三者連合軍の成立と攻撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/19 14:20 UTC 版)
「第三次マイソール戦争」の記事における「三者連合軍の成立と攻撃」の解説
また、イギリスは長期にわたる交渉を行った末、マラーター王国、ニザーム王国とのマイソール王国に対する共同戦線を引き合意に至り、同年6月1日にイギリス、マラーター王国、ニザーム王国の三者同盟が成立した。これにより、マラーター王国、ニザーム王国も攻め入ることとなった。 同年の夏の間、パラシュラーム・バーウに率いられたマラーター軍3万がマイソール王国の領土へと向かっていた。これにはボンベイのイギリス軍支隊も同伴していた。彼らはダールワールへと向かい、長期にわたる包囲の末、1791年4月にこの地の守備隊を降伏させ(ダールワール包囲戦)、5月初頭にトゥンガバドラー川を越えた。 また、同年1月、マラーター軍の第二軍でもあるハリ・パント率いる騎兵2万5000と歩兵5000の軍勢がプネーを出発し、マイソール王国へと侵入した。この軍勢はマドラスから送られたイギリス軍支隊によって支援されていた。 一方、マハーバト・ジャングに率いられた軍勢もまたマイソール王国領に侵入し、前年10月にその守備隊が籠城するコッパルを包囲し(コッパル包囲戦)、4月にこの地を落としてさらに進撃していた。 それより以前、1790年末にイギリス軍はマラバール地方にも進撃し、12月初頭にジェームズ・ハートレイ率いる軍勢がトラヴァンコール軍とともに、カリカットでマイソール軍を破った(カリカットの戦い)。
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