サンタクローチェ‐せいどう〔‐セイダウ〕【サンタクローチェ聖堂】
読み方:さんたくろーちぇせいどう
イタリア中部、トスカーナ州の都市フィレンツェにあるゴシック様式の教会。13世紀前半にフランチェスコ修道会が創建した小聖堂を元に、アルノルフォ=ディ=カンビオの設計で14世紀後半に建造された。ジョット作のフレスコ画「聖フランチェスコ伝」(バルディ家礼拝堂)および「洗礼者ヨハネ伝」(ペルッツィ家礼拝堂)、ドナテロ作のレリーフ「受胎告知」と木彫「キリスト十字架像」がある。15世紀に建造されたバッツィ家礼拝堂はブルネレスキの設計によるもので、典型的な初期ルネサンス建築として知られる。
イタリア南部、プーリア州の都市レッチェにあるバロック様式の教会。16世紀から17世紀にかけて建造。多くの装飾が施されたファサードはジュゼッペ=ジンバロとチェーザレ=ペンナが手がけた。レッチェにおけるバロック建築を代表する建築物として有名。
サンタ・クローチェ聖堂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/20 23:50 UTC 版)
「ジョット・ディ・ボンドーネ」の記事における「サンタ・クローチェ聖堂」の解説
初期ルネサンスの彫刻家ロレンツォ・ギベルティによると、ジョットは4家族の依頼に応じてフィレンツェのサンタ・クローチェ聖堂の礼拝堂の装飾画を描いたとされているが、ギベルティは聖堂に存在するどの礼拝堂のことかは特定していない。ヴァザーリは、ジョットが手がけたのはバルディ礼拝堂の『聖フランシスの生涯』、ペルッツィ礼拝堂の『洗礼者ヨハネと福音記者ヨハネの生涯』、現在はアメリカ・ノースカロライナ州の美術館所蔵の祭壇画『聖母と聖者』、現存していないジーニ礼拝堂の『使徒物語』、スピネッリ礼拝堂の『聖母物語』であるとしている。ジョットの他の事跡と同様に、このサンタ・クローチェ礼拝堂の装飾画に関しても制作年が議論になっている。聖堂の主礼拝堂の右隣りにあるバルディ礼拝堂の装飾画は通常の湿式フレスコ技法で描かれており、構成がスクロヴェーニ礼拝堂壁画に近い。このことから、バルディ礼拝堂の装飾画はスクロヴェーニ礼拝堂壁画と同年代ごろに描かれ、一方ペルッツィ礼拝堂装飾画の構成は、より複雑なものになっているためより後年になってから描かれたと考える学者もいる。バルディ礼拝堂に隣接するペルッツィ礼拝堂装飾画は、大部分が乾式フレスコ技法のセッコで描かれている。セッコは通常の湿式フレスコに比べて制作時間が短くてすむ反面経年変化に弱く、現存している作品のほとんどは保存状態が非常に悪い。バルディ礼拝堂の装飾画がジョットの初期の作品であるとする学者たちは、アッシジのサン・フランチェスコ大聖堂上堂に描かれた「ジョット風」壁画と構成がよく似ていることを指摘する一方で、バルディ礼拝堂装飾画にはそれまでに見られない色使いの繊細さがあるとする。このことは、ジョットがおそらくはシエナ派芸術の影響を受けて新しい芸術の方向性を見出した証で、その後の自身の芸術の発展につながったとしている。 ペルッツィ礼拝堂の洗礼者ヨハネの生涯を題材とした『父ザカリアへの受胎告知』、『ヨハネの誕生』、『ヘロデの宴』の三組のフレスコ画は、福音記者ヨハネの生涯の三つの場面を描いた『エフェソスでのヨハネの回想』、『ドルシアナの復活』、『福音書記者ヨハネの昇天』とともに礼拝堂左壁面に描かれている。これらの題材が選ばれた背景には、出資したペルッツィ家とフランシスコ修道院両方の意向が反映されている。これらの絵画の保存状態も非常に悪く、ジョットの技法や作風について論じるのは困難ではあるが、ジョット特有の抑制された自然主義描写や人物の内面描写は感じられる。ペルッツィ礼拝堂装飾画はルネサンス期において非常に著名であり、マサッチオが描いた『貢の銭』を初めとするフィレンツェのサンタ・マリア・デル・カルミネ大聖堂ブランカッチ礼拝堂壁画に大きな影響を与え、ミケランジェロもこの装飾画を研究していたことが知られている バルディ礼拝堂に描かれている聖フランシスコの生涯を題材にした装飾画は、これより20から30年前に描かれたとされるアッシジのサン・フランチェスコ大聖堂上堂壁画に用いられている図像学との対比において、特に学者の興味をひいてきた。両所の絵画群を比較すると、ジョットがバルディ礼拝堂装飾画を描くにあたって、人物表現と画面構成にいかに大きな注意を払っているかが明確になる。ジョットはバルディ礼拝堂装飾画の題材として聖人の生涯における七つの場面を選択しているが、描かれているのは聖書そのままの物語というわけではない。聖人の一連の物語は左壁面上部の『聖フランシスコと父との絶縁』から始まる。以降、礼拝堂の左壁面と右壁面それぞれを囲むように『フランシスコ修道会の認可』、『聖フランシスコの試練』、『アルルでの出現』、『聖フランシスコの死』、聖フランシスの死後を描いた『フラ・アゴスティーノとアッシジ司教の追想』へと続いていく。フランシスの生涯でいうと『アルルでの出現』と『聖フランシスコの死』の間の年代にあたる『聖痕を受ける聖フランチェスコ』はチャペル外側の入り口上部アーチに描かれている。このような配置と構成は壁画を観るものに、左右の壁面ごとの二組の壁画として、あるいはそれぞれの壁面における三組の壁画として鑑賞することを勧める視覚的効果がある。そしてこれらの視覚的効果が、鑑賞者に対してフランシスコの生涯における様々な出来事を象徴的に結びつける重要な役割を果たしているといえる。
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サンタ・クローチェ聖堂
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「フィレンツェ歴史地区」の記事における「サンタ・クローチェ聖堂」の解説
詳細は「サンタ・クローチェ聖堂 (フィレンツェ)」を参照 14世紀後半に完成したゴシック様式の聖堂。建築家アルノルフォ・ディ・カンビオの設計である。世界最大のフランシスコ会の教会。 堂内には、ミケランジェロやガリレオ、作曲家のロッシーニなどの著名なイタリア人の墓が多数あることでも知られている。
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