月 第28期女流王将戦で中井広恵を3-2で破り、タイトル防衛。 2007年6月 第29期女流王将戦で清水市代に1-3で敗れ、タイトル失冠。
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棋歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/02 03:26 UTC 版)
2008年度、第2期マイナビ女子オープンで挑戦者決定戦に進出したが、岩根忍女流初段に敗れてタイトル初挑戦ならず。 2009年度、9月24日の第17期大山名人杯倉敷藤花戦の挑戦者決定戦で本田小百合女流二段を破り、タイトル初挑戦を果たした。しかし三番勝負では里見香奈にストレートで敗退。 2012年9月7日、第34期女流王将戦の挑戦者決定戦で中井広恵女流六段を破り、2度目のタイトル挑戦。里見香奈との三番勝負で第一局は勝利したが、第二局・第三局と連敗して1勝2敗となり、タイトル獲得はならなかった。 2013年度、第40期女流名人位戦挑戦者決定リーグで優勝し(7勝1敗)、3度目のタイトル挑戦。しかし五番勝負では里見香奈にストレートで敗退。 2014年度、第41期女流名人戦挑戦者決定リーグで途中まで5勝0敗でトップを走っていたが、骨折の療養のため9月5日から12月31日まで休場を余儀なくされ、休場期間の不戦敗により連続挑戦を逸した。 2018年度、第26期大山名人杯倉敷藤花戦で挑戦者決定戦に進出したが、谷口由紀女流二段に敗れて挑戦権獲得ならず。 2019年度、第1期ヒューリック杯清麗戦では唯一予選を全勝で通過したが、4人で争う本戦は初戦で甲斐智美に敗れ決勝進出はならなかった。
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棋歴
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祖父に教わり将棋を始める。 第69回三段リーグで通算13勝5敗の成績を挙げ、同じ井上慶太門下の横山友紀と共に四段昇段を決めた。 岡山県出身の棋士は、同門の兄弟子にあたる菅井竜也以来11年ぶりとなり、倉敷市出身では大山康晴十五世名人以来81年ぶりとなる。また、同門の三段からの同時昇段は、共に森信雄門下の千田翔太、竹内雄悟が昇段した第52回以来8年半ぶりであった。 プロ初対局の相手が塚田恵梨花(塚田にとっても男性棋戦初対局であった)、次局も里見香奈と二局続けて女流棋士との対局という稀なスタートを切ると、この二局を含めて5連勝と上々のプロデビューを飾った。
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棋歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/02 03:42 UTC 版)
将棋を覚えたのは1982年、ちょうど中学を卒業した頃。5歳年下の弟が小学校の友達から駒の動かし方を教えてもらったことがきっかけ。だが、両親は将棋をやらず、弟も早々と止めてしまい、通っていた高校は女子高だったため対局相手がおらず、1年近くは独学で将棋を楽しんでいた。 1985年、高校卒業と同時に女流育成会に入会し、2年弱で女流のプロ棋士となる。以降、年間負け越しが続いていたが、1991年度、第14期女流王将戦でA級昇級するなどの好成績を挙げて頭角を現す。 2年後の1993年度には、第7回レディースオープントーナメントでベスト4入り。同年度の第20期女流名人位戦B級リーグではA級昇級を決める。翌年からA級に3年連続で在籍する。 1994年度には、第5期女流王位戦で高群佐知子とのプレーオフを制して白組優勝し、挑戦者決定戦に進出。しかし、紅組優勝の中井広恵に敗れる。
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棋歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/02 03:39 UTC 版)
6歳のときに将棋好きの父に教わり将棋を始め、中学1年の頃に女流棋士を目指し始める。珠洲市立宝立中学校時代に中学生選抜将棋選手権全国大会に出場。 2003年4月に女流育成会に入会、その2年後の2005年4月に高校2年の時に女流2級としてデビュー。当初は石川県在住だったために所属は関西在籍だったが、高校卒業後の2007年4月に拠点を東京に移す。 2008年12月3日、第35期女流名人戦B級リーグ9回戦で鈴木環那に勝利して女流初段に昇段。 2013年度の第7期マイナビ女子オープンではベスト4に進出。 2017年6月28日、第3回女子将棋YAMADAチャレンジ杯で中澤沙耶に勝利して女流二段に昇段。 2020年4月1日より8月31日まで公式戦を休場。(出産及び育児のため)
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棋歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/04 15:59 UTC 版)
1999年前期の女流育成会後期育成会で1位となりプロ昇格を果たした。 2003年度の第14期女流王位戦リーグでは白組で全勝優勝。しかし挑戦者決定戦で中井広恵に敗れ、タイトル挑戦を逃した。 2003年度の第17回レディースオープントーナメントでは勝ち進むが、9月12日の準決勝で石橋幸緒に逆転負けし、決勝三番勝負進出を逃した。 2007年1月21日のきしろ杯争奪関西女流メイショウ戦(非公式戦)の決勝戦で里見香奈に敗れ、準優勝。 2013年度以降は休場を繰り返し、2013年度に1年間休場。2015年度も再び休場。2016年度は第24期倉敷藤花戦と第38期女流王将戦には出場したが、2016年5月1日から2018年度まで休場。2019年度は公式戦に復帰したものの、2020年度より再び休場している。
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棋歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/07 02:08 UTC 版)
4歳の頃、兄から教えられ、将棋と出会う。そして、中学1年のとき兄に将棋道場に連れていかれたのがきっかけで将棋を好きになり、2年後にはアマチュア四段の腕前となる。 高校2年・16歳のとき、5級で奨励会に入会。初段昇段までは1年と半年というスピード出世。その間、振り飛車穴熊戦法を多用したため「穴熊の瀬戸」と呼ばれる。しかし、プロ入りに一歩手前の三段で長らく停滞する。 転機のきっかけとなったのは、師匠の二上達也から送られた年賀状に「穴熊の限界を知ること」と書かれていたことだった。一転して居飛車の矢倉を多用するようになってから調子が上がり、1979年10月18日、三段昇段から3年4か月で、ついに四段昇段を果たす。 1985年度、公式戦で師匠の二上と弟弟子の羽生善治と当たり、いずれも敗北する。しかし、同年度中に行われた第48期(1986年度前期)棋聖戦の一次予選・二次予選を突破し、本戦に進出。本戦では1回戦で中原誠名人に敗れる。なお、半年後の第49期棋聖戦一次予選1回戦では、羽生に勝っている。 1989年度、全棋士参加の大型トーナメント棋戦である第8回「全日本プロトーナメント」で、大内延介九段、中原誠棋聖・王座らに勝ち、5回戦に進出。 順位戦では参加8期目(1987年度・第46期C級2組順位戦)から10期目にかけて3期連続で降級点を喫し、C級2組から陥落。10年後、1999年度を最後に現役を引退した。但し、引退が確定した時点で第13期6組竜王戦の昇級者決定戦への参加資格が残っていたため引退日以降もこれに参戦し、2回戦で鈴木輝彦に、3回戦で菊地常夫にそれぞれ勝利、4回戦で北浜健介に敗れ、全ての公式戦を消化した。
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棋歴
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1997年10月に女流育成会に入会。その後、Aクラスにおいて指し分けに近い成績で何期か足踏みした後、2002年度前期で2位以下に大差をつける12勝3敗の成績で1位となり、14歳で女流プロ棋士となる。 2008年1月16日、第1期マイナビ女子オープン2回戦で、斎田晴子(前年度倉敷藤花)を破ってベスト4に進出。自身初の本戦シード権を獲得したが、準決勝(2008年2月7日)で鈴木と初手合の矢内理絵子女流名人(当時)に敗れ、決勝五番勝負には進出できなかった。3月10日には、第30期女流王将戦準決勝で岩根忍を破って挑戦者決定戦に進出したが、挑戦者決定戦(2008年4月9日)で再度矢内に敗れた。なお、矢内とのこの2局は相矢倉の将棋となり、鈴木の36手目までは全く同じ手順であった。 2008年2月29日、第19期女流王位戦の予選決勝で中井広恵(クイーン名人)を破り初の挑戦者決定リーグ入り。なお、2007年度は以上のような活躍で、対局数不足で公式記録ではないものの、勝率は全女流棋士中1位(0.8333、15勝3敗)となった。 第35期女流名人位戦では、2008年3月に行われた予選を勝ち抜き4期ぶりにB級リーグ入りしたが、リーグでは4勝5敗の成績ながらも陥落した。 第6期マイナビ女子オープンで快進撃を続け、挑戦者決定戦まで進んだが、2013年3月4日、里見香奈に敗れ、タイトル戦初出場はならなかった。 2017年の第3回女子将棋YAMADAチャレンジ杯では、最後の出場機会ながら決勝まで勝ち上がるものの、決勝で石本さくらに敗れて自身の公式戦初優勝はならず、準優勝。 2021年の第3期大成建設杯清麗戦では2回戦で野原未蘭に敗れるも、2回戦敗者再挑戦トーナメントを勝ち抜き本戦入り。本戦準決勝で中井広恵に勝利し8年ぶりに挑戦者決定戦に進出するも、加藤桃子に敗れタイトル戦出場を逃した。 2021年から新設されたヒューリック杯白玲戦・女流順位戦の第1期順位決定リーグ戦でG組2位となり、その後各組同順位者が出場する順位決定トーナメント(9~16位)において優勝。第2期女流順位戦でのA級入りを決めた。
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棋歴
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中学2年時代の1999年6月、13歳で奨励会に入会。以降、順調に昇級昇段を重ね、2004年4月に18歳でプロデビュー。 2006年、デビューから2回目の参加となる竜王戦の竜王ランキング戦6組で優勝。さらに、竜王挑戦権を争う本戦トーナメントでも2勝を挙げる活躍。 2007年、第38回新人王戦で決勝三番勝負に進出。村山慈明に0-2で敗れ、準優勝に終わる。 第13期(2007年度)銀河戦において、本戦(ブロック戦)で5人抜きをして決勝トーナメント進出。さらに中川大輔を破ってベスト8。準々決勝で森内俊之名人(当時)に敗れる。 2014年には第73期順位戦C級2組にて、終盤まで昇級争いに加わる。そして勝てばC級1組昇級という大一番の最終局を迎え、こちらも勝てば昇級の可能性がある村田顕弘と対局。しかし結果は敗れ、C級1組昇級を果たせなかった。
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棋歴
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父に教えられ、5歳で将棋を始める。小学3年で所沢に転居し、所沢市立小手指小学校5年の1998年9月に、6級で奨励会入り。奨励会入り以前は、同じ埼玉県出身・同年代の金井恒太や渡辺正和と対戦する機会も多かった。その頃のタイトルに、彩の国小学生名人(小4)など。 初参加の竜王ランキング戦6組準決勝(2008年5月2日)で勝利し、プロ入りから最短で6組を抜ける。 第57期(2009年度)王座戦で、挑戦者決定トーナメントに進出。深浦康市王位(当時)に勝って、ベスト8。 2018年度に入り、第68回 NHK杯戦 予選決勝で窪田義行七段に勝ち、本戦へ出場(三回目)。一回戦で加藤桃子女王に116手で敗れた。その後は高勝率を維持し続け、第77期順位戦ではただひとり全勝街道を走って残り1局を残してC級1組への昇級を決めた。また第4期叡王戦本戦にも進出し、増田康宏や橋本崇載を破ってベスト8まで進出した(挑戦者となった永瀬拓矢に破れた)。
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棋歴
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1991年9月に奨励会に6級で入会。当初は7級降級の危機に陥るなど著しく苦労したものの、2年以上かけて5級に昇級して以降18歳で初段になるまでは順調に進捗した。しかし初段で再び苦労し、二段への昇段に3年近くを費やした。三段リーグには第28回(2000年後期)より参加、ここでも初参加から3期連続で負け越し、第29回(2001年前期)では降段点を喫するなど辛酸をなめたが、それ以降はコンスタントな成績を修めた。そして成績次第では年齢制限に基づき退会を余儀なくされるという背水の陣で臨んだ第36回(2004年度前期)において14勝4敗(村中秀史に続く2位)の成績で四段に昇段した。 2009年12月8日、第68期順位戦C級2組(対横山泰明五段)の対局に勝ち、勝星昇段(四段昇段後100勝)により五段に昇段。 第58期(2010年度)王座戦でベスト8。 順位戦には第64期(2005年度)より参加。C級2組在位3年目の第66期(2007年度)は7勝2敗(3番手)で最終局を迎え、同じく7勝2敗(2番手)の佐々木慎との直接対決に敗れて昇級を逃す。その後、負け越しを喫したこともあるものの、第71期(2012年度)を9勝1敗の好成績で終え、在位8年目にして初昇級を遂げた。 2018年7月19日、規定の成績を挙げ、六段に昇段。 NHK杯戦は、第69回(2019年度)で予選を勝ち抜き、プロデビュー15年目の本戦初出場となった。1回戦で藤井聡太に敗れた。
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棋歴
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1985年奨励会入会。同期に木村一基、野月浩貴(同じ勝浦門下)、屋敷伸之(2歳年上)がいる。野月と屋敷とは同郷で小学生の頃から札幌で指していた。15歳で初段、17歳で三段と昇段が速かったが、三段リーグに17期(8年半)在籍ともたつき、年齢制限間近で四段昇段を果たす。当時、『将棋世界』誌に載った四段昇段の所感の記事には、「自分より弱い」人達が、先に次々と昇段した悔しさが書き綴られていた。 第42期(2001年度)王位戦でリーグ入りする活躍を見せたが、5戦全敗に終わった。最終戦の屋敷伸之との対局では41手目の一手に4時間46分の大長考をした。 第43期(2002年度)王位戦では、2年連続のリーグ入り。順位戦A級及びタイトル戦番勝負経験者の淡路仁茂、南芳一から勝ち星を挙げるが、他の3名に敗れリーグ残留はならなかった。 順位戦では、第61 - 62期(2002 - 2003年度)にC級2組の降級点を2回連続で喫し、翌期は最終戦で佐藤和俊に勝ちフリークラスへの降級(3つ目の降級点)を回避したものの、2005年4月1日付けで在位6期、31歳の若さで宣言によりフリークラスに編入。 出場停止処分(後述)からの復帰直後の2006年度から2007年度にかけては本戦進出こそないものの非常に優秀な成績を収め、8連勝を2回記録した。その間、連続する対局の良いところ取りで20勝7敗という、仮に降級したフリークラス棋士ならば、規定により順位戦に復帰できる好成績をあげた。 2018年9月27日、第60期王位戦予選2回戦で高見泰地叡王に勝利。フリークラス宣言した最高位が順位戦C級2組の棋士が、タイトルホルダーに勝利したのは、2005年に銀河戦決勝トーナメントで櫛田陽一六段が佐藤康光棋聖に勝利して以来13年ぶり。高見泰地には第4期叡王戦タイトル戦のあとにも、2019年9月5日に、第13回朝日杯予選 一次予選 3回戦でも勝利している。 2021年3月末にてフリークラス在籍期限を満了。同年5月17日、第34期竜王戦6組昇級者決定戦・所司和晴戦が公式戦最後の対局となり、同日付で現役引退。
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棋歴
