オスマン・ボスニア戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/11 07:34 UTC 版)
「オスマン帝国のボスニア・ヘルツェゴビナ征服」の記事における「オスマン・ボスニア戦争」の解説
1391年に初代ボスニア王スティエパン・トヴルトコ1世が死去してから、ボスニア王国は衰退の一途をたどった。1410年代には、フルヴァティニッチ家のフルヴォイェ・ヴクチッチ、コサチャ家のサンダリ・フラニッチ、パヴロヴィチ家のパヴレ・ラデノヴィチといった大貴族がかつてのトヴルトコ1世の領域の大部分を割拠し、王家のコトロマニッチ家に匹敵する力を持って王国を支配していた。1413年、フルヴォイェ・ヴクチッチとサンダリ・フラニッチの抗争が激化すると、後者がセルビア専制公ステファン・ラザレヴィチの対オスマン戦争に協力していたのに対抗して、前者はオスマン帝国と手を組んだ。その手引きにより1414年5月、オスマン帝国がボスニアに侵攻し、次いでこれに対抗してハンガリー王国も侵攻してきた。両軍は1415年8月にドボイとラシュヴァ渓谷の近くで衝突し、オスマン帝国が大勝利を挙げたことで、ボスニアをめぐる両大国のパワーバランスが崩壊した。 1414年にドニ・ヴァクフ(中世には「ボスニアのスコピエ」と呼ばれた)を占領したオスマン帝国は、それ以降ボスニア領内に永続的に軍を駐留させるようになった。1414年から1418年の間に、オスマン帝国はフォチャ、プリェヴリャ、チャイニチェ、ネヴェシニェ、ヴィシェグラード、ソコルを征服した。 1415年、現在の東ヘルツェゴビナにあたる領域を支配していたサンダリ・フラニッチがオスマン帝国に従属した。 1455年、イーサ=ベグ・イサコヴィチが西バルカンのオスマン領で初めて国勢調査を実施した。 1460年代までに、ボスニア王国の領土は著しく縮小していた。オスマン帝国は現在の東ボスニア、北はシャマツまでを押さえていた。またボスニア王国の大貴族スティエパン・ヴクチッチ・コサチャが、現在のヘルツェゴビナ全域、北はグラモチまでを支配していた。
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