1460年代まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/02 07:25 UTC 版)
「アンドレア・デル・ヴェロッキオ」の記事における「1460年代まで」の解説
1435年にフィレンツェの聖アンブロージョ教会地区で生まれた。父の名はミケーレ・ディ・フランチェスコ・チオーニと言い、レンガ職人で後に税務官となった。母の名はジェンマと言った。経済的に貧しい家庭であった為、長男であった彼は自ら弟や妹を養わなければならなかった。修業時代や彼の師弟関係について、確実に判っていることはなく、推測するほかない。 芸術家列伝を著したヴァザーリによれば、教皇庁の建築顧問として活躍したベルナルド・ロッセッリーノの見習いとして、サンタ・クローチェ聖堂の『レオナルド・ブルーニ墓碑』の制作に参加するなどして、修業を積んでいたとしているが、1457年の資産報告書においては、自ら金細工師と名乗っている。同報告書においては、仕事がないので、これ以上この仕事を続けられないと窮状をも訴えている。。 金工の師匠が誰であるかはわからないが、アントニオ・デル・ポッライオーロと同様にヴィットリオ・ギベルティに学んだ可能性が高い。時期は不明であるが、フィリッポ・リッピの弟子として修行していたともいう。 1461年にはデジデーリオたちとオルヴィエート大聖堂の大理石製祭壇彫刻のコンクールに応募するも、あえなく落選しているが、1460年代の後半に差し掛かると次々と仕事が舞い込むようになり、1466年には商業裁判所の評議会から、オルサンミケーレ聖堂のためのブロンズ群像「聖トマスの懐疑」の注文を受けた。本作品はドナテッロの作品の移動に伴って発注され、1479年にはキリスト像が完成、1483年6月21日に設置された。ヴァザーリは本作品を絶賛している。1468年にはフィレンツェ政庁の謁見の間の為の、「ブロンズ燭台」を完成させている。 1467年、8年の2度にわたってフィレンツェ大聖堂の先端に設置するモニュメントの審議委員会に、ポッライウォーロやルカ・デッラ・ロッビアとともに委員として呼ばれた。大聖堂は1296年に建設が始められた。ジョット・ディ・ボンドーネやフランチェスコ・タレンティ、オルカーニャなどによって建築が進められたが、途中何度かの工事の中止を経て、フィリッポ・ブルネレスキによって、ドーム部分(クーポラ)も1461年に完成し、天頂の円球と十字架を残すのみとなっていた。 結局この審議委員会で検討されたモニュメントの受注に成功し、1468~71年にフィレンツェ大聖堂のドーム部分(クーポラ)の円球と十字架を制作し、1471年5月に天頂部に据え付けられた。弟子のレオナルド・ダ・ヴィンチが制作から据え付けまで携わったようである。 1469年にヴェロッキオは石工・木工師の組合に参加したが、このころには画家としても知られていたようで、ロレンツォ・デ・メディチのために、馬上槍試合用の旗標を描いたり、1469年には結果的に受注できなかったものの、商業裁判所のホールを飾る「美徳擬人像」連作の委嘱を巡ってポッライウォーロと競っている。この連作のうちの1枚が彼の助手であったボッティチェリに委嘱されている。「剛毅」という作品がこの際に描かれた。
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