フランスの介入
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1836年、ポマレ4世がフランス人宣教師2名を有害外国人として国外追放するという事件が起こった。本国に戻った彼らがタヒチの対応について政府へ抗議を行うと、フランスはフランス国臣民になされた無礼の損害回復を求め、タヒチへの介入を始めることとなる。1838年8月29日、タヒチを訪れたフランス海軍少将アベル・オーベール・デュプティ=トゥアール(en:Abel Aubert Dupetit Thouars)は、ポマレ4世に対し謝罪、スペイン金貨2,000ピアヌトルの支払い、フランス国旗の下での21発の礼砲を要求した。ポマレ4世はこれに同意し、1839年にはプロテスタントに与えられていた特権と同一のものがカトリックにも与えられるようになる。 しかし、トゥアールの要求はさらに過激化し、1842年にフランス人に対する待遇改善と財政上の保障を求めた。タヒチ摂政のパライタはこの要求に対して独断でフランス国王の保護を求める旨を回答してしまう。イギリス領事プリットチャードはこうしたフランスとタヒチのやり取りに抗議したが聞き入れられず、翌1843年にはルイ・フィリップから保護条約についての批准書がタヒチに届いた。 ポマレ4世は王宮を去って抵抗を示し、イギリスの支援を求めたがフランスは女王不在のまま暫定的な政府機関を設立し、既成事実化を図った。しかし、他地域の植民地経営に忙殺されていたイギリスは、フランス保護国の設立に反対しない旨の表明を行い、イギリス領事プリットチャードは1844年3月3日、タヒチから追放されることとなった。 この決定を良しとしない反対派は、同年3月21日、2人のフランス人兵士を殺害するに至り、いわゆるフランス・タヒチ戦争が勃発することとなった。この戦争は小規模な戦いを含めて3年に及び、1846年12月18日、反乱首謀者の投降によりフランス側の勝利に終わる。ポマレ4世は1847年2月に捕えられ、タヒチ島パペエテへと連行されることとなった。フランスは暫定政府機関を廃し、1847年8月5日にポマレ4世と正式な保護協定を締結し、ポマレ王朝はフランスの保護国となった。この条約は滅亡する1880年まで継続することとなる。 1877年9月24日、ポマレ4世の死去に伴い、息子のポマレ5世が王位を継承する。しかし1866年に導入されたフランスの法律により既に王位は傀儡と化しており、即位から3年後の1880年6月29日、ポマレ5世は20人のタヒチ人首長らと共にフランスの併合協定に署名し、タヒチをフランスに割譲した。フランスはその見返りとしてポマレ5世に60,000フランの年金と生涯王の称号を与えている。 以降、タヒチはフランス領となり、約90年間続いたポマレ王朝の歴史は幕を閉じた。
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フランスの介入
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「チャド・リビア紛争」の記事における「フランスの介入」の解説
「:en:Operation Manta」も参照 暫定国民連合政府(GUNT)の完全な消滅により自身の名声に計り知れない傷がつくと感じ、また、ハブレが全ての反カダフィ勢力へ支援提供することを恐れたカダフィは、チャドの同盟勢力がリビアの機甲・航空戦力無しには決定的な勝利を確保できなかったため、リビアの軍事介入を指示した。 陥落の翌日より、ファヤ・ラルジョーは、アオゾウ空軍基地からのSu-22・ミラージュF1、セブハ空軍基地(英語版)からのTu-22爆撃機による持続的な空爆にさらされた。兵員・機甲部隊・火砲類をセブハ・クフラ(英語版)・アオゾウ飛行場へ一旦空輸、それから紛争地域までは短距離輸送機でと、10日間のうちに、ファヤ・ラルジョーの東西に大規模な地上部隊が編成された。この新規編成されたリビア軍は正規軍中心に兵員11000人に上り、戦闘機80機が攻撃に参加した。但し、リビア軍の役割分担は、今次投入兵力3000-4000人の暫定国民連合政府(GUNT)軍の攻撃を助けるために火力支援を提供したり、時折、戦車による突撃を行う、といった従前からの分担を維持した。 8月10日、暫定国民連合政府(GUNT)・リビア連合軍は、ハブレが約5000人の兵士とともに立てこもるファヤ・ラルジョーを包囲した。多連装ロケット砲、火砲、戦車砲、絶え間のない空爆といった攻撃を受けていたチャド国軍(FANT)は、暫定国民連合政府(GUNT)軍が突入を開始すると、その防衛線が崩壊、チャド国軍(FANT)700名が取り残された。