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1985年札幌市立光陽小学6年生として第10回小学生将棋名人戦で優勝。これがきっかけで、勝浦修門下で新進棋士奨励会に入会する。同期入会に木村一基や金沢孝史、屋敷伸之(「同郷で2歳年上の屋敷は目標であり憧れであった」と後年語っている)がいる。森内俊之は兄弟子である。奨励会三段の頃は、NHK杯戦の記録・秒読み係として頻繁に出演した。 1996年前期の奨励会三段リーグで11勝7敗の成績2位となり、四段昇段(プロ入り)をする。11勝7敗での四段昇段は低成績昇段のタイ記録(野月が初)であり、このときのリーグでは野月と同星は6名いた(野月は前期リーグで12勝6敗の好成績を収めていたため、リーグ表での順位が2位であったことが利いた)。 第17回(1998年度)早指し新鋭戦で、久保利明との決勝を制して優勝。 順位戦では、第59期(2000年度)にC級1組、第62期(2003年度)にB級2組、第63期(2004年度)にB級1組へ昇級。第65期(2006年度)にB級2組へ降級。 第56回(2006年度)NHK杯戦で、渡辺明(当時竜王)、島朗らを破りベスト4進出。 2010年10月22日に行われた竜王戦3組3位決定戦で勝ち、自己最高の2組へ昇級。 2017年1月20日、第43期棋王戦予選の2回戦で小倉久史七段に勝利し、勝数規定で八段に昇段した。 2017年2月1日に開設されたAbemaTV将棋チャンネルでプロデューサー役を務めているが、2017年度は盤上でも好調であった。第76期順位戦B級2組では開幕から連勝し、2018年1月11日の8回戦(対 阿部隆)に勝利した時点で 12期ぶりにB級1組への昇級(復帰)を決め、最終的に10戦全勝となった。 第59期(2018年度)王位戦で予選を勝ち抜き、挑戦者決定リーグに進出。リーグ戦白組では豊島将之や澤田真吾等の若手棋士に苦戦し0勝5敗に終わった。 第77期順位戦B級1組では3勝9敗のクラス最下位でB級2組へ降級することとなった。さらに第78期順位戦B級2組では1勝9敗のクラス最下位となった。第79期順位戦B級2組は4勝6敗であったが、前期最下位による順位差と、この期より降級点付与枠が拡大されたことが響いて2つ目の降級点がつく結果となり、C級1組へ降級した。
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棋歴
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1927年、花田長太郎に入門。1928年9月の奨励会創設に二段として参加。1932年に四段昇段。 東京棋界の新鋭となり、塚田、坂口允彦、建部和歌夫は「昭和の三銃士」と呼ばれた。 1939年の皇軍慰問団では、将棋団長となった。上海、南京を訪問。団長は安永一、塚田正夫。囲碁は田岡敬一、梶為和、藤沢秀行、竹内澄夫。将棋は加藤治郎、加藤恵三、永沢勝雄、松田茂行。囲碁将棋各5人の編成。 詳細は「棋道報国会」を参照 1947年、戦前から無敵を誇っていた木村義雄名人を破って名人位を獲得。実力名人制となって以降、2人目の名人となる。翌1948年の名人戦は大山康晴の挑戦を退けて防衛した。また同1948年、朝日新聞社主催「塚田正夫名人・升田幸三八段 五番勝負」が行われたが、こちらも3勝2敗で勝利する。 だが1949年の名人戦で木村に敗れて失冠。この名人戦の最終第五局(この年だけ五番勝負だった)は「済寧館の決戦」といわれた名勝負となったが、塚田の潔い投了が話題となった。 1953年1月、九段位を取得した直後に、前1952年に引退していた木村と、読売新聞社主催の「木村・新九段三番勝負」(前年までの名人九段五番勝負の代替棋戦)を行い、二連勝した。 一方、九段戦(のちの十段戦、現在の竜王戦)では1952年の初獲得後に、3連覇(その後4連覇まで記録を伸ばす)した功績により初の「永世九段」となる。なお、1958年に段位としての九段昇段規定が新設され、大山康晴と升田幸三が九段に昇段したが、塚田は、九段戦防衛により保持していた「タイトルとしての九段」を1956年に失冠してからは、永世称号に基づき「段位としての九段」を称していた。 「将棋の段級#九段と十段」も参照 1960年の第1期王位戦、1962年の第1期棋聖戦でタイトル戦登場を果たすが、いずれも大山康晴に敗れた。名人失冠後の順位戦A級では、4度の挑戦者決定プレーオフで敗退する等、再度の名人挑戦・復位は果たせず、第26期(1971年度)には2勝6敗でクラス10位(最下位)となり、実力制名人経験者として史上初のB級1組降級となった。翌第27期(1972年度)B級1組では7勝4敗でクラス2位の成績を挙げてA級に復帰し、60歳まで在籍した。 1974年に将棋会館建替え問題のために加藤治郎会長を始め全理事が退任、その後任として将棋連盟会長に就任。在任中には名人戦問題で揺れる将棋界の舵取りに尽力した。 1977年12月13日、昇降級リーグ戦1組(順位戦B級1組)で花村元司に敗れたのが公式戦最期の対局となる。塚田は病気入院していたものの、花村がリーグ5勝1敗の好成績だったこともあり、一時退院して対局にはげんだという。同年12月30日、現役のまま死去。63歳没。病床で無意識に発した最後の言葉は「扇子を持ってこい、財布を出せ」だったという。葬儀・告別式は1978年1月16日、将棋会館で日本将棋連盟葬として行われた。 没後、将棋界でただ一人の「名誉十段」を追贈される。さらに、1989年には実力制第二代名人を追贈される(升田幸三に贈るために「実力制第○代名人」の称号がこの年制定されたため)。 文京区の善仁寺には、塚田の十三回忌に将棋駒の形をした墓碑が建てられ、塚田作九手詰めの詰将棋作品が刻まれている。
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棋歴
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将棋を覚えたきっかけは、10歳ぐらいのときに新聞紙上の将棋欄に書かれていた「不思議な数字」に興味を持ったことであり、後にプロになる者としては、かなり遅いスタートであった。ちなみに、「不思議な数字」とは、棋譜のことである。 しかしながら、1971年、14歳で奨励会に入り、5年後の1976年に19歳でプロ入りを果たす。 1980年度、若手の登竜門である若獅子戦(第4回)で、棋戦初優勝。 1989年度、第2期竜王ランキング戦4組で準優勝し、3組へ昇級。ちなみに、このときの4組優勝者は森下卓五段(当時)であった。 1991年度、第32期王位戦でリーグ入り。 順位戦では、初参加の第36期C級2組(1977年度)以来、昇級も降級点もなく第54期(1995年度)を迎えた。この期では、残り1局の時点で8勝1敗で4番手という絶好のポジションにつけた。ライバルは、大島より順位が下で9勝無敗の北浜健介、および、大島より順位が上で同じく8勝1敗の先崎学、中田宏樹の計3名であった。自力ではないものの、最終10回戦で勝てば昇級の可能性は高かった。しかし、最終局では大島だけでなくライバル3人もすべて勝ったため、大島は9勝1敗で次点という“頭ハネ”を食らってしまった。以降、順位戦で勝ち越すことが出来ず、第56期(1997年度)に2勝8敗で初の降級点を喫する。第61期(2002年度)に2勝8敗で2度目の降級点。第63期(2004年度)に3勝7敗で3度目の降級点を喫し、フリークラス陥落となった。その後10年間でC級2組復帰を果たすことができず、フリークラス引退規定により2015年3月12日付で引退となった。
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棋歴
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1998年小学6年で富山県出身の中田章道を師匠として、関西奨励会試験を受けたが不合格。しかし、翌1999年中学校1年で6級として奨励会入り。2001年に初段に昇段し、2004年前期から三段リーグで戦う。 2007年、中田の妻が四段入りを期待しながら6月に没したことに発奮し、同年秋にその弔いとなる四段昇段を果たした。第41回三段リーグ(2007年度前期)での成績は15勝3敗(1位)。21歳でのプロ入りである。 初参加の第34期(2008年度)棋王戦の予選を勝ち上がり、本戦出場。同じく初参加の第67期(2008年度)C級2組順位戦では8勝2敗の好成績を挙げ、新四段4名の中で唯一の勝ち越し。また、2009年10月16日の竜王戦6組3位決定戦において、新人王戦優勝で波に乗る強敵・広瀬章人を破り、7連勝で5組へ昇級。デビューから6割台の年度勝率を連発し、糸谷哲郎、豊島将之、稲葉陽とともに「関西若手四天王」と呼ばれるようになる。 第4回朝日杯将棋オープン戦(2010年 - 2011年)で予選突破。本戦1回戦で久保利明を破る。また、第59期(2011年度)王座戦で本戦進出(ベスト16)。 五段昇段は2012年3月6日付け。第70期C級2組順位戦10回戦(最終局)の阪口悟五段との対局に勝利して四段昇段後公式戦で通算100勝に到達したことに伴うもの。 第73期(2014年度)C級2組順位戦では、最終戦前の時点で中村亮介、岡崎洋に次ぎ5位につけていたが、最終戦で中村との直接対決を制し、岡崎も敗れたため、3位となりC級1組へ昇級。 2017年11月7日、棋聖戦の1次予選で今泉健司に勝利し、昇段の「勝ち星規定」を満たし六段に昇段。
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棋歴
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将棋を始めたのは14歳の頃で、後にプロとなった人物としては非常に遅い。自分から父に申し出て、将棋を教わったという。 近畿大学の学生であった4年間に、学生将棋女流名人戦(1987 - 1990年)で4連覇という完全制覇を達成(1994年に棚田真由美が、2005年に石内奈々絵がこの記録に並ぶ)。1990年、女流アマ名人となる(第22回女流アマ名人戦優勝)。同年、第4回レディースオープントーナメントにアマチュアとして出場。予選を突破し、さらに本戦で3回戦まで進出。その戦績を引っさげて、1991年に女流育成会に入会し、翌年に早くもプロとなる。 女流名人位戦では、第19期(1992年度)でB級昇格、第21期(1994年度)でB級復帰を決める。第22期(1995年度)ではB級で6勝3敗の成績を挙げるも、A級昇格を逸する。 1996年度、第1回鹿島杯女流将棋トーナメントにおいて、決勝三番勝負で高群佐知子の右玉戦法を打ち破り、2-0で優勝(1996年9月1日)。同日付で女流初段に昇段。 第11回(1997年度)レディースオープントーナメントでベスト4。同棋戦では、第13回(1999年度)でも清水市代らを破りベスト4。 第27期(2000年度)と第28期(2001年度)の女流名人位戦でそれぞれ予選を勝ち抜き、B級に参加。 2002年度に行われた第14期女流王位戦の予選を勝ち抜き、2003年度にリーグに参加。斎田晴子、千葉涼子らがいるリーグの中で5戦全敗に終わる。 2010年3月31日付けで降級点規定により引退となり、その翌日の4月1日に引退女流棋士規定により女流三段に昇段。 同年8月10日付で「一身上の都合により」日本将棋連盟を退会し、「女流棋士」の肩書きがなくなる。女流棋士の制度が始まってから同日までの時点で66人の女流棋士が誕生しているが、その中で退会により‘元女流棋士’となったケースは、日本将棋連盟とLPSAを合わせて林が5例目。
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棋歴
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1999年6月29日 - 第21期女流王将戦五番勝負で清水市代に挑戦し、女流王将を獲得(初タイトル)。 1999年11月2日 - 第13回レディースオープントーナメント優勝 2002年10月5日 - 第7回鹿島杯女流将棋トーナメント優勝 2002年11月6日 - 第16回レディースオープントーナメント優勝 2005年11月12日 - 第10回鹿島杯女流棋士トーナメント優勝 2005年12月8日 - 第19回レディースオープントーナメント優勝 2007年5月 - 新団体のLPSA(日本女子プロ将棋協会)へ移籍。 2007年11月5日 - 第18期女流王位戦五番勝負で清水市代に挑戦し、女流王位を獲得。 2008年11月12日 - 第19期女流王位戦五番勝負で清水市代の挑戦を退け、女流王位を防衛。 2014年1月31日 - 現役引退。 2014年2月25日 - LPSA退会。
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棋歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/18 04:21 UTC 版)
1997年10月、女流育成会に入会し、1999年10月1日、女流2級としてプロ入り。 2003年4月1日、女流棋士昇級昇段規定の「女流2級で年度成績指し分け以上(7勝以上)」を満たし(2002年度成績8勝6敗)、女流1級に昇級。 2020年3月31日付で現役を引退。 引退後も公式戦の記録係を務めることが多く、ABEMA等のネット配信対局番組で映ることがある。
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棋歴
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小学4年生のときに友達から将棋を教わる。翌年に家が高槻市に引っ越した際、近所に棋士が住んでいるという話を聞きつけ、師匠の中井が自宅で開いていた将棋教室に通い始めた。当時は自宅に将棋盤すらない状態だったにも関わらず、いきなり師匠に「プロになりたい」と直訴したという。13歳で新進棋士奨励会に入会したため、高校にも行かなかった。 初参加から3期目の順位戦第45期(1986年度)C級2組において10戦全勝し、C級1組へ昇級。第47期(1988年度)順位戦C級1組では8勝2敗の成績を収め、B級2組へ昇級。 1989年度、婚約発表直後に、第1回「IBM杯順位戦昇級者激突戦」(非公式戦)で優勝(決勝の相手は森下卓)。 1995年度のB級2組順位戦で9勝1敗の成績を収め、B級1組に初昇級した。しかし、明くる1996年度のB級1組順位戦では、有吉道夫、青野照市、小林健二、内藤國雄、田丸昇とともに6名で5勝7敗の成績に並んで終え、B級1組初参加のためリーグ表で下位の浦野は1期でB級2組へ降級してしまうという不運を味わった。 その一方で、第9期(1996年度)竜王戦では3組で準優勝し、初の本戦出場を果たすとともに自己最高の2組へ昇級した。 第29期(2003年度)棋王戦で、屋敷伸之、井上慶太らを破ってベスト4進出。準決勝で谷川浩司に敗れ、敗者復活戦では深浦康市に敗れて挑戦者決定戦進出はならなかった。次年度(第30期)はベスト16にシードされ、中川大輔から1勝を挙げてベスト8進出。しかし、準々決勝で森内俊之三冠王(竜王・名人・王将 = 当時)に敗れ、2年連続のシード権獲得を逸した。 2013年度には、第26期竜王戦5組の残留決定戦で中村亮介に敗れ6組に降級。更に2014年9月から10月に亘り体調を崩し入院したため、同時期に予定されていた4局が不戦敗となった。それ以降は公式戦において成績不振が続き、順位戦C級1組で参加していた2014年度(第73期)・2015年度(第74期)ではそれぞれ1勝9敗・2勝8敗に終わり、降級点を2個累積させてC級2組へ降級。翌2016年度(第75期)は順位戦33期目で初めての全敗。当期を最後にフリークラス宣言をし、翌期以降の順位戦への出場権を放棄した。
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棋歴
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2001年4月、プロデビュー。プロ入り初年度は、15勝10敗で6割の勝率を挙げる。 初参加の第15期(2002年度)竜王ランキング戦6組で、昇級者決定戦を制して3位となり、6組からの1期抜けで5組へ昇級。 2003年度、第29期棋王戦・第22回朝日オープン将棋選手権・第51期王座戦の、挑戦者決定トーナメントに進出。棋王戦では予選から加藤一二三らを制するも、挑戦者決定トーナメント2回戦で当時タイトルホルダー(棋聖・王将)の佐藤康光に敗れる。王座戦は永世名人の資格を保持する中原誠らを制し、本戦進出した。 翌2004年度の第52期王座戦においても、行方尚史らを破り、挑戦者決定トーナメントへ進出(永世名人で当時王位の谷川浩司に敗れる)。 第18期(2005年度)竜王ランキング戦5組で準優勝し、4組へ昇級。 2007年度は公式戦13連勝を記録。これにより、将棋大賞での初受賞となる連勝賞を受賞。順位戦6期目には8勝2敗で次点(4位)で昇級を逃すものの、7期目の第66期(2007年度)において8勝2敗の成績で2位となり、C級1組へ昇級した。 第58回(2008年度)NHK杯戦は前年に続き2回目の本戦出場。藤井猛元竜王らに勝ち、ベスト8に進出。準々決勝では羽生善治に敗れる。藤井との一局は相振り飛車からの激しい将棋であり、自陣は居玉のまま藤井陣を攻め倒した。 2010年-2011年度には公式戦15連勝を記録。 第59期(2011年度)王座戦で加藤一二三・戸辺誠および当時A級九段の高橋道雄らを破り本戦進出。本戦では青野照市に勝ちベスト8。準々決勝で久保利明(棋王・王将)に敗れる。 2012年2月22日、NHK杯戦の予選における白星で、五段昇段後120勝に達し、六段に昇段。同年、第54期王位戦の予選を勝ち抜きリーグ入り。 第72期(2013年度)順位戦C級1組において8勝2敗の成績で2位となり、B級2組へ昇級。 第1期叡王戦(2015年度)では3回戦で澤田真吾、決勝で永瀬拓矢らを制し、本戦出場を決めた(ベスト16)。同年12月24日、通算300勝達成。 第67回(2017年度)NHK杯戦に続き、予選を勝ち抜いて5期目の本戦出場となる第68回(2018年度)1回戦においては、千日手から後手となったが新人王の増田康宏の厳しい攻めを終始冷静な指し回しで受け潰した。本戦2回戦では佐藤天彦との激しい捻り合いを見せた。 2020年3月11日、六段昇段後150勝に達し、七段に昇段。第68期王座戦予選で三浦弘行を制し本戦出場(16強入り)。第70回NHK杯戦では予選を勝ち抜き6度目となる本戦出場を決めた。 プロ20年目となる2021年度は、第71期王将戦二次予選に進出し佐藤康光(永世棋聖・現会長)に得意戦法の相振り飛車で快勝した(18強入り)。同年9月15日、通算400勝達成。第34期竜王戦昇級者決定戦では6連勝し、3組へ昇級。
