三者間協定とフランスの介入
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「グリンドゥールの反乱」の記事における「三者間協定とフランスの介入」の解説
オワインは1405年2月にモーティマーとノーサンバランド伯との交渉により、自らの新しい地位を示した。3人はイングランドとウェールズをその3人で分割することに合意した。ウェールズにはセヴァーン川、マージー川流域を含み、チェシャー、シュロップシャーとヘレフォードシャーの大半を含むことになった。モーティマーがイングランドの南部及び西部の全てを取り、初代ウスター伯トマス・パーシー (1343年-1403年) がイングランド北部を取ることとなった。シュロップシャー、ヘレフォードシャーとモントゴメリーシャー (Montgomeryshire) (英語版) のイギリス人の地域コミュニティーは積極的な抵抗を停止しており、反乱軍と独自の協定を作っていた。反乱軍を支援するために、リチャード2世の古い支援者がウェールズ人に金を送っている、あるいはシトー修道会やフランシスコ会が資金を集めているという噂があった。さらには5月のリチャード・ル・スクロープ (1350年-1405年) の敗北にもかかわらず、パーシー家の反乱もまだ続いていた。実際パーシー家の反乱は1408年にブラムハム・ムーアの戦い (Battle of Bramham Moor) (英語版) でノーサンバランド伯がヨークシャーのシェリフに敗死するまで終わらなかった。オワインは可能な限り最良の取引をするために、政治的状況を利用していた。 事態は国際的側面からも改善した。アイルランド領主との交渉は失敗していたが、オワインにはフランスやブルトンからはより歓迎されるだろうという希望を持つ理由があった。1404年5月、オワインは条約について交渉するために、グリフィド・ヤングと義兄弟ジョン・ハンマー (John Hanmer) をフランスへ派遣していた。結果はフランスがオワインとウェールズを支援するという正式な条約となった。ウェールズ人とフランス人・ブルトン人の合同軍は既に1403年11月に、キドウェリー城 (Kidwelly Castle) (英語版) を攻撃し陥落させていた:183。ウェールズ人はその後独立したブルターニュやスコットランドにいる彼らの仲間ケルト人からの半公式な友愛的支援に頼ることもできた。スコットランドとフランスの私掠船は、オワインの反乱を通じてウェールズ周辺で活動していた。スコットランドの私掠船は1400年と1401年にスリン半島 (Llŷn Peninsula) (英語版) のイギリス人入植地を襲撃していた。1403年にはブルトン人部隊はチャンネル諸島でイギリス人を破り、ジャージー、ガーンジー、およびプリマスで猛威を振るった。またフランス軍はワイト島に上陸を果たした。1404年までにブルトン人とフランス人はウェールズ人を乗船させた船でイングランドの海岸を襲撃して、ダートマス (Dartmouth) (英語版) の街を燃やし、デヴォンの海岸を荒廃させた。 1405年はウェールズでは「フランス人の年」であった。陸地でフランス人は、フランス軍がイングランド王が領有しているアキテーヌ に侵攻したように、イギリス人を奥地へ追い込んだ。同時にフランス軍はウェールズ西部のミルフォード・ヘヴン (Milford Haven) (英語版) に武力で上陸した。彼らは7月にブルトンの領主でフランス元帥のジャン2世・ド・リュー (Jean II de Rieux、1342年-1417年) (英語版) に率いられた3,000名を超す騎士と重騎兵 (men-at-arms) と共にブレストを出発した。ところが彼らには十分な新鮮な水が供給されておらず、多くの軍馬が死んでいた。しかし彼らは近代的な攻城のための兵器を持っていた。オワインの軍隊と合流し、彼らは内陸部を行軍しハーヴァーフォードウェスト (Haverfordwest) (英語版) の街に侵攻したが城は落とせなかった。その後さらに進軍しカーマーゼンを奪還し、テンビー (Tenby) (英語版) の街を包囲した。そのあと何が起こったのかは謎に包まれている。フランス・ウェールズ合同軍は (地元の伝統にしたがって) ウェールズ南部を横断する形で進軍し、イングランドに侵攻した。中世の年代記作家、「不確かな」モンストルレ (1400年-1453年) によると、彼らはヘレフォードシャーを進軍し、ウスターシャーに侵攻した。ウスターからちょうど10マイル (16キロメートル) の地点、グレイト・ウィトリー (Great Witley) (英語版) の西で、彼らはイギリス軍と遭遇した。ヘンリー4世のその軍隊はアバーレイ (Abberley) (英語版) の丘に整列していて、北側はオワインの軍隊に向いており、南側はその地域ではオワインの丘として知られていた、鉄器時代に作られたヒルフォート であるウッドベリーヒル (Woodbury Hill) (英語版) を向いていた。それぞれの軍隊は8日間にわたって、毎日戦闘態勢を取り、特に目立った動きをすることはなく1マイル (1.6キロメートル) 離れたところでお互いを監視しあった。どちらも戦闘を開始せず、その後明確な理由もないまま両者とも撤退した。ヘンリー王の戦略は、膠着状態を引き延ばしてウェールズ軍の弱体化を図り、威嚇することであった。 年が経つごとにより多くのフランス人が到着していたが、関与度合いのピークは過ぎていた。
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