聖堂内部
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セー大聖堂の塔には「黄金の鐘」として知られる大きな鐘がすえられており、豊かな音色と記されている。主要部をなす祭壇はアレクサンドリアのカタリナに捧げられたもので、両側にはいくつかの古い絵が存在する。右側には奇跡の十字架のチャペルがあり、1919年にはキリストが出現したと言われている。これらは6枚のパネルで構成されており、それぞれに聖カタリナの生涯の場面が彫刻されている。また、金で装飾された大きなレレドス(英語版)は祭壇を大きく越える。 また、セー大聖堂には洗礼盤が安置された洗礼室が1532年に作られており、フランシスコ・ザビエルにより、いくらかのゴアの改宗者たちを洗礼するために使われた。
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聖堂内部
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「サンタ・マリア・ノヴェッラ教会」の記事における「聖堂内部」の解説
サンタ・マリア・ノヴェッラ教会はフィレンツェにおいてゴシック様式が適用された最初の建築物であり、特にシトー会のゴシック建築の典型的特徴が見られる。とはいえ、新しい建築様式は独自に解釈され、その後の宗教建築に大きな影響を与えた。全長99,20メートル、幅23,20メートルから成り、翼廊は最大で61,54メートルに達する。T字形の建築平面は三身廊に分かれている(三廊式)。柱はアーチとクロス・ヴォールトを支えるが、6つの柱間は祭壇に近づくにつれ15mあまりから11.5mほどまで幅が狭くなるよう配置されていて、錯覚により実際よりも聖堂が大きく見えるよう計算されている。 大きな障壁が聖職者だけが立ち入ることができる聖堂内陣と、信者が入ることのできた身廊との間を分けていたが、トスカーナ大公コジモ1世の命によりジョルジョ・ヴァザーリの指揮下で1565年から1571年に実施された改装中にこの仕切りは外された。 12年の歳月を掛けて修復されたジョットの≪キリスト磔刑≫(1290年頃制作)は、1421年まで設置されていたと考えられる中央身廊の最奥、地上45メートルの高さに2001年に設置された。 14世紀から15世紀にかけて制作されたステンドグラスのうち、重要な作例は≪聖母子もしくは聖ヨハネ≫と≪聖ピリポ≫である。両作品共にフィリッピーノ・リッピの意匠により制作され、ストロッツィ家礼拝堂を飾っている。また、ファサードを飾る≪聖母戴冠と踊る天使たち≫を表すバラ窓と≪預言者達≫を表す額は、アンドレア・ディ・ボナイウーティの意匠で1365年から1367年に制作されたものである。
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聖堂内部
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「サンタ・クローチェ聖堂 (フィレンツェ)」の記事における「聖堂内部」の解説
建物のデザインはフランシスコ会の質素さを反映したものである。八角形の柱列が並ぶ全長115mの三廊式の身廊と、73,54mの翼廊から成るT字型の建築平面である。元来、5番目の径間から翼廊を含む主祭壇までの区画は聖職者だけが立ち入り可能で、障壁により信者の区画から分けられていたが、トレント公会議以降、トスカーナ大公コジモ1世の命により、ジョルジョ・ヴァザーリの指揮下で対抗宗教改革の方針に準拠した教会の改築が行なわれるなかで、この障壁は撤去された。この改装工事の中で、壁面を飾っていた14世紀のフレスコ画は漆喰により覆われ、大型の祭壇が壁面沿いに設置された(近年再発見された14世紀のフレスコ画は、聖堂付属美術館にて見学可能である)。
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