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棋歴
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2011年、第36回小学生将棋名人戦ベスト4。 三段リーグには第62回(2017年度後期)から参加。8期目の第69回(2021年度前期)三段リーグでは序盤で2勝3敗と躓きながらもその後は連勝街道に乗り、最終日の1局目に勝利し13勝4敗の成績で最終局を残して1位が確定。同じ井上慶太門下の狩山幹生と共に四段昇段を決めた。自身の体調不良のため後日に延期された最終局では黒星を喫し、最終的な勝敗は13勝5敗(1位)となった。
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棋歴
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得意戦法は居飛車。 3、4歳のときに祖父に将棋を教わる。2011年、小学5年生のときに第10回全国小学生倉敷王将戦の高学年の部で全国優勝。同年9月に奨励会入りした。奨励会三段リーグは第62回(2017年度下期)より参加。第65回(2019年度上期)にて13勝5敗の成績でリーグ3位となり、次点を獲得。2020年9月26日に第67回三段リーグで13勝5敗の3位となり、規定の次点2回獲得によるフリークラス編入権を行使し、四段昇段を内定させた。 2021年9月8日、第52期新人王戦準決勝で梶浦宏孝七段に勝ち、「良い所取りで、30局以上の勝率が6割5分以上であること」を満たして順位戦フリークラスからC級2組への昇級が決まった。 2021年10月11日に行われた第52期新人王戦の決勝三番勝負まで勝ち進んだが、プロ入り同期の伊藤匠に2連敗を喫して準優勝に終わった。 2021年が初開催となったSUNTORY 将棋オールスター 東西対抗戦(準公式戦)の関西予選を勝ち上がり、東西各5人で構成される決勝戦へと進出した。12月26日に行われた東西対抗決勝戦では第3局で東の代表・永瀬拓矢王座を下し、西軍の5戦全勝での勝利に貢献した。
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棋歴
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小学1年生の時、父親に教わったことをきっかけに将棋を覚え、小学5、6年頃には関西将棋会館や後に師匠となる北村文男が天王寺で開設していた道場に足を運ぶようになった。 中学2年の時に天童市で行われた全国中学生選抜大会に出場、ベスト16で川上猛に敗れる。それから間もなく奨励会へ入会。6級から5級に上がるのに1年4か月、初段から二段にも1年4か月、そこから更に三段リーグ入りに2年3か月を要する苦労を経験する。第22回(1997年度後期)で年齢制限の26歳を迎えるも、勝ち越しによる在籍期間延長の恩恵を受け、翌第23回にも参加。そこで1位の成績をおさめ、プロ入りを勝ち取った。 2009年度の第68期順位戦C級2組で、在籍11期目で初めて降級点を取り(2勝8敗)、フリークラス宣言をしてフリークラスに転出した。
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棋歴
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小学1年の時、父親に教わって将棋を始める。4年時に小倉久史門下となり、6年時の2008年に奨励会入会。第59回三段リーグでは、2016年6月4日に藤井聡太から勝利を収めている(この第59回で藤井は1位となり四段昇段)。 2018年9月2日、第63回三段リーグで13勝5敗と本田奎に次ぐ2位となり、四段昇段を決める。
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棋歴
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将棋を始めたのは6歳のとき。きっかけはアマチュア二段の父が指しているところを見て覚えたという。2003年、第28回小学生将棋名人戦で優勝。同年9月に奨励会入会。 三段リーグには2008年の第44回から参加。8期目の第51回三段リーグ戦では後1勝で昇段、というところまで迫るも届かなかった。13期目の第56回三段リーグ戦では、3位になったことで次点を獲得した。16期目の第59回三段リーグ戦でも後1勝で昇段、というところまで迫ったが、再び届かず。そして17期目の第60回奨励会三段リーグ戦、2017年3月4日に行われた例会最終日で連勝し、12勝6敗・2位となったことで、遂に四段への昇段を決めた。
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棋歴
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奨励会では1991年9月の入会から1999年9月の三段昇段まで、降級降段点Bを8回に亘り取得するなど苦労したものの、その都度立ち直り、三段リーグでは初参加から2期目(第27回・2000年度前期)で13勝5敗で2位の成績を修め、四段へ昇段。 新四段として参加した第60期(2001年度)C級2組順位戦では3勝7敗と振るわず、早々に降級点を喫した。その後も好不調に波があったものの、2004年度に行われた第54回NHK杯で予選を3連勝で勝ち抜き本戦に出場するなどの活躍をした。第65期(2006年度)に9勝1敗(3位)の成績を修めC級1組に昇級(五段昇段)。しかし昇級直後に2期連続で降級点を喫し、制度上最短でC級2組に降級。以降も公式戦の成績が振るわず、特に順位戦ではC級2組において第69期(2010年度)から第71期に亘り3期連続で降級点を喫し、35歳で順位戦への参加資格を失った(フリークラス編入)。 2018年に入り、第68回 NHK杯戦 予選決勝で梶浦宏孝四段に勝ち、14年ぶり(二回目)に本戦へ出場。
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棋歴
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1936年に木村義雄十四世名人門下に入門。1949年に三段で順位戦に参加しC級2組で全勝、翌1950年にC級1組昇級して六段に飛び級。四段の経験がないプロ棋士は、清野の他にはプロ編入時に五段の花村元司がいる。 1959年、第9期王将戦の二次予選で山田道美、坂口允彦に連勝し挑戦者決定リーグ入り。1965年、第6期(1965年前期)棋聖戦 決勝トーナメント出場。1972年、新たに創設された第1回(1972年後期)早指し将棋選手権で予選を勝ち抜き、本戦トーナメントに出場。2回戦で原田泰夫に敗れた。 1974年に八段に昇段し「表彰感謝の日」には普及活動を表彰された。 1977年、第4回名将戦の予選・決勝で滝誠一郎に勝ち本戦トーナメント出場。現役のまま同年に55歳で死去。
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棋歴
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1972年に4級で奨励会入会。1974年、20歳でプロ入り(四段昇段)。 順位戦C級2組、C級1組をそれぞれわずか2期で抜けた。B級2組では五分に近い星が続きなかなか昇級争いに絡めなかったものの、1985年にB級1組に昇級した。 1986年度のNHK杯テレビ将棋トーナメントにおいて、ひねり飛車戦法を駆使して塚田泰明、谷川浩司、中原誠といった一流棋士を次々と撃破して決勝進出。そして迎えた森雞二との決勝戦は、千日手指し直しの末に勝利し、見事に優勝。前田が一世を風靡した瞬間であった。 2003年、現役通算400勝。 40歳以降は徐々に順位戦のクラスを下げ、2004年度の順位戦C級2組で3つめの降級点を取って、フリークラスに降級した。 2014年6月4日、第27期竜王戦ランキング戦6組昇級者決定戦の千田翔太四段戦の敗戦を以って、引退となった。
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棋歴
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少年時代は、羽生善治も通っていた八王子将棋クラブにて腕を磨く。 第36回(2004年度後期)三段リーグにおいて広瀬章人に次ぐ14勝4敗の成績で四段昇段(プロ入り)。 初参加となる第64期(2005年度)順位戦において2勝8敗で降級点を喫する。これは第70期順位戦が終わった2012年3月時点では、降級点取得の史上最年少記録(20歳)である。また、B級2組以下の順位戦が1期あたり10戦に定着した第27期(1972年度)以降の、初参加期順位戦における最少勝数記録(熊坂学、竹内雄悟と並ぶタイ記録)でもある。 第16期(2008年度)銀河戦の本戦(ブロック戦)で4連勝(瀬川晶司、阪口悟、塚田泰明、阿久津主税に勝利し、平藤眞吾に敗れる)。それにより進出した決勝トーナメントでは1回戦で佐藤康光棋王(当時)と対戦し敗退。 第22期(2009年度)竜王戦6組で決勝進出。決勝で稲葉陽に敗れ本戦進出を逃すが、準優勝により5組へ昇級。続く第23期(2010年度)竜王戦5組では準決勝と3位決定戦で敗れたものの、4組欠員補充のための5位決定戦(2010年11月2日)で小倉久史に勝ち、4組へ昇級。連続2回昇級により同日付で五段昇段。なお、同日時点での通算成績は178局89勝89敗とちょうど5割だった。 C級2組に留まったまま迎えた第70期(2011年度)順位戦では3勝7敗と振るわず2個目の降級点を喫した。以降、フリークラス降級の危機に瀕した状態が続いたものの、第73期(2014年度)で6勝4敗と6期ぶりに勝ち越し、降級点を1個抹消。 第21期(2013年度)銀河戦の本戦(ブロック戦)で8連勝(安西勝一、阪口悟、中村亮介、菅井竜也、日浦市郎、村山慈明、安用寺孝功、戸辺誠に勝利し、藤井猛に敗れる)。それにより進出した決勝トーナメントでは豊島将之と対戦し敗退。ブロック戦での8連勝は、現行制度では第14期の北島忠雄と並ぶ最多タイ記録である。 第77期(2018年度)順位戦C級2組では2勝8敗と著しい不振に陥り再度降級点を2個累積。以降、2期連続で4勝6敗と負け越したもののフリークラス降級は回避、第80期(2021年度)で6勝4敗と6期ぶりに勝ち越し、再度降級点を1個抹消。
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棋歴
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将棋の駒の動かし方を覚えたのは、小学4年生の頃。将棋道場を経営していた父は、歌を覚えるのが早いという千和子の記憶力に着目し、将棋が強くなるのではないかと思ったという。 千和子が中学1年生のとき(1977年度)、父が「中部六県名人戦」で優勝し、その大会で審判を務めたプロ棋士の松田茂役(後に千和子の師匠)が父を訪ねて来た。その際、松田が千和子と将棋を指し「才能があるのではないか」と言った。これが将棋を本格的に始めたきっかけである。 1979年8月、松田茂役門下として、女流2級でプロ入り。 1983年度、第6期女流王将戦で林葉直子女流王将への挑戦権を得、タイトル戦初登場。三番勝負は0勝2敗で敗退。 1984年度、第11期女流名人位戦でも林葉に挑戦。五番勝負は1勝の後の3連敗で敗退。 20代前半の頃、女流王将戦で挑戦権争いをしていたとき、山下カズ子との対局の勝勢の局面で、4段目で歩を成るという反則負けをし、以降、スランプに陥る。将棋の道から退くことさえ考えたが数か月後に立ち直り、以降、従来の「才能で指す」というスタイルを改め、棋譜並べ(過去の実戦の研究)や詰将棋などに打ち込むようになる。その努力が1995年度、レディースオープントーナメントで実り、決勝で当時三冠の清水市代を破り、一般棋戦初優勝を果たした。 2008年7月2日、女流名人位戦B級の対伊奈川愛菓戦で勝ち、通算300勝達成。 2018年2月16日に蛸島彰子が引退したことにより、現役女流棋士で最年長となる。
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棋歴
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1991年、江東区立平久小学校6年生(出場時は5年生)のとき、第16回小学生将棋名人戦で準優勝。決勝戦の相手は、後に多数のアマチュア棋戦で実績を上げ、プロ公式戦でも棋士を相手に互角の勝負を演じた清水上徹であった(戦形は相矢倉)。同年、奨励会の入会試験に合格。入会から6年半をかけて三段昇段し、三段リーグ4期目の1999年度・第26回三段リーグを2位の成績で通過して2000年4月に20歳でプロ入り。(同回三段リーグの1位は当時15歳の渡辺明) 初参加から3期目の第16期(2003年度)竜王戦6組で準優勝。決勝で高野秀行に敗れ本戦進出はならなかったが、5組昇級。 第62期(2003年度)C級2組順位戦は最終局までライバル上位4名との昇級争いとなった。その最終局で飯島は勝って8勝2敗としたものの、4名中3名が勝ったため次点(4位)で一歩届かなかった。しかし、次の第63期(2004年度)では近藤正和とともに開幕8連勝。最終成績を9勝1敗・1位として、C級1組へ昇級した。 第32期(2006年度)棋王戦で予選を突破し、本戦の挑戦者決定トーナメントで渡辺明を破って3回戦進出(深浦康市に敗れる)。 第18期(2005年度)、第19期(2006年度)の竜王戦5組では、2期連続で残留決定戦に回ってから降級を免れるという苦戦であったが、第20期(2007年度)では5組準優勝で4組へ昇級。さらに第21期(2008年度)竜王戦4組の3位決定戦で勝って3組に昇級し、竜王戦連続2回昇級により六段に昇段。 第15期(2007年度)銀河戦の本戦(ブロック戦)で、鈴木大介、行方尚史らを破るなどして4連勝で決勝トーナメント進出。さらに、決勝トーナメントでは藤井猛、羽生善治を破ってベスト4入り(準決勝で渡辺明に敗れる)。 第58回(2008年度)NHK杯戦で本戦出場し、三浦弘行らを破って3回戦(ベスト16)に進出(羽生善治に敗れる)。 順位戦ではC級1組に上がってから4期連続で7勝3敗であったが、5期目の第68期(2009年度)は、1戦目で広瀬章人に負けた後に全て勝ち、9勝1敗・2位でB級2組へ昇級した。 第22期(2009年度)竜王戦3組では準決勝で負け、3位決定戦(敗者復活)でも敗退した。しかし、1組の中原誠の引退による次期の2組の欠員補充のため、3度目のチャンスとなる追加の昇級者決定戦(5位決定戦)が組まれ、この一局で野月浩貴に勝ち2組へ昇級。さらに、第23期(2010年度)竜王戦2組では、3位決定戦(2010年10月22日)で島朗に勝ち、4期連続昇級で1組に初昇級(七段昇段)。6組から参加した棋士で、一度も本戦に出場していない状況での1組昇級は、中川大輔・橋本崇載に次いで史上3人目である。 第25期(2012年度)竜王戦1組でも準決勝で深浦康市に敗れたが、一局勝負の1組3位本戦出場者決定戦で橋本崇載に勝ち、自身初の本戦出場を決めた。決勝トーナメントで2組優勝の佐藤天彦に勝ち、準決勝進出の大健闘を見せた(山崎隆之に敗れた)。 第62期王将戦(2012年度)では、定員僅か7名(予選を勝ち抜く枠は3名)の難関とされる王将リーグ入りを果たしたが、1回戦から順に郷田真隆・渡辺明・豊島将之・深浦康市・羽生善治・久保利明に敗れ、6戦全敗に終わった。 第74期(2015年度)B級2組順位戦では、7回戦を終えた時点で6勝1敗、同星で順位上位の糸谷哲郎及び野月浩貴を追う展開で迎えた8回戦は糸谷との直接対決であったが、これに敗れて2敗で4番手に後退した。しかし飯島は残り2局を連勝し、1番手の糸谷・2番手の阿部隆・3番手の野月はいずれも残り2局を1勝1敗としたため、飯島の最終順位が2位に繰り上がり、B級1組昇級を決定させた。初のB級1組順位戦となった第75期(2016年度)は、3勝9敗という結果で1期でB級2組へ降級となった。以降も順位戦における成績が振るわず、B級2組に出戻っていた第77期(2018年度)において降級点を喫し、第78期(2019年度)でも4勝6敗であるにもかかわらず不運にも降級点を喫してしまいC級1組に陥落してしまった。 2021年2月2日の第79期順位戦C級1組で高橋道雄九段に勝ち、七段昇段後190勝の規定により八段へ昇段した。七段への昇段が2010年であったため、「長かった。長かったです。10年かかりましたよ。長かったです…」と語った。翌期の第80期順位戦C級1組では7勝3敗でB級2組への復帰を決めた。2021年度の第69期王座戦では、久保利明、深浦康市を破り、ベスト4進出を果たした。
