継承争いと無惨な最期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/10 17:07 UTC 版)
1284年、ホラーサーンを領有していたアルグンは自らの即位を望んでテグデル・ハンに対して叛乱を起こした。これはアルグンがホラーサーンのみならずイラーク・アジャミーやファールス地方の王領地を譲渡するように迫ったのをテグデル・ハンが拒否したことがきっかけだったが、テグデルとしてはこの要求は到底受け入れられないものだった。テグデルは自らの即位に功績のあった弟コンクルタイがアルグンと内応して謀殺しようとしている、という情報を得たためにコンクルタイを処刑した。アルグンがホラーサーン、マーザンダラーンの諸軍を率いてテグデルのいるアゼルバイジャン地方に迫ったが、カズヴィーン郊外でテグデルの娘婿でもあったアリナク率いる1万5000騎と交戦した。この戦いでアルグンは敗退した。テグデルもモンゴル軍、アルメニア軍、グルジア軍などの8万の諸軍を率いてタブリーズから出征し、アルグンを訴追しようとしたがアルグンはアリナクが自らの所領を略奪したために出征したのであり、テグデルとの対立は望んでいないと釈明した。またカラウナス軍団はアルグンを支持しており、テグデル陣営もアルグンを支持する勢力の多さからこれと和議を結ぶべきであるという主張がされた。このためテグデルはアルグンと和平を結んだ。 6月、テグデルはアルグンが友好の印として白馬を献じるために宮廷に参内したところ歓待したが、彼の臣従の誓いを認めたもののこれをアリナクの監視下に置くことにした。 7月、アルグンの幕僚であるブカが王子ジュシュケブとフラチュに、テグデルはイスラームの信仰に染まってチンギス・ハン家を絶滅させようとしている、と偽ってアルグンを救出する計画に加担するように説得した。アルグンは夜中にブカの配下の者たちに救出されてアルナクを殺害し、王子アルク、フラチュらはアルグンを擁護した。 テグデルは秘かにアルグンが救出された知らせを受け、これを再度討伐すべく軍を編成させたが、幕僚の要将たちがすでに殺害されているという知らせを受けると彼は母后クトゥイ・ハトゥンのオルドがあるアルダビール方面のサラーブまで逃走せざるをえなくなった。 しかし、クトゥイ・ハトゥンのオルドでは既にアルグンが王族10人と高位の将軍たち60人からの支持を受け、この地へ逃走して来たことが知られていた。彼ら王族たちによって逮捕命令が出ていたこともあって、テグデルは拘禁されてしまった。 カラウナス軍団がクトゥイ・ハトゥンのオルドに到着し、テグデルは彼らの手に拘引されたが、同時にクトゥイ・ハトゥンのオルドは掠奪を受けた。アルグンらは遅れて到着し混乱を収束させてテグデルを尋問した。 アルグンはホラーサーン領有に満足していたためテグデルに叛意はなかったことを表明し彼を責め、テグデルもこれを謝罪した。またテグデルの母クトゥイ・ハトゥンは非常に尊敬を受けていたため、アルグンや諸将は彼を赦免するつもりだったが、コンクルタイの母アジュージャ・エゲチや彼の諸子らが復讐を強く望んだため、またフラチュ、ジュシュケブらがハマダーンで兵を集結させているとの知らせあったために事態の早期集結を臨み、コンクルタイ処刑の報復として1284年8月10日に彼もまた処刑された。その処刑方法は自らの背骨を折られるというものだったという。
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