交流初期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/22 00:00 UTC 版)
明治になって家元制度崩壊後、方円社の活動などによって棋士の活動が安定すると、朝鮮、中国、台湾などとの交流も行われるようになった。中でも高部道平は、1909年に中国、1911年から1912年にかけて朝鮮、台湾を訪問するなどした。当時四段の高部は中国高手とされる張楽山、汪雲峰には向二子であった。また中国ではこの時までは、黒白2子ずつを盤上に置いてから対局開始する事前置石制であったのを、高部が初手から自由に着手する方法を伝えたと言われる。1918年には広瀬平治郎が、中華民国の国務院総理であった段祺瑞の招きで、弟子の岩本薫を伴い訪中。1919年、瀬越憲作が満州、青島を歴訪、汪雲峰、伊耀卿、顧永如らと向2、3子であった。続いて同年、本因坊秀哉、広瀬、瀬越、高部らが訪中、秀哉は陶審安らに向4子で打った。中国での対局は中国ルールで行われることが通例であったが、この時秀哉は中国ルールでの対局を嫌ったと言われる。これらの対戦が、中国の棋士にとって大きな経験となる。
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