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棋歴
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祖父に教えられて5歳で将棋と囲碁を始める。当時は「将棋が好きというよりも祖父が好きだった」という。小学2年時、同郷の井上慶太が師範を務める加古川将棋センターに入会し、将棋に打ち込む。 1998年、加古川市立東神吉南小学校5年(出場時は4年)のとき、第23回小学生将棋名人戦で準優勝。決勝で負けた相手は、1学年上の高崎一生である。この期の出場者には、他にも後にプロ棋士になった者が多く、船江も西日本大会で牧野光則、糸谷哲郎に勝っている。その年の秋に井上の弟子となり、6級で関西奨励会入り。 加古川市立神吉中学校2年だった2001年の6月には1級へ昇級する。そこまでは比較的順調であったが、初段昇段まで1年9か月、二段昇段までは約2年を要す。三段リーグには2006年度前期から参加。同じ井上門下の弟弟子である稲葉陽・菅井竜也に先を越され、「早く追いつきたい」と思っていた。2010年度前期三段リーグは、14勝4敗が1名(佐々木勇気)、13勝5敗に船江を含み4名が並ぶ結果となったが、船江は前回リーグの最後に粘りの4連勝で12勝6敗としていたことが結果的に大きく、リーグ表順位上位により2位となり、佐々木とともに四段昇段を果たす。 2011年に創設された加古川青流戦で決勝へ進出する。宮本広志奨励会三段(当時)との三番勝負では、関西将棋会館で行われた第1局こそ落としたものの、加古川市で行われた第2局・第3局を連勝し、地元主催の棋戦の初代優勝者となった。 2012年1月5日、2013年に実施される第2回電王戦のプロ側代表に選ばれる。1月14日、第2回電王戦が、プロ棋士対コンピュータの5対5の一斉対局となることが発表された。 2011年度の第70期順位戦では初参加にしてC級2組で10戦全勝の成績を修め、C級1組昇級及び五段昇段を決めた。順位戦C級2組の“1期抜け”は1989年度(第48期)の屋敷伸之以来22年ぶり、10戦全勝を伴うものとなると1985年度(第44期)の富岡英作以来26年ぶりの快挙である。 2013年4月6日第2回将棋電王戦第3戦でコンピュータ将棋ソフト『ツツカナ』と対局、184手で敗れた。 同年12月31日、『ツツカナ』とのリベンジマッチに85手で勝利し雪辱を果たした。 2018年度の第77期順位戦では9勝1敗の好成績を上げるが、順位が上の杉本昌隆、近藤誠也も同成績だったため、同成績だった藤井聡太とともにB級2組への昇級を逃した。
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棋歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/06 16:20 UTC 版)
奨励会では、プロ入り一歩手前の三段時代が10年間もあった。旧制度の三段リーグ(奨励会A組)では1967年度後期から制度が終わる1973年度後期まで13期を過ごした。その間、1968年度後期リーグでチャンスが巡ってきたが、東西決戦で池田修一、野本虎次に敗れて昇段を逃した。 1972年度、第2回奨励会若獅子戦・関西トーナメントで優勝。その決勝は中田章道1級を相手にした香落ち対局であった。また、同年度、第16回古豪新鋭戦でベスト4進出。 1977年8月20日、29歳でプロ入りを果たす。 プロ3年目を迎えた第39期(1980年度)順位戦では7勝3敗・31人中7位の成績を修め、最終局まで昇級争いに加わった。第9回(1986年度)オールスター勝ち抜き戦予選を突破し、本戦でも当時順位戦A級に在籍していた南芳一を破る活躍もした。以上が青木の代表的な戦績とされている。 1983年度は1敗と1不戦敗の後に年度末まで休場。復帰以降は成績が振るわないことが多く、1991年度には参加した公式戦で全敗(12敗)を喫した。 順位戦には延べ12期在位。昇級歴はなく、第46期(1987年度)から3期連続でC級2組において降級点を喫し、42歳で順位戦への参加資格を失った。以降10年間、順位戦に復帰する為の規定の成績を修めることができず、1999年度を最後に引退となった。
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棋歴
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東京の下町で育ち、高校選手権戦に出場していた開成高校2年生のときに、腕試しで奨励会試験を受け、4級で仮入会。 プロ入り(四段)は1977年2月4日であるが、1976年に新人王戦の1回戦 - 3回戦で勝利。 第21期(1980年度)王位戦でリーグ入り。中原誠名人から金星を挙げ、破竹の勢いの谷川浩司六段にも勝利するが、2勝3敗でリーグから陥落する。 1982年度は39対局・21勝・勝率0.538、1984年度は42対局・23勝・勝率0.548の好成績を挙げる。 竜王戦では第1期から5組であったが、第11期に6組に降級。しかし、翌期(第12期、1999年度)の6組で準優勝し、5組に復帰した。第18期以降は再び6組に在籍した。 順位戦では、初参加からC級2組で昇級も降級点もない状態が長く続いたが、21期目(第57期=1998年度)から3期連続で降級点を喫したため2001年度からフリークラスに編入。10年間の在籍期間を満了した時点の最終対局(2011年6月10日・第24期竜王戦昇級者決定戦2回戦・対伊藤真吾四段)に敗れ、引退となった。
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棋歴
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将棋と出会ったのは、父の転勤で山口県周南市にいた小学1年の夏休みの時。「新聞の将棋欄で興味を持ち、父にルールを教わった」と語っている。小学4年で「プロ棋士になりたい」と思い、研修会に入会。小学5年から、師匠となる小林健二の教室で腕を磨く。その後、「奨励会試験や4級の時に苦労した」が、2020年度下半期の第68回三段リーグで1位となり、24歳で四段昇段を果たす(同時昇段は高田明浩)。
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棋歴
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父(名古屋大学教授・物理学)から将棋の手ほどきを受けた。 1990年、小学3年で、ジュニア選手権小学生の部全国2位になる。 1993年、中学1年で、中学生将棋名人戦に出場するも、途中で敗退。ジュニア選手権中部・東海地区大会中学生の部では、ベスト8に入る。 1994年3月、6級で奨励会入会。1級で2年余り足踏みするも、初段から三段を24勝8敗で駆け上がった。 1999年、後期三段リーグ入りを果たすと14勝4敗の1位で四段昇段(プロデビュー)。三段リーグ1期で四段昇段の成績を修めた棋士は、松尾以前は小倉久史・屋敷伸之・川上猛の3名のみ、松尾以降も三枚堂達也、藤井聡太のみである。 2001年度、新人王戦で優勝するとともに、順位戦C級2組で10戦全勝、年度勝率0.744(全棋士中3位)、16連勝(同2位)、32勝(同9位タイ)の活躍をし、将棋大賞の新人賞を受賞。 2002年、第43期王位戦の予選を勝ち抜き挑戦者決定リーグに出場。結果は2勝3敗(中村修及び木村一基に勝利)で陥落。 2005年4月24日放送のNHK杯戦・対先崎学戦で、敗勢の状況から二歩を打って反則負けをした。テレビ放送される対局での反則負けは珍しく、前年度の豊川孝弘に続く同棋戦2年度連続の二歩の発生ということで話題となった。 2006年、竜王戦2組の3位決定戦を制し、1組に昇級。 2007年11月、ペア将棋として行われた日本女子プロ将棋協会の棋戦である1dayトーナメントに男性として初めて参加(同時に植山悦行七段、片上大輔五段らも参加)。元妻の香織とのペアで優勝した。 2008年、第49期王位戦で6年振り2回目の王位リーグ出場。結果は1勝4敗(井上慶太のみに勝利)で陥落。 2009年、前述の豊川とともに順位戦B級1組に昇級。 2010年、第51期王位戦で2年振り3回目の王位リーグ出場。結果は2勝3敗(佐藤康光及び木村一基に勝利)で陥落。 2011年3月11日に行われた第61期B級1組順位戦最終局(13回戦)は、佐藤康光が最終局を待たずしてA級昇級(復帰)を決め、残る1枠を屋敷伸之と松尾が直接対決(7勝4敗同士)で争う形で迎えた。対局の途中で東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)が発生し、避難の為に対局を一時中断し、余震が続く中で対局が行われたが、屋敷に敗れ松尾のA級初昇級はお預けとなった。 更に半月後に行われた第24期竜王戦1組の5位出場者決定戦 で、1回戦(対木村一基)に敗れ、4年在籍した1組からの陥落を余儀なくされた。 2013年、第54期王位戦で3年振り4回目の王位リーグ出場。藤井猛・大石直嗣・宮田敦史に勝利し、最終局の行方尚史戦に勝てば初のリーグ残留が確定すると同時に、行方とのプレイオフに挑むチャンスだったが、行方に敗れ、3勝2敗の好成績にもかかわらず、順位の関係 から陥落となった。 2014年、第22期銀河戦の準決勝で羽生に勝つも、決勝で同門の渡辺明に敗れて準優勝に終わる。全棋士参加棋戦での初優勝はできなかった。 2016年、第29期竜王戦2組ランキング戦準決勝で阿部健治郎に敗れ、昇級者決定戦に回った。昇級者決定戦では飯島栄治を下し、4期ぶりに1組復帰を決めた。 2017年、第30期竜王戦1組ランキング戦で深浦康市、屋敷伸之、丸山忠久を下し決勝進出。決勝で羽生善治を下して1組初優勝した。決勝トーナメントでは久保利明を下し、初めて挑戦者決定三番勝負に進出した。反対の山から勝ち上がってきたのは1組決勝で下した羽生善治だった。挑戦者決定三番勝負では第2局を制したものの第3局で敗れ、初の竜王挑戦はならなかった。 2019年の第32期竜王戦で2組へ降級したが、2021年の第34期竜王戦の昇級者決定戦で藤井猛を破り1組復帰を決めた。 2022年、第80期順位戦で2009年から13期連続で在籍していたB級1組からB級2組への降級が決定した。NHK杯戦では準決勝で深浦康市に勝利し決勝進出、決勝では豊島将之に敗れ全棋士参加棋戦初優勝は成らなかった。
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棋歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/28 14:26 UTC 版)
父が将棋好きで、旅館業を営む傍ら出入りの業者を相手に朝から晩まで将棋を指している環境で育ったという。 福井資明九段に師事。福井との縁は小学3年生の頃に指導を受けてからの縁で、中学入学と同時に内弟子生活に入ったという。 1961年、15歳のときに全日本アマチュア名人戦で北海道代表。1962年には十段戦でアマチュア枠において参加、大内延介に敗れた。同年、中学卒業と同時に上京して奨励会を受験。当初は1級での受験であるが成績がふるわず不合格になるはずだったものの、温情で2級での入会が許されたという。渡辺東一門下となった。下宿先は京須行男(森内俊之の母方の祖父)の実家であったという。 1年半ほどの期間で三段となり、旧制度の三段リーグ(奨励会A組)ではしばらく足踏みしたが、1966年度前期・後期の2期連続で関東優勝し、1967年4月に四段昇段してプロ入りした。昇段を決めた一局の相手は、森雞二。 第13期(1968年度後期)棋聖戦で本戦初出場。1回戦で山田道美を破る。 順位戦では、プロ2年目の第23期(1968年度)C級2組で9勝3敗・2位となり、C級1組へ昇級(五段昇段)。また、C級1組では1年目に9勝3敗で次点(3位)に終わるも、2年目に10勝3敗・1位となり、B級2組へ昇級(六段昇段)。さらに、B級2組2年目で8勝2敗・2位となり、B級1組へ昇級(七段昇段)。そして、B級1組3年目の第30期(1975年度)で10勝3敗・1位の成績を収め、1976年4月1日付けでA級八段となった。ちょうどこのとき名人戦の主催紙移行問題のため順位戦の開始が延期され、勝浦は初めてのA級順位戦を戦い始めるまで待たされた。A級に5期連続在籍の後にB級1組に降級したが、その後、A級に復帰したこともある。A級在籍は通算7期。 第22期(1972年度)王将戦で初めて王将リーグ入り(A級より定員が少ない難関)。4勝3敗で残留したが、次の第23期で陥落。以降、第27期・第29期・第30期・第31期の王将戦では、リーグ復帰と即陥落を繰り返している。 第16期(1975年度)王位戦で初のリーグ入り。第17期(1976年度)王位戦でタイトル初挑戦。七番勝負では中原誠王位に2-4で敗れる。以降も何度も王位リーグ入りしている。 1979年度は、テレビで放映される2つの早指し棋戦で、いずれもベスト4に進出(第29回NHK杯戦、第13回早指し将棋選手権)。 第3回(1980年度)オールスター勝ち抜き戦で7連勝。5連勝以上は優勝扱いのため、これが棋戦初優勝。 第29回(1981年度)王座戦(タイトル戦昇格以前)で挑戦者となり、決勝三番勝負では大山康晴王将に1-2で敗れる。同年度、第14回日本将棋連盟杯争奪戦で大山康晴(準々決勝)、加藤一二三(準決勝)、森安秀光(決勝)を破って優勝。第8回将棋大賞で技能賞を受賞。 第46期(1985年度前期)棋聖戦にて本戦で中原誠・森雞二・谷川浩司らを破り、米長邦雄棋聖への挑戦権を獲得。五番勝負は1-3で敗退。「カミソリ(自分のこと)が泥沼(米長のこと)に浸かって切れ味が鈍ってしまった」との言葉を残している。勝浦の1勝は、ロサンゼルスで行われた第2局で挙げたもので、内容は勝浦先手の相掛かりからの乱戦であった。 同年度、オールスター勝ち抜き戦で自身2度目の5連勝以上(6連勝)を達成。 1985年11月1日、八段昇段後250勝を達成し九段に昇段。年間25勝を超えるハイペースであった。 竜王戦では、第2期(1989年度)に2組優勝。本戦は初戦で敗退するが、1組初昇級。第4期(1991年度)竜王戦1組では3位となり本戦でベスト4進出。1組には通算4期在籍。 1993年、通算600勝を達成(将棋栄誉賞)。 1997年、フリークラス宣言により順位戦B級2組からフリークラスに転出。65歳を迎える2011年度(または2012年の最終対局日)まで指す権利があったが、本人の意思で1年早く引退することが発表された。残す対局は第61期王将戦と第24期竜王戦6組昇級者決定戦であったが、いずれも敗れて2011年8月19日(竜王戦敗退、対伊藤真吾戦)をもって引退となった。
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棋歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/28 14:33 UTC 版)
11歳、小学5年生の頃、父から無理やり将棋を教えられる。 1963年、実戦経験が少なくアマチュア5、6級であったにもかかわらず奨励会試験を受験して合格し、南口繁一九段門で関西奨励会に6級で入会。「記録要員」としての合格と言われた。ところが、1か月で5級に上がり、半年後には2級に到達する。 旧制三段リーグ(奨励会A組)への参加は1967年度後期からである。9期・4年半指した後、1972年に半年休場。この頃、喜和から果に改名し、また、南口一門から関東の高柳一門に移る。以降、3期・1年半指したところで三段リーグ制度が廃止。それから約1年後の1975年6月19日、よいとこ取り12勝4敗の規定により四段昇段( = プロ入り)。なお、三段時代の1973年度、第17回古豪新鋭戦で準優勝している(優勝は森安秀光)。 1979年度、12連勝(全棋士中1位)を記録し、将棋大賞の連勝賞を受賞。 第21期(1980年度)王位戦でリーグ入り。 初参加から4期目のC級2組順位戦(第39期、1980年度)で、7勝3敗の成績ながら前期の好成績による高順位が活き、3位でC級1組へ昇級。また、第12回(1981年度)新人王戦で準優勝(優勝は田中寅彦)。さらには、本戦出場者が50人となってから初めてのNHK杯戦(第31回、1981年度)で準優勝(優勝は加藤一二三)。これらの活躍の原動力となったのが、居飛車穴熊への対策として自ら考案した「風車」戦法であった。相手の攻めに備えることに特化した戦法である。 第8期(1995年度)竜王戦2組で屋敷伸之・森雞二に勝って先崎学に敗れた後、昇級者決定戦決勝に回り、森内俊之に勝って2組3位で1組昇級。次期(1996年度)は初戦で米長邦雄に勝ち、1組残留。第10期(1997年度)は残留決定戦で羽生善治に敗れ、2組降級。 第14期(2001年度)竜王戦3組の昇級者決定戦を制し、2組に復帰。同年度、第20回朝日オープン将棋選手権で予選を突破するが、本戦初戦で羽生に敗れる。 第60期(2001年度)C級2組順位戦で累積3つ目の降級点を喫し、フリークラスに陥落。以降、順位戦への復帰を果たせないまま年齢制限となる還暦を迎え、2011年6月7日の対・佐藤慎一戦(竜王戦6組)での敗戦を最後に同日付で引退。
