三者の布陣
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/02 04:10 UTC 版)
この項の以下の日付は吾妻鏡による。 10月13日(11月2日)、追討軍は駿河国へ入った。 10月14日(11月3日)の鉢田の戦いにて甲斐源氏は駿河の平氏方現地勢力を撃破する。 16日(5日)に頼朝は平氏軍を迎え撃つべく鎌倉を発する。 17日(11月6日)に武田信義は維盛に挑戦状を送りつけ、「かねてよりお目にかかりたいと思っていましたが、幸い宣旨の使者として来られたので、こちらから参上したいのですが路が遠く険しいのでここはお互い浮島ヶ原で待ち合わせましょう」という不敵な内容に侍大将の伊藤(藤原)忠清が激怒し、使者は斬らない兵法は私合戦に置いての事で、官軍には適用されないとして使者2人の首を斬った(『山槐記』『玉葉』『吉記』)。同日頼朝は相模国豪族波多野義常を討つために派兵する(『吾妻鏡』) 10月18日(11月7日)に大庭景親は1000騎を率いて駿河の維盛の軍に合流しようとするが、頼朝または甲斐源氏に行く手を阻まれ、相模国に留まった後、軍を解散し逃亡した。景親は後に頼朝に降参するが許されず、斬られている。 2万余騎の甲斐源氏の軍勢は10月18日(11月7日)に布陣した。同日夜頼朝は黄瀬川沿いに布陣した。 10月19日(11月8日)、伊豆から船を出して維盛と合流しようと図った伊東祐親・祐清父子が捕らえられた。 大庭氏、伊東氏、駿河豪族などの在地親平氏勢力の壊滅や坂東などの豪族たちが雪崩をうって頼朝らについたという状況は、在地勢力による反乱軍への初期対応を戦略の一貫に組み込んでいた平氏方の構想を挫くことになった。
※この「三者の布陣」の解説は、「富士川の戦い」の解説の一部です。
「三者の布陣」を含む「富士川の戦い」の記事については、「富士川の戦い」の概要を参照ください。
- 三者の布陣のページへのリンク