オスマン主義者として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/28 00:03 UTC 版)
「シャキーブ・アルスラーン」の記事における「オスマン主義者として」の解説
1869年、レバノンに生まれる。生家アルスラーン家はレバノンのドゥールズ派の二大名望家の一つで、その構成員はアミールと呼ばれる。16歳の折にムハンマド・アブドゥフの指導を受け、カイロやイスタンブールに修学の旅を行い、個別の民族の自主を旨とする民族主義ではなく、多民族国家オスマン帝国を護持・擁護することこそ西洋に対抗し分割を免れる道であるとするオスマン主義の考えを深めた。 1912年4月、オスマン主義の考えを実行に移すため伊土戦争に参加してエンヴェル・パシャと知り合い友誼を深め、第一次世界大戦においてはドゥルーズ派の若者120人からなる義勇兵を率いてシナイ半島で戦った。1914年にはオスマン帝国議会に議席を得ている。大戦においてオスマン帝国の敗退が決定的となると、彼は家族を残してスイス、ついでドイツに亡命し、同じく亡命していたエンヴェルら統一進歩党のメンバーにも手を差し伸べている。未だシャキーブはオスマン帝国再興の望みを捨てておらず、ケマル・パシャ率いるアンカラの大国民議会にも反対し、ソ連からの援助を引き出すことを模索するなどしていた。 しかし次第にオスマン帝国再興の望みは失われ、シリアのアラブ王国もフランスの介入によって崩壊。戦後、エンヴェルが主導したイスラーム革命団体連合にも名を連ねているが、この試みはすぐに失敗に終わった。この頃から事実上エンヴェルと袂を分かち、オスマン主義からアラブ民族主義に転向していったと思われる。
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