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棋歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/28 14:25 UTC 版)
5歳の頃、将棋を趣味としていた兄の影響を受けて将棋を覚える。 1952年に奨励会入会。1959年前期の予備クラスにおいて関東優勝をし、東西決戦で関西の星田啓三六段に勝ち、1959年10月1日付けで四段昇段(プロ入り)。 順位戦では、初参加から2期目の第16期(1961年度)C級2組で10勝2敗・1位となり初昇級。1年置いて、第18期(1963年度)C級1組順位戦で8勝3敗・2位の成績でB級2組に昇級。 1962年、第6回古豪新鋭戦で米長邦雄(三段)に勝ち決勝進出するが、大内延介(三段)に敗れて準優勝。しかし、翌年の同棋戦(第7回)で2年連続で決勝に進出し、大原英二に勝って棋戦初優勝。 1964年度、第14回東西対抗勝継戦に出場し、6人抜きを達成(優勝扱い)。 1972年、第21期棋聖戦の本戦で丸田祐三、二上達也に勝ち、準決勝進出(有吉道夫に敗れる)。 第29期(1974年度)B級2組順位戦で7勝3敗・2位の成績を挙げ、A級へ一歩手前のB級1組へ昇級。以降、B級1組には連続5期在籍(自己最高位)。 1980年度は負け越し、順位戦でB級2組に降級したものの、1981年5月にかけて、第6期棋王戦本戦で森雞二を破り、第30回NHK杯戦本戦で谷川浩司に勝ち、第38期棋聖戦本戦で花村元司を破り、第29回王座戦本戦では内藤國雄を破るなど、各棋戦の本戦で活躍した。 第35回(1985年度)NHK杯戦で、加藤一二三(3回戦)、森雞二(準々決勝)を破り、ベスト4。準決勝で内藤國雄に敗れる。 第2期(1989年度)竜王戦3組で準優勝(2組昇級)。決勝の相手は、この期に竜王となる羽生善治五段であった。なお、本戦トーナメントでは初戦で森下卓に敗れる。 第51期(1992年度)の順位戦B級2組では降級を喫するも当時、順位戦で26連勝をしていた森内俊之を破っている。同組に上がったばかりの森内はこの黒星が大きく響き、9勝1敗ながらも順位1つの差で頭ハネに遭った。 第30回(1996年度)早指し将棋選手権で、南芳一・加藤一二三らに勝ち、4回戦進出(中原誠に敗れる)。 1999年度のC級2組順位戦を終えた2000年、宣言によりフリークラスに転出。2002年にフリークラス規定により定年引退。
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棋歴
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第14期(1973年)王位戦で挑戦者決定リーグ紅組に出場したが、師匠の有吉道夫・有吉の師匠の大山康晴と「師弟3代」に亘る同時参戦となった(結果は4戦全敗でリーグ陥落)。 ひねり飛車を得意戦法とし、これにより若手時代の羽生善治・中村修に快勝したことがある。また、対ひねり飛車にも強く、若手時代の屋敷伸之を撃破したこともある。羽生との対戦はこの一戦(1990年・第56期棋聖戦一次予選)のみであり、記録上の勝率は「100%」である。また、当該対局は羽生が初タイトル(竜王)を獲得してから2戦目であり、タイトルホルダーとして初めて喫した黒星であった。 2009年3月31日、フリークラス棋士引退規定により引退した。
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棋歴
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1992年、小学校6年生(出場時は5年生)のとき、第17回小学生将棋名人戦で3位入賞。このとき、もう1人の3位は同学年の山崎隆之。 1993年8月に6級で奨励会へ入会。3級昇級後から初段昇段までは苦戦したが、中央大学商学部在学中の2002年10月1日に四段昇段(プロ入り)を果たす。混戦の三段リーグの最終日で2連勝しての逆転昇段であった(12勝6敗)。 初参加の第62期(2003年度)C級2組順位戦で8勝1敗で最終第10局を迎え、勝てば「1期抜け」となるところであったが、平藤眞吾に敗れて8勝2敗(7位)となり昇級を逃す。このときの昇級者は、宮田敦史・千葉幸生(以上9勝1敗)、山崎隆之(8勝2敗)。 第17期(2004年度)竜王ランキング戦6組準決勝で敗れるが、3位決定戦で石川陽生に勝ち、5組へ昇級。 第37期(2006年度)新人王戦U-26で橋本崇載、片上大輔らを破り決勝進出。決勝三番勝負は糸谷哲郎に0-2で敗れて準優勝。 2007年10月30日、C級2組順位戦の対・東和男戦で通算100勝を挙げ、五段に昇段。それと前後して行われた第20期(2007年度)竜王ランキング戦の3位決定戦と5位決定戦(4位の欠員補充)で、それぞれ堀口一史座(元朝日選手権者)と村田智弘に敗れ、4組昇級を逃す。しかし、翌年度(2008年度)の第21期竜王ランキング戦5組では準決勝で敗退するも、3位決定戦で松本佳介に勝ち、4組へ昇級。 第66期(2007年度)C級2組順位戦では7勝1敗で残り2局のうち1局を勝てば昇級という状況になるが、豊島将之と田村康介に連敗を喫して昇級を逃した。 第16期(2008年度)銀河戦において、本戦(ブロック)でたった2勝で幸運にも決勝トーナメント進出。中原誠十六世名人を破ってベスト8入り。 第68期(2009年度)C級2組順位戦では8勝2敗の成績を挙げるも、リーグ表で上位の金井恒太が最終局で勝って8勝2敗としたため次点(4位)で昇級を逃す。他の昇級者は豊島将之(10勝0敗)と高崎一生(9勝1敗)。 第69期(2010年度)C級2組順位戦では、最終局に勝てば昇級だったが、昇級の可能性を残していた阿部健治郎に敗れ、またしても昇級を逃した。 第73期(2014年度)C級2組順位戦において、勝又清和六段に勝利し最終局を残してC級1組への昇級を決めた。C級2組在籍12年目での達成となった。 第24期(2016年度)銀河戦では本戦(ブロック)で5連勝を達成し決勝トーナメント進出。渡辺明竜王らを破ってベスト4入り。 第75期(2016年度)C級1組順位戦において、開幕から9連勝の成績を上げ、最終局を残してB級2組への昇級を決めた。C級2組での苦労とはうってかわって在籍2年目でのスピード昇級であった。 第79期(2020年度)B級2組順位戦において、2021年3月10日に最終10戦目で勝利し、リーグ3位でB級1組への昇級を決めた。前年および前々年の第77・78期でもリーグ3位となりながら昇級枠が2枠であったために昇級を逃しており、順位戦の規定変更による昇級枠拡大の恩恵が如実に現れた形となった。 B級1組初年度となった第80期(2021年度)順位戦では、木村一基、松尾歩、阿久津主税といった実力者が苦戦する中A級に昇級した稲葉陽などからも勝利して6勝6敗の指し分けに終わった。第81期はB級1組の8位スタートとなる。
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1980年度(昭和55年度)にプロ入りした強豪集団、いわゆる「55年組」の一人であり、タイトル通算7期は彼らの中で最多である。 10歳の頃に父に教わり、将棋を始める。 上達は速く、1975年に11歳で奨励会試験に合格し、賀集正三門下で7級で奨励会に入会する。しかし、すぐにB(降級の一歩手前)になり同年9月に退会。半年後に再度入会試験を受けるが不合格。それでもあきらめず、1977年に改めて挑戦して合格し、木下門下で5級で再入会。後にプロ入りした人物としては極めて珍しい、奨励会退会後の再入会を経験した。初段昇段まではスピード出世。三段時代が約1年で一時苦しんだが、1981年1月にプロ入り(四段昇段)を果たす。
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棋歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 00:31 UTC 版)
1986年の小学生将棋名人戦でベスト4進出(準決勝で優勝者の鈴木大介に敗れる)。同年奨励会に入会。 1993年4月、17歳で四段に昇段(プロ入り)。その後、10年をかけて2003年にA級八段となる。1994年度には、全棋士中1位、歴代6位(当時)の勝率0.8095(34勝8敗)をマーク。1997年度にはオールスター勝ち抜き戦で6連勝し、棋戦初優勝。 定員7名・残留4名という棋界随一の難関・王将リーグ(王将戦挑戦者決定リーグ)に、第49期(1999年度)に初参加。第49期では陥落するも、翌年第50期に即復帰。以降第59期(2009年度)まで陥落することなく連続残留している。 関西奨励会出身であるが、プロ入り後しばらくは関東に所属していた。2006年4月に関西へ戻り、当時「囲碁・将棋ジャーナル」に出演した際、「もう関東へ行くことはない」と述べた。
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棋歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/28 15:19 UTC 版)
1998年 、小学5年時に小学生将棋名人戦西大会で糸谷哲郎に敗れ、ベスト16。その年の9月に6級で関西奨励会入り。中学校卒業を機に上京し、千葉県の東京学館浦安高等学校を卒業。
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棋歴
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世代的には、いわゆる「55年組」と「羽生世代」の中間に当たる。両世代にはさまれ、なかなか目立つ活躍ができないものの、プロ入りから30年経っても6割近い勝率(2018年度までの通算勝率0.587)は、タイトルホルダーに匹敵する。 1985年の秋にプロデビュー。実質の初年度となる1986年度に、羽生善治と並んで全棋士中1位タイの勝率(0.741)をマークする。 1989年度、オールスター勝ち抜き戦(5連勝以上は優勝扱い)で8連勝する。 1991年、王位戦で谷川浩司王位への挑戦者となる。直前まで、他棋戦も含め破竹の17連勝をして迎えた七番勝負であったが、2連勝の後4連敗で敗退。この4敗のうちの2敗は、中田の後手番で、谷川得意の角換わり腰掛銀を堂々と受けて立ったものである。この年度は、将棋大賞の新人賞・連勝賞を同時受賞。 1993年度の全日本プロ将棋トーナメントでは、阿部隆と決勝五番勝負を戦うも、2-3で惜敗。 第7期(1994年度)竜王戦で4組優勝。第8期(1995年度)竜王戦では3組3位となり、連続2回昇級で2組へ上がる。 第9期(2001年度)銀河戦で決勝トーナメント進出。藤井猛竜王(当時)を破りベスト4。 第15期(2002年度)竜王戦で3組2位として本戦出場。森下卓・森内俊之(当時名人)を破り、挑戦者決定三番勝負に進出。阿部隆との9年ぶりの雪辱戦となったが1勝2敗で敗れ、竜王挑戦権獲得はならなかった。 第22期(2009年度)竜王戦では4組決勝まで進み、3組復帰を決めて久々の本戦出場の可能性もあったが、決勝で田中寅彦に敗れる。 順位戦でなかなか昇級できず、C級2組を抜けるのに10年、C級1組を抜けるのに9年かかった。そのこともあり、プロ入り後の昇段は全て勝数規定による昇段である(なお、勝数規定だけで八段まで昇段したのは、2020年時点では中田・阿部隆・中川大輔・日浦市郎・泉正樹・神崎健二・中田功・杉本昌隆・佐藤秀司・長沼洋の10人である)。したがって、八段昇段は通算560勝目(100+120+150+190)であった。これは、プロ入り後の約20年間、年28勝のペースで勝ち星を積み上げたことになる。28勝という数字は、年度ランキング10位前後に相当する勝数である。そして、2008年8月8日、公式戦通算600勝(将棋栄誉賞)を達成。順位戦でA級もB級1組も経験していない棋士の600勝は史上初である。 2010年3月5日、第68期B級2組順位戦の最終局で勝ち、8勝2敗(2位)の成績で初のB級1組昇級を決める。順位戦初参加から24年で、年齢は45歳となっていた。この時点での通算勝敗は1009対局632勝377敗(勝率0.6264)、順位戦での通算勝敗は240対局155勝85敗(勝率0.6458)である。 2022年3月10日現在、通算勝星を767とし、九段昇段まであと43勝となっている。昇段の場合、阿部隆に次いで二例目の勝数規定だけでの九段昇段となる。
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棋歴
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6歳の時に父から教わったことをきっかけに将棋を始めた。松山市の将棋道場「松山将棋センター」に通い、イベントで松山に来た畠山鎮に弟子入り(兄弟子に斎藤慎太郎)。小学6年で奨励会に入会し、2008年の第33回小学生将棋名人戦で準優勝(準決勝では増田康宏に勝利)、第7回全国小学生倉敷王将戦で優勝。 2013年4月、三段リーグ入り。松山市の新田高等学校を卒業後、愛媛大学に進学したが、中退し将棋に専念した。第58回三段リーグでは、最終局を2連勝すれば結果的に昇段していたが、2局目で佐々木大地に敗れ、11勝7敗の7位に終わる(佐々木はこの勝利で3位となり、2回目の次点を獲得して、フリークラスでのプロ入りを果たしている)。藤井聡太と大橋貴洸が四段昇段を果たした第59回三段リーグでは、12勝6敗で3位(次点)だった。第63回三段リーグでは、昇段争いのライバル3名(山本博志と他2名)が全敗した上で自身が2連勝すれば昇段、という状態となり、最終的に2連勝したもののライバル3名が何れも全敗はしなかったため、12勝6敗の5位に終わる(山本は当期2位で四段に昇段している)。 そして2018年度の後期、第64回三段リーグにて13勝5敗の成績を収め2位となり、参戦12期目にして遂に四段昇段を決めた(同時昇段は出口若武)。愛媛県出身の棋士の誕生は森信雄以来、43年ぶりだった。
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棋歴
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幼稚園時代から父に将棋を教わり、その後、日本将棋連盟富士支部の道場に連れられていくようになる。しかし、すぐには夢中にはならず、アマチュア初段の父に勝てるようになったのさえ小学校高学年の頃であった。 奨励会への入会は、中学3年の頃の1989年。三段リーグに参戦してから5期目(2年半)の1998年度前期リーグで、出だし2勝5敗から粘って12勝6敗として2位に食い込み、1998年10月1日付で四段昇段(プロ入り)をする。 プロとして最初に迎えた第12期(1998 - 1999年)竜王戦では6組準決勝に進出。準決勝か昇級者決定戦(敗者復活)で勝てば、1年目で即5組昇級となるところであったが、どちらでも敗れて昇級を逃した。 第16期(2002 - 2003年)竜王戦6組ランキング戦で準決勝敗退後、昇級者決定戦で熊坂学に勝ち5組昇級。続く第17期でも5組ランキング戦で準決勝敗退後、昇級者決定戦で伊奈祐介に勝ち4組昇級。なお、当時は竜王ランキング戦連続2回昇級の昇段規定がまだなかったため、昇段はしなかった。 順位戦での最高成績は、第60期(2001年度)C級2組順位戦の8勝2敗(C級1組昇級には至らず)である。 第66期(2007年度)C級2組順位戦で降級点が累積3個となり、規定によりフリークラスに降級し、初参加から9期、33歳で順位戦参加資格を失った。これは第46期(1987年度)に現行制度が始まって以来、熊坂学(3期・順位戦のシステム上最速)、本間博(7期)に次ぐ当時としては3番目の早さであった。 第34期(2008年度)棋王戦で予選決勝に進出し、全公式棋戦を通して自身初の本戦トーナメント入りまであと1勝と迫ったが、阿久津主税に敗れる。 第62期(2012年度)NHK杯将棋トーナメントで予選を勝ち抜き本戦出場。1回戦で松尾歩に敗れる。 フリークラス降級以降、年度毎の勝率は5割に満たない年度が続いたが、在籍10年目となる2017年度は一転して好調が続き、2017年12月21日に行われた第11回朝日杯将棋オープン戦の二次予選1回戦では順位戦A級の佐藤康光と対戦し、相入玉の長手数(246手)で勝利した。2018年2月27日に行われた第31期竜王戦6組ランキング戦で牧野光則五段と対戦し、相入玉となり史上最長手数と見られる420手で持将棋となり、指し直し局を100手で敗れた。この持将棋局は2017年度の将棋大賞において名局賞特別賞を受賞した。 引退の内定まで残り1週間となる2018年3月22日の時点で当年度の成績は17勝10敗。同年3月27日の第44期棋王戦予選4回戦の青嶋未来戦は、敗れれば引退決定、勝てばフリークラス編入者の昇級規定の一つ「同一年度内に(参加棋戦数+8)勝以上、かつ勝率6割以上の成績を挙げる」により順位戦C級2組への復帰となる大一番となったが、この対局に敗れたことで、参加している公式戦終了後の引退が決定した。この時点で残る対局は竜王戦6組昇級者決定戦のみとなっていたが、2018年8月13日に行われた4回戦で星野良生に敗れ、現役引退となった。