ハブレは、リビア軍に追撃されることなく、一部の残兵とともに首都へ脱出した。 このリビアの新たな介入はフランスを警戒させることになり、戦術的には失敗であった。8月6日、ハブレはフランスの軍事援助を改めて要請した。フランスは、アメリカおよびアフリカ諸国からの圧力もあり、8月6日、マンタ作戦(英語版)の一環として、フランス軍をチャドへ再派遣すると発表した。これは、暫定国民連合政府(GUNT)・リビア連合軍の進軍を止めること、もっと言うと、チャド内政へのカダフィの影響力を弱めることを意味していた。3日後、フランス軍数百人を中央アフリカ共和国からンジャメナに取り急ぎ派遣、のちには、SEPECATジャギュア戦闘爆撃機数個中隊、兵員2700人の投入となった。これは、これまでにフランスがアフリカで編成した海外派遣軍の中では、アルジェリア戦争を除いて最大の規模であった。 フランス政府は、北緯15度線に沿ってマオからアベシェへと延びる境界線(いわゆる「レッド・ライン」)を定め、「レッド・ライン」南側へのリビア軍・暫定国民連合政府(GUNT)軍のいかなる侵入も許容しないと警告した。リビア側、フランス側双方とも、この「レッド・ライン」を挟んで自陣側に留まり、フランスは「ハブレの北側奪還」を支援するつもりはないと示し、一方リビアは越境することでフランスとの戦闘が始まるのを回避した。これは、事実上のチャド分割につながり、リビアは「レッド・ライン」北側の全地域の支配権を維持した。 かかる状況下、小康状態がもたらされ、その間の11月にはアフリカ統一機構(OAU)が後押しして話し合いの場が持たれるが、対立するチャド勢力を和解させることはできなかった。1984年初頭のエチオピア指導者メンギスツ・ハイレ・マリアムの和解あっせんの試みもまた成功しなかった。こののちの1月24日、リビアの重機甲部隊に支援を受けた暫定国民連合政府(GUNT)軍が、Zigueyにあったチャド国軍(FANT)の前哨部隊を攻撃した。この攻撃は、主に、フランスとアフリカ諸国を説得し交渉を再開させるための行動であった。フランスは、この「レッド・ライン」侵害に対し反応し、初となる航空戦力による猛反撃、チャドへの新規部隊の投入、北緯16度線への防衛線の一方的な引き上げ、を行った。
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フランスの介入
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 10:04 UTC 版)
1918年8月、ボリシェヴィキ体制の除去を望んでいたフランス政府は、チェコ軍団の行動の統制に乗り出した。これまでに、ドイツ・ボリシェヴィキに対する東部戦線開設の任務を帯びて、モーリス・ジャナン将軍がシベリアに派遣されていた。しかしながら、ジャナンは12月になって初めてオムスクまで辿り着けた。 1918年10月、独墺の敗北が明らかになると、チェコ軍団将兵は早期帰国を望むようになった。いくつかの部隊は、戦線を離れ、東に向かう列車に乗り込んだ。このような状況下、10月25日、第1チェコスロバキア師団長ヨゼフ・シュヴェツ大佐は自決した。10月28日、チェコスロバキアが独立し、11月初め、チェコ軍団はウファ及びチェリャビンスクから撤収し始めた。 11月、ジャナン将軍は、在シベリア連合軍総司令官となったが、どの干渉国の部隊も指揮下に入らず、配下部隊はウラジオストクの1個中隊のみで、名目上のものに過ぎなかった。そこで、ジャナンは、コルチャーク軍を支援すると共に、チェコ軍団の掌握に乗り出した。クレマンソー首相がチェコスロバキア政府に対して圧力をかけ、1919年1月27日、ノヴォ・ニコラエフスク(ノヴォシビルスク)からイルクーツクまでのシベリア鉄道沿線がチェコ軍団の担当地域とされ、フランスはチェコ軍団を更に1年近くロシアに留めることに成功した。これに対して、6月、チェコ軍団内で反乱が発生したが鎮圧された。チェコ軍団将兵の撤退は、1919年12月になって初めて行われ始めた。 1920年1月、ジャナン将軍は、コルチャークをボリシェヴィキ側に引き渡すようにチェコ軍団に命令した。 第一次世界大戦からロシア内戦にかけて、チェコ軍団は、4千人以上を失った。この際、ボリシェヴィキ側に寝返ったのは、218人に過ぎない。
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