フランスの公爵
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/24 03:49 UTC 版)
フランスの称号で「公爵」と訳されているのはデュック(duc)である。ラテン語のドゥクス(Dux)に由来する。ドゥクスはフランスやドイツ、イタリアの前身であるフランク王国がローマ帝国から継承した制度であり、都市管区を統治するコメス(comes 伯)たちに対する軍事命令権を持って複数の都市管区を支配する存在だった。 フランスの諸侯はカロリング朝のコメスやその下僚のヴィカリウス(副伯)、あるいはカロリング権力から排除されていた地域の土着貴族層に起源が求められる。西フランク(フランス)地域ではドイツよりもカロリング朝官僚貴族に連なる家計が多かったと見られる。9世紀後半のポスト・カロリング期に中央権力の弱体化に乗じて私的支配領域を拡大した彼らは、最初辺境伯(marchio)を名乗っていたが、10世紀前半に公(dux)を名乗るようになった。 11世紀、とりわけ王の集会に彼らが参列する機会が激減する1077年を境にして諸侯層(公、伯、司教)の王政からの排除と封臣化が進み、12世紀末までには諸侯領(公領)は王の下から移動した封と見なす観念が一般化していた。そのため中世の諸侯の独立性は強く、諸侯領は事実上独自の統治機構を備えた「独立国家」であり、フランス王といえども一諸侯に過ぎない面もあった。 11世紀の著名な公爵には北部のノルマンディー公、西部のブルターニュ公、東部のブルゴーニュ公、南部のアキテーヌ公があった。ノルマンディー公は1066年にイングランドを征服してイングランド王室となり、12世紀には「アンジュー帝国」と呼ばれる英仏海峡をまたぐ巨大勢力圏を築いた。カペー朝末には後にブルボン朝となるブルボン公が誕生している。 オルレアン公、アンジュー公、ベリー公、アングレーム公(英語版)、アランソン公、トゥーレーヌ公(フランス語版)などは伝統的に王族の爵位となった。 15世紀から16世紀初頭にかけて諸侯領は様々な形で王領に取り込まれていくようになり、諸侯の独立性は弱まっていった。 16世紀の宗教戦争時代にはシャンパーニュ、ブルゴーニュを拠点とするギーズ公と、ラングドック、プロヴァンス、イル=ド=フランスに勢力を張るモンモランシー公が宗教戦争の党派の中核となり、著名な公爵だった。 アンリ3世時代に領地の所有だけでは貴族たることを証しえなくなり、国王発行の証書が必要となった。ブルボン朝のアンリ4世以降、中央集権化が推し進められて絶対王政への移行が始まった。絶対王政下の貴族たちは絶対権力者の国王の恩寵を得ようと宮廷貴族となって「王室の藩屏」化が進んだ。絶対王政のもとで、duc(デュク・公爵)、marquis(マルキ・侯爵)、comte(コント・伯爵)、vicomte(ビコント・子爵)、baron(バロン・男爵)、chevalier(シュヴァリエ/シェヴァリア・騎士)、écuyer(エキュイエ・平貴族)等、旧来の封建領主の称号が段階づけられ、同時に宮廷席次も示された。 アンリ4世期の著名な公爵位にはギーズ公とモンモランシー公の他にヴァンドーム公、ヌヴェール公(フランス語版)、ベルガルド公(フランス語版)、ブイヨン公(フランス語版)、ロアン公(フランス語版)などがあった。ルイ13世の宰相アルマン・ジャン・デュ・プレシーはリシュリュー公爵(フランス語版)に叙位され、リシュリューの名で知られる。またルイ14世の弟の系譜のオルレアン公は、1830年の7月革命後にルイ・フィリップの一代のみだがフランス王位に就いた(オルレアン朝)。 フランス革命により貴族制度は廃止されたが、ナポレオンの第一帝政下の1803年3月に皇帝令で大公(Prince)、公爵(Duc)、伯爵(Comte)、男爵(Baron)、シェヴァリア(Chevalier)の五爵位から成る帝国貴族(フランス語版)が創設され、警察大臣ジョゼフ・フーシェ(オトラント公爵(フランス語版))やミシェル・ネイ元帥(エルヒンゲン公爵)、オーギュスト・マルモン元帥(ラグーサ公爵)などが公爵に叙された。帝国貴族には免税特権などの封建的特権は附随せず、爵位は個人の功績に与えられるもので世襲のためには「貴族財産」(爵位とともに長男に譲り渡される財産)の設定が必要であるなど旧貴族とは異なったルールがあった。 復古王政下ではアンシャン・レジーム下で爵位を得た旧貴族が爵位を回復するとともにナポレオン下で爵位を得た新貴族も爵位を維持した。爵位に義務や負担を免れるなどの特権が附随しない点もナポレオン時代と同じであった。ただし貴族院が設置され、その議員の地位は世襲だった。 1848年の二月革命と1848年憲法で第二共和政になると貴族院と貴族の称号は廃止された。ナポレオン3世の第二帝政では再び貴族称号の授与が行われるようになったが、貴族制度は復活されなかった。ナポレオン3世が創設した公爵位にはマラコフ公爵(フランス語版)(1856年エイマブル・ペリシエ(フランス語版))、マジェンタ公爵(フランス語版)(1859年パトリス・ド・マクマオン)、オーディフレ=パスキエ公爵(フランス語版)(1862年ガストン・ド・オーディフレ=パスキエ(フランス語版))、モルニー公爵(フランス語版)(1862年シャルル・ド・モルニー)、 ペルシニー公爵(1863年ヴィクトール・ド・ペルシニー)、フェルトレ公爵(フランス語版)(1864年シャルル=マリー=ミシェル・ド・ゴヨン(フランス語版))がある。 第二帝政崩壊後、貴族称号の廃止は法律によっては宣言されていないが、1875年にフランス大統領パトリス・ド・マクマオンは貴族の称号の新設は今後は行わず、称号の継承のみ引き続き公式法令の対象となると閣議決定した。1955年に裁判所は合憲性ブロック(フランス語版)の一部である1789年の人間と市民の権利の宣言(フランス人権宣言)が出生に付随する法的区別を禁じていることから「貴族はもはや法的効力を持たない」と判示している。現在もフランス政府は貴族の称号の新設を行ってはいないが、様々な君主制のもとで誕生した称号を名前の飾りとして認識し、その保護は行っている。結婚状況や行政文書などで称号が表示される可能性があり、また法務省は後継者に叙任令を発行している。
※この「フランスの公爵」の解説は、「公爵」の解説の一部です。
「フランスの公爵」を含む「公爵」の記事については、「公爵」の概要を参照ください。
- フランスの公爵のページへのリンク