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棋歴
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小学4年生のとき、将棋道場で二枚落ちで3連敗し、それがきっかけで将棋にのめりこむ。小学6年生の頃には、将棋の駒の名産地として知られる山形県天童市にて、1か月間の将棋修行をした。 1954年、土居市太郎名誉名人の最後の弟子として入門。1963年4月1日の四段昇段(プロ入り)は、米長邦雄と同期である。 1963年のプロデビュー直後、初参加の順位戦から2期連続昇級。 1967年、第8期王位戦にて大山康晴への挑戦権を得、タイトル戦初登場。六段の挑戦者は当時史上初で、七番勝負は1勝4敗で敗退した。 穴熊戦法を駆使し、1975年には第34期名人戦で中原誠に挑戦するまでに至った。二人は対比的に、“中原は王道、大内は覇道”と表現された。この名人戦で大内は中原と互角に戦い、3勝3敗でフルセットとなり(このほか千日手も1局あった)、迎えた最終第7局は1日目の封じ手の時点で大内が大優勢となった。しかし、勝利目前でミス(手順前後)をして勝ちを逃し、持将棋に持ち込まれてしまった。これについては、後に大内自身が、「対局室(羽沢ガーデン)の近くにビアガーデンがあり、そこから聞こえる酔った人の話し声と将棋の読みとの‘葛藤’があり、後で指すべき手を先に指してしまった」と語った。そして指し直しの第8局で敗れ、名人を獲得することができなかった。 タイトル戦に昇格した第1期(1975年度)棋王戦で敗者復活戦を勝ち抜き、棋王決定リーグに進出。前年棋王戦優勝の内藤國雄と本戦優勝の高島弘光との三者によるリーグ戦で内藤と相星の3勝1敗となり、同点決勝で内藤を破り、自身初のタイトルとなる棋王の座を獲得。翌期には加藤一二三の挑戦を受け、3連敗のストレート負けで失冠した。 日本将棋連盟渉外担当理事だった1991年8月、大内は朝日新聞社に名人戦(当時は毎日新聞社主催)主催に復帰する考えがあるか打診した。日本将棋連盟の8人の理事のうちでも、朝日へ移す案に賛成派は大内、二上達也、田丸昇の3名のみで、のこり5名は反対だった。その後、1991年9月、1992年3月、1992年5月の棋士会でも、反対意見が多く、廃案となった。 第68期(2009年度)順位戦でC級2組からの降級が決定。60歳以上であるためフリークラスに編入できず、以降、最終対局(各棋戦で不戦敗が生じないところ)まで指したところで引退することが決まった。タイトル経験者のこうした形での引退は、同年の有吉道夫のケースとともに初であった。そして、勝っても負けても引退日となる2010年4月20日の竜王戦5組残留決定戦で石田和雄を破って6組に降級させ、自身は6組降級(の成績)の汚点を棋士人生に残すことなく、勝負師として最後の華を飾った。 2017年6月23日に死去(死因は非公表)。75歳没。 葬儀は近親者のみで済ませ、7月17日に東京・将棋会館で「お別れの会」を開催した。囲碁を趣味とした大内に、日本棋院から囲碁アマ八段が追贈され、女優の吉永小百合(大内と吉永は、家族ぐるみで、数十年の親交があった)など、関係者と一般の将棋ファンを合わせて約500名が出席した。 2018年4月2日に発表された第45回将棋大賞(2017年度)で、大内に升田幸三賞特別賞が贈られた。受賞事由は「振飛車穴熊を戦法に確立した工夫」。
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棋歴
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奨励会に16年在籍し、30歳でようやく四段に昇段しプロ棋士となった。これを機に奨励会在籍に年齢制限が設けられたこともあり、長い間最長記録となっていた(奨励会の在籍年数は、1992年に伊藤能が17年という新記録を作りこれを超えた)。 1971年度(第13期)王位戦予選では、当時A級に在位していた加藤一二三を、1975年度(第8回)早指し戦予選では元名人の塚田正夫を、第1回(1982年度)全日プロ2回戦では名人失冠直後で王位のタイトルを有していた中原誠を、それぞれ破る殊勲を挙げた。 河口には棋戦優勝・タイトル挑戦など、卓越した実績はないものの、順位戦では参加10期目となる1976年度(第36期)昇降級リーグ戦4組(現在のC級2組に該当)で8勝2敗(33名中2位)の好成績を収め、41歳の高齢で昇級を決める。以降19期にわたりC級1組に在籍し続けた。 C級1組在籍2期目で迎えた1978年度(第38期)順位戦では、前期からの連続昇級を遂げた谷川浩司に当期順位戦における唯一の黒星を喫させた。 難関と言われた十段戦の予選準決勝まで進んだことが2回ある(第14期、第18期)。 2002年3月に現役を引退し、将棋関係の著述に専念。 2015年1月30日、腹部大動脈瘤のため死去。78歳没。没後、日本将棋連盟より、八段を追贈される。
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棋歴
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1994年の女流アマ名人戦優勝を経て、1995年奨励会に入会。 奨励会時代の2002年に、第60期名人戦七番勝負第1局の記録係を、女性として史上初めて単独で行っている。 奨励会では最終的に1級まで上がるが2003年で退会、翌2004年4月1日に女流1級としてデビュー(女流棋士の一般的な登竜門である女流育成会出身ではなく、奨励会から直接女流棋士に転身した初めてのケースである)。 2009年、第2期マイナビ女子オープンではトーナメントを勝ち進み、挑戦者決定戦で清水市代を破ってタイトル初挑戦。当時、岩根は出産を控えていたために延期を経て、6月18日からの開幕になった。五番勝負の結果は矢内理絵子に3連敗に終わりタイトル奪取はならなかった。 2009年7月8日、棋士(男性棋士)との初の公式戦で初勝利を挙げる(第3回朝日杯将棋オープン戦一次予選、対神吉宏充戦)。 2010年、第18期倉敷藤花戦では勝ち進み、挑戦者決定戦で甲斐智美を破り、挑戦者となる。三番勝負では里見香奈に初戦に勝利し王手をかけるもその後2連敗でタイトル奪取はならなかった。 2013年、一身上の都合により4月から休場。当初は半年間休場の予定だったが、1年間休場した。 2016年、第27期女流王位戦では挑戦者決定リーグで4勝1敗で紅組優勝。挑戦者決定戦では清水市代を破り、挑戦者となる。しかし5月からの五番勝負では里見香奈に3連敗で三度目の挑戦もタイトル奪取はならなかった。 2018年、第11期マイナビ女子オープンでは挑戦者決定戦に進む。しかし挑戦者決定戦では西山朋佳に敗れ、本棋戦9期ぶりの挑戦はならなかった。
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棋歴
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5-6歳ごろに父親より将棋を教わるが、それほど専念はしていなかった。小学4年生ごろ、父親の転勤により東京都町田市に転居し、父に連れられ将棋会館へ顔を出すようになる。それから子どもスクールに通い卒業、八王子将棋クラブへ通うころにはすっかり将棋に熱心になっていた。小学5年生で、研修会に入る。同学年の佐藤慎一が奨励会を受験するのを聞き、自身も奨励会試験を受けることを意識するようになり、小学6年生9月期で入会を果たす。同奨励会試験の1位は渡辺明で2位は橋本崇載だった。1999年、2期目の3段リーグを1位抜けし(14勝4敗)、四段昇段。プロ入りを決めてから在学していた高校は、2年生修了で退学している。
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棋歴
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1996年10月1日、25歳でプロ入り。プロデビューから負けなしの10連勝を飾り好スタートを切ったが、これは藤井聡太(2017年)に次ぎ、松本佳介(1996年)と並ぶ歴代2位のデビューからの連勝記録となっている。 1997年、第10期竜王戦6組ランキング戦の6組優勝者となり、本戦トーナメント出場。本戦では3回戦で佐藤康光に敗れたが、5組昇級。同年、第47回NHK杯戦予選決勝で石川陽生に勝ち、初参加で本戦出場を果たす。 翌1998年にも予選を勝ち抜き、第48回本戦トーナメントに連続して出場した。 いつもにこやかで「ゴキゲン流」の異名をとり、得意戦法の「ゴキゲン中飛車」は有力な戦法として注目され、2001年度には升田幸三賞を受賞した。 2001年度は第14期竜王戦において、5組ランキング戦の準優勝を果たし、4組へ昇級した。 2004年度は一時9割を超える勝率を記録し、最終的に37勝8敗、勝率.8222の成績で年度最高勝率を記録したため、勝率第一位賞と連勝賞を受賞。同年順位戦C級1組にも昇級した。その他の棋戦でも活躍し、第13期銀河戦ではブロック戦で6連勝となり、本戦進出。本戦の1回戦でも深浦康市に勝利した(2回戦で森下卓に敗退)。第23回朝日杯将棋オープン戦では5連勝して、本戦のベスト8まで勝ち上がった(準々決勝で谷川浩司に敗退)。 2010年度は順位戦で苦戦し、2勝8敗で終えた結果、1回目の降級点となったが、翌年度に6勝4敗で勝ち越したことで、降級点の抹消に成功した。しかし、同年度の第24期竜王戦では3連敗を喫し、5組へ降級となった。そして2013年度の第26期竜王戦でも再び3連敗を喫し、6組へ降級となった。 2015年度に順位戦で再び降級点を喫した後、降級点を抹消出来ない状態が続く。そして2018年度の順位戦でも苦戦し、最終局で勝利すれば降級点を三度回避、という状態で日浦市郎と対戦。日浦は順位戦9連敗中の絶不調だったが、結果は日浦が勝利。日浦に当期順位戦の初白星を与えると同時に、近藤は2度目の降級点を喫して、C級2組へ陥落となった。 その後も苦戦は続き、2019年度ではデビュー以来最大の不振となる5勝20敗に終わった。それでも順位戦の降級点は回避に成功したが、2020年度の順位戦において、1回目の降級点を喫した。
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棋歴
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1999年(5歳頃)、父が突然仕事帰りに将棋の盤と駒を買ってきた事がきっかけに始める。 2006年、小学生名人戦・倉敷王将高学年の部東京都代表、2008年奨励会入会。 奨励会三段リーグは、第54回(2013年度下期)より参加。初参加の成績は1勝17敗に終わるも、師匠の豊川孝弘から「まだ先がある。二段に落ちてもいいくらいの気持ちで」と励まされ、のびのびと指せるようになったという。第65回(2019年上期)三段リーグにて、現行制度で最多タイの勝利数となる16勝2敗の成績を挙げ、リーグ1位で四段昇段プロデビューを決めた。 順位戦2期目となる第80期順位戦では9勝1敗の成績でC級1組への昇級及び五段への昇段を果たした。また、2021年度には歴代7位タイとなる20連勝を達成し、将棋大賞の連勝賞を受賞した。
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棋歴
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1968年、第1回女流アマ名人戦で優勝(当時は旧姓:吉田)。未だ女流棋士の制度が存在しなかった時期に蛸島彰子のライバル格として注目された。 1974年に女流棋士の制度が定められ、初の女流棋戦として女流名人位戦(現・女流名人戦)が開始された時に、女流二段で女流棋士となった。 詳細は「女流棋士 (将棋)#レッスンプロ時代」を参照 1989年に村山幸子が引退し、現役女流棋士最年長者となる。 若い世代が台頭する中で2000年の第14回レディースオープントーナメントでは決勝進出、老いてもなお実力を見せつけた。還暦での番勝負進出は女流棋士では最年長である(棋士を含めると大山康晴の66歳)。 2007年4月より、蛸島の後任として女流育成会の幹事に就任。 2009年3月18日、第17期倉敷藤花戦1回戦で長沢千和子に勝利し、20年余りをかけて「女流四段昇段後150勝」の昇段規定を満たし、女流五段に昇段した。 2009年3月31日、女流育成会廃止(研修会と合併)に伴い幹事を退任。 2010年4月、女流棋士会の役員制度復活により、女流棋士会会長に就任。 2011年4月1日、日本将棋連盟の正会員となる。女流棋士が正会員になった第一号の9人のうちの1名。日本将棋連盟が公益社団法人に移行し、その時点で在籍する女流棋士で女流棋士番号がふり直され、日本将棋連盟女流棋士番号1番となる。 2011年8月31日、日本将棋連盟役員会に引退届を提出し、受理される。普及に多大なる功績があったのを認められ、9月8日付けで女流六段となる。関根の引退に伴い、女流棋士の現役最年長者は蛸島彰子となった。 2013年4月、女流棋士会会長を退任し名誉会長となる。
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棋歴
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21歳でプロデビュー。 初参加の第11期(1956年度)C級2組順位戦で9勝3敗・2位の成績を収め、1期で昇級。 第14期(1959年度)C級1組順位戦で、7勝2敗・2位の成績でB級2組へ昇級。つづく第15期B級2組順位戦で8勝3敗の2位で、2期連続昇級で自己最高のB級1組に昇級。以降、B級1組とB級2組との間を3往復する。 第3期(1964年度)十段戦で、難関の十段リーグに入るが、2勝8敗の成績に終わる。リーグには升田幸三、二上達也、加藤一二三らがいた。 1966年、第8期棋聖戦で加藤一二三、中原誠らを破り決勝に進むが、二上達也に敗れ、タイトル挑戦はならなかった。 第10期(1969年度)王位戦で、中原誠らを破りリーグ入り。 第10回(1971年度)王座戦で有吉道夫、二上達也、大山康晴らを破り挑戦者決定戦に進むが、加藤一二三に敗れる。 テレビ棋戦の早指し将棋選手権の第12回(1978年度)と第14回(1980年度)で、ともに4回戦に進出。 第21期(1980年度)王位戦でリーグ入り。有吉道夫、勝浦修らに勝ったが、中原誠と谷川浩司に負けて3勝2敗となり、挑戦者決定戦には進めなかった。 C級1組において降級点を1個抱え、C級2組への降級の危機に瀕した状態で臨んだ第51期(1992年度)順位戦では、3勝7敗と不振ながら剣が峰で降級を回避するも、当期限りで引退。延べ36期参加した間、順位戦における通算勝率はちょうど5割であった。 2017年12月27日、千葉市内の自宅で死去、84歳没。葬儀は近親者のみで営まれたという。将棋連盟からの訃報発表は死後約1ヶ月後、年が変わってからの2018年1月23日であった。死因は未公表。2月28日にお別れの会が行われた。
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棋歴
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5歳の頃、父親と兄が将棋を指しているところを見て、自然と覚える。小学1年の時から土岐田勝弘アマ八段(棋道師範)が地元で主宰する土岐田将棋道場に通う。 2001年、第22回全国中学生選抜将棋選手権大会で準優勝。酒田南高等学校を卒業後上京。プロ棋士を目指す。 2002年に奨励会入会試験で合格し入会。三段昇段までは3年で駆け抜けたが、三段リーグでややもたつき四段昇段には8期(4年間)を要した。 2009年10月にプロ入り後は一転して快進撃を見せ、初参加の第23期(2010年度)竜王戦(竜王ランキング戦6組)では準優勝し、1期で5組昇級(プロ入りから最短タイ)を決める。第41期新人王戦でも決勝進出し、決勝三番勝負では史上初めてアマチュアで決勝進出した加來博洋を2勝1敗で下し、棋戦初優勝を果たした。また、第19期銀河戦では予選を突破すると、本戦のEブロックで7連勝を決め決勝トーナメントに進出した(1回戦で羽生善治に敗れる)。 2011年度は、第24期竜王戦5組ランキング戦でベスト4進出、昇級者決定戦でも勝利して4組に昇級し、竜王戦連続昇級で五段に昇段した。第70期順位戦C級2組では10戦全勝でC級1組への昇級を決める。 2015年には第41期棋王戦にて予選から勝ち上がり挑戦者決定トーナメントに進出。トーナメントでも名人含む4冠の羽生善治やA級棋士である久保利明や広瀬章人らを破りベスト4入り。この羽生を破った一局が将棋大賞の名局賞特別賞に選ばれた。 また、同年の第28期竜王戦においては、3組昇級者決定戦にて3位に入り2組昇級が決定。自身の段位も六段に昇段。さらに翌2016年第29期竜王戦・2組ランキング戦準決勝にて松尾歩に勝利し、竜王戦1組昇級が決定(ランキング戦決勝では郷田真隆に敗れ準優勝。本戦では3組優勝者の永瀬拓矢に勝利するが、準々決勝で1組3位の久保利明に敗北)。六段昇段から僅か半年足らずで七段にスピード昇段を果たした。竜王戦では2021年現在まで1組に所属・活躍していて、31期~33期と35期では5位決定戦の1回戦で高橋道雄・丸山忠久・広瀬章人・佐々木勇気にそれぞれ勝利しており、錚々たる面子を2組へ降級させている。 2017年5月から活動の拠点を東京から故里の酒田に移した。 2020年、第61期王位戦では予選を勝ち抜き、初の王位リーグ入り。しかし、5戦全敗での陥落となった。
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棋歴
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1976年、小学5年で第1回小学生将棋名人戦で準優勝。1980年11月、中学3年時に6級で奨励会に入会。 1984年、18歳で四段昇段( = プロデビュー)。昇段日が4月4日であったため、1984年度(第43期)の順位戦参加に僅かに間に合わなかった。 一時期羽生善治に対して勝率が高かったことから、「羽生キラー」あるいは「マングース」(ハブの天敵の意)と呼ばれていた。第20期(1989年度)新人王戦においては、準々決勝で羽生に勝利(この時点で、羽生に3連勝)。そして、中川大輔との決勝三番勝負を2-0で制し、棋戦初優勝を果たす。 順位戦では第47期(1988年度)にC級1組昇級を決めるなど、デビュー以来、初参加の第44期(1985年度)から第61期(2002年度C級1組順位戦)まで18年間、負け越しがなく、第62期に4勝6敗で初めて負け越した。その間、8勝2敗が4度もあったが、昇級に寄与したのは1回だけであった。 竜王戦では、第2期(1989年度)竜王戦4組で昇級者決定戦を制し、3組へ昇級。第4期(1991年度)竜王戦3組で準優勝し、2組初昇級を決めるとともに本戦トーナメントにも初進出(初戦敗退)。第7期(1994年度)に残留に失敗したものの、次の第8期(1995年度)に3組優勝をして2組への即復帰を決め、本戦では5組優勝の行方尚史(前期に新四段で挑戦者決定三番勝負進出)を相手に1勝を挙げる。続く第9期(1996年度)には2組準優勝で本戦進出するとともに、初の1組昇級を果たす(本戦は初戦敗退)。以降、5期連続で1組に在籍。 第62期(1993年度)棋聖戦で本戦出場。第39期(1998年度)王位戦で初の王位リーグ入り。屋敷伸之棋聖(当時)に勝利するものの、他は全敗し1勝4敗でリーグ陥落。第11期(2003年度)銀河戦では決勝トーナメント1回戦で阿部隆に勝ち、ベスト8入り。 第17期(2004年度)竜王戦では、2組の昇級者決定戦を制し、1組へ復帰。しかし、翌期の第18期から第20期まで合計6連敗を喫した事で、一気に4組まで降級となった。 第53期(2012年度)王位戦で、2度目の王位リーグ入り。白組で当期挑戦者となる藤井猛に唯一勝利する活躍を見せるも、それ以外では全敗を喫し、またしても1勝4敗でリーグ陥落。 2013年度は絶不調に陥り、年度の全成績で5勝16敗に終わった。しかし、順位戦では4勝して降級点を回避し、竜王戦でも4組の残留に成功した。 プロ入り後、五段昇段から八段昇段(2010年4月16日)までを全て勝数規定で昇段したが、これは阿部隆、中田宏樹、中川大輔に続いて史上4人目。また、八段昇段の時点で順位戦の自己最高位がC級1組であったのは、屋敷伸之、渡辺明に続き史上3人目。但し2人は順位戦の昇級よりタイトル獲得等での昇段が早かったために起こったことであり、日浦の場合は(新人王戦での優勝はあるものの)タイトル戦登場の経験もなく26年間C級に留まって年21勝ものペースで勝ち星を積み重ねた、非常に珍しいケースである。そして、2012年10月10日・第54期王位戦予選(佐藤紳哉戦)に勝利し、順位戦においてB級2組以上に在籍歴がない棋士としては史上初めて公式戦通算600勝(将棋栄誉賞)を達成した。 2018年度は、前述した2013年度以上の大不振に陥る。年度の全成績は5勝20敗と大幅に負け越し、年度内に18連敗を喫した。順位戦では開幕から9連敗となり、棋士人生で初めての降級点となったが、最終局で1勝する意地を見せた。加えて、最終局の相手は近藤正和だったが、前述通り勝利したことで、近藤をC級2組への降級に追い込んでいる。 2019年度は竜王戦で3連敗し、5組へ降級。順位戦では4勝6敗の成績で、辛うじて降級点の回避に成功する。そして翌年度に6勝4敗と勝ち越したことで、降級点の抹消に成功した。 2021年度は第71回NHK杯で活躍。予選を3連勝して11年度振りに本戦進出を果たすと、若手の強豪である池永天志、王座のタイトル保持者かつ弟弟子である永瀬拓矢に連勝した。特に永瀬には初対戦から6連敗と大苦戦していたが、7戦目にしての初白星となった。
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棋歴
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関西所属であり、豊島将之、村田顕弘、稲葉陽とともに「関西若手四天王」と呼ばれる棋士の一人。
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棋歴
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5歳の時に父親より将棋を教わる。小学4年の時に森内俊之の指導対局目当てで参加した将棋日本シリーズこども大会・岡山大会で準優勝。これをきっかけに様々な全国大会にも参加するようになる。2003年、御津町立御津小学校5年の時に第28回小学生将棋名人戦に出場(地方大会出場時は4年)。西の代表2人のうちの1人となり、NHK教育テレビで放映される準決勝に進んだ。結果は敗れて3位。同年、地元岡山で開催された第2回全国小学生倉敷王将戦では高学年の部で優勝。 2004年、小学6年(地方大会出場時は5年)で出場した第29回小学生将棋名人戦では、佐々木勇気に決勝で敗れ準優勝。第58回アマチュア名人戦では大人達に混じって戦い、岡山県代表となる。同年、奨励会入会。 奨励会三段リーグには第43回(2008年度前期)から参加。常に昇段争いに加わり、4期目では序盤の1勝2敗からの13連勝という爆発力を見せ、最終日の2局を残してプロ入りを決める(最終成績は15勝3敗)。また、消化試合となった最終日には、当時中学3年の佐々木勇気に勝ち、中学生棋士誕生の記録を阻んだ。 プロ1年目の2010年度に、早くも32勝10敗・勝率.762の好成績を挙げ、第5回(2011年度)大和証券杯ネット将棋・最強戦に四・五段の4人枠中4位で出場。1回戦で羽生善治名人を破ったのを皮切りに、豊島将之六段、屋敷伸之九段を下して決勝に進出。決勝では同じく四・五段枠から出場した村山慈明五段を下して、棋戦初優勝を果たした。またこの結果を受けて日本将棋連盟役員会で審議が行われ、「類まれなる成績」により五段に昇段することが決定。決勝と同日の2011年8月21日付で昇段した。2011年度は他にも、本戦初出場の第61回NHK杯テレビ将棋トーナメントでベスト8(2回戦で師匠の井上慶太との「師弟対決」に勝利)、第5回朝日杯将棋オープン戦でもベスト4と活躍した。また、第70期順位戦C級2組でも9勝1敗の好成績だったが、阿部健治郎、中村太地、船江恒平の3人が10戦全勝を記録した為、不運にもC級1組への昇級はならなかった。なお、菅井の1敗は、兄弟子の船江との「同門対決」で喫したものである。2011年度はこれらの活躍により、第39回将棋大賞新人賞を受賞した。 2012年度の第6回朝日杯将棋オープン戦で、丸山忠久、森内俊之、谷川浩司を破るも、決勝戦で渡辺明に敗れて準優勝となった。同年度は順位戦も前年度に続き好調を維持し9勝1敗。同星に阪口悟と斎藤慎太郎がいたが順位最上位のため1位の成績でC級1組への昇級を遂げた。 2013年の第71期順位戦では、8勝2敗を上げるも順位差で同星の最上位佐々木慎が昇級し、同じく同星の中村太地と共に昇級を逃す。 2014年3月15日、第3回将棋電王戦において、プロ棋士側の先鋒として第23回世界コンピュータ将棋選手権7位の習甦と対戦。コンピューター側の着手を「電王手くん」というロボットが担当したが、トラブルがあって夕食休憩入り直後にコンピューター側が着手をしてしまい、30分の考慮時間を菅井が得る形となった。対局は98手までで習甦に敗退した。 2014年7月19日、電王戦リベンジマッチにおいて第3回将棋電王戦で敗れた習甦と再度対戦。持ち時間が8時間ずつで、深夜をまたぐ対局となった。振り飛車ではなく居飛車を採用したが、中盤の長考がたたって持ち時間を失い、144手で習甦に再度敗れた。 2015年3月9日、第73期順位戦C級1組で高野秀行に勝利し、9勝1敗の同星に澤田真吾がいたが、順位差で1位でB級2組に昇級を果たす。これにより、翌日六段昇段となる。同年9月29日、第46期新人王戦決勝で大橋貴洸三段を下し優勝。11月5日、竜王戦2期連続昇級により、七段昇段。 第75期(2016年度)B級2組順位戦では、8勝2敗・2位の成績をあげ、B級1組への昇級を決めた。 第58期(2017年度)王位戦は挑戦者決定リーグ白組にて優勝を飾ると、2017年6月9日、紅組優勝の澤田真吾との挑戦者決定戦に勝ち、羽生善治王位への挑戦権を獲得した。2017年8月30日、3勝1敗で迎えた第5戦を108手で勝利し、6連覇中の羽生を下して自身初のタイトルを手にした。同時に、平成生まれの棋士として初めてのタイトルホルダーとなった。 初防衛戦となった第59期(2018年度)王位戦は、棋聖挑戦中であった豊島将之を迎えて行われた。先手番で先勝した第1局のあとで棋聖を獲得した豊島との七番勝負は、先手番側が勝ち続けてフルセットに持ち込まれた末、最終第7局で後手をもった菅井が破れて1期で失冠となった。2018年度将棋日本シリーズでは中村太地、丸山忠久を破るも、決勝戦で渡辺明に敗れて準優勝。 2020年1月23日、第78期B級1組順位戦で斎藤慎太郎を破り、A級昇級と八段昇段を決めた。 2021年10月27日、第29期(2021年度)銀河戦決勝で渡辺明名人を破り、自身初の全棋士参加棋戦優勝を決めた。第15回朝日杯将棋オープン戦では、2022年1月15日午前の本戦トーナメント1回戦で渡辺明名人、午後の準々決勝で豊島将之九段に勝利し、2月23日午前の準決勝で佐藤天彦九段、午後の決勝では兄弟子の稲葉陽八段をそれぞれ打ち破り、朝日杯の初優勝を飾った。
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棋歴
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若手時代から中堅時代にわたり、主に順位戦において活躍した。C級2組在籍4期目で迎えた第27期(1972年度)では、8勝2敗の成績(17人中1位)でC級1組に昇級、C級1組在位14期目で迎えた第46期(1987年度)では、9勝1敗の成績(24人中1位)でB級2組に昇級、以後8期にわたりB級2組に在籍した。 第56期(1997年度)のC級1組順位戦で2個目の降級点を喫したのを最後にフリークラスに転出。65歳の定年を迎える2013年度の最終対局日(2014年3月31日時点で勝ち残っている対局を全て消化した日)まで現役棋士を続ける権利があったものの、滝本人が1年早く引退する意思を示したことが、日本将棋連盟の公式サイトにおいて公表された。2013年8月16日、出場権を残していた第26期竜王戦昇級者決定戦3回戦・阿部光瑠戦で敗れ引退となった。
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棋歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/28 14:23 UTC 版)
若手時代は1950年代生まれの棋士の代表格として期待され、当時の名人だった中原誠に対する対戦成績の良さから「将来の名人候補」との評判も勝ち得た。 奨励会時代から俊英として知られ、山口瞳の「血涙十番勝負」にも「真部一男三段。毎年惜しくも昇段を逃しているが、奨励会実力ナンバーワンは衆目の見る所。それどころか、順調に進めばA級間違い無しの俊秀である」という一節がある。 四段昇段後は、順位戦C級2組で1期目と2期目が7勝3敗。3期目となった1975年度に10戦全勝でC級1組昇級。翌年も9勝1敗の好成績でB級2組に昇級する。1979年度の順位戦でB級1組に昇級。その後8年経って1987年度に9勝3敗の成績を収め、晴れてA級八段となる。B級1組昇級のときに28歳であった棋界のプリンスは、すでに36歳となっていた。A級には通算2期在籍。 若手時代は、当時脂の乗りきっていた米長邦雄を得意とし、1982年度の第16回早指し将棋選手権・決勝三番勝負では米長をストレートで下して優勝するなど、1980年代中ごろまでは米長相手に大きく勝ち越していた。この理由について本人は「奨励会時代から米長から目をかけて貰い、『ぶつかり稽古』と称した練習将棋を多い時は月に百局以上も指すなど、若い頃から米長将棋を吸収できたため」という旨を著書で述べている。 しかし、棋戦優勝は、この1回に終わる。森安秀光ら関西勢の棋士を苦手とするなど、大一番でなかなか勝てず、ついにタイトル戦出場や2度目の優勝は叶わなかった。 真部の大一番 第1期(1975年度)棋王戦・敗者復活決勝で大内延介に敗れる。 第10回(1977年度前期)早指し将棋選手権・準決勝で大山康晴を破るが、決勝で加藤一二三に敗れ、準優勝。 第8回(1977年度)新人王戦・決勝三番勝負で森安(秀)に敗れ、準優勝。 第28回(1978年度)NHK杯戦・決勝で米長に敗れ、準優勝。 第40期(1982年度前期)棋聖戦で大山、森安(秀)らに勝ち挑戦者決定戦に進むが、森雞二に敗れタイトル挑戦はならず。 第30回(1982年度)王座戦(タイトル戦昇格の前年)準決勝で中原誠を破るが、挑戦者決定戦で内藤國雄に敗れる。 第16回(1982年度)早指し将棋選手権・決勝三番勝負で米長を2-0で破り優勝。 第9期(1983年度)棋王戦・準決勝で中原を破るが、挑戦者決定戦で森安(秀)に敗れ、タイトル挑戦はならず。 第32期(1984年度)王座戦・挑戦者決定戦で森安(秀)に敗れ、タイトル挑戦はならず。 第10期(1984年度)棋王戦・準決勝で森安(秀)を破るが、挑戦者決定戦で桐山清澄に敗れ、タイトル挑戦はならず。 第12期(1986年度)棋王戦・挑戦者決定戦で高橋道雄に敗れ、タイトル挑戦はならず。 第28期(1987年度)王位戦リーグで谷川浩司らに勝ち、谷川と4勝1敗の1位で並ぶが、プレーオフで谷川に敗れて挑戦者決定戦進出はならず。 第46期(1987年度)B級1組順位戦・最終局で勝浦修に勝ち、9勝3敗・2位の成績でA級初昇級。 第48期(1989年度)B級1組順位戦・最終局を8勝3敗・自力昇級の状態で迎えたが、福崎文吾に負けて4敗目を喫する。しかし、同星でリーグ表順位が下の森(雞)も敗れたため、2位の成績でA級に復帰。森(雞)を破る援護射撃をしたのは、勝っても負けてもB級2組への降級と次期B級2組リーグ表での順位(2位)が決まっていた森安(秀)であった。 その後1990年頃より原因不明の体調不良に悩まされ、成績も1990年にA級から陥落すると翌年にはB級1組からも1年で降級するなど、急激に落ち込むようになる。2007年11月1日から2009年度末までの2年4か月間、病気療養のため全棋戦を休場することが日本将棋連盟から公式発表されたが、それから1か月も経たない2007年11月24日、転移性肝腫瘍のため死去。55歳没。公式戦通算成績は598勝614敗。600勝(将棋栄誉賞)を目前にしての早世だった。同日付で日本将棋連盟より九段が追贈された。
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棋歴
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1997年 - 1999年、和歌山大学教育学部附属小学校3年生(出場時は2年生)・4年生(同3年生)・5年生(同4年生)の時に、第22・23・24回小学生将棋名人戦に出場。第23回では西日本ベスト12、第24回ではベスト8に進出している。なお、第23回の出場者には、高崎一生(優勝)や牧野を破った船江恒平(準優勝)を始めとして、後にプロ棋士になった者が多い(記事「高崎一生 」を参照)。 1999年秋、小学5年生にして奨励会入り。三段リーグには2005年後期から参加。2009年度後期に15勝3敗の菅井竜也に次ぐ14勝4敗の2位の成績を挙げ、2010年4月付けでプロ入りを果たす。 第53期(2012年)王位戦では予選を突破し挑戦者決定リーグ入り。5局中4局を終えた時点で3勝1敗と、藤井猛と同率首位となり、第5局で挑戦者決定戦進出を賭けて藤井猛と対局するも敗れた。その後同率で並んだ丸山忠久との残留決定戦にも敗れ、リーグ残留はならなかった。 2018年2月27日から28日にかけ、第31期竜王戦6組ランキング戦にて中尾敏之五段との対局で、戦後公式戦最長手数の420手で持将棋成立。指し直し局を含め合計520手で勝利した。竜王戦6組では度々健闘するも、2012年に昇級者決定戦 準決勝で土佐浩司、2018年には昇級者決定戦 決勝で上村亘に敗れ、5組昇級を逃す。しかし、翌年度の第32期竜王戦6組で準決勝にて井出隼平に勝利し、決勝戦に進出したことで自身初の5組昇級が決まった。
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棋歴
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5歳の時に近所の小学生に教わり、将棋を覚えた。 2006年9月に奨励会に入会。中学2年時に1級から初段に昇るのに1年を費やした以外は順調に昇級・昇段を続け、2010年3月、中学校卒業と同時期に三段昇段。三段リーグでは毎回コンスタントに勝ち越しを続け、6期目となる2012年度後期(第52回)では序盤から逃げ切り、最終局2局を残した時点で14勝2敗として1位の成績を確定させ、四段昇段を内定させた(最終成績は15勝3敗)。三段リーグ通算成績は69勝39敗・勝率.639。 奨励会三段として参加した第42期(2011年度)新人王戦で当時既にプロ四段となっていた菅井竜也らを破りベスト8(当期準優勝者の豊島将之に敗れる)。 初参加の第55期(2013-2014年度)王位戦では予選を勝ち抜くと、紅組リーグでは当時竜王・名人であった森内俊之を始め、行方尚史、豊島将之など強豪棋士を破る大活躍を見せ、さらに広瀬章人とのプレーオフを制し挑戦者決定戦へと進出。木村一基との挑戦者決定戦では敗れるも挑戦者決定リーグ残留を果たした。同じくデビュー年の2013年には第3期加古川青流戦で決勝に進出するも、佐々木勇気との3番勝負に1勝2敗で敗れ準優勝。 順位戦では初参加の第72期(2013年度)に8勝2敗の成績を収め高順位に付けると、第73期(2014年度)でも好調を維持し、開幕から9連勝を収め1局を残してC級1組への昇級を決め、五段に昇段する。時期を同じくして、2014年末に開幕した第28期竜王戦でも6組ランキング戦で優勝し、5組昇級と本戦出場を果たした。 2015年度はNHK杯テレビ将棋トーナメントに初出場、1回戦で中村亮介、2回戦で阿久津主税、3回戦では竜王タイトルを保持していた糸谷哲郎を下す。準々決勝では昨年の当トーナメント準優勝者で順位戦A級の行方尚史を最後に自玉を行方が詰ますことができない位置まで逃がして勝利、準決勝では同じくA級の久保利明の攻めをかわしつつ久保の玉を追い込み勝利。決勝は村山慈明との対局となり、村山の上部からの銀桂歩による攻めに苦戦。結果、初出場初優勝を逃す。 2016年度は初開催となった上州YAMADAチャレンジ杯で決勝に進出するも、船江恒平に敗れ準優勝。第2期叡王戦でも決勝に進出したが、佐藤天彦九段(名人)との決勝三番勝負に0勝2敗で準優勝。同年の第42期棋王戦にて、挑戦者決定トーナメントで豊島将之、広瀬章人、久保利明、森内俊之を破り、決勝戦・挑戦者決定戦で佐々木勇気に連勝し、渡辺明棋王への挑戦権を獲得し、六段に昇段した。五番勝負では、第3局で先に2勝目を上げるもそこから連敗し、初タイトル戴冠はならなかった。2016年度は将棋大賞の最多勝・最多対局数部門で1位となり、また、この年度に猛威を奮った「対矢倉の左美濃急戦」と「角換わり腰掛銀における4二玉・6二金・8一飛型」の2つの戦型を広めたことを理由として升田幸三賞を受賞した。 2017年12月1日付で所属を関東に移した。 2017年度の第76期順位戦は順調に勝ち続け、8戦全勝のまま塚田泰明九段に勝利し、あと一戦を残した状態で自身初のB級2組に昇級を決め、最終局の平藤眞吾戦も勝って全勝で昇級。さらに2018年度の第77期順位戦も順調に勝ち星を重ね、2019年3月13日の最終戦で窪田義行に勝って9勝1敗としてB級1組への連続昇級を決めるとともに、七段に昇段した。 2019年度の朝日杯では、去年度の準決勝敗退により本戦トーナメントからの出場で屋敷伸之九段、深浦康市九段に勝利し、準決勝では3連覇のかかった朝日杯負けなしの藤井聡太七段、決勝で過去6戦勝ちなしの永瀬拓矢二冠をそれぞれ打ち破り、自身初の一般棋戦、および朝日杯の初優勝を飾った。 2021年度の第80期順位戦は藤井聡太に勝利するなど9勝3敗の好成績を収めたものの3位(次点)でA級への昇級を逃した。また、「角換わり3三金型早繰り銀」で自身2度目の升田幸三賞を受賞した。
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棋歴
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プロデビュー前の中学生時に俳優の石立鉄男に将棋を教えていた事でも有名な少年棋士であった。 デビュー後、初参加の順位戦(1985年度、第44期)で10戦全勝し、C級2組から1期抜けする。この年度の勝率は全棋士中1位の0.740であり、将棋大賞の勝率1賞と新人賞を同時受賞する。 第50期(1991年度)B級2組順位戦において8勝2敗で2位の成績を収め、B級1組に昇級。 1990年度から1995年度に渡って、王座戦(第38期-第43期)の本戦トーナメントに6期連続出場。 2002年度、第52回NHK杯戦で、井上慶太、米長邦雄、羽生善治を破り、ベスト8。 2007年度、第20期竜王ランキング戦2組の準決勝(2007年4月20日)で三浦弘行を破り、1組に初昇級。
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棋歴
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稚内市立稚内南小学校時代に小学生将棋名人戦に出場し、4年時に3位、5・6年時にベスト8。1981年に奨励会に入会。20歳で三段に昇段したが、四段に昇段できないまま5年が経ち、26歳の年齢制限が迫っていた。四段昇段できなければ退会する覚悟を決めて臨んだ第18回三段リーグ(1995年度下半期)は、最後の一局で敗れ12勝6敗で終了。本人は諦めていたが、その後競争相手の3人が全員敗れ、逆転で四段昇段が決まった。その知らせを聞いた際、放心状態でその場に座り込んだ姿をとらえた写真が『週刊将棋』に掲載された。
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棋歴
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小学4年生の正月に父に教わり将棋を始める。わずが1年8ヶ月後の1978年、12歳で奨励会に合格し入会。福岡に住んでいたため、祖母とともに上京した。 1983年9月に17歳でプロデビュー。以来、後に「羽生世代」と呼ばれる棋士達とともに「チャイルドブランド」の一角として活躍、以後も長年に渡って順位戦A級、竜王戦1組に在籍し、棋戦優勝も重ねてきた。しかし、タイトル戦で羽生善治に挑戦して何度も敗退するなどの結果としてタイトル獲得歴がなく、「シルバーコレクター」「無冠の帝王」の異名を持つ。 1984年、第26期(1985年度)王位戦の予選を4連勝で勝ち抜いてリーグ入りし、頭角を現す。なお、この王位リーグでは2位タイの成績を残したが、同星の中原誠との残留決定戦で敗れ、残留に失敗している。 1985年度、第16期新人王戦で決勝に進出。井上慶太との番勝負は1勝2敗で敗退し、準優勝。 1986年度、第5回早指し新鋭戦で決勝に進出したが、小野修一に敗れ準優勝に終わる。 1987年度は、第21回早指し戦と、第6回早指し新鋭戦の2棋戦で決勝に進出したが、両方とも決勝で敗れ準優勝であった(それぞれ有吉道夫、塚田泰明に敗れる)。 第47期(1988年度)C級2組順位戦で9勝1敗・1位の成績を収め、順位戦初昇級となった(同時昇級者は日浦市郎と佐藤康光)。また、第29期王位戦では王位リーグ入りを決めると、4勝1敗で白組優勝を果たしたが、挑戦者決定戦にて森雞二に敗れる(リーグ残留には初成功)。 1989年度では、第2期竜王戦にて4組ランキング戦の優勝を決めると、本戦でも3連勝で挑戦者決定戦に進出したが、羽生善治に2連敗し敗退。第30期王位戦では再び4勝1敗で白組優勝をするが、挑戦者決定戦で谷川浩司に敗退(翌期リーグ陥落)。しかし、第12回オールスター勝ち抜き戦で5連勝を決め(最終的に6連勝)、棋戦初優勝を果たす。 1990年度は、新人王戦の決勝三番勝負で、大野八一雄を2-0を破って優勝。続けて第六回天王戦で優勝(全棋士参加棋戦初優勝)し、全日本プロトーナメントでも決勝五番勝負で、桐山清澄を3-1で下して優勝。第40期王将戦では初の王将リーグ入りを決め、5勝1敗の成績でプレーオフに進むが、南芳一に敗戦(翌期は1勝5敗でリーグ陥落)。また、その勢いで1990年度後期の第57期棋聖戦にて優勝し、タイトル初挑戦を決めたが、屋敷伸之との5番勝負は1勝3敗で敗退した。 1991年度は、第49期順位戦のC級1組で9勝1敗となり、1位でB級2組へ昇級(同時昇級者は神谷広志)。第4期竜王戦では3組ランキング戦で優勝。挑戦者決定戦まで進み、小林宏を破って谷川浩司竜王に挑戦したが、2勝4敗で敗退。その他、第17期棋王戦では挑戦者決定戦に進出、第10回全日本プロ将棋トーナメント・第22回新人王戦・第10回早指し新鋭戦の3棋戦では準優勝、などの好成績を収めている。 1992年度は、第33期王位戦にてリーグに復帰。紅組で4勝1敗となるが、佐藤康光にプレーオフで敗退。第12回オールスター勝ち抜き戦では6連勝し、同棋戦にて2回目の優勝。 1993年度では第51期順位戦のB級2組で9勝1敗となり、1位でB級1組に昇級(村山聖との同時昇級)。翌年度の第52期順位戦でも8勝3敗の成績となり、同率2位(1位は島朗)で遂にA級入りを果たした。そして更に翌年度の第53期順位戦でも勢いは止まらず、初のA級で7勝2敗の成績を収め、プレーオフで中原誠に勝利し名人初挑戦を決める。相手は羽生善治だったが、結果は1勝4敗で敗れた。 1994年度では第20期棋王戦で羽生善治に挑戦したが、0勝3敗のストレートで敗退。第16回オールスター勝ち抜き戦では8連勝を決め、同棋戦にて3回目の優勝。 1995年度は第66期棋聖戦にて勝ち進むが、三浦弘行に挑戦者決定戦で敗れる。 1996年度では、第22期棋王戦で羽生善治に挑戦したが、再び0勝3敗のストレートで敗退となった(結果的に、6度のタイトル挑戦歴で、棋王戦のみ唯一2回の挑戦を決めたが、同時に番勝負で勝ち星を得られなかった唯一の棋戦となった)。また、第16回全日本プロ将棋トーナメントでも決勝に進出したが、谷川浩司に2勝3敗で敗れ、2度目の準優勝となった。 1997年度は第38期王位戦でリーグ入り。白組で4勝1敗となり、第33期以来の王位リーグ残留に成功(翌期リーグ陥落)。 1998年度は第48期王将戦にて、第41期以来の王将リーグ入り。リーグ戦でも5勝1敗で突破し、羽生善治に挑戦。羽生とのタイトル戦は4度目であったが、結果は1勝4敗で敗退した(2022年現在まで、最後のタイトル戦となっている)。なお、年度の全成績では22勝23敗となり、初めての負け越しとなった。 1999年度は第49期王将戦のリーグ戦にて4勝2敗となり、3度目の残留に成功。年度単位でも28勝16敗と再び勝ち越した。 2000年度は第41期王位戦で再びリーグ入り。白組で3勝2敗となり、弟弟子の深浦康市との残留決定戦を制して、5回目のリーグ残留に成功した(翌期は2勝3敗でリーグ陥落)。逆に第50期王将戦では苦戦し、1勝5敗でリーグ陥落となった。 2002年度の第15期竜王戦では1組で優勝。第52期王将戦ではリーグに復帰するも、1勝5敗で陥落。 2003年度は第61期順位戦で苦戦。2勝7敗の10位に終わり、第53期より続いていたA級の座から陥落となった。また、第53期王将戦にて2期連続のリーグ復帰をするが、3勝3敗で再び陥落となった。 2004年度の第17期竜王戦では挑戦者決定戦に進出するも、渡辺明に敗れる。 2005年度は第63期順位戦で9勝3敗の成績を収め、A級への復帰を決めた。第18期竜王戦では2連敗し、第5期から続いた竜王戦1組の座から陥落した。また、翌年度の順位戦では苦戦が続き、3勝6敗で1期でのA級から再陥落となった。逆に第19期竜王戦では好調が続き、2組ランキング戦の優勝を決め、1期で竜王戦1組への復帰を果たした(しかし翌年度に2連敗を喫し、再び2組に陥落)。 2007年、第28回JT将棋日本シリーズで渡辺明竜王、佐藤康光JT杯覇者(棋聖・棋王)、森内俊之名人らタイトル保持者を連破して優勝。2008年、第29回JT将棋日本シリーズは、決勝で弟弟子の深浦康市王位を破って2連覇し、「自分でびっくりしました」と語った。しかし同年の順位戦では4勝8敗の不振によりB級2組への陥落が決定した。 2009年度は第22期竜王戦の2組ランキング戦において準優勝し、再度1組へ復帰(しかし第24期竜王戦で2連敗し、三たび2組へ降級)。 2018年3月4日、B級2組順位戦10回戦で、中村修九段に敗れ、C級1組への降級が決定した。 2022年度、第80期順位戦のC級1組10回戦時点で2勝7敗となり、2度目の降級点が確定。C級2組への陥落が決まった。
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棋歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 01:10 UTC 版)
1975年に5級で奨励会入り。1977年初段。1979年に四段となりプロ入りを果たす。 1980年、第22期王位戦で挑戦者決定リーグ入りを果たす。1981年、第8期棋王戦で本戦入り。1982年、第24期王位戦でもリーグ入りを果たす。 1983年、第41期順位戦のC級2組にて10戦全勝の成績でC級1組昇級を果たすと、翌年度の第42期でも9勝1敗の好成績でB級2組への連続昇級を果たす。第43期B級2組では7勝3敗、第44期でも8勝2敗の好成績を残すが、惜しくも昇級は果たせず。以降も勝ち越し続けるものの、B級2組に留まることとなる。しかし、1986年度の第13期棋王戦では本戦準決勝に進出する活躍をした。1988年度の第47期順位戦で8勝2敗の好成績を残したものの、順位の関係で不運にも昇級を逃した。 1990年度、第3期竜王戦2組で準優勝を果たし、1組昇級を果たす。1992年には第5期竜王戦1組優勝の快挙を果たし、本戦でも準決勝にまで進出した。後に脇はフリークラス宣言をしたことで、竜王戦1組の優勝経験者で順位戦A級・B級1組に在籍した経験がないという唯一の棋士となった。 1992年度の第51期順位戦B級2組では5勝5敗となり、同組昇級以来続いていた連続勝ち越しが8期でストップした。1993年に第6期竜王戦1組で初戦から連敗し2組降級となる。1994年の第7期竜王戦ですぐ1組復帰を果たすが、同年度の第53期順位戦B級2組では4勝6敗となり初めて負け越しとなった。以降、竜王戦では1組に在籍し続け、順位戦B級2組では大きく勝ち越したり負け越したりしない状態が続いた。 1998年、第11期竜王戦で2組に降級。1999年、第12期竜王戦でも振るわず3組に連続降級となる。同年度、第58期順位戦B級2組で8勝2敗の好成績を残すがまたも昇級ならず。2001年、第14期竜王戦3組で準優勝を果たし2組に復帰するが、翌年の2002年に再度3組降級。そして、2003年、第61期順位戦B級2組で1勝9敗となり自身初となる降級点がつく。翌年度の第62期に7勝3敗と勝ち越し一度降級点を消滅させるが、再翌年度の第63期では1勝9敗と低迷し再び降級点。2006年、第64期でも1勝9敗で連続降級点となり、C級1組に降級した。 2008年、第21期竜王戦3組で初戦から連敗し4組に降級。2009年、第22期竜王戦4組で準決勝まで勝ち進み3組復帰まで後1勝とするが、準決勝、昇級者決定戦で敗れ、定員調整の昇級者決定戦のチャンスも逃し3組復帰はならなかった。2010年、第23期竜王戦4組で初戦から連敗し5組に降級。2011年の第24期竜王戦5組でも1勝も出来ず3連敗し、6組に降級した。2013年、第71期順位戦C級1組で10戦全敗となり、C級1組で初となる降級点がついた。翌年度の第72期は5勝5敗の五分としたもの、その翌年度の2015年、第73期で3勝7敗となり、二度目の降級点でC級2組に降級した。 2015年度(第57期)王位戦予選では、当年度各棋戦で高勝率を上げた斎藤慎太郎を破るなど4連勝し、自身21期ぶりとなるリーグ入りを決めた。白組リーグでは残留はできなかったものの、叡王戦優勝者の山崎隆之八段を破るなどベテラン健在ぶりを見せた。ただし当年度は、王位戦以外の全てのトーナメント系棋戦(順位戦以外の全棋戦)で初戦負けという偏った成績に終わった。 順位戦C級2組は第76期(2017年度)1勝9敗、第77期(2018年度)2勝8敗で2期連続降級点を取り、2019年度にフリークラス宣言を行った。以降、順位戦以外の公式戦参加は、満65歳を迎える2025年度までとなる。 2021年4月1日、フリークラス規定により九段に昇段。田丸昇に続き史上2人目である。順位戦B級2組以下で九段に昇段した棋士には、屋敷伸之と渡辺明がいるが、両者とも後にA級に昇級しており、B級1組以上の在籍経験がないまま、現役九段での引退(見込み)は、脇が史上初めてとなる。
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